こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2014年から過去の作品に加筆しながら、ここに発表しています。時間の堆積の中に埋もれてしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。あなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 私は、かなりの「あがり症」である。

 見知らぬ大勢の人を前にスピーチをする場面では、とたんに平常心を失くしてしまう。動悸(どうき)が強くなり、顔が上気してくる。手が震え、脚が震え、唇が震え、声が震える。話をしている途中で頭が真っ白になり、話の内容が尻切れトンボで終わってしまうのだ。若いころに比べると、鈍感になってきたせいか、いくぶんマシにはなってきている。だが、過剰ともいえる緊張は、相変わらずである。

 試しに「あがり症」を検索してみると、「あがり症(社交不安障害)とは……」と出てきた。「えッ? あがり症は精神疾患なの?」と思わず身構えた。

 社交不安障害は「性格ではなく、治療可能な精神疾患であり、放置すると鬱病などを併発することもあるため、早期の専門医への相談が重要です」とある。そんなことを言ったら、学習発表会(かつての学芸会)で緊張しまくっている多くの小学生は、みな病気なのか? と言いたくなる。

 以前に驚かされたのは、喫煙者についての記述だった。「嫌煙権」という言葉が勢いづいてきたころ、喫煙者が、「ニコチン依存症患者」と言われるようになっていた。そのころは私もたばこを吸っており、ギョッとした記憶がある。ニコチン依存症とは、「薬物依存症の一つで(略)自らの意思で禁煙をすることが不可能になり、永続的に喫煙を繰り返すという精神疾患を指す」とあった。かつての「愛煙家」は、今や「精神病者」なのかと、衝撃を受けたのだった。

 そんなあがり症の私だが、三十代のころ、結婚披露宴の司会が趣味だったことがある。長年、総務の仕事をしていたので、社員の披露宴の司会をやるように、と上司から言われたのだ。嫌も応もない。それが始まりだった。

 一般的な披露宴の司会のセリフを調べ上げ、台本を作って丸暗記した。全部覚えると余裕が生まれ、アドリブが効くようになる。言い間違えや多少のミスがあっても、

「私の声の震えがおわかりかと思います。実は、新郎・新婦以上に緊張しておりまして、演台の陰の脚がガタガタなのです」

 と言って、演台を小刻みに震わせて見せる。失敗を逆手にとって笑いに結びつけるのだ。強い緊張を、いい方向にコントロールできるようになっていた。そんな素人丸出しの司会が思いのほか好評で、続けざまに司会を引き受けていた。あるホテルでは、土・日限定でアルバイトをしないか、と密かに誘われたこともあった。これを仕事にしようか、と図に乗りそうになった。スピーチの基本的な骨格がしっかり頭に入っていると、何とかなることがわかり、自信に繋(つな)がった。

 六十五歳で会社を辞めた後、マンションの管理人の仕事をしている。午前中だけのアルバイトだ。

 二か月に一度、管理人を対象とした講習会がある。私は新人なので、初めて出席する講習会の冒頭で挨拶があると言われていた。

 講習会場に入ると、七十人近い爺さんが席についていた。その光景に圧倒された。明らかに私は若かった。ただ、私はハゲなので、必要以上に老けて見られる。だから、迷彩服姿で紛れ込むように、その集団に違和感なく溶け込んでいた。

 簡単な自己紹介をしたあと、このまま席に戻るのも芸がないという思いが、ふとよぎった。なぜ、そんな思いになったのか、自分でもよくわからない。そして、

「こうして皆さんが一堂に会している姿は、ある意味、壮観な光景です。事前に伺ってはいましたが、驚きました。なんだか、大きな病院の泌尿器科の待合室のようですね」

 私は、ドッと受けることを期待していた。だが、小さな笑いは起こったものの、思ったほどではなかった。肩透かしを食らったような格好になった。さて、この後どう締めくくろうと思ったとたん、強い緊張が襲ってきて、頭の中が白い霧で覆われた。やむなく、そそくさと切り上げたのである。相変わらずの自分に、ガッカリした。

 いくらいいネタがあっても、それを言うタイミングや話の速度、声のトーンがかみ合わなければ、すべてが台無しになる。わかってはいるが、強い緊張がそれを阻害する。このあがり症、治す薬があるのなら、飲みたいものである。

 そういえば、結婚披露宴の司会を盛んにやっていたころ、会場に来賓を迎え入れる直前、私は緊張の極にいた。そんな私を見かねたスタッフのチーフが、「飲みますか」とウイスキーの水割りを持ってきてくれたことがあった。以来、事前に水割りをもらい、演台の内側に隠し持つようになっていた。

 今にして思えば、それが私の上がり症の薬だったのだ。ただ、結婚披露宴以外では、なかなか飲むことのできない薬なのだが。

 

  2026年5月 初出  近藤 健 (こんけんどう)

 

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 ふだんの生活の中で握手を交わす機会は、そうあることではない。芸能人や政治家ともなると、その頻度は格段に増えるのだろう。

 私たちが握手をするのは、「はじめまして」(初対面の人と)だったり、「よろしくお願いします」(商談成立や和解)、さらには「ありがとうございました」(試合や勝負が終わった場面)や、「おめでとうございます」(送別、卒業、退職)などだろうか。

 最近の私の握手は、古い友人との再会だった。予備校時代に同じ寮で過ごした仲間と、四十七年ぶりに会う機会があった。

「いやー、久しぶりー」

「うゎー、懐かしいな、おい!」

 互いに駆け寄り、握手を交わしたのだった。

 このような状況の場合、多くの人は無意識に、どちらからともなく手を差し出し、硬い握手を交わしながら肩を抱く。そのとき差し出すのは、当然、右手である。

 だが私の場合、この握手という行為を無意識で行えないのだ。手を差し出すその瞬間に、意識のスイッチが入る。左利きの私が無意識に出してしまう手は、左手なのである。

 左利きの者が右手で握手を交わしても、どうもしっくりこない。握手が、強い感情を伴って伝わってこないのだ。相手にとっては利き手なのでいいのだが、左利きにはその力強さだけが伝わってくる。試しに利き手ではない方の手で握手をしてみると、私の抱く違和感が理解できると思う。

 実は、四十七年ぶりに再会した友達は、もう一人いた。居酒屋で一杯飲みながら三人で久闊(きゅうかつ)を叙したわけだが、そのうちの一人が左手に箸を持っていることに気がついた。

「えっ! 松井クンって、左利きだった?」

 と話の腰を折って投げかけると、そうだという。私は小さく仰(の)け反った。

 私が差し出した右手に、彼の手が出てくるタイミングが僅(わず)かに遅れたのである。それで合点がいった。

 左利きが右社会で暮らす不便さを挙げると切りがない。トイレのウォシュレットボタンの位置、パソコンのマウスやポインタの矢印の向き、缶切りや草刈り鎌は最悪で、急須に至っては、それこそ万事急須(休す)だ。

