こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅「Coffee Break Essay」のコーナーで発表していました。2020年に定年退職を迎え、終了しています。
2014年から過去の作品に加筆しながらここでの発表を始めています。時間の堆積の中に埋もれてしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。あなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 昨年(二〇一三年)の秋、何年かぶりに映画を観にいった。映画は、渡辺謙主演の『許されざる者』だった。明治初年の北海道を舞台にした話、という前説(まえせつ)に惹かれて出かけた。

 チケット売り場へいくと、アルバイト学生の若者がカウンターに五人ほどズラリと並んでいた。そのうちの一人が男で、どういうわけかこの男が、こちらへどうぞと手を挙げた。このとき周囲には、私しか客がいなかった。思わずつられてその青年の前に進み出てしまった。内心、若い女の子がいっぱいいるのに失敗したと思ったが、後の祭り。

 お金を出して、つり銭を待っていると、

「なにか年齢確認ができるものをお持ちですか」

 青年が満面の笑顔で訊いてきた。私は反射的にリュックのポケットに手を入れ、免許証を入れてある財布を探した。こんなときに限って、なかなか出てこない。次の瞬間、年齢確認? そんなエッチな映画なのか? という思いが頭をかすめた。同時に、どんなエッチな映画でも、私には正々堂々と観る資格がある。五十三歳だ。そんなことが頭を駆け巡り、

「年齢確認、いらないでしょう」

 というと。

「割引になります」

 青年は溌剌(はつらつ)とした笑顔を見せた。そうか、五十も過ぎると割引対象かと少なからずショックを受けたが、それもおかしな話。何歳からかと再び尋ねると、六十歳、シニア割引だという。私は愕然(がくぜん)とし、青年の顔をまじまじと見つめた。青年は愛想がいいのか、能天気なのかわからないが、相変わらずニコニコしている。私は憮然(ぶぜん)とした顔を作って、

「まだ、しばらく先だな。今度の東京オリンピックまでは大丈夫だ」

 というと、青年は驚いた顔で、「そうですよね、まだまだ若いですもンね」と取り繕った。その慌てようは、見ていて気の毒なほどだった。

 この映画の主演、渡辺謙と私は同じ年である。私の名は近藤健なので、名前の読みも同じである。一体、どこが違うのだ、そんなことを考えながら映画を観ることになった。過日、飲んだ席で幼なじみの女性に、渡辺謙と私の違いを尋ねてみると、

「何もかも違うわよ。同じ人間とは思えないわ」

 容赦のない一撃を食らった。

 

 実は、一昨年の秋にもショッキングな年齢誤認があった。

 そのとき、私は室蘭に住んでいた。週に一度かよっていた古い銭湯で、八十歳を過ぎた番台の婆さんが突然、年齢を訊いてきた。ふだん話をしたことのない婆さんである。それゆえ、どうしたババア、何でオレの年が気になった、と思いつつ年齢を告げると、

「あっらぁ……、若いのねぇ……」

 と恥ずかしそうな仕草をして、それで終わった。

 婆さん、何でオレの年を訊いてきた? 風呂に入っている間中考えたが、とうとう納得のいく答えが見つからなかった。改めて婆さんに訊く気にもなれず、モヤモヤとした気分で銭湯を出た。

 外へ出て何気なしに振り返ると、入り口の脇に貼紙があった。入るときに見落としていたものである。そこには、雄渾な字で「本日、六十五歳以上の方、入浴無料」と墨書されていた。敬老の日だった。

 

 若いうちは、年をとって見られても、さほど苦にはならなかった。だが、いくらなんでも六十超えはないだろう。たまったものじゃない。最近、私の見かけの年齢と実年齢との乖離(かいり)が、ますます進行しているように感じる。

 私は二十代のころから老けて見られる傾向があった。近頃は、頭もずいぶんと薄くなっている。こればかりは、どうにもならない。また、代謝の衰えだろうが、少しでも気を許すと体重が増加する。運動と食事制限で抵抗を試みるが、それにも限界がある。とにかく、チビで、デブで、ハゲで、スケベで、ケチなオヤジにだけはなりたくない、と常日ごろ思っている。チビとスケベは元来のことなので、どうにもならない。ハゲも止まらない。残るは、デブとケチである。これだけは何としても避けたい。

 近年、「アンチ・エイジング」という言葉をよく耳にする。年齢に対抗しようなど大それたことは望まない。他人から若く見られよう、などといった贅沢なこともいわない。せめて、見た目だけでも、実年齢に近づきたい。年相応でいいのだ。

 はたして、そんな日がくるだろうか。

 

  2014年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 何が怖いといって、地震ほど恐ろしいものはない。それは火山列島の上で暮らす我々日本人が、本当は一番よく知っていることである。「地震、雷、火事……」の故事の冒頭に「地震」が置かれていることが、それを端的に現している。

 地震の怖さをまざまざと見せつけられたのが、平成二十三年(二〇一一)の東日本大震災である。これまでに何度も大地震と大津波に襲われてきた土地で、再び地震が起こった。定石どおり、「天災は忘れたころ」にやってきた。千年に一度という、想定をはるかに超えた規模で。

 その傷口はあまりに深く、いまだ癒えることなく痛々しさをさらけ出している。傷口に塩を塗るではないが、津波による塩害が広大な田畑を不毛の地に変えてしまった。土壌改良の努力は、今もなお懸命に続けられている。気の遠くなるほど厳しく、過酷な作業である。

 加えて、大きく開いた傷口からは、膿(う)みならぬ、高濃度の放射性物質を含んだ汚染水が溢れ続けている。それが日本のみならず、世界中の人々を不安に陥れている。最大の被害者は、ふるさとを追われた何十万という人々と、その近辺で暮らす農業や漁業といった、第一次産業に従事している人々である。まったく汚染の及ばない範囲の人たちまでが、「風評被害」に喘(あえ)いでいる。塗炭(とたん)の苦しみが、人々の上にずっしりとのしかかる。先の見えない、果てのない闘いである。

 私は昭和四十三年(一九六八)の十勝沖地震(M七・九)と昭和五十七年(一九八二)の浦河沖地震(M七・一)を経験している。前者は小学校三年生の教室で、後者は大学三回生の春休みで帰省していたときのことだった。それは天地がひっくり返るほどの大きな揺れだった。そのとき、生まれて初めて、命の危険を意識した。大正十二年(一九二三)の関東大震災は、M(マグニチュード)七・九、平成七年(一九九五)の阪神・淡路大震災がM七・三であることからも、その規模の大きさが想像できるだろう。ちなみに、今回の東日本大震災は、M九・〇である。阪神・淡路大震災の一四五〇倍のエネルギーだという。凄まじ過ぎてピンとこない。

 ただ、私が経験した地震は、地震多発地帯の北海道の田舎で起こったものだった。それゆえ、規模の大きさの割に、被害は極めて軽微だった。津波もさほどひどくはなかった。だが、この同じ地震が大都会で起こっていたら、間違いなく「大震災」になっていたはずである。そんな経験からか、私は地震には人一倍過敏な面をもっている。

 平成二十三年三月、それまで二十八年暮した東京を離れ、北海道へ戻った。転勤である。転勤が決まったとき、様々な思いが交錯する中、「これで東京から脱出できる」という思いも、微量ながら持ち合わせていた。東京で巨大地震に遭遇しないで済んだ、という安堵感である。だが、娘をひとり東京に残してきている。私の会社は、東京に本社がある。手放しで喜ぶことはできない。私は脱出できたが、娘と会社と数多くいる親しい友人を同時に失うという構図が思い浮かぶ。そのとたん、どす黒い思いがタールのようにベッタリと私の胸に貼り付いてきた。

 私の転勤先は、北海道の室蘭市だった。室蘭はふるさと様似(さまに)にほど近く、太平洋に面している。北海道の太平洋沖は、日本有数の地震の巣である。室蘭に来て早々に購入したのが、ラジオ付き懐中電灯だった。ラジオは貴重な情報源である。この地域で経験した思いが、購入を促した。だが、非常食を蓄えるほど、神経質にはなっていなかった。

 室蘭で生活をはじめて十一日目、大きな揺れに襲われた。東日本大震災である。あまりにでき過ぎたタイミングに、愕然(がくぜん)とした。その夜、ラジオ付き懐中電灯を手に、漁港に隣接する会社の事務所を見にいった。幸い室蘭に押し寄せた津波は一メートルほどで、被害は軽微ですんだ。

 東京の娘も、無事に難を逃れていた。数日前まで私と一緒に仕事をしていた東京の同僚たちは、全員帰宅困難者となり、会社で一夜を明かしていた。その中に私がいないのが、不思議でならなかった。

 この地震、東京の人々にとっては、ある意味前哨戦(ぜんしょうせん)に過ぎない。言葉は悪いが、自分たちの本番に備えた予行演習でしかない。テレビに映し出される東京の帰宅困難者の映像を目にしながら、そんな不謹慎な考えが頭をよぎっていた。

 近年、テレビ・新聞などで、切迫する大震災に対する警鐘ともとれる番組が、かなりの頻度で放送されている。私の杞憂(きゆう)がにわかに色を帯び、今や確固とした確信に変わっている。

 東日本大震災から間もなく三年になる。時間の経過は、ご他聞にもれず「風化」の兆しを見せている。人々はいとも簡単に、「自然の力の恐ろしさ」を忘れてしまう。強い日差しを受けたポスターが、あっという間に色褪せて、その瑞々しい輝きを失うように。

 それは悪いことではない。強烈な「負」の出来事を緩やかに忘れる、それは我々の脳の極めて自然な働きである。生々しい凄惨な光景を、いつまでも鮮明に記憶していたなら、逆に精神が崩壊してしまう。時間とともに癒される、という「記憶の薄れ」は、自然に備わった人間の防衛本能である。だが、これこそが次の災いをもたらす火種となる。悲しいかな我々人間は、同じ失敗を繰り返してしまうのだ。

 

 昨年(二〇一三年)の九月、東京が二〇二〇年の夏季五輪開催地になった。最後の最後まで予断を許さなかった開催地の決定ゆえ、発表の瞬間、人々の喜びは爆発した。現地の五輪招致団の喜びがそのまま増幅器となり、日本全体がリアルタイムで歓喜のうねりに包まれた。

 東京五輪開催を危ぶませた問題はいくつかあったようだが、最後にクローズアップされたのが原発の汚染水問題だった。だが、これら一連の報道を見ながら、私には腑(ふ)に落ちない思いがあった。五輪招致の最大のネックは、「地震」ではないのかと密かに思っていたからだ。開催地を決める国際オリンピック委員会のメンバーが、どうしてそんな重要なことに気づかないのだろう。どうかこのまま気づかず、開催地決定の投票日を迎えて欲しいと願った。そして、その通りになった。

 駿河湾を震源とする東海沖地震は、もう数十年も前からいわれていることである。だが、東日本大震災以降、にわかにクローズアップされているのが、南海トラフ巨大地震である。この地震は、東海・東南海・南海沖での地震が次々と起こる「連動型地震」で、過去に繰り返し発生しているという。最新の研究で明らかになってきた。

