こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2014年から過去の作品に加筆しながら、ここに発表しています。時間の堆積の中に埋もれてしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。あなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

「体を酷使して働いてみたら、自分の本音が姿を見せるのではないかと思って田舎に来たのですが、今のところはただ疲れるだけでどうしようもありません」

 南木佳士(なぎけいし)の小説『阿弥陀堂だより』の一節である。久しぶりにページを捲(めく)っていると、赤鉛筆で線が引かれている箇所があった。

 東京から信州の山間(やまあい)のふるさとに戻って、田植えや稲刈りといった農作業の手伝いに従事している主人公の吐露である。当時、この部分に「あっ、なんかわかるな」と共感を憶えたのだ。

 学生時代、私は法学部の勉強はそっちのけで、所属していたESS(英語研究部)でのディベートの勉強に明け暮れていた。原発問題、防衛問題、農業問題などを大学対抗の試合形式で、英語で討論をするのである。かなりハードな部活で、教室にいた時間よりも、はるかに長い時間を図書館で過ごしていた。そんな反動もあってか、夏休みで京都からふるさと北海道の田舎に帰省するたびに、一か月ほどの期間、どっぷりと肉体労働に従事していた。

 一年目は漁師の家に泊まり込んで昆布干しを行った。幼いころから昆布漁でにぎわう浜を目にしており、この重労働に身を浸すことで一人前の男になれる、そういう思いを少年のころから持っていた。私のふるさと様似町(さまにちょう)は、日高昆布の名産地である。良質な昆布が採れる〝上浜(じょうはま)〟が連なっていた。その労働を一か月やり切ったことで、自分が一回り大きくなったような、一皮剥(む)けたような気がした。十九歳の夏のことだった。

 二年目、三年目は、土木作業、いわゆる「土方」のアルバイトに没頭した。

 土木作業は、社会インフラを支える基盤となる仕事だ。汗と埃(ほこり)にまみれ、それらが混然一体となる肉体労働は、ホワイトカラーの対極にあり、下にみられる職業である。だが私には、そこからどんな風景が見えるのか、その好奇心の方が勝っていた。貧弱な体つきであったが、限界まで肉体を酷使してみたい、そんな思いがあった。

 最初の肉体労働は、日高山脈の山懐での砂防ダム(*)の建設だった。そこは現在、国立公園になっているいわゆる秘境で、ヒグマの生息域であった。そのため、現場へ向かうワゴン車には、常にライフル銃が携行されていた。作業員(当時は「人夫(にんぷ)」と言った)の数は、男女合わせて七、八人ほどだった。

 林道のような未舗装の道路から現場へ向け、新たに資材運搬用の道が造られていた。その先の山の斜面の細流に、小さな砂防ダムを造るのである。仮設足場となる単管パイプを組み上げながら木枠を造り、そこにコンクリートを流し込む、そんな作業だった。

 まずは、下流に置いてある単管パイプを担いで作業現場まで運ぶ。この鋼材である単管が重かった。改めて調べてみると、長さ五メートルのもので、重量が一三・七キロとある。それを担いで四、五十メートルほどの坂道を上るのだが、私には一本しか担げなかった。たいした重量ではないのだが、バランスを取りながら坂道を歩けないのだ。だが、みんなは二本ずつ担いで上る。頬被りをした女性たちも二本担ぐのだ。五十代初めくらいの女性が二人いた。これには驚いた。

「兄さん、ムリすんな。一本ずつでいいから」

 情けないが、そんな言葉に甘えるしかなかった。何をやってもみんなに劣る。だから、真面目にひたむきにやることで、信頼を得るしかないと考え、必死に作業に加わった。一週間もやっていると、連帯感を憶え始めた。年齢は四十代から七十歳近い人まで、まちまちである。長年勤めている人もいれば、長続きせず同じような職場を渡り歩いている人もいた。

 あるとき、削岩機で岩盤を砕く作業が行われた。三台の削岩機のうち、一台を任された。やり方を教わったのだが、ほかの二人のように耳を劈(つんざ)くような音を出して岩盤を砕くことができない。削岩機に体重を乗せろと言われるのだが、華奢(きゃしゃ)な体つきの私は、逆に岩盤に弾(はじ)き返されてしまうのだ。やむなく、補助に回って一人の横についていた。

 そんなとき、削岩機で砕いている岩の近くに、大きな芋虫がいることに気がついた。このまま作業を続けると、砕いた岩と一緒に芋虫を潰(つぶ)すことになる。作業中なので、芋虫などには構っていられない。そんなことを考えながら見守っていると、強面(こわおもて)の作業員が手を止めた。芋虫を安全な場所へと移したのだ。蹴飛ばすでも放り投げるでもなく、そっとつかんで少し先の大きなフキの葉に乗せた。男は終始無言だった。外見とは裏腹な行動に繊細な心を視た思いがし、ハッとさせられた。

 現場には様々な資材や道具、器具がある。それらが常に整然と並べられ、乱雑になっていたことがなかった。それは、翌年の別の会社での河川改修工事現場でも同じだった。土木作業という仕事の、思ってもみなかった一面を覗(のぞ)き見た思いがした。

 昼になると、休憩用に建てられた粗末な小屋で、各々が持参した弁当を食べる。みんなの弁当にはシャケやすじこなど、ふるさとならではの海産物が豊富に入っていた。食後は、男も女もその場での雑魚寝(ざこね)である。昼寝をしなければ、午後からの仕事に支障をきたした。小屋の片隅には、ライフル銃が立てかけられていた。

 この現場で困ったのは、トイレだった。山中ゆえ、トイレなどない。小屋から少し離れた茂みの中で用を足すのだ。不用意に茂みに分け入って、真っ白な尻に出くわしたことがあった。女性たちの尻がこちらを向いているのだ。ドキッとして、そっとその場を離れる。そんなことが二度、三度とあった。

「クマもビックリだども、マンケツにもドッキリだぁ」

 尻に出くわしていたのは、私だけではなかった。満月のように丸くて白い尻と下ネタの掛け合わせに、

「なにさ、有料だよ!」

 そう言って、女性たちもカラリと笑っている。かといって、遠く離れた茂みの奥深くまで入り込んでしまうと、今度はヒグマに出くわす恐怖があった。タフさがなければやっていられない現場だった。

 仕事が終わって帰宅すると、私はホウレン草のおひたしのようにヨレヨレだった。労働の大変さを、身をもって味わっていた。

 大学卒業後、会社員となった私は、東京で就職した。学生時代のアルバイトとは、真逆の生活である。スーツを着てワイシャツにネクタイを締め、すし詰めの電車と地下鉄を三本乗り継ぐ通勤が待っていた。一時間の通勤が、近いと羨ましがられた。残業にまみれ、寝るためだけに自宅に帰る生活を長年送っていた。

 私の会社員生活は、東京での二十八年間と、その後の北海道での十四年を合わせ、四十二年に及んだ。

 入社して間もなく、会社に二台のワープロが入った。何年かしてパソコンが導入され、やがては一人に一台のパソコンがあてがわれた。すべての仕事はパソコンで行う。一日中、パソコンと向き合う生活になった。それが定年まで続いた。

 そんな中でも時折り思い出すのは、真夏の太陽の下で肉体を酷使した体験だった。私の中で特別なものとして、深く刻まれていた。汗と土埃にまれながらも、そこには底抜けに明るい笑いがあった。なにより、人間の芯から滲(にじ)み出てくる温もりに溢(あふ)れていた。

 