 だが、握手の違和感は、不便という感覚とはまた違ったものなのである。敬礼も似たようなものだろう。大勢が一糸乱れず整列する中、一人だけ左手で敬礼をしたら、おかしいだろう。左利きが自衛官や警察官になったら、真っ先に直面する壁に違いない。

 刀だって左腰に帯刀するのが正しい姿である。日本社会では〝右へ倣え〟で、右に矯正されるのが、当たり前のことだった。

 私が小学生のころ、父がほろ酔い機嫌で帰宅したことがあった。その父の右手の甲に、三日月のような赤い線がいくつか入っていた。握手に力が入って、相手の爪が食い込んだ跡だという。子供心に、そんな強い握手ってあるものなのかと不思議に思った。いつになく饒舌(じょうぜつ)になっていた父が、その握手をやってみせた。漁業組合に勤務していた父が、誰とどんな場面で血が滲(にじ)むほどの握手をしたのだろう。とうとう訊(き)かず仕舞いに終わってしまった。

 もう一つ、忘れがたいのは、父の病室で交わした握手だった。父が私のスーツ姿を見るのは、初めてだった。

 就職のため上京する日の朝、病院に立ち寄ったのである。父は肝硬変を患っており、前年の冬から入院していた。年を越せないと言われながら、命を繋(つな)いでいたのだ。私は大学の卒業式を返上し、母と交代で父を看ていた。すでに就職していた妹は、札幌だった。

 私のスーツ姿を見た父は、

「お前を東京に出すのは、失敗だった……」

 と漏らした。

「ゴールデンウイークには、帰ってくるから」

 そう言って握手を交わし、病室を後にした。今生の別れを覚悟した面会だった。

 一両編成の汽車に乗り込んだ私は、履きなれない革靴を脱ぎ、四人がけのボックス席に足を投げ出した。ハンカチを顔に乗せ、眠る素ぶりを見せて黙って泣いた。私が病室を出たあと、父もまた布団をかぶって泣いていたと、後日、母から聞いた。

 ゴールデンウイークの私の帰省を制したのは、母だった。今帰って来ても、どうしようもないと言う。父はすでに傾眠状態だった。

「父さん、今朝から意識が戻ってるんだけど、会うなら今しか……」

 そんな電話を受けたのは、六月のことだった。私は九時間の道程をとって返した。父とは二言、三言会話を交わすことができた。再び眠りに落ちた父は、次に目覚めることはなかった。父が身罷(みまか)ったのは、それから一週間後のことである。五十一歳だった。

 上京の朝に父と交わした握手は、右手だった。だが、私の左手は、父の右手の甲に添えられていた。そんな特別な握手だった。

 

  2026年4月 初出  近藤 健 (こんけんどう)

 

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 近年、雨の時季になると「線状降水帯」という言葉をよく耳にする。線状降水帯とは、発達した積乱雲が次々と発生し、長時間にわたって同じ場所に停滞して大雨を降らせる現象だ。その雲の下では、毎年、土砂崩れや堤防の決壊など、甚大な災害が発生している。

 この線状降水帯の雪バージョンが、JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)である。机の前の壁に貼った付箋を眺めながら「日本海寒帯……」と毎日アホのように唱えている。覚えられる気がしないのだ。「線状降雪帯」ではダメなのか、と思う。

 今年(二〇二六年)の一月、札幌に大雪が降った。JPCZの仕業である。二十四時間降雪量が五四センチで、積雪深が一メートルを超えた。一月での一メートル超えは、二十一年ぶりだという。

 札幌での生活を始め、十三年になる。その間、大雪で駐車場から車が出せず、歩いて出勤したことが三度あった。二月から三月にかけてのことである。

 この日、妻のえみ子が昼近くに出かけるというので、私はマンションの駐車場前の雪かきをするために玄関を出た。すると、前日から降り出していた雪が、すでに長靴を超えるほどに積もっていた。数メートル進んだところで、あえなくギブアップ。パウダースノーだったが、自力での雪かきを断念した。

「雪、多すぎて、雪かきムリ。車、出せないよ。今日は諦めた方がいい」

 と言うと、車道まで出てしまえば何とかなる、と言い張る。彼女は車の運転には自信があるのだ。仕方なく遠巻きに眺めていたら、車道に出る手前で車がスタックした。スタックとは、タイヤが雪の中で空転し、自力では動けなくなることである。そんな様子に、数年前の自分の姿が重なった。

 そのときは、まだえみ子と一緒になる前だった。前夜からのドカ雪で、四〇センチを超す積雪があった。出勤のため駐車場を出ようとし、車道に出る手前でスタックしてしまったのだ。勢いよく車道まで出てしまえば、あとは大丈夫と思ったのである。

 タイヤ周りの雪を掘り出したり、車に積んでいたタオルケットをタイヤに嚙(か)ませたりしながら、一時間以上も格闘していた。汗だくになり、疲労困憊(こんぱい)で呆然(ぼうぜん)としていたとき、

「押しましょうか」

 との女性の声がした。見ると、通学途中の女子高生だった。切羽詰まっていた私は、その言葉に甘えた。車を押してもらい、なんとか車道に出ることができた。そのとき、後続車がすぐ後ろにいたため、きちんとお礼も言えないまま、発進してしまったのである。そんな苦い想い出が甦(よみがえ)った。

 そのときのスタックに懲りて、スコップとスノーヘルパーというタイヤに噛ませる脱出用ボードを購入していた。だが、二人で力を尽くしても、タイヤは空転するばかり。道具が役に立たないのだ。

 半ば途方に暮れていたとき、年配の男性が車を押す私の横に加わった。私たちの姿をどこからか眺めていたのだろう。

 タイヤ周りの掘り方やスノーヘルパーの差し込み方、アクセルの踏み方まで事細かく助言してくれた。それでもタイヤは唸(うな)り声をあげて空転するばかり。そのうちに、通りがかりの若者が加わった。三人で車を押し、何とか脱出できたのである。お礼を言う間もなく、二人は散るようにいなくなってしまった。

 周囲を見回すと、やや離れたところ二か所でも、車がスタックしていた。降りしきる雪の中、車を押す黒い人影が見えた。

 この街では、通りがかった人が困っている人を助けるのは、普通のことなのである。なんの気負いもなく、自然体で見知らぬ人の車を押すのだ。そして車が溝から脱出できると、何事もなかったかのように、去っていく。

 ふだん私たちは、他人に干渉することのない都会生活を送っている。一見、希薄な人間関係なのだが、困っている人には条件反射で助けてくれるのだ。どうして、そんなに優しいの? 泣きたくなるほどのありがたさを、今回、身をもって味わった。

 札幌市民の〝民度の高さ〟に驚かされたことが、もう一つある。

 二〇一八年の北海道胆振(いぶり)東部地震で、ブラックアウトが起こった。北海道全域が、大規模停電に陥ったのだ。札幌市は人口が二百万人弱で、街の中心部は碁盤の目になっている。交差点だらけなのだ。信号機が消えている中で、交差点では五、六台の車が通ると、次はこちら側と、誰が決めたわけでもないのに、整然と走行がなされていた。その譲り合いの見事さに、目を瞠(みは)ったのである。