 さらにもうひとつ。前回、九十年前の関東大震災の震源は、東京湾(荒川河口)である。その延長線上に、断層の空白地帯が外房へと延びている。次回の関東大震災の震源域と目されている場所である。私の杞憂は、これらの地震なのである。

 いずれの地震も必ず来る。一〇〇%、間違いなく襲って来るのだ。それがいつ来るかは、誰にもわからない。だが、いつ来てもおかしくない状況にある。南海トラフ巨大地震では、今後三十年内に八七%の確率で発生するという説もある。つまり、「間もなく」なのだ。

 オリンピックは七年後に開催される。その前に地震が来たら、オリンピックどころではなくなる。関西から関東に至る広範囲が壊滅する。大都市だけでも、神戸、京都、大阪、名古屋、そして東京を含めた横浜、川崎、さいたま、千葉といった首都圏が甚大な被害を蒙(こうむ)る。首都圏だけで三四〇〇万人とも三七〇〇万人ともいわれる人々が暮している。つまり、日本がダメになる。

 もはや防災グッズを買いそろえるとか、防災訓練をする、といったなまやさしい次元の話ではない。地震は、どうにも抗することのできない自然の力である。避けることは不可能である。我々にできることは、「覚悟を決める」ことしかないのだ。政府も「正しく恐れろ」と盛んにいっている。だが、そんな政府が、原発を推進する態度を表明し、諸外国に対し原発の売込みを推し進めている。そこが理解できない。なぜ、そんな単純明快なことがわからないのか。

 私には、恐怖心を煽(あお)ろうとか、思い浮かんだ受け売りの知識をひけらかそう、などといった気持ちは毛頭ない。ましてや反政府勢力でもない。

 東日本大震災が起こって、テレビの前で幾度涙を拭(ぬぐ)ったことか。毎日、毎日、涙を流していた。それは今も変わらない。もう、あんな哀しいことは起こって欲しくない。東北の純朴な心をもつ人たちの健気な姿、懸命な姿が、見る者の心を打つ。

 私はただただ恐ろしく、怖いのだ。あの震災をはるかに凌ぐ規模の大地震が、間もなくやってくる。それが世界最大の都市を直撃する。地獄絵は、阪神・淡路大震災でも見せつけられたが、次回の大地震は、そんなレベルでは済まされない。

 地震は恐ろしい。津波がすべてをもっていく。火災が何もかもを焼き尽くす。だが、それらは一過性のこと。最も怖いのが、原子力発電所の被害である。そのことを、今回改めて思い知らされた。原発はもう止める方向でいった方がいい。この過(あやま)ちだけは、繰り返してはいけない。

 

  2014年1月 初出  近藤 健(こんけんどう)

  

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 (一)

 失恋の痛手は、誰しも一度や二度は経験があるだろう。ほろ苦い失恋の思い出は、むしろ青春の勲章であり、私自身もそんな勲章をいくつも胸にぶら下げている。軍隊の階級でいけば、相当上のクラスに属するかもしれない。

 この(二〇一三年)秋、私は恋愛をし、続けて失恋をした。「続けて……」と言うのは、恋をしてから失恋するまでの一連の動作が、わずか二週間だったからだ。朝、目にした朝顔が、夕方には萎(しぼ)んでいたように、芽生えたと思った恋が、次の瞬間失恋に変わっていた。

 女性に会ったのは、たった二度だけ。出会いも別れも電撃的で、思い返せば走馬灯どころか、まるで新幹線の車窓から飛び去る風景を眺めたような、目にも止まらぬ瞬時の出来事だった。五十三歳のことである。

 私は平成二十二年(二〇一〇)に妻と離婚している。二十一年連れ添った妻が、別の男のもとに走ってしまった。長年精神を病んでいた妻は、同じ病気を共有する入退院を繰り返していた仲間の男性を選んだのだ。理性を失った妻は、何を言っても聞く耳を持たなかった。

 妻が出ていった一年後、私は転勤で東京を離れ北海道へ戻ってきた。それまで生活を共にしていた大学生のひとり娘は、東京に残した。娘のアパートを捜し転居させた後、自分自身の引越しの準備をしていた私に、娘が涙ながらに訴えた。

「再婚はしないで欲しい。私の実家はチチ自身なの。私のふるさともチチなの。だから、私の居場所をなくさないで」そんな内容だった。そのときは私自身も、もう結婚はこりごり、再婚などありえないと思っていた。

 だが、突然目の前に現れた女性に、そんなことが吹き飛んでしまった。この人なら大丈夫、娘とも上手くやっていけると思った。女性のことをまだ何もわかっていないのに。それは私の「勘」だった。単なる勘ではあるが、確信するものがあった。妻と別れてから三年半、娘も二十四歳になっていた。

 

 札幌で小さなイタリアンレストランを開いている幼なじみのさとみから、

「ケンちゃん、紹介したい友達、いるんだけど。四十五歳で子供が二人。下は二十歳少し前だと思う。今度、一緒に飲もうよ。それまで、オ・ト・コ、磨いといてネ」

 さとみらしいメールだった。彼女を通じて知り合った飲み友達は、これまでに何人かいた。だが今までの誘いとは、少しニュアンスが違っていた。

 さとみとは幼稚園から中学まで一緒で、中学では私が野球部、彼女はマネージャーだった。さとみのダンナも同級生で、彼は柔道部。それが今ではイタリア仕込みの本格的な「シェフ」である。黙っていればそれなりに格好いいのだが、話をするとふるさと北海道・様似(さまに)の浜言葉丸出しの田舎のオッサンになる。そんな田舎者夫婦が、お洒落なレストランをやっている。「マーノ・エ・マーノ」(「手と手」)といい、隠れたファンを数多く持っている。

 そのマーノ・エ・マーノで、女性に会った。

「シバタ、こちら、ケンちゃん。そして、こっちがシバタでーす。あとはよろしくネ」

 そう言ってさとみは厨房に消えた。(オイオイ、それだけかよ。いきなりツーショットはないだろう)と思った。この日は、小さな団体の予約が入っていた。私たちはカウンターに並んで座った。少しの緊張はあったが、ぎこちなさはなかった。以前からの知り合いのように、スムーズに会話が進んだ。少なくとも私にはそう感じられた。

 色白で、清楚で、笑顔が素敵で、笑ったときの目がとても優しくて、輝いていて、明るくて……。とびっきりの美人ではないが、きれいな人、心地いい感触を秘めた人だなと思った。彼女は、私との出会い頭の刹那(せつな)に、どんな印象を持っただろうか。

(なんでもっと早く、この人を紹介してくれなかったんだよ)という気持ちを抑えながら、私はときめき始めていた。

 この人ならイケる。だから、この人との出会いを大切にしなければ。少年のようなはやる気持ちを抑えて、彼女とのひと時を過ごした。この一週間後、また同じ場所で彼女に会った。そして場所を変え、夜中までカラオケで騒いだ。この日はさとみのほかにもう一人別の女性も加わった。彼女ら三人は若いころの職場仲間だった。

 ふだんカラオケなどやらない私が、飲んで歌って時間を忘れた。隣に彼女がおり、歌いながらテーブルの下で彼女の手を握りしめていた。ときおり彼女が握り返してくる。その力が心地よい。私は有頂天になる気持ちを抑えつつ、すっかり忘れていたこの種の「幸せ」という感覚に酔っていた。夜は瞬く間に更けていった。

 

 

 (二)

 初めて彼女に会った日の翌日から、私たちはメールのやり取りを始めた。携帯電話の操作が苦手だというと、彼女は自分の電話番号とメールアドレスを私の携帯に登録してくれた。仕事から帰って、真っ先に彼女にメールをする。彼女から先にメールが届く日もあった。彼女に出会ってから、生きることが楽しくなっていた。私の中に小さな灯りがともり、私はその灯火を大切に育もうと決心していた。決して逃してはいけない幸せだ、と思っていた。

 だが、毎日、何度もメールするのは彼女の苦痛の種になりはしないか、そんな危惧も心の片隅にあった。でも、彼女と繋がりたい。繋がっていたい。二度目に会う前夜、

「毎日メールして、しつこいと嫌われたら困るので、今日はメールしませんから」

 とメールすると。「(笑)してるし☆」と即座に返ってきた。それだけで私は、ほんのりとした心地よい温もりに包まれていた。

 

 二度目に会った翌日、一緒に撮った写真を送ろうと、彼女にメールをした。

「ユリさん、昨日の写真、とてもよく撮れていたのでプリントしました。ボクの机の前で、ユリさんが笑っています。住所、教えてもらえるとありがたいです。ストーカーのようなことは決してしません。大丈夫です。って、みんな言うよね。ムリしなくていいけど。明日から一泊で釧路へいきます。出張です」

 このメールに、返信がなかった。どうしたのだろうか。どうして何とも言ってこないのだろう。何かあったか、と心配になり始めた。数日前に一度だけ、彼女に電話していた。だが、今回電話することは、ルール違反のような気がした。彼女の中で何かがあったはずだ。一体、何が……。逡巡(しゅんじゅん)した末、思い切ってメールをした。これで反応がなかったら、ダメだということだ。そんなことを考えながらメールをした。彼女からのメールが途切れて三日経っていた。

「おーい、元気かい。夕方、釧路から戻ってきました。帰り、快調に飛ばしていた電車が、トマムを過ぎていきなり急停車しました。ものすごく高い鉄橋の上で。眼下は深い谷底です。何が起こった? 一瞬、TVでよく目にする、乗客が線路をトボトボ歩く光景が頭をよぎりました。ここ数か月、JR北海道、何かとトラブルが多いよね。車内がざわめき始めました。するとアナウンスがあり、『ただいまこの電車がシカと接触したために急停車をいたしました。これからシカの撤去作業を行いますので、しばらくお待ちください』と。ほどなく軍手を手にした車掌が、足早に通り過ぎていきました。電車は三十分遅れで札幌に着きました。てな感じです」

 だが、反応はなかった。「(ムリです)ゴメンなさい」のひとことでいい、何かサインが欲しかった。ダメならダメでいい。すぐには諦めがつかないだろう。けれど、それが区切りになる。私は、悶々(もんもん)とした日々を過ごした。何度も「ウソだろ」、とつぶやいている自分がいる。何かの間違いであって欲しい。「連絡くれよ、ユリ……」、机の前に置いた彼女の写真に語りかける。

 音信が途絶えて五日目。私は意を決し、再びメールを打った。「さよならメール」である。潔(いさぎよ)く身を退こうと考えた。彼女の方からさよならが言えないのだから、私から言えば彼女の気持ちも楽になるだろう。おそらく彼女は、私に対して申し訳ないという思いを抱きながら、やりきれない日々を過ごしているはずだ。彼女はそういう不器用な女性に違いない。いろいろ考え、たどり着いた私の結論である。

 もしかしたら、私からの最後のメールで、彼女の気持ちが動いてくれるかもしれない、そんな一縷(いちる)の望みをメールに託した。

 

「どうやら、ダメみたいですね。

 ユリさんとは、たった二度会っただけ。でも、楽しかった……、時間を忘れるほど。この人となら、きっと上手くやっていける、そんな予感を勝手に覚え、少年のように夢中になってしまいました。