付記

砂防ダムとは、大雨などで流出する土砂や土石流を食い止め、下流の住宅などを土砂災害から守るための施設である。水を貯める一般的な貯水ダムとは異なり、水を貯めることはせず、土砂をせき止めて川の流れを緩やかにする役割を持つ。

 

  2025年12月 初出  近藤 健 (こんけんどう)

 

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 私が初めて佐藤愛子先生にお会いしたのは、二〇〇五年六月のことである。以来、二〇一一年三月に社内の異動で、私が東京から北海道に転居するまで、半年に一度、世田谷のご自宅を訪ね、エッセイの作品評をもらっていた。私が北海道に来てからは、毎夏、先生の来道にあわせて、浦河町の別荘を訪ねるようになっていた。

 二〇一四年の夏、別荘を訪ねたおり、思い切って色紙に一筆したためてもらったことがある。揮毫(きごう)をお願いしたのは、初めてのことだった。それまで先生にお会いしてきた九年間、畏(おそ)れ多くて言い出せなかったのだ。

 色紙に向かわれる先生の姿は、何度も目にしてきた。同人仲間とご自宅を訪ねたおり、色紙を持参してくる人がいた。それに便乗して私も何か書いてもらいたかったのだが、私にはどうしてもそれができなかった。私にとって佐藤先生は、ファンなどという軽々しいものではなかった。極めて特別な、半ば神格化された存在だった。私がそうなってしまった原因は、先生の膨大な著作を読んでしまった副作用にほかならない。

 先生が色紙に書かれる言葉は、決まって「戦いすんで日が暮れて」である。先生の直木賞受賞作品のタイトルでもある。その揮毫は「戦」の文字が一段と大きく雄渾(ゆうこん)に認(したた)められ、惚(ほ)れ惚れするような書であった。当然、私もその言葉をいただけるものと思っていた。ところが先生は、筆をとるや、何の躊躇(ためら)いもなく別の言葉を書かれたのだ。「人生は美しいことだけ憶えていればいい」だった。

 あとで調べてみると、沢田美喜の言葉であることがわかった。沢田美喜は、三菱財閥創設者である岩崎弥太郎の孫で、戦後、エリザベス・サンダース・ホームを創設し、戦災混血孤児を育てた人物である。ある日、先生がテレビを観ていて、この「人生は美しい……」という言葉に出会っている。そのことをインタビューで答えている記述がネットにあった。

 

 私の場合、言葉によって支えられたということはないですね。言葉が先にあって、その言葉で力づけられ自分の人生が決まったというのではなく、自分の人生が先にあって、人生観なり自分の気質なりにぴったり合う言葉を見つけた時に、嬉しくなってそれが力杖になる、ということだと思うんですね。そういう意味で気に入った言葉の一つに、「人生は美しいことだけ覚(先生ご自身は「覚」ではなく「憶」を使用)えていればいい」という沢田美喜さんの言葉があります。

 ホームで育った黒人の混血孤児なんですが、成長して二十七、八歳の青年になって、アメリカへ自分のお父さんに会いにいく。ところがお父さんは喧嘩(けんか)か何かして監獄に入っているんですね。胸が潰(つぶ)れるような思いでその青年は、沢田さんが来るのをニューヨークの公園のベンチに座って待っている。沢田さんの姿が見えると青年は駆け寄って、抱きついて、思わず泣くんです。その時に沢田さんが英語でね、「泣いてはいけない、人生は美しいことだけ覚えていればいい」と言って、青年を励ますという場面があるんです。

 長いこと生きてくると、いろいろな経験をしてきますけど、楽しいことよりも、美しいことのほうが心に残るということが分かります。美しい自然、人の美しい心。そういう美しいことだけ覚えていれば、人生捨てたものじゃない、というふうに思えるわけでしてね。さすがに沢田さんはいいことを言われるなあと、感銘を受けましたね。(致知出版社メールマガジンより引用)

 

 先生は私の長年の苦悩を推しはかって「人生は美しい……」をくださったのである。

 私の元妻は、一九九七年十二月に精神疾患を発症した。そのとき一人娘は、まだ小学二年生だった。闘病生活は十二年半に及び、妻は十二回の入退院と自傷行為を繰り返した。嫉妬妄想から包丁を持ち出すこともしばしばで、そんな兆候を察した娘が包丁を隠すようになっていた。妻の病名は、境界性パーソナリティー障害で、重篤(じゅうとく)なうつ症状を伴っていた。

 先生が私の実情を知ったのは、私が同人誌に発表した作品からであった。作品評をもらいにご自宅を伺った際、

「これはね、エッセイの限界でしょう。小説にすべき作品ですよ」

 妻の病気関連の作品を目にするたび、そのように言われた。講評が終わって雑談に入ると、私の生活の状況をいつも訊(き)かれた。

 二〇一一年三月、私が転勤で室蘭市に転居してほどないころ、突然、先生からお手紙をいただいた。そこには「あなたは小説を書く気がおありですか」と改めて尋ねるものだった。もし私が応じるのなら、先生はそれなりの指導を考えていらっしゃったのだろう。だから、わざわざお手紙をくださったのである。その心が私の胸に沁(し)み、もったいなくて涙が零(こぼ)れた。

 だが、残念ながら、私には小説を書く技量がなかった。会社員生活を投げ出す覚悟がなければ書けないと思っていた(投げ出しても書けなかったのだが)。だから、やんわりと、お断りをしてしまったのだ。情けない男である。周りの同人仲間からも「あなたの作品は、もう小説じゃないの。書きなさいよ」と言われていた。だが、どうしても書けなかった。私は、先生や仲間の期待に応えることができずに今日に至っている。

 拙著『祝電―こんけんどうエッセイ集 第一集―』(二〇二一年随筆春秋刊)に、先生が書いてくださった「あとがき」は、次のように締めくくられている。

「(略)穏やかで誠実な人という第一印象は今も変わらない。穏やかさの中身もやさしさも変わらない。その美点のために健さんは、しないですむ苦労をかぶった人のように私には思えるのだが、その苦労は健さんの風貌のどこにも影を落としていないことに私は敬服せずにはいられない。それらは表には出ずに内向して濾過(ろか)され彼の人柄、精神性に深みをもたらしたように思われる。その成長が今回のエッセイ集に開花しているだろうことを見るのが楽しみである」

 

 二〇一九年四月、佐藤先生のエッセイ集『人生は美しいことだけ憶えていればいい』(PHP研究所)が出版された。これまで先生が書かれてきた作品を再編集したものである。このタイトルを見たとき、思わず「あっ!」と声が出た。

 先生からいただいた色紙は額装し、部屋に掲げている。

 

 追記

 佐藤愛子先生、この11月5日で102歳を迎えられた。

 

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 うちの家系は、総じて短命である。

 祖母(父方)は九十二歳まで存命だったが、あとの三名の祖父母は、みな五十代で病死している。父は五十一歳、母は八十九歳だった。つまり、六名中、四名が五十代で亡くなっている。ここだけみると、現在六十五歳の私は、比較的「長命」の部類になる。

 今回、祖父母の生まれ年を眺めていて、全員が明治生まれであることに改めて気づく。私が幼いころの年寄りは、みな明治生まれだった。現時点(二〇二五年七月)での日本の最高齢者は、明治四十四年(一九一一)生まれ、一一四歳の女性だという。明治生まれが存命なことに驚かされる。今年二〇二五年は、昭和一〇〇年の年に当たる。

 わが国では、六十五歳以上を高齢者という。老齢年金が満額支給になる年齢、いわゆる前期高齢者だ。十年後には、後期高齢者になる。幼年期、少年期、青年期、壮年期、中年期ときて、とうとう高年期まで上り詰めた。その先はもうない。ある日突然、ハシゴを外されることになる。