 

 スタック騒動が一段落し、自宅に戻りネットを眺めていたら、札幌の大雪の話題で溢(あふ)れていた。「札幌、終わった~」「飛行機もJRもバスも止まってる。タクシーも来ない。どうしよう……」「都市機能停止!」などである。この日は、新千歳空港で七千人が一夜を明かし、翌日も二千人が足止めを食らっている。

 そんな書き込みの中に、「スタック祭り」という言葉がいくつもあった。「あっちでもこっちでもスタック祭り~」「スタック祭りで大渋滞!」とある。うまいことを言うものだなと感心した。

 この日、札幌に出されていた大雪警報は、夕方まで続いた。テレビは、不要不急の外出をしないように、と盛んに呼びかけていた。

「あのまま車、出せたとしても、きっと帰ってこれなかったね」

 この日の仕事をすべてキャンセルしたえみ子は、憑(つ)きものが落ちたかのように、妙に素直になっていた。

 わが家のスタック祭り、〝あとの祭り〟という憂(う)き目を見ることなく、無事に終わったのであった。

 

  2026年3月初出  近藤 健 (こんけんどう)

 

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 二〇二五年の秋から、自分の車に〝四つ葉マーク〟を付けている。高齢運転者用のステッカーだ。今のデザインになる前は、〝初心者マーク(若葉マーク)〟の対極として、〝枯れ葉マーク〟と揶揄(やゆ)されていた。

 このステッカー、身体の衰えから運転への支障が危惧される七十歳以上の高齢者が付けるものである。「努力義務」であり、義務や罰則はない。

 六十五歳でステッカーを貼ることには、私自身、まったく抵抗はなかった。私は車の運転が下手クソで、クラクションを鳴らされることが多々ある。免許を取ったのが北海道の片田舎で、信号機がほとんどなく、ましてや二車線の道路など皆無の場所だった。路上運転の第一段階のコースは、地平線の広がる牧場の中だった。

 運転免許を取得したのは、大学の春休みで帰省中のことだった。自動車学校初日に運転適性試験が行われ、担当教官から、

「お前は、まれにみる運転不適格者だ。やがては免許を手にするだろう。けれど、車には乗らない方がいい」

 柔らかな口調で、グサリと釘を刺された。以来、「運転不適格者」のレッテルが、私の背中に貼り付いている。私の場合、加齢云々(うんぬん)以前の問題なのである。

 幸い就職したのが東京で、二十八年間、車に乗らずに済んだ。本格的に運転を始めたのは、二〇一一年の異動で北海道に戻ってからである。五十一歳のことだった。

 車の運転がダメなら、乗らなければいいだけの話だが、地方で暮らすには車はどうしても必要になる。仕事にも支障をきたす。

 初任地の室蘭市では、会社の車を運転していた。あるとき助手席の同僚から、

「近藤さん、もう少しスピードを出さないと、逆に危険ですよ。バスにも抜かれています」

 と言われ、恥ずかしい思いをした。

 札幌市に来て、初めてマイカーを持ち、車通勤となった。三キロ弱の通勤距離である。

「近藤さんが、左折ばかりして会社に来ている」

 そんな囁(ささや)きが聞こえてきた。

 私は、車線変更がダメなのだ。右折が予想される場合、数キロ手前から右車線を走る。

「なんで右側を走っているの?」

 つき合い始めてほどない助手席のえみ子から、何度か言われた。交差点ではないところで右折車に出くわすと、左車線に膨らまなければならない。左車線に後続車がいる場合、それが容易にできないのだ。仕方なく、その車の後ろにくっつくことになる。

 厄介なのは車両運搬車である。左車線を走っていて、自動車販売店の前などに乗用車を積んで運ぶ車両運搬車が停まっていることがある。一車線を完全に占拠しているのだ。車線変更がままならず、このままだと、運搬車に乗り込んでしまう、そんな悪夢のような経験を何度したことか。クラクションを鳴らされるのは、そういった車線変更の時である。

「近藤さん、ずいぶん運転には慣れたようですね。冬道も平気じゃないですか」

 と同僚に言われ、

「毎朝、時速三〇キロの猛スピードで走っているからな」

 と、胸を張って答えてやった。さすがにアイスバーンの道では、スピードが出せなかった。

 そんな私とは正反対なのが、妻のえみ子である。彼女には、天性ともいえる運転の素質がある。えみ子は私の二歳年下だが、今すぐにでもタクシードライバーとして通用する技量があるのだ。スキーの滑降選手よろしく、スイスイと車線変更を繰り返す。片手運転でやってのけるのだ。買い物先の狭い駐車場にも、一発で車を入れてしまう。だから、難しい駐車場に出くわした場合は、えみ子に運転を替わってもらう。私は、車線変更と並んで車庫入れに難があるのだ。

 ただ、私の感覚からすると、えみ子の運転は荒々しい。彼女は、不必要にスピードを出す。前の車との車間距離を取らないのだ。

「もっと離れて! (前の車に)急ブレーキ、かけられたらどうするの」

「大丈夫だって。ほんと、心配性なんだから」

 と意にも返さない。

 私に言わせると、煽(あお)り運転なのだ。助手席にいて、脚だけではなく全身に力が入る。相撲の大一番を観戦するときのように、手に汗握り前のめりになるのだ。ツルツルの冬道でも、平気でスピードを出す。助手席にいて、何度も神に祈りそうになる。

 

 近年、高齢ドライバーによる店舗などへの突っ込み事故や高速道路の逆走ニュースを頻繁に目にする。大型商業施設の前には、車両の突っ込み防止の鉄製のポールが、当たり前のように設置されている。高齢者の運転は、大きな社会問題なのだ。

 昨年、私は六十五歳で会社を退職した。自由の身になって、にわかに閃(ひらめ)いた。爺(じい)さんマーク(四つ葉マーク)を付けたら、安心して運転ができるのではないか、と。

 ステッカーの効果は、思いのほか大きかった。クラクションを鳴らされることが、目に見えて減った。このステッカーには、特殊な効果がある。周囲のドライバーは、私の車に「配慮する義務」があるのだ。高齢ドライバーのニュース報道も効いている。私はハゲ頭なので、見た目は七十歳超えの堂々たる老人なのだ。

 運転しながらルームミラーをチラリと見ると、後ろの車が明らかに警戒している。私の不必要なブレーキランプの点滅に、不信感を抱いているのだ。怖くて近づいてこない。おかげで車の運転が格段に気楽になった。なんでもっと早く爺さんマークを貼らなかったのかと、悔やむほどである。

 だが、問題の本質はそこではない。私は車を運転してはいけない人間なのだ。他人を殺める道具を操(あやつ)っているようなものである。爺さんマークに気をよくしている場合ではないのだ。

 札幌市民に、これ以上の迷惑はかけられない。絶対にぶつからない自動車が発明されるまで、車の運転を控えようと真剣に考えている。

 