 ユリさん、あなたに会ってから、色を失っていたボクの日常がにわかに色付き、バラ色に変わりました。こんなウキウキした気持ち、独身時代以来のことです。人を好きになるっていいことだなと思いました。だから、とても名残惜しく、残念です。夢中になり過ぎちゃって、ゴメンなさい。

 ユリさん、あなたとの出会いは夢のような出来事でした。幸せな大事件でした。だから、気持ちの整理に少し時間がかかるかもしれません。机に飾った写真、片付けなきゃね。

 ああ、あなたを失いたくない。もし、またボクのことを思い出してメールしたくなったら、お願いします。……そんなの、ないか。

 楽しかった。ありがとう」

 

 

 (三)

 私は長年のサラリーマン生活の中で、数多くのオッサンに接してきた。そんな中で、こういうオッサンにだけはなりたくない、という「なりたくないオッサン像」をもっている。それは「理想像」とは真逆なものである。

 私が考える最悪なオッサンは、「チビ、デブ、ハゲ、スケベ、ケチ」の五つの要素をフル装備したオッサンだ。これに、歯周病の口臭とタバコの臭い、酒臭さと飲みながら食べた餃子のニンニク臭が加われば、もはや天下無敵、怖いものなしである。だが、そんな「像」に少しずつ近づきつつある自分を感じている。

 私はチビだが太ってはいない。にぶってきた代謝をジョギングで解消している、といえば聞こえはいいが、酔っ払いの食い逃げのようなヨレヨレの走りである。頭は病気の犬のような中途半端な汚いハゲだが、それを隠そうとはせず、正々堂々とハゲている。だが、その頭蓋骨の中で考えていることは、かなりスケベなことである。金もないのに大盤振る舞いをすることがあり、ケチではないが、お金の使い方が上手とは言えない。これが自身の評価である。自分には、けっこう甘い方だ。

 

 私の渾身(こんしん)のさよならメールに、彼女は沈黙を守り通した。

 結果、私の心に穴が開いた。それは取り返しのつかないような大きな穴で、じっとしていると、その闇の中へ引き込まれていく。二十代の前半、大きな失恋をした時に味わった、あの感覚が甦(よみがえ)る。まさかこの歳で、失恋の痛手を経験するとは……。そんな自分が滑稽(こっけい)で、苦笑する。

 何とか気持ちを紛らわそうと、思いつきで映画を観にいった。映画なんて何年ぶりのことか。特に観たいものもなく、たまたま「おしん」が上映されていた。何でもよかった。真夏の汗を拭ったように、ハンカチが涙でびしょ濡れになった。おしんが健気だった。

 だが、映画館を出ると、ふたたび暗闇に引き込まれる感覚に襲われた。仕方なくその足でサウナへいった。垢(あか)すりで、リフレッシュをと考えた。床屋へもいった。一人で飲むことのない私が、近所のスナックへ足を運んだ。だが、何をやってもダメだった。ひとりになると、真っ暗な深みに引き込まれていく。それは耐え難い苦痛で、じっとしてはいられなかった。

 風邪をひいた場合なら、それなりの対処療法をいくつか心得ている。毒には毒をもって制する式に、恋愛には恋愛を、とはいかない。迎え酒とはわけが違う。そんな気分には、到底なれない。最も失いたくないものを、なくしてしまった。その喪失感は、見た目以上に大きかった。

 そんな私の失恋の顛末(てんまつ)を、後日、さとみへ伝えた。いつまでもだまっているわけにはいかなかった。もう一人の友達にも伝わった。二人とも予想以上に驚いた。

「二人はお似合いだと思い、楽しく過ごしてくれているものとばかり、勝手に想像していました」

 手を握ったのがいけなかったか。調子に乗って彼女の肩に手を回したのがダメだったのか。彼女の理想像は、もっと若くてカッコいい男だったか。私のどこがいけなかったのだろう……。彼女のことはキッパリと諦めようと自分に言い聞かせるのだが、ついついそんなことを考えてしまう。

 私はこの二人を通じて、彼女の本心を訊いてくれ、ということもできた。だが、それはしなかった。二人は彼女と出会うきっかけを作ってくれ、楽しい場を提供してくれた。それ以降のことは、私と彼女の問題だ。そう考えた。というとカッコいいが、本当は訊くのが怖い、それが私の本音だったのかもしれない。

 彼女が沈黙しているのは、私を傷つけまいとする彼女の優しさにほかならない。彼女のそんな優しさに、私は感謝しなければならない。

(それにしても、ひどいよ、ユリ……。ボクは、失くしたくなかった。あなたのことを)

 私の中で二つの気持ちがせめぎあう。

 そんな私の胸のうちを察するかのように、二人からメールがくる。

「でも、人を好きになる心の素晴らしさ、ケンちゃん素敵だよ。片想いもいんでないかい」

「どこがいけなかったのだろう、そんなことを考えちゃダメ。出逢えたことで忘れていた恋心を持てたでしょう。これが恋愛だと実感できたことに感謝です」

 

 マーノ・エ・マーノのカウンターに座って、ポツンと飲んでいる私に、

「シェフ、お店、お願い。ケンちゃん、カラオケいくよ」

 さとみに連れ出され、近所のカラオケ店へいった。二人で歌うこと四時間。まるで居残りのグランドで、千本ノックのシゴキを受けた後のようにフラフラになって店を出た。

「しっかりしろ、コンドウ・ケン! 人類の半分は女だぞ! 次だ、次! くよくよするな、ファイト!」

 マネージャーは健在だった。

(でも、ボクに適合するドナー〈女性〉は、そう簡単には現れないよ……)

 失ったものは大きかった。だからもう少しの間、往生際の悪い男でいさせてください。そしたら……。

 

 追記

 ゆりはその後、二人の友達からのメールにも反応しなくなってしまったという。

 

  2013年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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□ 随筆春秋HP 同人誌 随筆春秋 (themedia.jp)

 エッセイを書き始めて十三年(二〇一三年時点)になる。二〇〇〇年、四十歳を機に書き出した。手持ちの作品は、二百本を超えた。さすがにネタがない。テーマが閃いて一気に書くということがなくなった。題材はすでに出尽くしている。

 日常の些事(さじ)を終え、パソコンに向かう。真っ白いディスプレイを正面に、キーボードにそっと指を置く。左手の小指が「A」のキーを捉え、薬指から順に「S」「D」「F」と。右手の人差し指は二文字おいた「J」から並ぶ。左右の親指はシフトキーの上でハの字の形で向き合っている。あとは指が動き出すのを待つ。

 だが、たいていの場合、酒量だけがいたずらに進む。ああ、今日もダメか……、そう思ってキーボードから指を離す。何か書けそうな気配がすると、指が自然に隊形を整える。無意識の動作である。

 私のパソコンの一時保管フォルダーには、数多くの文章の断片が保存されている。ゴールが見えないまま書き出した文章のカケラである。ときおりそれらを読み返し、パッチワークのように並べ替えてみる。そんな中で、作品が出来ることがある。これまでびくとも動かなかった断片が、求心力を得たかのように突然動き出し、作品に仕上がることもある。だが、それは稀なことで、そういうものに限って出来は芳しくない。

 たとえば、次のような書き出しの断片がある。

 

 会社が休みだという気のゆるみから、起き出したのがいつもより遅かった。

 しばらく前から目覚めていたのだが、寒くて蒲団から抜け出すタイミングを見つけ出せずにいた。四十代の半ばを過ぎたあたりから、休日でも疲れが体の芯でくすぶっている。

 あんなに暑かった夏がウソのようだ。天井の染みを眺めながらそんなことを考えている。頼りなげになったカレンダーを目で追い、またひとつ歳をとるなと思った。そんなことを考えると憂鬱な気分が霧のように立ち込めてくる。「アア、イケナイ」と、勢いよく蒲団を剥(は)いで上半身を起こす。そのとたん、ブルッと身体が震えた。冬は苦手だ。

 寝室のカーテンを開けると、どんよりとした冬空が広がっている。階下に下り、朝刊を取ろうと玄関のドアを開けたとたん、けたたましい鳥の鳴き声が寒気を劈(つんざ)いた。向かいの家の柿の木に群れていたヒヨドリが、荒々しい羽音とともに飛び立ったのだ。ヒヨドリにはいつも驚かされる。鳥たちが去った後には、何事もなかったように、また冬の静けさが戻っていた。真っ赤な木守柿が枝に灯っていた。

 

 もう何年も前に書いたものである。私はすでに東京を引き払って札幌にいる。北海道にもヒヨドリはいるらしいが、一度もお目にかかってはいない。ましてや柿はない。それゆえ、子守柿の風景などあり得ないのだ(北海道の伊達市には柿があることを最近になって知った)。もうこの断片は使えない、そんなことを思って愕然(がくぜん)とする。

 別の断片である。

 

 酒の勢いを借り眠りについた。いつの間にか寝酒が習慣になっている。

 瞼(まぶた)の裏に光の明滅を感じ、まどろみの中で目が覚めた。

 枕元の時計を引き寄せると、午前一時を回っている。カーテンのわずかな隙間に月が見える。明るい月だなと眺めていると、月の周りの雲がパッと光った。雷光である。光だけで音がない。月と稲妻の不思議な光景に見入っていると、あっという間に分厚い雲が月を覆った。真夜中だというのに、積乱雲が発達しているのだ。

 近年、練馬では夜遅い時間になってから、しばしば強い雨が降る。新宿副都心の高層ビルが影響していると言われている。汐留に高層ビル群が出現してから、それがますます顕著になってきた、といった囁(ささや)きも耳にする。ヒートアイランド現象が、こんなところにも影響を及ぼしている。

 稲妻が雷鳴を伴い始めた。遠雷だと思っているうちに、大粒の雨が瓦屋根を叩き出した。ポツ、ポツという音が、ザーッという強い雨音に変わり、土の匂いが窓から流れ込んできた。夏が終わると思った。かたわらの妻を見ると、静かな寝息を立てている。この暑い夏をよく乗り切ったなと、妻の寝顔を眺めながら思った。

 

 こんなスロースタートだと、四百字詰め原稿用紙換算で四、五十枚は簡単に超えてしまう。これではいいエッセイにはなり得ない。かといって、これらの断片を反故(ほご)にしてしまう勇気もない。もう何年もの間、思い出したように読み直しては、手を加えているので、断片とはいえそれなりの愛着がある。そのうち、この書き出しに続く文章が書けるのではないか、そんな淡い期待がある。だが、もうこの文章の場所に私はいない。続きはもう書けないのだ。

 ただ、この文章の切れ端を生かす方法が、ひとつだけある。小説に仕立て上げることだ。同人誌の仲間からもよく言われる。

「あなたのエッセイ、もう小説の域になっているわよ。ストーリーを膨らませればいいのよ。あなたなら書けるわ」

 今までに何人もの人から、このようなことを言われてきた。

(書けるものなら、とっくに書いています)という思いを呑み込んで、

「そうですよね、やっぱり小説ですよね」

 と反応はするものの、

「……でも、どういうふうに書いたら小説になるのか、実のところ、自分にはよくわからないのです」

 正直なままを伝えるようにしている。

 パソコンの真っ白いディスプレイに酒臭いため息を吹きかけるだけで、それ以上先へは進まない。書けないものは、どう足掻(あが)いても書けないのだ。物語が動き出さないのである。

