運転免許 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 運転免許をとったのは、大学三回生の春休みだった。まだ雪の残る北海道である。

「今の時代、免許を持っていないとダメだァ」

 渋る私の尻を叩いたのは母である。幼いころから車酔いがひどかった私は、いつしか車が大嫌いになっていた。

 母は、自分が免許をとったときの教官を私にあてがった。そんな芸当ができるのは、田舎ならではのことである。なんでそんなよけいなことをしたか、と気色ばむ私に、

「とにかぐ厳しいけど、いい先生なンだから」

 母はすでに私の運転技量を見透かしていたのかもしれない。

 自分でいうのも何だが、私は運動神経はいい方だった。だから車の運転などわけもないと高を括っていた。ところが、自動車学校初日に行われた適性試験の後、

「お前が息子か……母ちゃんは凄かったけど、お前はひっどいな」

 と教官に笑われた。四十代で免許を取った母は、教習所始まって以来という好成績で卒業していた。運転適正が群を抜いていたことを、そのとき初めて知った。私は「運転不適格者」だといわれ、免許がとれても運転しない方がいいぞ、と真顔で脅された。

 最初の路上運転は、牧場を走る道だった。一時間ほどの路上運転の間、ひとつも信号がなかった。ほとんどが直線道路の中で、私は苦戦した。

「おい、フラついてるぞッ! 遠ぐを見ろ、遠ぐを!」

「ハ、ハイ」

 私は教則どおり、二〇〇メートル先を必死に見つめる。ハンドルを握る手に力が入る。

「おい、どこ見てンだ、まだフラついてるぞ! もっと遠ぐッ!」

「せ、先生……、遠くって……どこですか」

「地平線!」

 都会で免許を取得した者とのレベルの差は、歴然としていた。

 やっとの思いで免許を手にし、これで車に乗らなくて済むとホッとしたのもつかの間、

「すぐに乗らないと運転できなくなるよ」

 と母に脅された。結果、一年半の間に六回も車体をこすってしまった。最後は、免許を取った翌年、父を亡くした日だった。父の亡骸(なきがら)を乗せた車の後に従い、病院から自宅に戻ったところで、ガリガリッ、と。失意のためハンドル操作を誤ったのではない。自宅前にいた大勢の出迎えの人たちを目にし、動揺したのだ。見かねた隣家の人が車庫入れを代わってくれた。

 新婚旅行でサイパンへいったときのこと。妻がドライブにいきたいとよけいなことを言い出した。渋々レンタカーを借りた。幸い右ハンドル車であったが、車道は右側通行である。緊張して走っていたのだが、交差点で右折する際、うっかり対向車線に入ってしまった。あわや正面衝突の危うきをみた。運転していたアメリカ人らしき男が、まるで映画のワンシーンのように顔を真っ赤にして怒っていた。

 会社に入ってからも車に乗る機会はあった。出張で上司と新潟へいったときのこと。レンタカーで学校まわりをしなければならない。高校生を採用するための求人活動である。覚悟を決めて運転席に座り、足もとを確認していると、

「お前……何してるの」

 上司が怪訝(けげん)な顔つきで訊いてきた。

「はあ、久しぶりなのでブレーキとアクセルを確認しています」

 というと、上司が息を呑んだような顔をした。三十分も走らないうちに、

「もう、ダメだァ。代われ」

 と運転席から降ろされた。車を降りた上司の足がよろけた。助手席にいて、脚に力が入っていたようだった。

 今、車に乗る機会は、ふるさとに帰ったときだけになってしまった。神奈川生まれの妻曰く、「あなたの運転より、いつクマに遭遇するか、そっちの方が心配だ」と。いずれも命がけである。

 幸いこの二十数年、私の免許証は無事故・無違反のゴールドカード。いつしか身分証明にその役割を変えている。

 あまり大きな声ではいえないが、いまだに車嫌いの私、現在、自動車用品販売業という会社に籍を置いている。

 

  2000年8月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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