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 私が本格的に読書にのめり込んだのは、遅い方である。十代後半から四十代にかけて、盛んに小説を読んでいた。東京で就職してからは、読書の大半が往復二時間の通勤電車の中だった。

 安月給の会社員には、新刊本を買う余裕がなかった。土曜日の半ドン(午前中のみの勤務)を利用して、会社帰りに神田神保町の古本屋へ立ち寄っていた。一九八〇年代当時の神保町は、一四〇軒ほどの古書店がズラリと軒を連ねていた。まだ、ブックオフのない時代である。

 新刊本のインクの匂いが好きだという人がいる。私の場合は、古本を開いたときの黴(かび)臭い匂いが、たまらなく胸に沁(し)みるのだ。環境省選定の「かおり風景百選」に、神田古書店街があるのを見つけたとき、密かに安堵した記憶がある。古本の匂いを好むのが、私だけではなかったと知ったからである。

 古本を読んでいて、その中にアンダーラインが引かれている箇所を見つけると、妙に嬉しくなる。私自身も赤鉛筆を片手に本を読む習慣がある。自分の思いと重なる箇所に線が引かれていると、嬉しさが増す。

「もういつ本当の春が来てもおかしくはない冬のいちばん最後の、晴れた朝だった」(磯﨑憲一郎「終の住処」)

 書けそうで書けない、こんな表現が好きなのだ。

 また、なぜここに線を引いたのだろうと、しばし立ち止まることもある。印をつけたのは前の所有者かもしれないし、前の前の人の可能性もある。男だろうか、女か。年齢は……、そんなことに思いを巡らす。

 私が三十代、四十代のころは、仕事と子育てで、忙殺される日々を送っていた。だが、通勤電車の中だけは、読書に専念できた。とりわけ朝のラッシュは、人の圧力で両脚が浮き上がるほどの混雑だった。そんな中でも小さな隙間を見つけて文庫本を読み、密かに涙ぐんでいた。

 休日の山手線に乗っていた時のこと。剣道の防具を持った青年が乗り込んできたことがあった。私の向かいの座席に座った青年は、電車が動き出すと、反対側のホームにいた仲間に小さく手を振って笑顔を見せた。初夏の日差しがまぶしい午後だった。

 青年はジーンズに白のTシャツ姿で、電車に駆け込んできたのだ。呼吸が整わず、まだ胸で大きく息をしている。Tシャツの両方の袖で、交互に額の汗を拭う。いかにも若者若者した青年である。その青年が、ジーンズの後ろポケットからサッと本を取り出した。それが携帯電話ではなく、文庫本であったことに驚いた。しかも、表紙のない古ぼけた岩波文庫だった。私が感心したのは、その本が新潮でも角川でも講談社でもなく、岩波文庫だったことである。

 青年はそれまでとはまるで違った表情で、活字を追い始めた。それは映画のワンシーンを観ているような光景だった。印象的な場面として、今も私の中に鮮やかに残っている。

 夢中になって本を読んでいた私だったが、五十代になってピタリと読書をしなくなった。異動で室蘭市(北海道)に転居し、徒歩通勤になったためである。会社が近くなった分、帰宅後に落ち着いて読書ができるはずだった。

 室蘭にいたのは二年間だった。だがこの時期、私は宅建士の資格取得の勉強と、その後、自身の家系史本の執筆に没頭していた。その間にも、絶え間なくエッセイの通信添削指導を行っていた。

 以前なら、何があっても通勤時間帯だけは読書ができた。だから室蘭でも、読書の時間を特別に割くべきだった。いや、実際には時間を作ったのだ。ところが、いざ本を読みだすと睡魔が忍び寄ってくる。無性に眠くなるのだ。それは札幌で生活するようになった現在も同じである。

 また、通勤途中で書店に立ち寄ることも、大切なことだった。本棚の前に平積みにされている本や、本棚に並ぶ背表紙を目で追っていくうちに、誰がどんなものを書いているのか、自然と覚えてしまうのだ。そして気に入った作家の本や気になっていたタイトルの本を手にすることになる。だが、電車通勤がなくなって、それもできなくなった。

 本を読むということは、書くための不可欠な手段である。書くためには、シャワーを浴びるように読まなければならない。読書は、創作の原動力、燃料補給の役割を担っていた。その補給路が断たれたのだ。

 これは由々しき事態と、無理に読むようにはしている。だが、以前のようにはいかない。あれほど夢中になって読んでいたのに……。

 加齢という言葉が頭をかすめる。七十代、八十代でも読書を楽しんでいる人はいる。私も見習わねばと思うのだが、もう一方で年齢を感じている自分がいる。

 

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「体を酷使して働いてみたら、自分の本音が姿を見せるのではないかと思って田舎に来たのですが、今のところはただ疲れるだけでどうしようもありません」

 南木佳士(なぎけいし)の小説『阿弥陀堂だより』の一節である。久しぶりにページを捲(めく)っていると、赤鉛筆で線が引かれている箇所があった。

 東京から信州の山間(やまあい)のふるさとに戻って、田植えや稲刈りといった農作業の手伝いに従事している主人公の吐露である。当時、この部分に「あっ、なんかわかるな」と共感を憶えたのだ。

 学生時代、私は法学部の勉強はそっちのけで、所属していたESS(英語研究部)でのディベートの勉強に明け暮れていた。原発問題、防衛問題、農業問題などを大学対抗の試合形式で、英語で討論をするのである。かなりハードな部活で、教室にいた時間よりも、はるかに長い時間を図書館で過ごしていた。そんな反動もあってか、夏休みで京都からふるさと北海道の田舎に帰省するたびに、一か月ほどの期間、どっぷりと肉体労働に従事していた。

 一年目は漁師の家に泊まり込んで昆布干しを行った。幼いころから昆布漁でにぎわう浜を目にしており、この重労働に身を浸すことで一人前の男になれる、そういう思いを少年のころから持っていた。私のふるさと様似町(さまにちょう)は、日高昆布の名産地である。良質な昆布が採れる〝上浜(じょうはま)〟が連なっていた。その労働を一か月やり切ったことで、自分が一回り大きくなったような、一皮剥(む)けたような気がした。十九歳の夏のことだった。

 二年目、三年目は、土木作業、いわゆる「土方」のアルバイトに没頭した。

 土木作業は、社会インフラを支える基盤となる仕事だ。汗と埃(ほこり)にまみれ、それらが混然一体となる肉体労働は、ホワイトカラーの対極にあり、下にみられる職業である。だが私には、そこからどんな風景が見えるのか、その好奇心の方が勝っていた。貧弱な体つきであったが、限界まで肉体を酷使してみたい、そんな思いがあった。

 最初の肉体労働は、日高山脈の山懐での砂防ダム(*)の建設だった。そこは現在、国立公園になっているいわゆる秘境で、ヒグマの生息域であった。そのため、現場へ向かうワゴン車には、常にライフル銃が携行されていた。作業員(当時は「人夫(にんぷ)」と言った)の数は、男女合わせて七、八人ほどだった。