 なにかいい方法はないものだろうか。

 

   2013年11月 初出  近藤 健(こんけんどう)
 

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近藤 健(こんけんどう) HP https://konkendoh.com

■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 - http://karansha.com/merake.html

□ 随筆春秋HP 同人誌 随筆春秋 (themedia.jp)

 平成二十三年(二〇一一)三月、それまで二十八年暮らした東京を後にし、室蘭へやってきた。転勤である。京都での学生生活を含めると、三十二年ぶりの北海道となる。

 北海道の太平洋岸は、春から夏にかけて、毎日のように海霧(ガス)に覆われる。演歌歌手のステージよろしく、ドライアイスの雲のように海霧がモクモクと湧き出してくる。その海霧が日差しを遮り、気温の上昇を抑える。真夏でも肌寒い。室蘭もそんな街である。

 私は北海道の太平洋に面した小さな漁村、様似(さまに)に生まれ、中学までそこで過ごした。夏になるとそれなりに暑いと感じ、ムシムシとした寝苦しい夜もあった。改めてネットで調べてみると、今年(二〇一三年)の様似の最高気温は二七・四度である。その前年は二九・三度、さらにその前は二七・九度だ。三〇度に達しないのである。室蘭もほぼ同じである。子供のころ、それを暑いと感じていた。

「アッツイ、アッツイ。参った、参った……」

「いやー、蒸すわ。寝苦しくてひっどいもんだぁ」

 気温が二十五度を超えると、そんな言葉が飛び交った。それは今も変わらない。

 室蘭での生活を始めて、六月になっても七月がきても暑くならない。こんなに寒いのかと思う日があって、七月になるとナナカマドの葉の一部が紅葉を始めた。ウソだろうと目を疑ったが、二年目の夏にも同じ現象が起こった。それを同僚に話すと、

「ああ、そういわれるとそうかもしれませんね」

 まるで意に介していない。

 そんな室蘭での二年間の生活を経、この三月に札幌にやってきた。札幌は内陸部ゆえ、暑い。高校、予備校時代を札幌で過ごした経験があるので、札幌のむせ返るような暑い夏を知っている。そんなわけで、構えて夏を迎えたのだが、結果的に不発に終わった。

 長く閉ざされた冬と、いつまでたっても暑くならない夏に一体どうなっているんだ、といった憤りにも似た思いを抱いた。試合開始時間になっても相手が現れず、ギリギリまで待って、結果的に不戦勝になったような、あっけない夏だった。だが、周りは暑い暑いと連呼している。「なに言ってンだ、こんなの暑いうちに入らないだろ」と言うわけにはいかない。「ホンと暑いよね」と口先だけ同調する。

 東京での長い生活が、私の体質を変えてしまったのか。自分の中で完全に消失してしまった北国の生活感覚に愕然(がくぜん)とする。五十三歳になって身体が鈍感になり、暑さを感じなくなっているのではないか、逆にそちらの方が心配になってきた。もともと私は無類の寒がりである。そんな要因がいくつも重なり、北海道の夏を暑いと感じなかった、と結論づけた。

 今年の本州はとりわけ暑かったようだ。連日三十五度の猛暑日を超えるニュースが盛んに伝えられ、四十度を超えた地域も何か所かあった。冷房の効いた部屋から外に出て、炎の中に放り出されたような、まさに「炎暑」という言葉にふさわしい危険な暑さである。それに比べて、三十度そこそこの気温は、やはり体感としては涼しい。湿度が圧倒的に違う。

 札幌で暑さを感じるのは昼間の数時間で、朝夕は涼しさを通り越してむしろ肌寒い。その肌寒さがやがてくる冬を想起させ、気分を塞(ふさ)ぐ。贅沢な悩みだろうか。

 この夏、私は八月十五日になって初めて半袖のワイシャツで出勤した。遅きに失した。今着ておかなければ、機会を逃すと思ったのだ。だが、その日の朝、外へ出てみてあまりの肌寒さに後悔した。

「あ、近藤さん、半袖だ。いよいよ夏ですね」

 出勤したとたんに目ざとい部下に冷やかされた。気恥ずかしさが先にたつ。そんなことを言われたので、翌日も頑張って半袖で出勤したが、土・日をはさんだ週明けからは素直に長袖に戻した。

 北海道の真夏は、八月一日から十五日までと言われている。お盆を過ぎると秋風が吹き始める。確かに十五日から冬タイヤのCMが始まった。雪国では、冬季間、スタッドレスタイヤに履き替えなければならない。ワイパーも冬用のスノーブレードというやつに取り替える。札幌の初雪の平年値は、十月二十八日である。

 この夏、七十八歳の母が体調を崩し、二週間ほど入院をした。隣のベッドに横たわる婆さんは、酸素吸入の管を鼻から入れ、いかにも重篤(じゅうとく)そうだった。ある日、その婆さんのもとに五十代と思しき息子夫婦が東京からお見舞いにきた。七月下旬のことである。

「……思ったより元気そうで安心したよ、母さん。東京は暑いよ。札幌の最高気温が、東京の最低気温だよ、信じられないだろう。天国だよなぁ、札幌は」

 息子は傍らの嫁さんに同調を求めている。生気を失ってぐったりしている母親をよそ目に、息子のテンションが場違いに高い。そんな空気の読めない息子に、

「あたしゃ、倒れたとき……、今度こそ、天国かと思ったよ」

 息絶え絶えのくぐもった声を搾(しぼ)り出し、母親は顔をそむけた。少し離れたところでそのやり取りを見ていた年長が、苦笑いしている。長男は、毎日、甲斐甲斐しく病室に足を運んでいた。

「じゃ、母さん、また明日くるからね」

 そういって母親の手をそっと握り、柔和な笑みを浮かべて病室を出て行く年長の息子を目にしたことがある。自分にはできないよな、と思いながら心の中で母に詫(わ)びる。

 札幌の気温は、軽井沢とほぼ同等である。軽井沢は標高一〇〇〇メートルほどの高原にある。暑さを選ぶか、寒いのがいいか、さてどっちを取る。できれば、冬は東京、夏は北海道で過ごすのが理想だが、現実はそうもいかない。

 京都で学生生活を始めたときのこと。最初の年、〝比叡おろし〟とか〝京の底冷え〟といって、周りの者が寒がっている中、私はまるで寒さを感じていなかった。そうしているうちに冬が終わった。「あれ、冬がこなかった」と思ったのである。寒がりの私がそう感じたのだ。

 今、真逆なことが起きている。やがてこの北海道の環境にも順応するのだろう。苦手な長い冬とどう向き合うか。覚悟はまだ、できていない。

 

   2013年10月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 - http://karansha.com/merake.html

□ 随筆春秋HP 同人誌 随筆春秋 (themedia.jp)

 ~ 『肥後藩参百石 米良家』を発刊して ~

 

  (一)

 私が敬愛する作家に佐藤愛子先生がいる。

 年に二度、所属している同人誌仲間と世田谷のご自宅を訪ね、直接文章指導を受けてきた。二年前(二〇一一年)に東京を離れてからは、しばらくご無沙汰をしていたが、この五月(二〇一三年)にたまたまご自宅を訪ねる機会があり、近作のエッセイに対する微細に入る講評をいただいた。先生とは平成十七年(二〇〇五)からのお付き合いなので、もう八年になる。

 この佐藤愛子先生の代表作に『血脈』がある。平成十二年に第四十八回菊池寛賞を受賞したこの作品、先生が六十五歳で書き始め、十二年の歳月をかけて完成させたものである。先生は今年、九十歳になる。

 この作品は、「佐藤家の荒ぶる血」を鎮めた渾身(こんしん)の大作である。その「あとがき」が飛びぬけて秀逸である。長い引用になるが、ご紹介する。

 

「……遠藤周作さんが『深い河』だったか『死海のほとり』だったかおぼろなのだが、とにかく大作を外国の街のどこかのホテルで書き上げた時のこと。最後の一行を書くとペンを置いて机を離れ、窓辺へ行って夜更けの街を見下ろして感慨に浸ったという記述を何かで読んだことがある。その時、私は彼の胸のうちに作者のほかには誰にもわからない充足感、虚脱感、解放感のようなものが湧き出てきたであろうことを想い、作家の至福とはまさにこういう時であろうと羨ましく思ったのだった。

 しかしこの私は『血脈』の最後を書き上げると、アホウのようになって暫(しばら)く庭を眺めているうちに何ヵ月か前に北海道から送られてきたジャガ薯から芽が出ていたことを思い出し、前から気になっていたそれを何とかせねば、と立ち上がってコロッケを作った。コロッケ十五個で、芽の出た薯は完全に処理出来た。『血脈』を十二年かけて書き上げた緊張と疲れはコロッケを作ったことで拭い去られたのであった」

 

 佐藤先生の人となりを見事に表した一文である。私はこの作品を読み終えたとき、その内容の圧倒的な重さに、目も眩(くら)むばかりの疲労を覚えた。同時に、言葉にならない深い感銘に打たれ、痺れた身体をしばらく動かせなかった。

 先生はこの三四〇〇枚、一八〇〇ページの大作を、わずか四ページたらずの「あとがき」で見事に昇華させたのである。

 何年か前にご自宅を訪ねた折、思い切ってそのことをお話したことがある。普段なら快活にお笑いになる先生が、言葉少なにニヤリとされた。その笑顔は、私には特別なもののように思えた。だがその直後にご自宅の電話が鳴ったので、この件はそれでお仕舞いになってしまった。

 今回、『肥後藩参百石 米良家』の共著者の佐藤誠氏から、本書を書き終えた感想を書いてみませんか、というお誘いがあった。さて、何を糸口に書き始めようかと思いながら、手にしたのが『血脈』だった。そして、久しぶりに「あとがき」を再読したのだった。

 その翌日、にわかに信じ難いことが起こった。数日前に拙作を贈呈していた佐藤愛子先生から、お礼の葉書が舞い込んだのだ。現在、「晩鐘」(昨年二月から文芸誌『オール読物』に連載中の小説)の追い込みにかかっており、本書をまだ読んでいないとしながら、本を手にした感想が簡潔に記されていた。

「……ずっしりと手応えのある重みに、初祖吉兵衛氏以降の歴史の重みを感じました」

 佐藤先生は、お世辞を言う人ではない。いいものはいい、悪いものは悪いとはっきりと仰られる。お忙しい中、拙作をパラパラとめくった正直な感想をいただけただけで私は恐縮し、大汗をかいた。それだけで十分に嬉しかった。葉書には続きがあった。

「八年ものご努力の成果、おめでとうございます。『血脈』を書き上げた時の虚脱感を思い出しました。あの時と同じ感慨に浸っておられることでしょう」

 と結ばれていた。私は得も言えぬ温かな感情が湧き出してきて、しばらくその温もりに包まれていたのだった。

 