 二十代のころ、六十代とは首が痛くなるほど上を向かなければならない、はるか高みにあった。私が六十五歳になる二〇二五年に、日本の総人口に占める高齢者の割合がピークを迎える、ということを学生時代に知った。それは、昭和二十二年(一九四七)からの三年間に生まれた、いわゆる(※)団塊(だんかい)の世代が七十六歳から七十八歳、つまり後期高齢者になる時期を意味していた。医療や介護などの社会保障費が増大し、財政が逼迫(ひっぱく)する「二〇二五年問題」と言われた。本格的な高齢化社会が佳境を迎えると恐れられていたが、私には遠い遠い未来の話だった。

 四十代になったとき、六十代が自分にも訪れる年齢であることを、薄々感じるようになった。でもそれは、五十歳を超した、まだまだ遠い先のことだった。だから、さほど気にも留めてはいなかった。今、その年齢の真っただ中にいる。そして、さらなる高みに向かって歩んでいる。

 たまに同年代の友達に会うと、日本各地を出歩いている者がいる。

「元気なうちにと思って……」

 という言葉を聞いて、ずいぶんと年寄りめいたことを言うなと思っていた。確かに、幼なじみの中には、すでに妻を亡くしたり、夫に先立たれている者がいる。存命な親たちは九十代になり、人生の第四コーナーを回って最後の直線コースを走っている。ゴールは目前だ。そんな親を看ながら、やがては自分たちも同じコースを辿(たど)ることを身をもって疑似体験している。だから今のうちに、という思いがあるのだろう。私の母も昨年末に鬼籍に入った。

 今、上を見上げても、さして首の痛みを覚えないところに八十代がいる。果たして自分がその年齢に到達できるのか。わずか十五年先のことではあるが、はなはだ心もとない。

「渋谷駅周辺の大規模再開発の完成は、二〇三四年度を予定しています」とか、

「北海道新幹線の札幌延伸が、トンネル工事の難航から大幅に遅れ、二〇三八年度末以降になる見込みです」

 こんなニュースを目にすると、「あ、もう死んでる、ムリムリ」と思ってしまう。「万が一、生きていても、もう、そんな元気ないよな」と思うのだ。それは、私の中に沁(し)み込んでいる〝短命な家系〟という思いが影響している。「人の一生は、重荷を負ひて遠き道を行くが如し」というが、その重荷がズッシリと体の芯に食い込み、私の気力を削ぎ落しにかかっている。

 

 最近、やたらと老人の姿が目につく。私が会社を退職してから、平日の日中に出歩くことが増えたせいである。老齢年金支給日のATMの前には、年寄りによる長い列が幾重にも蛇行している。今年から私もその仲間に入った。

「そろそろ血圧の薬を飲む年齢ですよ」

 かかりつけの医師からやんわりと言われたのが、六十一歳のときだった。以来、高血圧の降圧剤を処方してもらっている。

「若いのにね……」

 と言われたのは、「尿閉」と診断され、緊急入院した五十五歳の夏だった。結局は、前立腺肥大症が主因だった。以降、前立腺がんを警戒し、こちらも定期検診を受けている。眼科や皮膚科にも、ときおり出向く。

 病院は、どこも年寄りで一杯だ。みな、朝早くから順番待ちをし、ひたすら自分の番号が呼ばれるのを待っている。週に何日か、複数の病院をかけ持ちで渡り歩いているのだろう。やがてはそういったものから解き放たれる日がやってくる。自分の順番がくるのだ。あちらからの呼び出しである。

 ただ、首都圏などの火葬場はどこも満杯で、自分の番が来るのに一週間も葬儀社の冷蔵庫で待たなければならないという。市場に並べられた冷凍マグロのようなものだ。死んでからも大変である。

 ある日、午前中の住宅街を歩いていると、

「おじいさん、急いでください。お迎えがきましたよ」

 という大きな声が聞こえてきた。声が大きかったのは、爺さんの耳が遠いせいなのだろう。えッ? と思ってよく見ると、デイサービスのワゴン車が玄関前に止まっていた。

 

団塊の世代とは、第二次世界大戦後の一九四七年から一九四九年にかけて、ベビーブームの時期に生まれた世代のこと。「団塊」の言葉の由来は、堺屋太一の小説『団塊の世代』にあり、この世代がほかの世代と比べて人口が非常に多く、人口ピラミッドの中で一つの大きな塊を形成したことから名付けられたものである。この世代は、社会全体に大きな影響を与えてきた。

 

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 私の祖母(母方)の伯父米良(めら)亀雄は、熊本藩の下級士族だった。明治九年(一八七六)に熊本で勃発した明治新政府に対する不平士族の反乱、神風連(しんぷうれん)の乱にて自刃(じじん)している。徳川幕府が瓦解し、すでに武士の時代は終わっていた。旧勢力となってしまった武士の残党による、死に場所を見つけた戦いに打って出たのである。武士としての面目を保って死ぬ、神風連の乱はそんな戦いだった。

「……慷慨(こうがい)の心ふかく、一挙のさそいをうけて欣然(きんぜん)参加し、敵弾を膝にうけ、刀を杖ついて本陣に退き、岩間邸にうつる。(略)官兵捜索に来るを見て立川運(はこぶ)、上田倉八、大石虎猛、友田栄記(えいき)らと共に自刃す。年二十一」

 亀雄に関する記述である。文面からは、拙速(せっそく)を尊(たっと)ぶ武士の気概が読み取れる。翌明治十年の西南戦争で、不平士族の反乱は終息する。

 米良亀雄は、曽祖父の兄という位置づけにもなる。わずかに一五〇年ほど前の出来事である。「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」とは、武士は常に死を覚悟して行動すべきだという、武士道の徹底した覚悟を表した言葉である。曽祖父の時代には、確かに武士道が生きていた。

 祖母は、私が三歳の時に亡くなっているが、祖母の妹は令和二年(二〇二〇)、九十九歳まで長命であった。私がこの大叔母に曽祖父四郎次(しろうじ)のことを尋ねると、

「父さんは外出するときはいつも袴(はかま)を履(は)いており、自宅に戻ると大きな前掛けをして過ごしていた。家にいても横になったり胡坐(あぐら)をかくことはなく、いつも正座姿で背筋を伸ばし、子供たちが少しでも足を崩すと、たちまち睨(にら)まれたものだった」

 と言っていた。大叔母が四郎次を語るときは、「父は士族の教育を受けていたから……」が常に枕詞のようについていた。今の家族のようにフランクに父親に話しかけられるような雰囲気はなく、まさに「明治の厳父」が一家の大黒柱として存在していた。

 

 武士にとって切腹は、自身の名誉を守るための最終手段だった。〝腹〟とは、日本人には特別な意味を持つ場所である。日常、私たちは様々な場面で腹にまつわる比喩を耳にし、また、自ら使っている。「腹を立てる(怒る)」、「腹黒い(心に悪だくみがある)」、「腹を決める・腹を固める(決心する、覚悟を決める)」、「腹が据わる(度胸がある)」、「腹を割る(本心を打ち明ける)」、「腹を探る(相手の考えを探る)」……、と切りがない。

 腹は精神や意志を象徴する特別な部位と考えられてきた。そこに自ら刀を突き立てて十文字に切り裂き、絶命してみせるのである。凄まじい勇気である。自らの命と引き換えに、自身の身の潔白や精神性の高さを証明するのだ。切腹は、武士の面目を保つ究極の手段だった。切腹によって、一切の説明責任が不問に付された。