 林道のような未舗装の道路から現場へ向け、新たに資材運搬用の道が造られていた。その先の山の斜面の細流に、小さな砂防ダムを造るのである。仮設足場となる単管パイプを組み上げながら木枠を造り、そこにコンクリートを流し込む、そんな作業だった。

 まずは、下流に置いてある単管パイプを担いで作業現場まで運ぶ。この鋼材である単管が重かった。改めて調べてみると、長さ五メートルのもので、重量が一三・七キロとある。それを担いで四、五十メートルほどの坂道を上るのだが、私には一本しか担げなかった。たいした重量ではないのだが、バランスを取りながら坂道を歩けないのだ。だが、みんなは二本ずつ担いで上る。頬被りをした女性たちも二本担ぐのだ。五十代初めくらいの女性が二人いた。これには驚いた。

「兄さん、ムリすんな。一本ずつでいいから」

 情けないが、そんな言葉に甘えるしかなかった。何をやってもみんなに劣る。だから、真面目にひたむきにやることで、信頼を得るしかないと考え、必死に作業に加わった。一週間もやっていると、連帯感を憶え始めた。年齢は四十代から七十歳近い人まで、まちまちである。長年勤めている人もいれば、長続きせず同じような職場を渡り歩いている人もいた。

 あるとき、削岩機で岩盤を砕く作業が行われた。三台の削岩機のうち、一台を任された。やり方を教わったのだが、ほかの二人のように耳を劈(つんざ)くような音を出して岩盤を砕くことができない。削岩機に体重を乗せろと言われるのだが、華奢(きゃしゃ)な体つきの私は、逆に岩盤に弾(はじ)き返されてしまうのだ。やむなく、補助に回って一人の横についていた。

 そんなとき、削岩機で砕いている岩の近くに、大きな芋虫がいることに気がついた。このまま作業を続けると、砕いた岩と一緒に芋虫を潰(つぶ)すことになる。作業中なので、芋虫などには構っていられない。そんなことを考えながら見守っていると、強面(こわおもて)の作業員が手を止めた。芋虫を安全な場所へと移したのだ。蹴飛ばすでも放り投げるでもなく、そっとつかんで少し先の大きなフキの葉に乗せた。男は終始無言だった。外見とは裏腹な行動に繊細な心を視た思いがし、ハッとさせられた。

 現場には様々な資材や道具、器具がある。それらが常に整然と並べられ、乱雑になっていたことがなかった。それは、翌年の別の会社での河川改修工事現場でも同じだった。土木作業という仕事の、思ってもみなかった一面を覗(のぞ)き見た思いがした。

 昼になると、休憩用に建てられた粗末な小屋で、各々が持参した弁当を食べる。みんなの弁当にはシャケやすじこなど、ふるさとならではの海産物が豊富に入っていた。食後は、男も女もその場での雑魚寝(ざこね)である。昼寝をしなければ、午後からの仕事に支障をきたした。小屋の片隅には、ライフル銃が立てかけられていた。

 この現場で困ったのは、トイレだった。山中ゆえ、トイレなどない。小屋から少し離れた茂みの中で用を足すのだ。不用意に茂みに分け入って、真っ白な尻に出くわしたことがあった。女性たちの尻がこちらを向いているのだ。ドキッとして、そっとその場を離れる。そんなことが二度、三度とあった。

「クマもビックリだども、マンケツにもドッキリだぁ」

 尻に出くわしていたのは、私だけではなかった。満月のように丸くて白い尻と下ネタの掛け合わせに、

「なにさ、有料だよ!」

 そう言って、女性たちもカラリと笑っている。かといって、遠く離れた茂みの奥深くまで入り込んでしまうと、今度はヒグマに出くわす恐怖があった。タフさがなければやっていられない現場だった。

 仕事が終わって帰宅すると、私はホウレン草のおひたしのようにヨレヨレだった。労働の大変さを、身をもって味わっていた。

 大学卒業後、会社員となった私は、東京で就職した。学生時代のアルバイトとは、真逆の生活である。スーツを着てワイシャツにネクタイを締め、すし詰めの電車と地下鉄を三本乗り継ぐ通勤が待っていた。一時間の通勤が、近いと羨ましがられた。残業にまみれ、寝るためだけに自宅に帰る生活を長年送っていた。

 私の会社員生活は、東京での二十八年間と、その後の北海道での十四年を合わせ、四十二年に及んだ。

 入社して間もなく、会社に二台のワープロが入った。何年かしてパソコンが導入され、やがては一人に一台のパソコンがあてがわれた。すべての仕事はパソコンで行う。一日中、パソコンと向き合う生活になった。それが定年まで続いた。

 そんな中でも時折り思い出すのは、真夏の太陽の下で肉体を酷使した体験だった。私の中で特別なものとして、深く刻まれていた。汗と土埃にまれながらも、そこには底抜けに明るい笑いがあった。なにより、人間の芯から滲(にじ)み出てくる温もりに溢(あふ)れていた。

 

付記

砂防ダムとは、大雨などで流出する土砂や土石流を食い止め、下流の住宅などを土砂災害から守るための施設である。水を貯める一般的な貯水ダムとは異なり、水を貯めることはせず、土砂をせき止めて川の流れを緩やかにする役割を持つ。

 

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 私が初めて佐藤愛子先生にお会いしたのは、二〇〇五年六月のことである。以来、二〇一一年三月に社内の異動で、私が東京から北海道に転居するまで、半年に一度、世田谷のご自宅を訪ね、エッセイの作品評をもらっていた。私が北海道に来てからは、毎夏、先生の来道にあわせて、浦河町の別荘を訪ねるようになっていた。

 二〇一四年の夏、別荘を訪ねたおり、思い切って色紙に一筆したためてもらったことがある。揮毫(きごう)をお願いしたのは、初めてのことだった。それまで先生にお会いしてきた九年間、畏(おそ)れ多くて言い出せなかったのだ。

 色紙に向かわれる先生の姿は、何度も目にしてきた。同人仲間とご自宅を訪ねたおり、色紙を持参してくる人がいた。それに便乗して私も何か書いてもらいたかったのだが、私にはどうしてもそれができなかった。私にとって佐藤先生は、ファンなどという軽々しいものではなかった。極めて特別な、半ば神格化された存在だった。私がそうなってしまった原因は、先生の膨大な著作を読んでしまった副作用にほかならない。

 先生が色紙に書かれる言葉は、決まって「戦いすんで日が暮れて」である。先生の直木賞受賞作品のタイトルでもある。その揮毫は「戦」の文字が一段と大きく雄渾(ゆうこん)に認(したた)められ、惚(ほ)れ惚れするような書であった。当然、私もその言葉をいただけるものと思っていた。ところが先生は、筆をとるや、何の躊躇(ためら)いもなく別の言葉を書かれたのだ。「人生は美しいことだけ憶えていればいい」だった。