 本書を書き終えたとき、こんな私ですら言葉にできない達成感に満たされた。走り出して、海に向かって大声で叫びたい衝動に駆られた。満足感と疲労が渾然(こんぜん)一体となる中、漠然と赤穂義士に思いを巡らせていた。

 主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の仇を討ち、本懐を遂げた四十七士の達成感は、いかばかりのものだったか。おそらく噴出した脳内モルヒネがそれぞれの頭の中に充満し、その激しい高揚が疲労感を圧倒的に凌駕(りょうが)していただろう。そして一刻も早く殿の墓前に馳せ参じ、腹を掻(か)き切って死んでしまいたい、そんな激烈な達成感だったはずだ。

 広い北海道とはいえ、札幌には海もなく、気兼ねなく叫ぶことのできる場所も近所にはない。豪快に祝杯を挙げる相手もいなかった。

 そこで私は、近頃めっきり見なくなった韓国垢(あか)すりの店を、苦心の末ネットで探し出し出かけた。中から出てきた女性は、昭和時代のようなパーマ頭の韓国のオバサンだった。そのオバサンにお願いし、背中の皮がめくれるほど激しく背中を擦(こす)ってもらった。ひどい肩こりで、肩から背中、腰にかけてカブトムシのようにガチガチになっていたのだ。下手なマッサージより、垢すりの方が肩こりに効くことを知っていた。

 たどたどしい日本語のオバサンに背中を擦ってもらいながら、もしかして身の置き場のない私のこの思いは、達成感や虚脱感、解放感などからくるものではなく、単にこのひどい肩こりが原因ではないのか。髪を振り乱す韓国のオバサンの手により、私のやるせない気持ちはにわかに発散されていった。まさに一皮剥(む)けたといった清々しい気分で、店を後にしたのだった。

 

  (二)

 拙著『肥後藩参百石 米良家』は、私の祖母(母方)の家系を四百年にわたって遡(さかのぼ)って調べ上げたものである。祖母の家系は米良家といい、熊本藩の下級士族であった。

 初祖米良吉兵衛は初代熊本藩主細川忠利の代に召し出される。初代元亀一般的呼称は「もとひさ」)の時にたびたび加増され、三百石の知行を拝領する。二代実専(同「さねたか」。通称は勘助)が参勤交代のお供で上京した折、赤穂事件に遭遇し、堀部弥兵衛の介錯を命ぜられる。三代実高(同「さねたか」)、四代勘兵衛を経、五代茂十郎(同「もじゅうろう」)のときに知行返上(召し上げ)という大事件が起こる。「不本心様子につき」と記され、原因は詳(つまび)らかではない。

 六代実俊(同「さねとし」)は、隠居の勘兵衛に与えられていた知行、五人扶持(ぶち)を一五〇石にまで回復させる。七代亀之進を経て八代実明(同「さねあき」)の代は幕末の動乱期である。ペリーの来航を受け、相模湾の警備、二度の長州征討への従軍。その後京都へ出兵した折、徳川幕府の終焉(しゅうえん)となる大政奉還に遭遇する。実明の家督を相続した弟九代左七郎は西南戦争で戦死。その前年に左七郎から家督を譲られていた実明の長男十代亀雄は、熊本で起こった神風連の乱で自刃している。

 十一代四郎次(しろうじ)は、亀雄の弟で屯田兵に志願し渡道し、札幌の篠路兵村に入植している。この四郎次が、私の曾祖父に当たる。十二代繁実は太平洋戦争でシベリア抑留死。その弟である十三代周策は、海軍に志願するもほどなく終戦を迎え、命を拾って帰還する。周策は今年八十九歳、米良家現当主で、私の祖母の弟、つまり大叔父に当たる。

 また、吉兵衛を初祖としたのは、初代元亀との間にグレーゾーンがあったためである。代数の表記は、米良家が熊本藩庁へ提出している先祖の由緒書き、いわゆる「先祖附(せんぞづけ)」の代数表記に倣(なら)った。周策には米良家の名を継ぐ男子の曾孫(ひまご)までいるので、米良家は初祖を含めて十七代の家系となる。以上が、本書のあらましである。

 本書は赤穂事件で堀部弥兵衛の介錯人を務めた家系が、その後どのような変遷をたどって今日に至ったかを謳(うた)いにしている。

 

 私はこの本が、きちんとした形となって世間に出回ることを想定していなかった。大名家ならまだしも、たかだか三百石の一家系の話に誰が興味を示すか。そんなものを読んで何が面白い、という思いがあった。せいぜい親戚やごく親しい友人に配る程度の、同人誌に毛が生えたような雑誌のイメージしか持っていなかった。

 ところが福岡地方史研究会会長で福本日南研究家の石瀧豊美氏を通じて、福岡の出版社(花乱社)とご縁が結ばれた。拙作(原稿)を一読された花乱社編集長の別府大悟氏から、出版の話が持ちかけられた。私は前述の理由から一旦はお断りしたのだが、別府氏の強い熱意に背を押された。何度かのメールのやり取りの最後に、次のような言葉をもらった。

「(略)『米良家の歴史』の文章には、抑えた筆致の中に何かただならぬ切迫の気配が感じられます。だからこそ、どのような本に仕上がるのか、私自身が手掛けたいと願ってきました。あからさまに申し上げれば、原稿を印刷物=本にするだけなら、そこそこの印刷所ならできることですし、多少経験のある編集者が関われば、もう少し体裁のよいものができるはずですが、近藤さんの文章の息遣いまで聴き取りつつ、隅々にまで神経を配った一冊の『本』として仕上げられる編集者は、おそらくそれほど多くはないと信じます。(略)月並みですが、最後は『ご縁』があるかどうかだと思います」

 こんな思いを伝えられて、断る理由がどこにあろう。かくして、東京、室蘭(二〇一三年三月から札幌)、福岡を結ぶ、まさに日本を縦断する連繋作業が始まった。

 福岡から北海道の私のもとへ送られてくるゲラは、東京の佐藤誠氏を経由して再び福岡に戻される。これをワンクールとして、一年三か月の校閲作業の中で、全体を通して六回の校閲が行われた。ただ、本書の全体像がゲラとなって姿を現すまでに半年以上を要し、それまでは部分ごとにゲラが送られてきた。第六校の原稿を送り終え、ホッとしたのもつかの間、印刷所から出版社に上がってきたゲラ(「念校」)の最終確認が待っていた。

 この校閲作業の中、熊本の史家眞藤國雄氏から米良家に関する新たな史料が何度かもたらされた。ご先祖様から盛り込むように仕向けていると感じ、校閲原稿を出し終えた後、追いかけるようにメールで送った原稿もあった。最終校にもそんな滑り込みがあった。動き始めた電車のドアを無理やりこじ開け、飛び乗るようなきわどい作業だった。出版社には迷惑なことだろうが、嫌な顔ひとつせず快く引き受けてくれたことに心から感謝した。実際に大変だったのは、編集長を陰で支えるスタッフの宇野道子さんだったのかもしれない。

 エッセイの校閲・校正作業は、これまでに幾度となく経験している。だが、ノンフィクション、しかも歴史物の校閲・校正は初めてだった。想像以上の作業だった。作業の途中、こんなことはもう二度とゴメンだと思った。ぬかるんだ田んぼの中で、百メートルの徒競走を全力で行うようなもので、体力、気力、精神力のすべてを消耗した。ただ、正誤表だけは入れたくない、後世に悔恨を残したくない、そんな思いで作業に臨んだ。それがご先祖様への礼儀だろうと考えていた。

 直系でもない私が、なぜこれほどまでに米良家の歴史を追いかけるのだろう。そんな思いが時折頭を掠(かす)めた。だが、いつしか、この私が「ご先祖様のご指名」を受けたのだと思うようになっていた。そう考えなければ説明がつかなかった。古文書の行間から漏れてくる声にならない声に耳を傾け、一人ひとりに光を当ててやる、そんな一念が私を突き動かしていた。

 

  (三)

 校閲開始当初は、本文中の元号表記に対する西暦併記の配分のチェックが煩雑だった。南北朝時代の元号表記にも苦慮した。文中での参考文献の引用方法の統一や、史料、写真などを本文のどに位置に挿入するか、それらのキャプション(説明文)の表現の仕方など、初めての作業に戸惑った。また、史料編へ掲載する史料や絵図などを所有する団体や個人への転載許可願いの発送など、煩雑で時間のかかる作業を同時進行で行った。

 細かい表現では、「御目付」と「御目附」、「時」と「とき」、「頃」と「ころ」などの、いわゆる「表記の揺れ」の訂正が続く。「勤皇」なのか「勤王」か。「太宰」と「大宰」の区別、「連隊」は「聯隊」とすべきだなど、多岐にわたる表記の揺れを補正し、それが一転、二転し、そして三転した。文中の表記で、当初「知らず識らずの内に」としていたものが、表現が硬いので「知らず知らずのうちに」に訂正を促され、結局「知らずしらずのうちに」に落ち着いた。そんな微細な調整が次から次へと現れ、ゴールの見えない果てのない作業が延々と続いた。

 また、「一〇〇石」は「百石」、「百五十石」は「一五〇石」へ訂正。「明治二二年」は「明治二十二年」に、「十五番地」ではなく「一五番地」など、数詞の処理が各所にあった。中でも最も大変だったのが、漢字の問題だった。

 本書は、歴史編と史料編の二部構成からなり、歴史編は私が、史料編は佐藤誠氏が担当している。どこまでを新漢字で表現するか、という問題があった。やがてそれは旧漢字(正字)をどこまで許容するかという問題に変わった。

 当初我々は、せめて史料編だけは原文に忠実でありたいと考えていた。だが、史料の中でも新漢字と旧漢字の混在があった。さらに俗字や異体字、崩し字などが散見された。たとえば人名では「龜雄」と「亀雄」、「齋藤」と「斎藤」、地名では「小國」と「小国」などの混在である。そのまま忠実に表現すると、誤植ではないかとの疑念を読者に与えかねない。かといって旧漢字のすべてを新漢字で表記するのにも大きな抵抗があった。たとえば「淨體院」を「浄体院」、「瑞嶽院」を「瑞岳院」としては、まったく別物のイメージになってしまう。

 編集長とのやり取りの中で、せめて史料編の人名と地名だけは旧漢字のままにしたいという妥協案で進めたが、最終校正の段階ですべて新漢字に置き換えた。読者を置き去りにはできない、という思いが強くはたらいた。ルビを多用したのもそんな考えからである。ただ、現存者の表記だけは旧漢字などを許容した。「雄」氏や「石」氏、「久」氏などだ。また、旧漢字が一般的に使用されている「坂本馬」、「文春秋」、「昌院」などは、そのままとした。表記の揺れの修正、旧漢字と新漢字のせめぎ合いのほかに、もう一つ、「行送り」の問題があった。

 会話文の頭にくる起しのかぎ(「)は、行頭から始まるものと思っていたし、またそう習ってきた(見かけ上半角空いて見える)。しかし、これは活版印刷時代の踏襲で、現在のコンピューターの組み版では、行の頭に一文字空きを入れて起しのかぎ(「)を置くように自動的に制御されているというのだ。文春文庫など、いまだに活版印刷時代の「見かけ」を踏襲している出版社もあるが、今では行頭に一文字空きを入れるのが一般的だという。