 慶応四年(一八六八)に神戸三宮で備前藩の隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させるという、いわゆる神戸事件が起こった。幕府の瓦解を意味する大政奉還の八か月前という大変デリケートな時期だった。結局、この事件は、その隊の責任者であった滝善三郎が、列強外交官列席のもと、永福寺の本堂にて切腹をすることにより決着をみる。

 ちなみに、当時、隊列を横切るという行為は、武家諸法度に定められた「供割(ともわり)」といわれる非常に無礼な行為で、「手討(てうち)」「打捨(うちすて)」といった、いわゆる斬捨御免(きりすてごめん)が成立した。そんな当時の日本の常識が、欧米人には通用しなかった。

 この事件については、新渡戸稲造の『武士道』でも触れられている。英国の外交官ミットフォードの著書『昔の日本の物語』(一八七一)から、ミットフォードが自ら検使として切腹の場に立ち会ったときの様子が紹介されている。

 まずは、日本人七人、欧米人七人の検使が本堂に案内され、しばらくして麻裃(あさかみしも)姿の切腹人の善太郎が威儀を正し、しずしずと入ってくる。後ろには、一人の介錯人(かいしゃくにん)と三人の役人が従っていた。善太郎は堂々として落ち着き払い、その様子は「気品高き威丈夫(いじょうぶ)であった」という。

「(略)またもや一礼終って善三郎は上衣を帯元まで脱ぎ下げ、腰の辺りまで露(あら)わにし、仰向(あおむけ)に倒れることなきよう、型のごとくに注意深く両袖を膝の下に敷き入れた。それは高貴なる日本士人は前に伏して死ぬべきものとせられたからである。彼は思入(おもいいれ)あって前なる短刀を確(し)かと取り上げ、嬉しげにさも愛着するばかりにこれを眺め、暫時(ざんじ)最期の観念を集中するよと見えたが、やがて左の腹を深く刺して徐(しず)かに右に引き廻し、また元に返して少しく切り上げた。この凄(すさま)じくも痛ましき動作の間、彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前にかがみて首を差し伸べた。苦痛の表情が初めて彼の顔を過(よ)ぎったが、少しも音声に現われない。この時まで側に蹲(うずくま)りて彼の一挙一動を身じろぎもせずうち守っていた介錯は、やおら立ち上り、一瞬大刀を空に揮(ふ)り上げた。秋水一閃(しゅうすいいっせん)、物凄(ものすご)き音、鞺(どう)と仆(たお)るる響き、一撃の下に首体たちまちにその所を異(こと)にした。場内寂(じゃく)として死せるがごとく、ただ僅(わず)かに我らの前なる死首より迸(ほとばし)りいずる血の凄じき音のみ聞えた。この首の主こそ今まで勇邁剛毅(ゆうまいごうき)の丈夫たりしに! 懼(おそろ)しい事であった。(略)」

 滝善三郎、三十二歳であった。

 自殺をタブーとする欧米人の眼前で行われた「ハラキリ」は、著しく常軌を逸した奇矯(ききょう)な行動と彼らには映ったことだろう。死を恐れぬ武士の姿を、鮮烈な印象で焼き付けたに違いない。

 このミットフォードの『昔の日本の物語』は、四十七士(元禄赤穂事件)の記述から始まっているという。ミットフォードが泉岳寺を訪れた際、四十七士の遺品を書き写して英訳している。訪日三年に満たない中で墨書された旧字体の日本語を書き写し、英訳したという当時の通訳官や外交官の卓越した語学力には驚嘆の念を禁じ得ない。

 この新渡戸稲造と米良家には、少なからぬ奇縁がある。米良亀雄が自刃し、十一代目の家督を継いだ弟の四郎次は、このときまだ十二歳だった。明治二十二年(一八八九)、四郎次は二十四歳で屯田兵に志願し、熊本を引き払って札幌の篠路(しのろ)兵村に入植している。屯田兵制度は、困窮士族にとって武士の体面を保ちつつ職を得る願ってもないものだった。また、彼らを送り出す側の出身県にとっては、厄介者を合法的に県外に放逐できるまたとない機会でもあった。

 新渡戸が札幌農学校(現北海道大学)の教授として着任したのは、明治二十四年のことである。明治三十年に札幌を去るまで、札幌農学校の宿舎に居住していた。また、明治二十九年には、札幌農学校に編入した有島武郎が新渡戸宅に寄宿しており、新渡戸が去った後も明治三十四年まで住んでいたという。現在、この場所には、ANAクラウンプラザホテル札幌がある。宿舎がいつまでここにあったかは不明だが、このまったく同じ所在地が、四郎次の先妻ツルの終焉(しゅうえん)(大正十四年(一九二五)二月死去)の地となっている。晩年、ツルは長女夫婦と同居していたが、そこは長女の夫の本籍地でもあった。夫が札幌農学校の関係者であったかどうかは、詳(つまび)らかではない。

 

 また、遡ること元禄十五年(一七〇二)四月、二代米良市右衛門が熊本藩主細川綱利の参勤のお供を命ぜられ江戸に上っていた。その年の十二月十四日に赤穂義士による吉良邸討ち入り事件があり、義士たちは四大名家に分散してお預けとなった。大石内蔵助以下十七名が熊本藩邸に預けられた。翌年二月の義士切腹に際し、市右衛門は堀部弥兵衛の介錯を命ぜられている。

 江戸中期になると切腹が形骸化し、切腹人が短刀を載せた三方に手を伸ばしたタイミングで、介錯人が首を落としていたという。元禄赤穂事件のころには、すでにそのような切腹スタイルがとられていた。だが、幕末になり再び滝善三郎のような正統な切腹が見られるようになっていたという。

 すごい時代が存在したものである。それが身内のエピソードとして改めて読み返してみると、他人事とは思えない臨場感で迫ってくる。

 過日、私は検査入院で部分麻酔を経験したことがある。半身が他人の体になってしまったような感覚に陥った。痺(しび)れ切った足のように、何をされようが無感覚なのである。そのとき、この状態なら切腹ができるかもしれない、そんな思いがよぎっていた。……でも、ムリだよなと、遠いところでぼんやりと考えていた。

 一五〇年の歳月を経(へ)、私の中には、武士道精神の片鱗も残っていないことを、改めて自覚したのだった。

 

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 すすきので痛飲した帰り道、転倒してケガをした。

 久しぶりに会った高校時代の友人と二人、二軒の店を飲み歩いた。考えてみればこの田中クンとは、五十年来の付き合いになる。彼の結婚披露宴では、私が友人代表のスピーチをした。そんな仲である。

 深酒をした感覚はなかった。「迎えに行くよ」という妻のLINE(ライン)を断っていた。酔い覚ましのため、歩いて帰ろうと思ったのだ。

 歩き出してほどなく、ポツポツと降り出した雨が、急に本降りになった。あっという間に、ずぶ濡れである。札幌の四月の雨は冷たい。これはマズイと急いだ結果、足がもつれて前のめりに転倒した。白い飛沫(ひまつ)を上げる舗道が、眼の下にあった。少し前まで雪に覆われていた道である。雨の匂いがした。

 腕や膝、頬などは軽い擦りキズだった。メガネの弦(つる)がひどく曲がり、翌日、メガネを買い替えた。残念だったのは、貼り替えたばかりのスマホのフィルムが割れたことだった。