 あとで調べてみると、沢田美喜の言葉であることがわかった。沢田美喜は、三菱財閥創設者である岩崎弥太郎の孫で、戦後、エリザベス・サンダース・ホームを創設し、戦災混血孤児を育てた人物である。ある日、先生がテレビを観ていて、この「人生は美しい……」という言葉に出会っている。そのことをインタビューで答えている記述がネットにあった。

 

 私の場合、言葉によって支えられたということはないですね。言葉が先にあって、その言葉で力づけられ自分の人生が決まったというのではなく、自分の人生が先にあって、人生観なり自分の気質なりにぴったり合う言葉を見つけた時に、嬉しくなってそれが力杖(ちからづえ)になる、ということだと思うんですね。そういう意味で気に入った言葉の一つに、「人生は美しいことだけ覚(先生ご自身は「覚」ではなく「憶」を使用)えていればいい」という沢田美喜さんの言葉があります。

 ホームで育った黒人の混血孤児なんですが、成長して二十七、八歳の青年になって、アメリカへ自分のお父さんに会いにいく。ところがお父さんは喧嘩(けんか)か何かして監獄に入っているんですね。胸が潰(つぶ)れるような思いでその青年は、沢田さんが来るのをニューヨークの公園のベンチに座って待っている。沢田さんの姿が見えると青年は駆け寄って、抱きついて、思わず泣くんです。その時に沢田さんが英語でね、「泣いてはいけない、人生は美しいことだけ覚えていればいい」と言って、青年を励ますという場面があるんです。

 長いこと生きてくると、いろいろな経験をしてきますけど、楽しいことよりも、美しいことのほうが心に残るということが分かります。美しい自然、人の美しい心。そういう美しいことだけ覚えていれば、人生捨てたものじゃない、というふうに思えるわけでしてね。さすがに沢田さんはいいことを言われるなあと、感銘を受けましたね。(致知出版社メールマガジンより引用)

 

 先生は私の長年の苦悩を推しはかって「人生は美しい……」をくださったのである。

 私の元妻は、一九九七年十二月に精神疾患を発症した。そのとき一人娘は、まだ小学二年生だった。闘病生活は十二年半に及び、妻は十二回の入退院と自傷行為を繰り返した。嫉妬妄想から包丁を持ち出すこともしばしばで、そんな兆候を察した娘が包丁を隠すようになっていた。妻の病名は、境界性パーソナリティー障害で、重篤(じゅうとく)なうつ症状を伴っていた。

 先生が私の実情を知ったのは、私が同人誌に発表した作品からであった。作品評をもらいにご自宅を伺った際、

「これはね、エッセイの限界でしょう。小説にすべき作品ですよ」

 妻の病気関連の作品を目にするたび、そのように言われた。講評が終わって雑談に入ると、私の生活の状況をいつも訊(き)かれた。

 二〇一一年三月、私が転勤で室蘭市に転居してほどないころ、突然、先生からお手紙をいただいた。そこには「あなたは小説を書く気がおありですか」と改めて尋ねるものだった。もし私が応じるのなら、先生はそれなりの指導を考えていらっしゃったのだろう。だから、わざわざお手紙をくださったのである。その心が私の胸に沁(し)み、もったいなくて涙が零(こぼ)れた。

 だが、残念ながら、私には小説を書く技量がなかった。会社員生活を投げ出す覚悟がなければ書けないと思っていた(投げ出しても書けなかったのだが)。だから、やんわりと、お断りをしてしまったのだ。情けない男である。周りの同人仲間からも「あなたの作品は、もう小説じゃないの。書きなさいよ」と言われていた。だが、どうしても書けなかった。私は、先生や仲間の期待に応えることができずに今日に至っている。

 拙著『祝電―こんけんどうエッセイ集 第一集―』(二〇二一年随筆春秋刊)に、先生が書いてくださった「あとがき」は、次のように締めくくられている。

「(略)穏やかで誠実な人という第一印象は今も変わらない。穏やかさの中身もやさしさも変わらない。その美点のために健さんは、しないですむ苦労をかぶった人のように私には思えるのだが、その苦労は健さんの風貌のどこにも影を落としていないことに私は敬服せずにはいられない。それらは表には出ずに内向して濾過(ろか)され彼の人柄、精神性に深みをもたらしたように思われる。その成長が今回のエッセイ集に開花しているだろうことを見るのが楽しみである」

 

 二〇一九年四月、佐藤先生のエッセイ集『人生は美しいことだけ憶えていればいい』(PHP研究所)が出版された。これまで先生が書かれてきた作品を再編集したものである。このタイトルを見たとき、思わず「あっ!」と声が出た。

 先生からいただいた色紙は額装し、部屋に掲げている。

 

 追記

 佐藤愛子先生、この11月5日で102歳を迎えられた。

 

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 うちの家系は、総じて短命である。

 祖母(父方)は九十二歳まで存命だったが、あとの三名の祖父母は、みな五十代で病死している。父は五十一歳、母は八十九歳だった。つまり、六名中、四名が五十代で亡くなっている。ここだけみると、現在六十五歳の私は、比較的「長命」の部類になる。

 今回、祖父母の生まれ年を眺めていて、全員が明治生まれであることに改めて気づく。私が幼いころの年寄りは、みな明治生まれだった。現時点(二〇二五年七月)での日本の最高齢者は、明治四十四年(一九一一)生まれ、一一四歳の女性だという。明治生まれが存命なことに驚かされる。今年二〇二五年は、昭和一〇〇年の年に当たる。

 わが国では、六十五歳以上を高齢者という。老齢年金が満額支給になる年齢、いわゆる前期高齢者だ。十年後には、後期高齢者になる。幼年期、少年期、青年期、壮年期、中年期ときて、とうとう高年期まで上り詰めた。その先はもうない。ある日突然、ハシゴを外されることになる。

 二十代のころ、六十代とは首が痛くなるほど上を向かなければならない、はるか高みにあった。私が六十五歳になる二〇二五年に、日本の総人口に占める高齢者の割合がピークを迎える、ということを学生時代に知った。それは、昭和二十二年(一九四七)からの三年間に生まれた、いわゆる(※)団塊(だんかい)の世代が七十六歳から七十八歳、つまり後期高齢者になる時期を意味していた。医療や介護などの社会保障費が増大し、財政が逼迫(ひっぱく)する「二〇二五年問題」と言われた。本格的な高齢化社会が佳境を迎えると恐れられていたが、私には遠い遠い未来の話だった。

 四十代になったとき、六十代が自分にも訪れる年齢であることを、薄々感じるようになった。でもそれは、五十歳を超えた、まだまだ遠い先のことだった。だから、さほど気にも留めてはいなかった。今、その年齢の真っただ中にいる。そして、さらなる高みに向かって歩んでいる。