 これにはさすがの私も混乱した。無理にお願いし、起しのかぎ(「)を半角空きの行頭始まりにしてもらっていたが、こちらも二転、三転を経、現代の常識に従うことで納得し、編集長に一任した。

 「行送り」ではもう一つ、史料編での「欠字(闕字(けつじ))」、「平出(へいしゅつ)」の問題に直面した。欠字とは「文章中に、天皇・貴人の名などを書く時、敬意を表すため、そのすぐ上を一字か二字分あけて書くこと」。平出は、「文中に高貴な人の名や称号を書く時、敬意を表すため、行を改めて前の行と同じ高さにその文字を書くこと」とある(いずれも『広辞苑』)。

 「欠字」、「平出」をそのまま表現すると、文中の文字が突然欠落したように見え、また、文の途中での唐突な改行があったりし、読者に「何だ、これは」という印象を与えかねない。見た目の体裁を整えたくなるところである。だが、実はそこに日本人の「畏敬の念」や「奥ゆかしさ」という独特の感情が隠されている。

「欠字、平出は敬意を表す当時の我が国のしきたりなのです。逆に『どうしてそうなっているのか』と見た人が疑問に思ってくれることが大切なのだと私は考えます」

 凡例で断ってベタ組みにする方法もあったが、佐藤誠氏の歴史に向き合う真摯(しんし)な姿勢を尊重し、本書では「欠字」、「平出」は原文のままの表記とした。

 さらに、最後まで苦慮したのが個人情報の問題だった。現代の米良家の人々の誕生日や住居表示への配慮。また、家族関係をどこまで具体的に表現するか。このデリケートな問題に思い悩む日々が続いた。現実をできるだけ正確に伝えたいという使命にも似た思いと、個人情報、プライバシーへの配慮の鬩(せめ)ぎあいである。

 かくして初祖を含めた十七代、三六四ページ(前付を含めた総ページ数)にわたる本書は完成した。四百字詰原稿用紙に換算すると、単純計算で八〇〇枚ほどになる。史料の蒐集(しゅうしゅう)や現地調査を含めると、八年の歳月を費やしたことになる。

 私は平成七年(一九九五)から一年間、通信教育で校正の勉強をしたことがある。三十五歳のことなのだが、今回このときの勉強が大いに役に立った。

 

  (四)

 この校閲・校正作業の中で、何度、本文を読み返したことだろう。私も佐藤誠氏もサラリーマン生活のかたわらの作業である。当初の仕上がり予定が平成二十四年秋で、実際に本書が刷り上がったのは、翌年の六月である。九か月近くもオーバーしたことになる。

「……一年三か月かかった。久し振りに、感慨無量」

 編集長の別府氏がブログの中でつぶやいていた。

 後日、別府氏が作成したプレス向けの文章を目にし、深い感謝の思いを新たにした。

「(略)資料蒐集や現地調査、執筆に八年をかけた本書は、まずは、九州・熊本を出自とし変転を経た後に北海道を居住の地とする一家系の話ではありますが、それぞれがどのような時代に生きたのかが明らかにされる追跡過程に立ち会う時、『歴史』が生き生きと捉え返される想いを持ちます。それは何より、四百年間の血筋をつなごうとする子孫の――類例のないほどの、と申し上げたい――情熱がもたらすものであり、こうした営為こそが『歴史』をさらに豊かにしていく基礎となるのではないかと考え、一家譜を超えた歴史書として広く世に問おうとする次第です」

 本書は、熊本の眞藤國雄氏と東京の佐藤誠氏と私の合作である。眞藤氏から産地直送ともいえる素材の提供を受け、それを佐藤氏が素材の味を損なうことなく調理(翻刻と現代語訳)した。私はそれを盛りつけたに過ぎない。他人の褌(ふんどし)で相撲を取ったような、そんな思いが私の胸の片隅にずっと貼り付いていた。実際、二人のすぐれた史家と編集者の伴走なしに、本書は成立し得なかった。別府氏の一文は、私のわだかまりを台風一過のごとく払拭してくれた。

 

 だが、本書には一つの大きな欠点がある。四百年に及ぶ家系の歴史を時系列に沿って下ってくる中で、現代に近づくほど内容が充実してくるのだ。親類の幾人かの年配者が、その親や祖父母から聞いた話として語る内容が資料を裏付け、より鮮明になってくる。辛く厳しい体験が、リアリティーを伴ってくるのだ。本書ではそれが明治以降、一気に顕在化してくる。

 言い方を変えれば、明治期以前は物語性に乏しく退屈なのである。しかも本書は、米良姓の起源を探るため、十二世紀の源平合戦以前、熊野水軍あたりの記述からスタートしている。極力簡潔にすることを心がけたが、本書を俯瞰(ふかん)すると、その形が歪(いびつ)になっていることは自明である。

 こういった歴史物では仕方のないことなのだろうが、書き出しの数ページで読者の心を鷲(わし)づかみにすることが出来ていない。それが本書の致命的な欠点である。しかも難しい漢字の混入量が多く、本書を贈呈されたどれほどの人が、最後まで読むことができただろうか。そんな思いが頭をよぎる。

 私は本書が発刊されて以降、毎日のようにネットをチェックしている。どこかの新聞社が、「書評」欄で取り上げてくれてはいないだろうか、という思いからである。そんな中、佐藤誠氏のお知り合いの田中光郎氏のブログに行き当たった。そこには次のような記述があった。

 

「近藤健・佐藤誠両氏の共著で、本文が近藤氏、史料編が主として佐藤氏の手になる。

 内容は近藤氏の外祖母の一族にまつわるものである。詳しくは本書によっていただきたいが、近藤健氏の大叔父米良周策氏(メラ爺)の祖先が、赤穂義士・堀部弥兵衛の介錯をした人物だった。このことを書いたエッセイを目にした、知る人ぞ知る義士研究家の佐藤氏が連絡を取ったことから、米良家の歴史をまとめるというプロジェクトがスタートしたのである。

 完成品がこの大冊(たいさつ)。本文もさることながら、史料・歴代事跡・年表と、これだけ充実した家史は滅多にないだろう。

 私としては近世の部に関心があるのだが、読んで断然面白いのは近代の部である。神風連の乱から西南戦争、屯田兵の辛苦からシベリア抑留。ドラマでもなかなかこんな筋立てはできない。後裔(こうえい)・近藤氏がその波乱の歴史に肉薄しようとする姿が、また素晴らしい。最後に明かされるレイテ戦の真実には脱帽。これは、読者の楽しみのために種明かしをしないでおくが、半面識もないメラ爺が愛おしく思えるに違いない。

 御一家の弥栄(いやさか)を祈念して、御紹介申し上げる」

 

 その後、田中氏は佐藤誠氏に送ったメールの中で、次のように述べられている。

「『米良家』の分量のおよそ半分をしめる史料編、その価値は史学的には高いのですが、この本の生命は近藤さんのメラ爺への想いだろうと思います。佐藤さんに共著者として名を連ねることを要請したのも、これをまとめたいという強い気持ちからくる感謝の現れです」

 正鵠(せいこく)を射(い)た文章とは、まさにこのことだろう。その切り口の鋭さに、正直「怖い」という感情を抱いた。この田中氏の一文によって、本書は昇華されたといっても過言ではない。これほど深く本書を読んでくださったことに目を瞠(みは)った。同時に、感謝の思いが胸に満ち、長年の努力がこの一文で報われたように感じたのだった。

 どんな書評よりもありがたいと思った。

 

 

 追記 平成二十六年(二〇一四)一月

 本書は、平成二十五年七月十七日、財団法人日本図書館協会の第二八六七回の選定図書に選ばれた。また、平成二十五年九月十五日には、熊本日日新聞の書評(評は、大阪大学名誉教授猪飼隆明先生)で取り上げられた。

 令和元年十月、十三代米良周策死去(満九十五歳)。長男米良優樹が十四代を相続する。

 

  2013年8月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 妻が出ていった。

 会社から帰ると、妻の物がきれいになくなっていた。どこかに置手紙があるのではと見回すと、食卓テーブルの隅に小さな付箋が貼られていた。丸味を帯びた妻の字で、「後日連絡します」とあった。それだけだった。

 その日の午前中、大学生の娘から会社に電話があった。

「ねえ、あの人、今日、出ていきそうなんだけど……」

 春休みの娘がアルバイトに出かける時間を、妻がしきりに気にしていたという。妻の不穏な空気を察した電話だった。娘はいつの間にか母親のことを「ママ」ではなく、「あの人」と言うようになっていた。

「どうだ、もういいんじゃないか。オレたち、やるだけのことは十分やったよなぁ」

 そう娘に向けると、

「……わかった」

 と一言いって電話は切れた。私が妻を見限り、娘が母親を諦めた瞬間である。平成二十二年(二〇一〇)三月のことである。

 妻との結婚は平成元年(一九八九)で、私が二十九歳、妻は二十歳だった。結婚五、六年目だったか、忙しさに紛れて結婚記念日をうっかり忘れ、飲んで帰ってひどい目にあった。以来、「シ・ク・ハック」と覚えた。四月九日、八九年である。その後、私は四苦八苦どころか七転八倒、塗炭(とたん)の苦しみの中で辛酸(しんさん)を嘗(な)めることになる。

 結婚八年目の冬、妻が精神疾患を発症した。境界性パーソナリティー障害に、重篤(じゅうとく)なうつ病を伴っていた。人格障害という唐突な宣告を、なかなか受け入れられない。だが、悲嘆に暮れてばかりもいられなかった。現実の生活が目の前にあった。娘はまだ小学二年生だった。

 闘病生活は三か月、いや、半年は覚悟しなければ。ずいぶん長いな、そんなふうに思っていた。だが、結果的に十二年半が過ぎていた。

 その間、妻は十二回の入退院を繰り返した。死と背中合わせの日常だった。妻は、処方されている向精神薬や睡眠導入剤を、一度に全部飲んでしまうのだ。そのたびに病院へ運ぶ。過量服薬が七回、飛び降り未遂が二度あった。最後に飲んだ薬の量は、三四二錠に及んだ。空包をかき集めて救急車に乗る。どんな薬を何錠飲んだか、医師が正確に把握できるようにそんなことをしていた。よく助かったものだ。

 妻の症状は、気分の落ち込みと漠然とした不安、加えていくつかの妄想があった。中でもひどかったのが嫉妬妄想である。私が浮気をしているという疑念がとめどなく湧いてきて、暴力が始まる。殴る蹴るの末、包丁を持ち出し、「いい加減に白状しろ」と迫る。それが夜中の二時、三時と続く。(妻は悪くない。病気が悪いのだ)私は呪文のようにそう唱えながら、身を丸くして嵐が過ぎ去るのを待った。