 転倒から一週間が過ぎても、左小指の腫れや痛みが引かない。GWが近づき、やむなく近所の整形外科へ行った。軟骨剥離骨折と診断され、包帯状のギプスを巻かれた。

 それから一か月が過ぎても、小指の症状に変化はなかった。腫れと痛みがあるのだ。再び、病院を訪れた。すると同じ医師が、

「六週間はかかります。小指、動かしてないと、固結して動かなくなっちゃうよ」

 と言う。そういうことは、最初に説明すべきだろうと思ったが、年寄り相手の個人病院なら、そうなってしまうのかと黙った。

 出しなに、「湿布薬出してもらえるなら、欲しいな」と妻が言っていたのを思い出し、

「せんせー、私、時々腰の痛みが出ることがあって、市販の湿布薬を使っているんですが……、事前には出してもらえませんよね」

 恐る恐る切り出してみると、診察室のベッドを指差し横になれという。慌てて今は痛くないと言ったが、診察が始まった。すると、

「これは、マズイな。間もなく痛み出す」

 と言うではないか。コルセットを作ろう、どうせ雪かきのときに必要だろうからと言う。冬がきたら考えると固辞した結果、

「じゃあ、小指と一緒に腰もリハビリを受けていきなさい」

 となった。今さら、腰痛は妻の方だとも言えず、やむなくリハビリを受けることにした。

 広いリハビリ室には、ひどく若い理学療法士が二人いた。五、六人の高齢者がベッドに横たわり、膝や腰の治療を受けていた。そこに私も寝かされ、腰の牽引(けんいん)をやってきた。

 小指のリハビリとは、小指にホットパック(温熱ジェル袋)を押し当てて、温めるだけのもの。以来、この病院へは行っていない。

 小指が治ったのは、二か月が過ぎたころだった。後日、田中クンに顛末(てんまつ)を伝えると「あちゃー。快気祝い、やる?」と返ってきた。リベンジは、まだ行っていない。

 

  2025年6月 初出 近藤 健 (こんけんどう)

 

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 会社の異動で、北海道への転勤が決まった。二〇一一年三月のことである。私にとっては、三十二年ぶりの生まれ故郷、北海道ということになる。

 都会での希薄な人付き合いとはいえ、練馬には二十年も暮らしていたので、顔見知りはけっこういた。商店街の薬局や八百屋、クリーニング屋などに、転勤の旨を告げて歩いた。「北海道」と言っただけで、みな大仰にのけ反った。

「ええーッ! ホッカイドー!」

「うっそォー! ホント?」

 驚いたあとで誰もが一様に哀れむような、気の毒そうな顔をした。彼らが思い描く北海道は、本州最北端の海を渡ったさらにその先にある場所、〝最果ての地〟なのである。その証拠に、

「ごらんあれが竜飛(たっぴ)岬北のはずれと……」

 石川さゆりが拳を固く握りしめて熱唱している。青森県の竜飛岬が「北のはずれ」なら、その先にある北海道の立場はどうなる。確かに、津軽海峡を境に気候区分が温帯から亜寒帯に変わる。哺乳類や鳥類などの動物の分布境界線(ブラキストン線)も津軽海峡にある。かつては白河の関(福島県)を越えると、そこはもう蝦夷(えみし)の地、大和朝廷の勢力圏外だった。潜在的にそんな感覚が摺(す)り込まれているのではないか、そのように思いたくなる。だから、彼らにとって北海道は、遊びに行く場所であって、住むところではないのだ。

 私は室蘭市での二年間の生活を経、現在は札幌市に暮らしている。室蘭を含めた太平洋岸は、北海道でも温暖な地域で、降雪量が少ない。三月一日付の異動で札幌にきたとき、一三〇センチの積雪に肝を潰した。室蘭を出た時には積雪がなかったのだ。JR特急でわずか一時間二〇分、一三〇キロの距離である。以来、雪に埋もれる生活をしている。

 朝、会社へ行く前に除雪をする。雪の中から車を掘り起こすのだ。会社から帰ってきて、また、雪投げをする。寝る前にもう一度雪を掻(か)く。そして目覚めたら、また除雪だ。一晩で四〇センチ、五〇センチと雪が積もっても、会社へ行かねばならない。みんな平気な顔で出社し、何事もなかったかのように仕事をしている。雪や寒さのことなど話題にも上らない。それが冬であり、当たり前のことだから、いちいち話す気にもならないのだ。

 北国の冬の暮らしは、ただただ耐えることである。そんな環境に順応していけるのだろうか、という強い不安があった。私は無類の寒がりなのだ。本州での長い暮らしの中で、私の中の寒冷地仕様の部分は、すっかり失せていた。実は、いまだに十月が近づくたび、必要以上に怯(おび)える自分がいる。以前だと、「東京に逃げ帰りたい」、そんなもう一人の自分が顔を出していた。だが、「退路は断っている。お前の居場所はここなのだ」、そう強く言い聞かせ、自らを宥(なだ)めてきた。「黙々と生きろ」、弱腰の自分に覚悟を迫る。

 力づくで自分を納得させ、強引にねじ伏せる。それでも脆弱(ぜいじゃく)な私のメンタルが、知らず識らずのうちに環境への順応を拒み始める。「寒いのはイヤだ」という自分が頭をもたげ出す。そんなことだから、いつまで経ってもこの地に愛着が持てないのだ。

「だって……、十月下旬から四月上旬まで雪が降るんだよ。半年が冬だ。あとの半分で春夏秋……。そんなところだよ、ここは」

「沈丁花(ジンチョウゲ)や金木犀(キンモクセイ)は季節の香りでしょう。それがない。椿(ツバキ)や楠(クスノキ)、杉だって目にしない。〝木枯らし一号〟とか〝春一番〟、〝時雨(しぐれ)〟なんていう情緒ある季節のアクセントがないんだよ」

 そんなボヤキが聞こえてくる。

 北国の冬は、何もかもが閉ざされる。氷点下の閉じた世界の中で、身を固くして歯を食いしばり、じっと耐える。木々は潔くすべての葉を落とし、風景から色彩が失せる。あらゆるものが、モノトーンの世界と化す。死んだふりをして春を待つのだ。頂点捕食者として君臨するヒグマですら、雪洞(せつどう)を掘ってビバークする。寝込むしかないのだ。二百万人に近い都市が、すっぽりと雪に埋もれる。

 雪の上に雪が積もる。さらにその上に雪が降る。昨日雪が降って、今日もまた雪が降る。そして明日もまた降り続く。降り続く雪の中で昨日が今日に変わり、明日になるのだ。霏々(ひひ)として雪は降り積む。そして、ツルハシをも跳ね返す花崗岩(かこうがん)のような地面が作られていく。

 そんな街でえみ子に出会って八年が過ぎた。二〇二五年一月、私は会社を退職し、えみ子との同居を決めた。十二歳の犬もついてきた。そして、雪解けを待って入籍した。六十五歳と六十三歳のポンコツである。雪の中で暮らすことを決めたのだ。ほかに選択肢はなかった。

 雪洞の中で抱き合って、睦まじく暮らしていこうと決めた。

 

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 えみ子と出会って八年が過ぎた。五十六歳だった私は六十五歳になった。えみ子も二歳の年齢差をしっかりとキープして、ついてきている。二人とも伴侶を失って、相応の年月を経てきた。

 若いカップルとは違い、私たちは使い込まれたリサイクル品である。お互いいたるところに傷がある。加えて私の場合、塗装の剥げたような頭をしており、商品価値を決定的に落としている。廃品同然のポンコツだ。

 この八年間、互いの経年劣化を眺めながら、加齢を楽しんできた。別に楽しんできたわけではないが、結果的にそのような形になっている。

 二人で銭湯や日帰り温泉などへ行くと、風呂から先に出るのは私である。ややしばらくして、えみ子が女湯の暖簾(のれん)の向こうから姿を現す。最初のころは、上気した顔で現れる彼女を見て、えみ子だと認識するのに、一瞬の間があった。私の中の顔認証機能が、瞬時に彼女と認識しないのだ。そんな化粧とスッピンの落差も反復訓練の成果か、私の中の学習機能により、しっかりと補正されている。