 たまに同年代の友達に会うと、日本各地を出歩いている者がいる。

「元気なうちにと思って……」

 という言葉を聞いて、ずいぶんと年寄りめいたことを言うなと思っていた。確かに、幼なじみの中には、すでに妻を亡くしたり、夫に先立たれている者がいる。存命な親たちは九十代になり、人生の第四コーナーを回って最後の直線コースを走っている。ゴールは目前だ。そんな親を看ながら、やがては自分たちも同じコースを辿(たど)ることを身をもって疑似体験している。だから今のうちに、という思いがあるのだろう。私の母も昨年末に鬼籍に入った。

 今、上を見上げても、さして首の痛みを覚えないところに八十代がいる。果たして自分がその年齢に到達できるのか。わずか十五年先のことではあるが、はなはだ心もとない。

「渋谷駅周辺の大規模再開発の完成は、二〇三四年度を予定しています」とか、

「北海道新幹線の札幌延伸が、トンネル工事の難航から大幅に遅れ、二〇三八年度末以降になる見込みです」

 こんなニュースを目にすると、「あ、もう死んでる、ムリムリ」と思ってしまう。「万が一、生きていても、もう、そんな元気ないよな」と思うのだ。それは、私の中に沁(し)み込んでいる〝短命な家系〟という思いが影響している。「人の一生は、重荷を負ひて遠き道を行くが如し」というが、その重荷がズッシリと体の芯に食い込み、私の気力を削ぎ落しにかかっている。

 

 最近、やたらと老人の姿が目につく。私が会社を退職してから、平日の日中に出歩くことが増えたせいである。老齢年金支給日のATMの前には、年寄りによる長い列が幾重にも蛇行している。今年から私もその仲間に入った。

「そろそろ血圧の薬を飲む年齢ですよ」

 かかりつけの医師からやんわりと言われたのが、六十一歳のときだった。以来、高血圧の降圧剤を処方してもらっている。

「若いのにね……」

 と言われたのは、「尿閉」と診断され、緊急入院した五十五歳の夏だった。結局は、前立腺肥大症が主因だった。以降、前立腺がんを警戒し、こちらも定期検診を受けている。眼科や皮膚科にも、ときおり出向く。

 病院は、どこも年寄りで一杯だ。みな、朝早くから順番待ちをし、ひたすら自分の番号が呼ばれるのを待っている。週に何日か、複数の病院をかけ持ちで渡り歩いているのだろう。やがてはそういったものから解き放たれる日がやってくる。自分の順番がくるのだ。あちらからの呼び出しである。

 ただ、首都圏などの火葬場はどこも満杯で、自分の番が来るのに一週間も葬儀社の冷蔵庫で待たなければならないという。市場に並べられた冷凍マグロのようなものだ。死んでからも大変である。

 ある日、午前中の住宅街を歩いていると、

「おじいさん、急いでください。お迎えがきましたよ」

 という大きな声が聞こえてきた。声が大きかったのは、爺さんの耳が遠いせいなのだろう。えッ? と思ってよく見ると、デイサービスのワゴン車が玄関前に止まっていた。

 

団塊の世代とは、第二次世界大戦後の一九四七年から一九四九年にかけて、ベビーブームの時期に生まれた世代のこと。「団塊」の言葉の由来は、堺屋太一の小説『団塊の世代』にあり、この世代がほかの世代と比べて人口が非常に多く、人口ピラミッドの中で一つの大きな塊を形成したことから名付けられたものである。この世代は、社会全体に大きな影響を与えてきた。

 

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 私の祖母(母方)の伯父米良(めら)亀雄は、熊本藩の下級士族だった。明治九年(一八七六)に熊本で勃発した明治新政府に対する不平士族の反乱、神風連(しんぷうれん)の乱にて自刃(じじん)している。徳川幕府が瓦解し、すでに武士の時代は終わっていた。旧勢力となってしまった武士の残党による、死に場所を見つけた戦いに打って出たのである。武士としての面目を保って死ぬ、神風連の乱はそんな戦いだった。

「……慷慨(こうがい)の心ふかく、一挙のさそいをうけて欣然(きんぜん)参加し、敵弾を膝にうけ、刀を杖ついて本陣に退き、岩間邸にうつる。(略)官兵捜索に来るを見て立川運(はこぶ)、上田倉八、大石虎猛、友田栄記(えいき)らと共に自刃す。年二十一」

 亀雄に関する記述である。文面からは、拙速(せっそく)を尊(たっと)ぶ武士の気概が読み取れる。翌明治十年の西南戦争で、不平士族の反乱は終息する。

 米良亀雄は、曽祖父の兄という位置づけにもなる。わずかに一五〇年ほど前の出来事である。「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」とは、武士は常に死を覚悟して行動すべきだという、武士道の徹底した覚悟を表した言葉である。曽祖父の時代には、確かに武士道が生きていた。

 祖母は、私が三歳の時に亡くなっているが、祖母の妹は令和二年(二〇二〇)、九十九歳まで長命であった。私がこの大叔母に曽祖父四郎次(しろうじ)のことを尋ねると、

「父さんは外出するときはいつも袴(はかま)を履(は)いており、自宅に戻ると大きな前掛けをして過ごしていた。家にいても横になったり胡坐(あぐら)をかくことはなく、いつも正座姿で背筋を伸ばし、子供たちが少しでも足を崩すと、たちまち睨(にら)まれたものだった」

 と言っていた。大叔母が四郎次を語るときは、「父は士族の教育を受けていたから……」が常に枕詞のようについていた。今の家族のようにフランクに父親に話しかけられるような雰囲気はなく、まさに「明治の厳父」が一家の大黒柱として存在していた。

 

 武士にとって切腹は、自身の名誉を守るための最終手段だった。〝腹〟とは、日本人には特別な意味を持つ場所である。日常、私たちは様々な場面で腹にまつわる比喩を耳にし、また、自ら使っている。「腹を立てる(怒る)」、「腹黒い(心に悪だくみがある)」、「腹を決める・腹を固める(決心する、覚悟を決める)」、「腹が据わる(度胸がある)」、「腹を割る(本心を打ち明ける)」、「腹を探る(相手の考えを探る)」……、と切りがない。

 腹は精神や意志を象徴する特別な部位と考えられてきた。そこに自ら刀を突き立てて十文字に切り裂き、絶命してみせるのである。凄まじい勇気である。自らの命と引き換えに、自身の身の潔白や精神性の高さを証明するのだ。切腹は、武士の面目を保つ究極の手段だった。切腹によって、一切の説明責任が不問に付された。

 慶応四年(一八六八)に神戸三宮で備前藩の隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させるという、いわゆる神戸事件が起こった。幕府の瓦解を意味する大政奉還の八か月前という大変デリケートな時期だった。結局、この事件は、その隊の責任者であった滝善三郎が、列強外交官列席のもと、永福寺の本堂にて切腹をすることにより決着をみる。

 ちなみに、当時、隊列を横切るという行為は、武家諸法度に定められた「供割(ともわり)」といわれる非常に無礼な行為で、「手討(てうち)」「打捨(うちすて)」といった、いわゆる斬捨御免(きりすてごめん)が成立した。そんな当時の日本の常識が、欧米人には通用しなかった。

