「体を酷使して働いてみたら、自分の本音が姿を見せるのではないかと思って田舎に来たのですが、今のところはただ疲れるだけでどうしようもありません」
南木佳士(なぎけいし)の小説『阿弥陀堂だより』の一節である。久しぶりにページを捲(めく)っていると、赤鉛筆で線が引かれている箇所があった。
東京から信州の山間(やまあい)のふるさとに戻って、田植えや稲刈りといった農作業の手伝いに従事している主人公の吐露である。当時、この部分に「あっ、なんかわかるな」と共感を憶えたのだ。
学生時代、私は法学部の勉強はそっちのけで、所属していたESS(英語研究部)でのディベートの勉強に明け暮れていた。原発問題、防衛問題、農業問題などを大学対抗の試合形式で、英語で討論をするのである。かなりハードな部活で、教室にいた時間よりも、はるかに長い時間を図書館で過ごしていた。そんな反動もあってか、夏休みで京都からふるさと北海道の田舎に帰省するたびに、一か月ほどの期間、どっぷりと肉体労働に従事していた。
一年目は漁師の家に泊まり込んで昆布干しを行った。幼いころから昆布漁でにぎわう浜を目にしており、この重労働に身を浸すことで一人前の男になれる、そういう思いを少年のころから持っていた。私のふるさと様似町(さまにちょう)は、日高昆布の名産地である。良質な昆布が採れる〝上浜(じょうはま)〟が連なっていた。その労働を一か月やり切ったことで、自分が一回り大きくなったような、一皮剥(む)けたような気がした。十九歳の夏のことだった。
二年目、三年目は、土木作業、いわゆる「土方」のアルバイトに没頭した。
土木作業は、社会インフラを支える基盤となる仕事だ。汗と埃(ほこり)にまみれ、それらが混然一体となる肉体労働は、ホワイトカラーの対極にあり、下にみられる職業である。だが私には、そこからどんな風景が見えるのか、その好奇心の方が勝っていた。貧弱な体つきであったが、限界まで肉体を酷使してみたい、そんな思いがあった。
最初の肉体労働は、日高山脈の山懐での砂防ダム(*)の建設だった。そこは現在、国立公園になっているいわゆる秘境で、ヒグマの生息域であった。そのため、現場へ向かうワゴン車には、常にライフル銃が携行されていた。作業員(当時は「人夫(にんぷ)」と言った)の数は、男女合わせて七、八人ほどだった。
林道のような未舗装の道路から現場へ向け、新たに資材運搬用の道が造られていた。その先の山の斜面の細流に、小さな砂防ダムを造るのである。仮設足場となる単管パイプを組み上げながら木枠を造り、そこにコンクリートを流し込む、そんな作業だった。
まずは、下流に置いてある単管パイプを担いで作業現場まで運ぶ。この鋼材である単管が重かった。改めて調べてみると、長さ五メートルのもので、重量が一三・七キロとある。それを担いで四、五十メートルほどの坂道を上るのだが、私には一本しか担げなかった。たいした重量ではないのだが、バランスを取りながら坂道を歩けないのだ。だが、みんなは二本ずつ担いで上る。頬被りをした女性たちも二本担ぐのだ。五十代初めくらいの女性が二人いた。これには驚いた。
「兄さん、ムリすんな。一本ずつでいいから」
情けないが、そんな言葉に甘えるしかなかった。何をやってもみんなに劣る。だから、真面目にひたむきにやることで、信頼を得るしかないと考え、必死に作業に加わった。一週間もやっていると、連帯感を憶え始めた。年齢は四十代から七十歳近い人まで、まちまちである。長年勤めている人もいれば、長続きせず同じような職場を渡り歩いている人もいた。
あるとき、削岩機で岩盤を砕く作業が行われた。三台の削岩機のうち、一台を任された。やり方を教わったのだが、ほかの二人のように耳を劈(つんざ)くような音を出して岩盤を砕くことができない。削岩機に体重を乗せろと言われるのだが、華奢(きゃしゃ)な体つきの私は、逆に岩盤に弾(はじ)き返されてしまうのだ。やむなく、補助に回って一人の横についていた。
そんなとき、削岩機で砕いている岩の近くに、大きな芋虫がいることに気がついた。このまま作業を続けると、砕いた岩と一緒に芋虫を潰(つぶ)すことになる。作業中なので、芋虫などには構っていられない。そんなことを考えながら見守っていると、強面(こわおもて)の作業員が手を止めた。芋虫を安全な場所へと移したのだ。蹴飛ばすでも放り投げるでもなく、そっとつかんで少し先の大きなフキの葉に乗せた。男は終始無言だった。外見とは裏腹な行動に繊細な心を視た思いがし、ハッとさせられた。
現場には様々な資材や道具、器具がある。それらが常に整然と並べられ、乱雑になっていたことがなかった。それは、翌年の別の会社での河川改修工事現場でも同じだった。土木作業という仕事の、思ってもみなかった一面を覗(のぞ)き見た思いがした。
昼になると、休憩用に建てられた粗末な小屋で、各々が持参した弁当を食べる。みんなの弁当にはシャケやすじこなど、ふるさとならではの海産物が豊富に入っていた。食後は、男も女もその場での雑魚寝(ざこね)である。昼寝をしなければ、午後からの仕事に支障をきたした。小屋の片隅には、ライフル銃が立てかけられていた。
この現場で困ったのは、トイレだった。山中ゆえ、トイレなどない。小屋から少し離れた茂みの中で用を足すのだ。不用意に茂みに分け入って、真っ白な尻に出くわしたことがあった。女性たちの尻がこちらを向いているのだ。ドキッとして、そっとその場を離れる。そんなことが二度、三度とあった。
「クマもビックリだども、マンケツにもドッキリだぁ」
尻に出くわしていたのは、私だけではなかった。満月のように丸くて白い尻と下ネタの掛け合わせに、
「なにさ、有料だよ!」
そう言って、女性たちもカラリと笑っている。かといって、遠く離れた茂みの奥深くまで入り込んでしまうと、今度はヒグマに出くわす恐怖があった。タフさがなければやっていられない現場だった。
仕事が終わって帰宅すると、私はホウレン草のおひたしのようにヨレヨレだった。労働の大変さを、身をもって味わっていた。
大学卒業後、会社員となった私は、東京で就職した。学生時代のアルバイトとは、真逆の生活である。スーツを着てワイシャツにネクタイを締め、すし詰めの電車と地下鉄を三本乗り継ぐ通勤が待っていた。一時間の通勤が、近いと羨ましがられた。残業にまみれ、寝るためだけに自宅に帰る生活を長年送っていた。
私の会社員生活は、東京での二十八年間と、その後の北海道での十四年を合わせ、四十二年に及んだ。
入社して間もなく、会社に二台のワープロが入った。何年かしてパソコンが導入され、やがては一人に一台のパソコンがあてがわれた。すべての仕事はパソコンで行う。一日中、パソコンと向き合う生活になった。それが定年まで続いた。
そんな中でも時折り思い出すのは、真夏の太陽の下で肉体を酷使した体験だった。私の中で特別なものとして、深く刻まれていた。汗と土埃にまれながらも、そこには底抜けに明るい笑いがあった。なにより、人間の芯から滲(にじ)み出てくる温もりに溢(あふ)れていた。
付記
* 砂防ダムとは、大雨などで流出する土砂や土石流を食い止め、下流の住宅などを土砂災害から守るための施設である。水を貯める一般的な貯水ダムとは異なり、水を貯めることはせず、土砂をせき止めて川の流れを緩やかにする役割を持つ。
2025年12月 初出 近藤 健 (こんけんどう)
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