 この年になると、互いに補い合っていかなければ、何事もうまく回っていかない。相手の失敗は、次は自分の番なのであり、お互い様なのだ。許容しあってその失敗を笑い飛ばす術は、私たちの場合、最初からほぼ備わっていた。その辺の若者とは、成熟度合いが違うのだ。ストライクゾーンが恐ろしく広い。

 白老(しらおい)にウポポイができたときのこと。ウポポイとは、国立アイヌ民族博物館の愛称で、二〇二〇年七月に開業した。当時、テレビでも盛んに宣伝していたこともあり、オープン初日に行くことにした。札幌から白老町までは、高速道路を使って一〇〇キロほどの道程(みちのり)である。

 初日なので、混むことを想定し、早めに自宅を出た。だが、不思議と高速も混んでおらず、前評判の割には肩透かしだなと思った。高速を降りると、沿道に警察官と警備車両が点々と見えるようになった。だが、混雑はなかった。

 そんな時、えみ子のスマホに娘からLINE(ライン)が入った。ウポポイに向かっていることを告げると、「私も行きたかったー」と言ってきた。そんなやり取りをしていると、「あれ? ウポポイのオープン、明日じゃない?」と娘が言う。慌てて検索してみると、確かにオープンは翌日だった。今日は関係者によるオープニングの式典があるとのこと。警備が厳重なのは、政府の要人が出席するためであった。

 私たちには、調べの詰めが甘いところがある。目的の店に行ってみると定休日だった、ということは茶飯事である。確認が不十分なのだが、そんな同じ失敗を何度も繰り返している。お互いにそうなので、「また、やっちまったー」と、顔を見合わせて終わってしまう。

 別の日のこと。

「明日、どうする?」

 えみ子からいつものLINEがきた。

「ん……、そうだな……」

 行くところがなかなか思い浮かばない。するとえみ子から、

「スパカツって食べたことある? 美味しいらしいよ、テレビでやってた」

 ときたので、

「おお、いいじゃない。行こう!」

 と応じた。場所は、釧路だという。釧路は帯広のちょい先、という認識しか私にはなかった。そんな錯覚を起こさせるほど、えみ子の提案は気軽だった。午前九時の出発も、私を油断させた。

 翌日。走れど走れど、目的地に着かない。片道三〇〇キロ、東京から名古屋の少し手前ほどの距離である。私たちは、スパカツを食べるためだけに、四時間をかけてその距離を走った。しかも私は、「スパカツ」がいかなるモノであるかを知らなかった。私には、食べ物の好き嫌いが一切ないので、訊(き)こうという気にもなっていなかったのだ。

 スパカツとは、熱したステーキ用の鉄板の上にスパゲティーとトンカツを載せたものである。パリッとしたスパゲティーの香ばしさがたまらなく美味かった。また、食べたいと思うのだが、あまりに遠すぎて再び行こうという気にはなっていない。

 私たちは、万事、このような調子である。

 

 そんなえみ子と同居を始めたのが、この(二〇二五年)一月である。一月末日の私の退職に合わせ、一緒に暮らし始めた。同居を始めるちょうど一か月前、長く患っていた私の母が身罷(みまか)った。満八十九歳だった。母と一緒に暮らしていた妹が、自宅マンションで最期を看取った。

 母が亡くなる前日、私たちは入居予定のマンションを下見していた。当日、母のもとを抜け出した私は、えみ子と一緒に家具を見に行っていた。母の死は確定したものではあったが、思いのほか急だった。私たちは慌ただしい日々の中で引っ越しをし、退職日の翌二月一日には母の四十九日法要を行っている。

 母が亡くなる十二月からの三か月は、強い緊張の日々だった。そんなこともあってか、この間、私たちがポンコツぶりを発揮することはなかった。だが、そんなに遠くない先、私たちは本格的なポンコツになる。十年後、私は七十五歳だ。そんな年齢の自分を想定したことがない。えみ子と一緒に過ごす中で、それではいけないと思うようになっている。だが、どう頑張っても、残された時間は、それほど多くはない。

 母の湯灌(ゆかん)に際し、えみ子が母の死に化粧をした。生前の母のような自然なメイクを、という思いが妹にはあった。そのことをえみ子に伝えると、「エンジェルメイク、私がする」と応じた。えみ子はエステを仕事にしていた。

 ごく少人数の身内が見守る中、湯灌が行われた。互いの娘や孫もいた。その間、喪主の私はリンを叩(たた)き続けていた。女性納棺師に促され、えみ子が死に化粧を始めた。凛(りん)とした儀式のように、粛々と化粧が施されていく。死んでいる母が、眠っている顔に変わった。姿ある母との最期のひと時を感じていた。

 そんな様子を眺めていたとき、不覚にも一筋の涙が私の頬を伝った。横たわる母の姿が、自分に重なったのだ。やがて私たちもこうして葬られていく。やるせない思いが、唐突に溢(あふ)れたのだった。

 

  2025年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 高校三年、私は満を持して大学受験に臨んだ。結果、片っ端から落ちた。最後にやっと合格通知をもらったのが、予備校の入寮試験だった。とりあえず喜んだ。

 寮の名は、大志寮。北大のはずれ、旧ポプラ並木の出口からほどないところに寮があった。二十五名ほどの小所帯だった。「青年よ、大志を抱け!」の「大志」寮である。

 身長が一八〇センチを超す痩身で、強い天然パーマの寮生がいた。風貌が、どことなく植物のワラビに似ていた。ワラビだとあまりにも直接的なので、「ワビラ」と名付けた。ワビラは、分厚い眼鏡をかけたガリ勉だった。

 あるときワビラが、目尻から血を流して帰ってきた。寮に帰る途中、電信柱に衝突したというのだ。割れた眼鏡を手にしていた。寮から予備校までは歩いて二十分ほどの距離で、ワビラはいつも英語の単語帳を読みながら歩いていた。熱中し過ぎたのだ。電柱にぶつかって眼鏡を壊したのは、二度目だという。

 このワビラと札幌市内を歩いていて、危うく遭難しかけたことがある。受験間近のある日曜日、我々は勉強のために図書館に出かけていた。前夜から雪が降っていた。昼を過ぎたあたりから吹雪が激しくなってきたため、早めに切り上げることにした。

 外へ出ると三〇センチほどの積雪があった。寮まで歩いて三十分ほどの距離だった。ブリザードを思わせるような猛烈な風が吹いていた。体感温度は、氷点下一〇度を軽く下回っていただろう。北国で育っているから、たいがいの吹雪には動じないのだが、このときばかりは違っていた。吹雪の激しさに、車も走行不能な状態だった。

 顔面に吹きつける地吹雪で、視界がまるで利かない。顔に当たる雪が痛かった。完全なホワイトアウトである。肩にかけていたショルダーバッグを首から襷(たすき)がけにし直し、我々は腕を組んで歩いた。一人で歩くのさえ難しく、会話もままならない。そのうちに肩を組み、最後には抱き合うような格好で歩いた。寒さが尋常ではなかった。行き倒れになるのではないか、と真剣に思った。八甲田山ならまだしも、札幌の住宅街である。雪に足をとられながら、一時間以上もかかって這々(ほうほう)の体(てい)で寮にたどり着いた。