 自宅に置いてあった会社の緊急連絡網を探し出し、女子社員に電話したこともあった。「主人とは、どのような関係ですか」と。

 娘が高校生のとき、娘にひどい湿疹(しっしん)ができ、一緒に病院へいったことがある。

「ジベルバライロヒコウシンです。よくあるんです、この年齢の子に」

 若い医師が病名をメモ用紙に書いて見せてくれた。釘で引っ掻(か)いたような字で「ジベルばら色粃糠疹」と記されていた。それを覗き込んだ娘が、

「人生バラ色にして欲しい、みたいな病名だね」

 と呟くと、医師が膝を叩いて笑った。私と娘はチラリと顔を見合わせ、苦笑いした。

 上司の言葉に救われたこともあった。

「お前、大丈夫か。本当は、大変なんだろう。少し外をふらついてこいよ」

 私の机の傍らでそっと呟く。その言葉に胸が一杯になり、

「ありがとうございます。大丈夫です」

 と言って上司から目をそらし、天井を仰ぐ。こぼれそうになる涙をこらえていた。

 私はギックリ腰に始まり、胃潰瘍(いかいよう)、帯状疱疹(たいじょうほうしん)、メニエール(目眩)と、神経性の病気を繰り返していた。

 私も娘も、そして妻も、傷つき、打ちのめされ、燃え尽きそうになっていた。それぞれに「どうして私だけが……」という思いを呑み込んでいた。私が諦めたとき、すべてが終わる。妻は間違いなく死を選ぶだろう。だから、負けるわけにはいかない。娘から母親を奪うことだけは避けたかった。

「『人は負けると知りつつも戦わねばならぬ時がある』という父の信条を、私の信条として生きてきた。いかなる時も困難から逃げずに進めば、必ずや道は開けると信じてやってきた」

 この生活の中で出会った作家佐藤愛子の言葉である。私はこの言葉を杖に、すがるように生きてきた。倒れたら立ち上がる。どうせ逃げられないのだから、正面から立ち向かう。刀折れ矢尽きるまで、力の限り闘い抜く。そんな気持ちで過ごしてきた。と、いえば格好いいが、本当は逃げ出したくて仕方がなかった。怖くて逃げられなかったのだ。

 妻が病気になってから、私はエッセイを書き始めていた。共倒れになりかねない自分を護るため、無我夢中で書いてきた。私が倒れたら家庭が崩壊する、そんな強い危機感があった。妻からの執拗な暴力の中で考えていたことは、悲嘆や怨みつらみではなく、なぜかユーモアばかりだった。書くことで私は現実を受け止め、同時に、現実から逃避していた。

 賞をもらい同人誌に所属し、信じ難いことに、佐藤愛子先生ご本人から直接作品評をもらえるようになっていた。佐藤先生が同人誌にかかわっていたためである。考えてもいなかったことが、現実になった。人生はこんなところから光が差してくるものなのか……。心から感謝した。

 

 妻が出ていく数か月前、

「ね、怒らないで聞いて欲しいんだけど……」

 いつになく神妙な顔で妻がもちかけてきた。

「石岡さんと一緒になりたいんだけど、どう思う?」

 どう思うって……。石岡は妻の入院仲間で、サラリーマンだったが、すでに休職期限が切れて解雇されていた。私は妻をマジマジと見つめた。妻が抱える闇の深さを、改めて突きつけられた思いがした。

 その後も私は、根気よく妻を説得し続けた。破滅の道は、誰が見ても明白である。半年ももたないよ。誰が食事を作るの。掃除は、洗濯は、買い物はどうする。風呂だって……。何年も前から、妻の入浴の介助は私が行っていた。離婚したら、もうお仕舞いなんだよ、と。

「健康な人にはこの気持ち、わからないわ」

 密かに身の回りの整理をし始めていた妻が、とうとう家を出た。途中で私にバレ、阻止されるのではないか、ずいぶん心配したことだろう。手配したレンタカーに荷物を積み終え、ホッとして車を走らす二人の姿が目に浮かぶ。薬漬けで精彩を欠く二人の、どこにそんな力があったのか。

 私はすでに妻を止める気力を失っていた。見て見ぬふりをしたのだ。あえて脇を弛(ゆる)め、逃げ道を空けた。妻はそこをすり抜けていった。

 二日後。会社に電話があり、呼び出された近くの喫茶店で、離婚届に判を押した。妻は終始、怯えたような目を向けていた。体調を崩すほどの不安な夜を過ごしていたに違いない。目の前で離婚届を破る私を想像し、頓服(とんぷく)の精神安定剤を飲んでいたことだろう。

 私は妻を一切責めなかった。そして、ほとんど何もしゃべらなかった。それが私の唯一の抵抗、不快感の表明だった。

 事務的に作業を終え、「じゃ」と言って立ち上がったとき、なにかもの足りなさを感じた私は、「幸せにな」とうっかり声に出してしまった。妻の目にみるみる涙が浮かぶのが見て取れた。私は振り返えらず、そのまま店を後にした。

 数日後、娘と二人、伊豆の温泉に旅行した。海の見える宿だった。こんな自由を味わっていいのか、鳥籠から放たれたカナリアのようにビクビクしながら過ごした。

 妻との離婚を周りに話すと、誰もが一様に驚き、そして囁(ささや)いた。「でも、よかったな」と。何があろうと絶対によりを戻しちゃダメだ。お前なら許しかねない、と念を押された。

 よかった、よかったと友達も同僚も、母や妹や親戚みんなが喜んだ。なんだか、結婚したときよりも、大きな祝福をもらったような気がした。(本当は、いいやつだったんだよ)という思いを、胸の奥に押し込んだ。

 私だって、もう以前の生活には戻りたくない。金輪際ゴメンだ。だが、娘にとって、彼女が母親であることは変わらない。生涯それが続く。そこが気がかりなのだ。

 妻が出ていって三か月が過ぎた夜、遅い時間に電話が鳴った。妻からだった。「やっぱり、私たちダメみたい」と。そんな電話が二度あった。いずれも、相談する相手が違うよ、と私は妻に背を向けた。以降、パッタリと音信が途絶えた。

 あれから三年、どうしていることか。私はすでに転勤で東京を離れ、北海道で暮している。だが、遠く離れているからといって、安心はできない。

 「天災は忘れたころにやってくる」とは、明治の物理学者で漱石の門弟でもあった寺田寅彦の言葉である。油断をするな、という戒めだ。私の場合だと、「先妻は忘れたころにやってくる」ということになろうか。

 怖い言葉である。

 

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 四月一日。朝起きて、寒いなと思いながらカーテンを開けたら、外が真っ白になっていた。「これが三寒四温っていうやつか」と一人ごち、小さなため息をつく。そのため息が、そのままガラス窓に凍(い)てついた。

 前夜、ニュースで観た隅田川のさくら吹雪の映像が頭をよぎる。札幌の冬は、そう簡単には春を寄せつけない。

 この日の札幌の積算積雪量は七十六センチ。今年(二〇一三年)はとりわけ雪が多かったという。それでも、ピーク時に比べ半減している。車道の雪はすでにないが、歩道と車道との間に積み上げられた真っ黒な雪の回廊が、目を背けたくなる光景を露呈している。除雪車の巨大なカッターが、車道側のバームクーヘンの丸みを切り取り、積み上げられた雪山が垂直な壁となっている。

 日差しと雨が力を合わせ、交互に雪を解かしていく。雨に打たれる雪を眺めながら、去りゆく冬の風情を追う。だが、情緒に訴えてくるものが見出せない。名残惜しいという感情が湧かないのだ。汚れた雪は、醜(みにく)い冬の残滓(ざんし)でしかない。

 冬の初め、ホワイト・クリスマスなどとちやほやされ、ロマンチックな夜を演出していたあの雪は、いったいどこへいった。眩(まばゆ)く幻想的な夜を演出していたホワイトイルミネーション。イブの夜は、市内の辻に聖歌隊まで出ていたではないか。それがどうだ、この有様は。誰もがウンザリした顔で、まだ降るのかという目を向けている。だれもが、長期間にわたる雪との格闘に疲弊しきっているのだ。

 夕方、会社から帰ってきて雪を掻(か)き、夜寝る前にもう一度雪を掻く。そして朝、出勤前に雪を掻く。早く消え去れ、という人々の思いは、そんなところからきている。ヒートアイランド現象が熱帯夜に拍車をかけ、人々から気力と体力を奪っている東京の酷暑の辛さに似たものを覚える。

 東京は、真夜中の気温が二十八度を下回らず、風がそよとも動かない。今年は最低気温が三十度を切らない日もあった。南九州をも凌ぐ蒸し暑さとささやかれるようになって久しい。北海道と東京、どちらがいいか。無意識のうちに天秤(てんびん)にかけている。

 雨に打たれる雪を眺めながら、それまでの人生を重ね合わせて眺めている自分に、思わずハッとする。やめろ、そんな非生産的なことは、と自分に言い聞かせる。「負」に向かおうとする思考回路のベクトルを、バイパスを経由して別系統へ持っていこうと試みるが、いくつかの分岐点を経るうちに、またいつの間にかベクトルが「負」の方角を目指している。融通の利かないカーナビが、当初の設定路線に戻そうと執拗に誘導する、そんな姿勢に似ている。

 

 私は、北海道の太平洋に面した小さな漁村、様似(さまに)に生まれ、中学を卒業するまでそこで過ごした。高校、予備校と四年間の札幌生活を経、その後の三十二年間を本州で暮した。大学時代の四年間は京都で、残りの二十八年は東京である。五十三年も生きていると、いろいろなところで生活するものだとつくづく思う。サラリーマンゆえ、その大半は、自分の意思で選択したものではない。

 一昨年(二〇一一年)の三月、東京での生活に終止符を打ち、室蘭市へやってきた。転勤である。東京に本社のある企業にいて、ある程度の年齢と役職にいた者が北海道に転勤するということは、おおむね左遷を意味する。大企業の部長などが、転勤の挨拶に来て、

「突然ですが、この三月から札幌支社へ異動を命ぜられまして……」

 という場面に何度か出くわしてきた。「飛ばされたな」と密かに思う。もちろんそんな会社ばかりではない。地方への異動を転機に、ステップアップする人も少なからずいる。だが、札幌への異動は、名古屋や大阪、神戸や福岡への転勤とは一味違う趣(おもむき)がある。私の偏見なのだろうが、「北へ向かう」とか「北帰行」という印象が強い。

「札幌はいい街です。東京以北最大の都市、一九〇万人ですよ。京都や神戸よりも多い。恋の街札幌、すすきのもありますし……」

「確かに冬の北海道は過酷ですが、住宅が寒冷地仕様で、室内は東京とは比べものにならない暖かさです。吹雪の夜でも、みなTシャツ姿でアイスクリームを食べていますよ」

 気の毒にと思う気持ちを秘めているせいか、いつになく饒舌(じょうぜつ)な自分がいる。

 私の転勤もある意味、似たようなものだ。ただ、私の場合、札幌で暮す母と妹が病を得、それまで精神疾患を患っていた妻が私のもとを去ったのを幸いに、転勤希望を出したのだ。当時大学生だったひとり娘は東京に残した。

 送別会の席上、衆議院解散のネーミングよろしく「今回の異動、『一家離散転勤』とでも申しましょうか……」と笑いを取ろうとしたが、誰もが私の事情を知っているだけに、失笑を買ってしまった。妻との闘病生活は、十二年半に及んだ。失うものは大きかったが、得たものもあった。