 玄関に座りこんだ我々は、しばらく動けなかった。精根尽きたのだ。寒さで手足が痺(しび)れ、顔面がジンジンと疼(うず)いている。耳が千切れたのではないかと鏡を覗(のぞ)くと、二人とも鼻が赤茶色に変色していた。凍傷だった。翌日から腐ったリンゴのように鼻が茶色になり、瘡蓋(かさぶた)が取れるまでひどい顔だった。寮のみんなからは、「鼻」と呼ばれた。

 翌日、予備校で模擬試験があった。私は運悪く最前列の席だった。教壇に立った試験官が、私の鼻を見て嬉しそうな顔をしている。よく見ると、試験官の鼻の頭も変色して皮がむけていた。

 翌春、ワビラも私も、大志を抱き寮を出た。

 

  2025年3月 初出  近藤 健 (こんけんどう)


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 二〇二五年、正月の慌ただしさが落ち着き、六十五歳になった。そんな年になる自分を想定していなかった。だが、どこから眺めてもジイさんである。とりわけ写真に写る自分の姿は無残なものだ。

 そのうち、私は命が尽きて死ぬ。その順番がいつくるのかはわからない。身近なこととして、〝死〟がまとわりついてくる。幼なじみの同級生は一七〇名ほどいるが、すでに二十人近くが鬼籍に入っている。実際は、その二倍以上はいるかもしれない。ほとんどの者がふるさとを出ているので、風の便りでしか消息がわからない。私もそんな一人なのだが。

 二〇二三年、暮れも押し迫って同級生が亡くなった。インフルエンザから肺炎になって逝ってしまった。札幌で親しくしていたので、通夜・告別式では、弔辞を読んだ。

 三十代、四十代で友達の死を知らされたときの衝撃は大きかった。だが、最近では「ああ、あいつも逝ってしまったか」程度にしか思わなくなってきた。ふるさとを離れ五十年、幼なじみとはいえ、半世紀も会っていない者ばかりだ。また、身近な人の〝死〟に慣れてしまったせいもある。さらに、こちらの鈍感力が増大してきたということもあるだろう。年を取るということは、そういうことだ。何事に対しても、反応が鈍くなる。そうでなければ精神が持たず、こちらが参ってしまう。うまくできているものだ。

 死は誰にも等しく訪れる。不可避である。死んだらどうなるのだろう。誰も教えてはくれない。人間のご先祖、ホモ・サピエンスが誕生してから二十万年だという。その間、人類は連綿として生死を繰り返してきた。だが、そんな基本的で単純なことが、わからないのだ。

 AIが人知を凌駕(りょうが)する勢いをみせているが、この素朴な疑問には答えてくれない。生成AIは「宗教や哲学が異なる見解を持っている。科学的には議論が続いている分野だ。あなたはどんな考えをもっていますか?」と逆に問いかけてくる。肉体は朽ちても、魂が別の世界に行くのか。そしてまた、輪廻転生(りんねてんしょう)によりリセットされて、ふたたびこの世に舞い戻ってくるのか。それとも、まったくの〝無〟に帰してしまうのか。何もかもがわからない。そもそも、神や仏といったものは存在するのか。

 私の高校は、カトリック系のミッションスクールだった。宗教の時間に神父さんから聞いた話を覚えている。神父さんは、学校の敷地内にあるレンガ造りの古い修道院で集団生活をしていた。神なんて見たこともないのだから、信じろと言われてもムリだ。そんなふうに反発する十六、七歳の私たち生徒に対し、穏やかな口調で次のような話をした。

 

 水中で生活するヤゴは、仲間がある一定の年齢になると姿を消します。水生植物の茎を伝って上の世界へと行って、戻ってこなくなるのです。

 ある日、上の世界に興味を抱いた若いヤゴが、年長者の後を追って茎を上って行ったのです。しかし、上に出ようとすると頭がガーンと水面にぶつかり、どうしても弾き返されてしまうのです。

 やがてある年齢になったとき、スーッと水面に出ることができたのです。そこは昇ったばかりの太陽が輝く、眩(まばゆ)い世界でした。その柔らかで心地よい朝の光を浴びていると、体が硬直を始め、背中が割れて羽が出てきたのです。ヤゴはトンボになって空を自由に飛びまわることができるようになりました。信じ難いことです。このことをヤゴの仲間に知らせようと試みたのですが、水面にガーンと弾き返され、中に入って行くことはできませんでした。

 という話である。そして次のように続くのだ。

 地面にしゃがみ込んで、アリが忙しそうに巣穴を出入りしている様子を見たことがあるでしょう。木の枝で引っ搔(か)き回すと、彼らは慌てふためき逃げ惑うけれど、やがて大勢で修復にとりかかる。彼らは人間の存在には気づいていないのです。天災に遭った、くらいにしか思っていない。我々にも同じことが言えるのではないだろうか。

 君たちは、目に見えるものだけを信じる、神は見えないから信じられないと言います。はたして、そう言い切っていいのだろうか……

 そんな論法になっていく。当時は、説得力があるなと感心して聞いていた。

 

 例えば街中を歩いていて、ビルの工事現場に差しかかった時、上空から大きな鉄骨が落ちてきて私の頭を直撃したとする。私は即死だ。まったく予期せずして死ぬことになる。痛いも苦しいもない。そのとき、私が自分の死を認識するのは、死んだ後ということになる。

 これが病死だと、苦しみが増大し「ああ、間もなく私は死ぬ……」と理解できる。やがて意識が遠のく。だがその場合でも、自分が死んだかどうかの認識は、やはり死後となる。「あ、オレは死んだんだ」と。そう考えると、即死も病死も同じではないか。死んでからでなければ、自分が死んだかどうかはわからない。

 ただ、心肺が停止しても、数分は脳が生きている。そうなると、耳が聞こえる可能性もある。自分が死んで騒いでいる周りの音で、自分の死を理解できる場合もあり得る。ただ、鉄骨が頭を直撃した場合は、脳味噌がクラッシュして、そんなことも叶わない。

 よく聞くのは、「成仏していない」という言葉である。「この世に未練があり、天上界へ行けずにいつまでも霊魂が浄化されずに浮遊している」といった類のものだ。それは、霊媒師などの特殊能力者を介しての言葉となる。つまり、自分の死後に自分の死を認識して、死を納得して受け入れたか、この世に未練はないか、ということである。

 また、臨死体験というのがある。死にそうになって、三途の川まできたとき、川向うからすでに亡くなっている両親や祖父母などの身内が、「お前はまだ早い、こちらにくるな」とさかんに言っている。目覚めたら家族が見守る病院のベッドにいた、という話である。これは、人が死に瀕した場合、脳の前頭葉にある海馬部分が活発に活動して起こる体験だという説がある。死の間際にだけ覚醒する脳の仕業らしい。

 何やらややこしいことを考えてはみたが、結論は出ない。私が敬愛する作家の佐藤愛子さんは、若いころから死んだら〝無〟になると信じて疑わなかった。そういう世界は胡散(うさん)臭く、興味もなかったという。だが、北海道に建てた別荘で、数多くの心霊現象を体験して体調まで崩し、死後の世界を信じざるを得なくなった。同じ体験をしてきた娘の響子さんも同様のことを言う。私は著作からだけではなく、直接ご本人たちからそんなお話を聞いている。ご自宅はもとより、問題の別荘も訪ねている。

 そんなこともあり、死んだらハード(肉体)は朽ち果てるが、ソフト(魂)はしばらくその残像を引くのではないか、死後に自分が死んだことを認識できるのではないか、とぼんやりと考えている。それまで強く感じていた肉体の痛みなどといった苦痛が突如、スーッと消える。宇宙飛行士が大気圏を脱して宇宙空間に放り出されたときの、無重力状態の感覚である。幽体離脱とは、そのようなものではないのか。そのとき、