 三十四年ぶりに生活を再開した札幌の街は、大きく変貌を遂げていた。もはや私の知っている札幌とはかけ離れていた。高校時代は大都会だなと思っていたのだが、何もかもが小ぢんまりとして、やはり一地方都市に過ぎない。幼いころ広い家だと思っていたものが、何十年かぶりに訪ねてみると、こんなに小さかったのかと驚かされる、そんな思いに似ている。人々の訛(なま)りがそんな思いを増長させる。心のどこかで東京を引きずっている。歳のせいか、いまだに順応できずにいる。

 そんなある日、大通公園を西に向かって歩いていると、懐かしい歌碑がたて続けに飛び込んできた。二つの歌碑は、大通りの三丁目と四丁目にあるのだが、いずれも思いのほかひっそりと木陰に佇(たたず)んでいる。こんなに小さかっただろうか、というのが歌碑との再会の第一印象だった。

 

  しんとして幅廣(ひろ)き街の秋の夜の玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほひよ

 

  家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし

 

 前者が石川啄木、後者は吉井勇の歌である。本州での長い生活の中、どれほどこの歌を口ずさんできたことか。私の中では、かつての札幌での暮らしと、私が思い描く札幌のイメージがこの歌に凝縮されている。

 碑文を指でなぞりながら、この歌碑の前で幾度となく佇んだ十代の自分の光景が甦(よみがえ)る。札幌に来て、初めて懐かしいものに出会ったような気がして、思わず胸が熱くなった。

 

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 今年もまた新年を迎え、一つ年をとった。一月生まれなので、年明け早々に誕生日がくる。五十三歳(二〇一三年時点)だ。

 誕生日がきても嬉しくはない。声に出しはしないが、「あー」と、深いため息をつく。三年前に妻と別れているので、気楽なひとり暮らしだ。ひとり娘は東京で生活している。自分の誕生日を無視して過ごそうとするが、娘や妹から律儀にも毎年電話がくる。ありがとうと言いながら、内心、そっとしておいてくれと思っている(電話がなければ寂しいくせに)。

 あるとき酒の席で、誕生日が不愉快だと親しい友人にこぼすと、

「バカじゃないの、お前。自分が祝福される日だと勘違いしてんだろう、誕生日を。誕生日ってえのは、自分を生んでくれた母親に感謝する日なんだよ。わかっちゃいねえな」

 容赦のない一撃をくらった。祝ってもらおうなんていう気持ちはない。ただ、誕生日が人生の終焉へ向かうカウントダウンだという思いが払拭できないのだ。だから年をとるのが嫌なのである。どう足掻(あが)いても〝時の流れ〟に逆らうことはできない。受け入れるしかないのだが。

 年を重ね、それなりの立派な大人になっているかと、ときおり自問する。お前はなにをやっているんだ、と自らに強めのボディーブローを入れてしまう。「漂白の思いやまず」弟子の曾良(そら)を伴って奥の細道へ旅立った松雄芭蕉は、四十六歳だった。五十一歳で亡くなっている。その十二年後、大石内蔵助が吉良邸に討入り本懐を遂げた。四十四歳のことで、翌年には切腹を命ぜられている。

 西郷隆盛が西南戦争で陣没したのは五十歳。吉田松陰は三十歳で斬刑に処せられ、坂本龍馬は三十一歳で暗殺された。いずれもそんな遠いむかしの話ではない。みんな人生を駆け抜けている。バラク・オバマが第四十四代米国大統領に就寝したのが、四十七歳である。彼は私のひとつ下、元号でいうと昭和三十六年生まれだ。それに比べ私は……。そんなものと比べてどうする、という話だ。ただ無駄に馬齢を重ねているだけの自分が情けない。私はそういうふうに考えてしまうのだ。損な性質(たち)である。

 四十代の後半に差しかかったある日のこと。ぼんやりとTVのスポーツニュースを観ていて、相撲界や野球選手などのプロスポーツ選手が、みな自分より年下であることに気づき愕然(がくぜん)とした。いつの間にか自分がそんな年になっていた。頭が禿げ、腹が膨らみ、文字がかすんで見えにくい。気づくと、親がひどく年老いている。そんな現実に驚く。年寄りになるのは、水平線のはるか彼方の未来のことだと思っていた。それが目の前に迫っている。いや、すでに片足を突っ込んでいる。

 三年ほど前、床屋でのこと。散髪中はメガネをはずしているので、周りの様子がぼんやりとしか見えない。私は強い近視である。だから、どのようになさいますかという店員の問いに、

「バリカンで刈り上げて、上もほどほどに短く」

 と言った後は目をつぶり、ほどなく訪れる緩やかなまどろみの中で過ごす。床屋のオヤジや若造と当たり障りのない世間話をするのが苦手で、目をつぶるのは「拒絶」の意思表示でもある。

 そんなあるとき、ふと目を開けると鏡の向こうに男の後頭部がぼんやりと見えた。ユダヤ人の帽子のようにというか、河童のごとくに丸く禿げている。ほかに三つある床屋の座席には、いずれも年配の男性が座っていた。ずいぶん気の毒なことになっているなと思い、再び目を閉じた。

 しばらくして床屋のオヤジが私のもとを離れた。それまで固定されていた頭をくつろがすのに首を左右にひねったら、それまでオヤジの陰になっていたユダヤ人の帽子が再び姿を現し、同じように動いた。あれッ、と思って頭を大きく動かすと、相手も同じ動きをする。それは後方の鏡に映る私の頭だった。オレだったのか、とひどく驚き、息を呑んだ。自分の後頭部など日常では見る機会がない。いつの間にか無残なことになっていた。

 そんな私の老化にトドメを刺すような出来事が、昨年の秋にあった。

 一昨年(二〇一一)の三月に私は転勤で東京を離れ、この二月までの二年間を室蘭で過ごした。室蘭では週に一度のペースでマンション近くの銭湯へかよっていた。私がいく時間帯には、いつも八十代半ばと思しき婆さんが番台に座っている。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」しかしゃべらない婆さんである。いつものように銭湯の回数券を婆さんに渡して、足早に男湯の暖簾(のれん)をくぐろうとしたとき、

「ちょっと、ダンナさん、ダンナさん」

 婆さんが手を振って私を呼び止めた。(ダンナさん?……)と思いながら振り返ると、

「トシ、いくつ?」

 唐突に年齢を訊かれた。(どうしたババア、何でオレの年が気になった)と思いつつ、五十二だよと答えると、

「あっらぁ、若いのねぇ……」

 と口に手を当てて肩をすぼめ、恥ずかしそうな仕草をした。それだけだった。

 湯船に浸かりながら、どうして婆さんがオレの年を尋ねてきたのか考えた。それまで一切会話を交わしたことのない婆さんである。ずっと私の年齢が気になっていたのだろうか。だが、どうも腑(ふ)に落ちない。改めて婆さんに尋ねるほどのことでもない。答えが見つからないまま、もやもやとした気分で銭湯を出た。

 外へ出てふと振り返ると、入り口の脇に貼紙があった。入るときに見落としていたものである。そこには、「本日、六十五歳以上の方、入浴無料」と書かれていた。敬老の日だった。どおりで、見慣れない爺さんが結構いるなと思った。それにしても婆さん、六十五歳はないだろう。ひどすぎないかと思いつつ、手放しで笑えない後味の悪さが残った。

 日本人の平均寿命は、男が七十九歳で女は八十六歳である。毎朝何気なく目にしている新聞の死亡欄には、九十代の死亡者が多いのに驚く。意外といるなと感じるのは、四十代後半から五十代半ばあたりの死者だ。早く亡くなる年齢の第一陣だと思う。五十一歳で死んだ父も、その中の一人だ。それを超してからがいたずらに長い。

 人間の血気盛んな時期は、ほんの僅(わず)かな期間に過ぎない。圧倒的に長いその後の時間を「老い」の中で過ごす。人生とはそういうものなのだ。五十歳を超して初めてそんなことに気づく。まさか自分が五十歳になるとは、夢にも思ってはいなかった。

 ときどき「もっと気楽に、チャランポランに生きた方が楽だぞ」と自分自身に言い聞かせる。だが、どうしようもない。そんな面倒くさい自分との折り合いのつけ方を模索している。

 

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 風の音で目が覚めた。巨大生物の寝息のような、「ゴーッ、ゴーッ」という重低音が響いていた。

 枕元の時計を引き寄せると、午前六時を回っている。ストーブのタイマーが作動していない。セットし忘れたかと思ったが、テレビの待機電源のランプもついていなかった。停電だ、と思い起き上がったとたん、ブルッと身震いがした。平成二十四年(二〇一二)十一月二十七日、室蘭でのことである。

 カーテンを開けると、火星表面の嵐のような凄まじい吹雪である。雪が上下左右、ありとあらゆる方向から吹きつけ、荒れ狂っている。ただごとではないと感じた。

 このとき室蘭・登別を中心に五万六〇〇〇戸が停電。巨大生物の寝息の正体は、最大瞬間風速三九・七メートルの風だった。街路樹はもとより、電信柱までがねじ伏せられていた。室蘭市内の電気の復旧は翌日の昼過ぎまで、登別は三日間、停電が続いた。

 今の時代、電気が止まるとなにも動かない。暖房が使えない。電話もダメ。会社はビルの五階なのだが、水道もストップ。つまりトイレが使えない。お手上げである。人間までが電気で動かされているように感じた。

 私が幼いころ、昭和四十年代あたりまでは、冬の停電は日常だった。北海道の太平洋岸に位置する様似(さまに)が私の故郷である。当時は「暴風雪着氷注意報」という言葉をよく耳にした。二日も三日も電気がこない。それが冬の風物詩だった。

 暖房が薪から石炭、やがて灯油へと変遷したが、停電とは無関係だった。三年前、三十二年ぶりに北海道に戻ってきた。まず驚いたのは、ストーブに煙突がないことだった。ストーブが進化していた。それが裏目に出た。

 北海道の冬の停電は、致命的である。あの日の夜は、ロウソクの炎だけで暖をとった。夏に父の墓参りにいったときのロウソクが、手元にあった。ロウソクが意外と暖かいことを初めて知った。普段、蛍光灯の明かりに慣れている目に、ロウソクの炎は心温まる灯火であった。可能な限りの重ね着をし、冷蔵庫なみに冷えた暗い室内で、一夜を過ごした。

 一人暮らしの年寄りには、不安と恐怖が交錯する夜だったろう。老人の家は、概して古い。忍び寄る寒さは、命にかかわる緊迫したものだったはずだ。あの夜は、凍死者が出てもおかしくはない状況だった。

 そのころ、会社の隣に新聞社があった。非常用電源が足りないらしく、ビルの中はわずかな光があるだけで、ほぼ真っ暗だった。

 新聞社の駐車場にタクシーが止まっていた。その後部座席で、若い記者が一心不乱に記事を書いている。時間との勝負なのだろう。何一つ明かりのない街の中、その車内だけが明るく灯っていた。ラジオを聴くことも話しかけることもできない運転手が、ハンドルに両手をかけたまま、途方にくれた犬のような顔で、降りしきる雪を眺めていた。

 

  平成25年(2013)2月 初出

 

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