「あれッ? オレって……、もしかして死んだ?」

 そう思うのではないだろうか。ただ実際は、意識が遠のいており、臨死体験の中でそう思うのかもしれない。その後はどうなるのか……、やはり死んでみなければわからない。トンボと同じ体験をするのだろうか。

 

 生の対極に死があるのではない。生の延長線上に死がある。ある程度生きてきて、そんなことがぼんやりとわかってきた。ただ、まだ、しばらくは死にたくない。

 

 

 追記

 この作品を書いている最中(さなか)、かねてより療養中だった母が身罷(みまか)った。満八十九歳だった。この二月一日、四十九日法要を執り行った。死んだらどうなるか、死をもって去って逝く母を間近に見守ってきた。だが、その答えは、それでもなお闇の中である。

 

   2025年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 休日の午後、日がな図書館で過ごしていた時期があった。十数年前のことなのに、遠いむかしの出来事のように思う。

 二〇一一年、私は二十八年暮らした東京を離れ室蘭市に移り住んだ。その転勤の前年、会社から懇請され、宅建士(当時は「宅建主任」)の勉強をしていた。五十歳からの試験勉強である。勉強を始めてすでに一年以上が経過していたが、覚えた知識が片っ端から消えていくザルのような頭に、力づくで知識を摺(す)り込んでいた。年齢との勝負だった。

 日没が近づき、慌てて海へと急ぐ。図書館前の道を西に数百メートル行くと、電信浜があった。夕陽を見に行くのだ。

 サンダルを手に、波打ち際をはだしで歩く。

「波はよせ。波はかへし。波は古びた石垣をなめ……」、むかし国語の授業で教わった詩の一節が口を衝(つ)く。電信浜は高い断崖に囲まれた小さな入り江である。目の前には穏やかな噴火湾が広がり、水平線の向こうに駒ヶ岳が遠望できた。電信浜という名称は、明治期に対岸の函館方面へ向けて海底ケーブルを敷設したことによるものだという。近くのマスイチ浜やイタンキ浜のように、ここもアイヌ語の「セタワキ浜」や「ポンモイ」と呼んだ方が、風情があってよかったのに、と思う。電信浜では味気も素っ気もない。だが、当時としては特筆すべき大事業だったのだろう。

 海水浴客の喧騒(けんそう)が失せ、すでにもう誰もいない広い砂浜が、私だけのプライベートビーチになる。海面には、緑や茶色の海藻が夏の光の中で揺れている。エゾハルゼミの声が降り注ぐ中、ときおり甲高いカモメの鳴き声が響き渡る。

 オレンジからブルー、ダークブルー、やがてグレーへと刻々と色を変えていく渚(なぎさ)を、ただ歩く。打ち寄せる波の爽やかな感触が、足の裏から頭のテッペンへと突き抜けていく。裸足で歩く解放感と爽快感は、心も身体も解(ほぐ)してくれる。振り返ると、波に消されながらも自分の足跡が点々と続いている。もう、こんなに歩いたのかと思う。自分の来(こ)し方を視る思いがする。

 幼いころ、山と海に囲まれた小さな町様似(さまに)で育った私には、室蘭で目にするものすべてが新鮮で懐かしかった。忘れ果てていた光景なのである。潮の香が胸に満ち、海風が肌を優しく撫(な)でる。五感に伝わる感触が、心地よい浸透圧で身体に沁(し)みてくる。

 室蘭にくる前年、私は二十二年間生活を共にしてきた妻と別れている。精神を患った妻とは、十二年半の闘病生活を共にしてきたのだが、妻が家を出て行った。時を同じくして、北海道の実家で一人暮らしをしていた母が脳梗塞を発症し、札幌にいる妹のもとで生活を始めた。その妹が病を得、やむなく転勤希望を出したのだ。大学生だった一人娘は、東京に残した。東京を離れるのは痛恨事であったが、それしか方法がなかった。

 

 室蘭は初めての土地だった。異動の内示を受け、ネットで赴任先を検索して愕然(がくぜん)とした。

「えッ! オレって……、半島で生活することになるの? ウソだろう……」

 室蘭市中央町、そこは絵鞆(えとも)半島の中ほどに位置し、三方を海に囲まれていた。工業港である室蘭港と追直(おいなおし)漁港、そして電信浜である。絵鞆半島は噴火湾に小指を差し入れたような、そんな形状の半島だった。

 室蘭での生活を始めて、他人(ひと)との距離の近さに戸惑った。東京で暮らしていると、他人に対する警戒心というものが常にある。常態化したそんな感覚が〝普通〟だった。都会暮らしを始めた地方出身者が最初に直面する壁であり、それをクリアすることが、〝都会に染まる〟ということだ。

 会社の同僚たちもみなバラバラの地域に住んでおり、二十八年間の東京生活で、街中で社員やその家族を見かけたことは一度もなかった。

「近藤さん、明日の飲み会ですが、妻を迎えに行かせますから。まず、近藤さんを乗せて、次に私を出先で拾って、という順番でいきますので、アパートで待っていてください」

(えッ? 奥さんが……)ドギマギした。ここでは、会社と家族が一体なのである。そういえば、幼いころの父と同僚たちもそうだった。そんな輪の中に私もいた。

 小さな会社ゆえ、事務職は総務・人事・経理といった事務全般を行う。銀行はもちろん、ハローワークや市役所、税務署などといった公的機関とのかかわりが多い。どの窓口でも、温かな応対を受けた。東京では取りつく島もないつっけんどんな対応しかされたことがなかった。

「ここは、届け出ている丸印のほかに角印が必要です」

 というのはまだいい方で、記入漏れの部分を指差して、言葉もなく戻されることもあった。吹き出る汗をぬぐいながら階段を上って降りて、地下鉄を二本も乗り継いで、たかだか一か所の押印ミスのために振り出しに戻される。書類の不備は後々にトラブルが発生した際のもめごとの原因になる。窓口に押し寄せる大勢の人を捌(さば)いていくには、やむを得ない対応である。そんな環境に二十八年も浸かってきた。だから、こちらを気遣ってくれる室蘭の人々の心優しさに、面食らったのである。

 銭湯の奥さん、布団屋のオヤジ、地元の新聞記者や文芸協会の人々、貝殻研究家という方もいた。そんな多方面の人たちから、温かな思いをもらってきた。よそ者である私を包み込むように受け入れてくれた。

 私はこの二年間で、絵鞆半島をずいぶんと歩き回った。休日の散歩は、一〇キロを超す距離に及んだ。籠(こも)っていた図書館を出、運動がてらの散策である。この絵鞆半島は、半島自体がダイナミックに傾き、噴火湾に没している。造山運動の名残が見て取れる。

 その地名には、チャラツナイ、トッカリショ、ハルカラモイ、アフンルパロ……、先住民族の痕跡が沁(し)み込んでいる。漢字にも置き換え不能な地名が各所に点在していた。

 室蘭での生活は二年間で、その後、札幌に転居した。なんとか宅建士の資格も取得できた。ここでの生活を遠いむかしと感じるのは、生活環境が再びガラリと変わったせいである。

 室蘭を離れて十二年になる。だが、年に数回はドライブがてら絵鞆半島を訪ねている。温かな気持ちをもらった人々と、その人たちが暮らす土地への郷愁のような思いがある。

 私の中のぬくもりは、今もなお心地よい温かさを保ち続けている。

 

  2025年1月 初出    近藤 健(こんけんどう)

 

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