 この事件については、新渡戸稲造の『武士道』でも触れられている。英国の外交官ミットフォードの著書『昔の日本の物語』(一八七一)から、ミットフォードが自ら検使として切腹の場に立ち会ったときの様子が紹介されている。

 まずは、日本人七人、欧米人七人の検使が本堂に案内され、しばらくして麻裃(あさかみしも)姿の切腹人の善太郎が威儀を正し、しずしずと入ってくる。後ろには、一人の介錯人(かいしゃくにん)と三人の役人が従っていた。善太郎は堂々として落ち着き払い、その様子は「気品高き威丈夫(いじょうぶ)であった」という。

「(略)またもや一礼終って善三郎は上衣を帯元まで脱ぎ下げ、腰の辺りまで露(あら)わにし、仰向(あおむけ)に倒れることなきよう、型のごとくに注意深く両袖を膝の下に敷き入れた。それは高貴なる日本士人は前に伏して死ぬべきものとせられたからである。彼は思入(おもいいれ)あって前なる短刀を確(し)かと取り上げ、嬉しげにさも愛着するばかりにこれを眺め、暫時(ざんじ)最期の観念を集中するよと見えたが、やがて左の腹を深く刺して徐(しず)かに右に引き廻し、また元に返して少しく切り上げた。この凄(すさま)じくも痛ましき動作の間、彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前にかがみて首を差し伸べた。苦痛の表情が初めて彼の顔を過(よ)ぎったが、少しも音声に現われない。この時まで側に蹲(うずくま)りて彼の一挙一動を身じろぎもせずうち守っていた介錯は、やおら立ち上り、一瞬大刀を空に揮(ふ)り上げた。秋水一閃(しゅうすいいっせん)、物凄(ものすご)き音、鞺(どう)と仆(たお)るる響き、一撃の下に首体たちまちにその所を異(こと)にした。場内寂(じゃく)として死せるがごとく、ただ僅(わず)かに我らの前なる死首より迸(ほとばし)りいずる血の凄じき音のみ聞えた。この首の主こそ今まで勇邁剛毅(ゆうまいごうき)の丈夫たりしに! 懼(おそろ)しい事であった。(略)」

 滝善三郎、三十二歳であった。

 自殺をタブーとする欧米人の眼前で行われた「ハラキリ」は、著しく常軌を逸した奇矯(ききょう)な行動と彼らには映ったことだろう。死を恐れぬ武士の姿を、鮮烈な印象で焼き付けたに違いない。

 このミットフォードの『昔の日本の物語』は、四十七士(元禄赤穂事件)の記述から始まっているという。ミットフォードが泉岳寺を訪れた際、四十七士の遺品を書き写して英訳している。訪日三年に満たない中で墨書された旧字体の日本語を書き写し、英訳したという当時の通訳官や外交官の卓越した語学力には驚嘆の念を禁じ得ない。

 この新渡戸稲造と米良家には、少なからぬ奇縁がある。米良亀雄が自刃し、十一代目の家督を継いだ弟の四郎次は、このときまだ十二歳だった。明治二十二年(一八八九)、四郎次は二十四歳で屯田兵に志願し、熊本を引き払って札幌の篠路(しのろ)兵村に入植している。屯田兵制度は、困窮士族にとって武士の体面を保ちつつ職を得る願ってもないものだった。また、彼らを送り出す側の出身県にとっては、厄介者を合法的に県外に放逐できるまたとない機会でもあった。

 新渡戸が札幌農学校(現北海道大学)の教授として着任したのは、明治二十四年のことである。明治三十年に札幌を去るまで、札幌農学校の宿舎に居住していた。また、明治二十九年には、札幌農学校に編入した有島武郎が新渡戸宅に寄宿しており、新渡戸が去った後も明治三十四年まで住んでいたという。現在、この場所には、ANAクラウンプラザホテル札幌がある。宿舎がいつまでここにあったかは不明だが、このまったく同じ所在地が、四郎次の先妻ツルの終焉(しゅうえん)(大正十四年(一九二五)二月死去)の地となっている。晩年、ツルは長女夫婦と同居していたが、そこは長女の夫の本籍地でもあった。夫が札幌農学校の関係者であったかどうかは、詳(つまび)らかではない。

 

 また、遡ること元禄十五年(一七〇二)四月、二代米良市右衛門が熊本藩主細川綱利の参勤のお供を命ぜられ江戸に上っていた。その年の十二月十四日に赤穂義士による吉良邸討ち入り事件があり、義士たちは四大名家に分散してお預けとなった。大石内蔵助以下十七名が熊本藩邸に預けられた。翌年二月の義士切腹に際し、市右衛門は堀部弥兵衛の介錯を命ぜられている。

 江戸中期になると切腹が形骸化し、切腹人が短刀を載せた三方に手を伸ばしたタイミングで、介錯人が首を落としていたという。元禄赤穂事件のころには、すでにそのような切腹スタイルがとられていた。だが、幕末になり再び滝善三郎のような正統な切腹が見られるようになっていたという。

 すごい時代が存在したものである。それが身内のエピソードとして改めて読み返してみると、他人事とは思えない臨場感で迫ってくる。

 過日、私は検査入院で部分麻酔を経験したことがある。半身が他人の体になってしまったような感覚に陥った。痺(しび)れ切った足のように、何をされようが無感覚なのである。そのとき、この状態なら切腹ができるかもしれない、そんな思いがよぎっていた。……でも、ムリだよなと、遠いところでぼんやりと考えていた。

 一五〇年の歳月を経(へ)、私の中には、武士道精神の片鱗も残っていないことを、改めて自覚したのだった。

 

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 すすきので痛飲した帰り道、転倒してケガをした。

 久しぶりに会った高校時代の友人と二人、二軒の店を飲み歩いた。考えてみればこの田中クンとは、五十年来の付き合いになる。彼の結婚披露宴では、私が友人代表のスピーチをした。そんな仲である。

 深酒をした感覚はなかった。「迎えに行くよ」という妻のLINE(ライン)を断っていた。酔い覚ましのため、歩いて帰ろうと思ったのだ。

 歩き出してほどなく、ポツポツと降り出した雨が、急に本降りになった。あっという間に、ずぶ濡れである。札幌の四月の雨は冷たい。これはマズイと急いだ結果、足がもつれて前のめりに転倒した。白い飛沫(ひまつ)を上げる舗道が、眼の下にあった。少し前まで雪に覆われていた道である。雨の匂いがした。

 腕や膝、頬などは軽い擦りキズだった。メガネの弦(つる)がひどく曲がり、翌日、メガネを買い替えた。残念だったのは、貼り替えたばかりのスマホのフィルムが割れたことだった。

 転倒から一週間が過ぎても、左小指の腫れや痛みが引かない。GWが近づき、やむなく近所の整形外科へ行った。軟骨剥離骨折と診断され、包帯状のギプスを巻かれた。

 それから一か月が過ぎても、小指の症状に変化はなかった。腫れと痛みがあるのだ。再び、病院を訪れた。すると同じ医師が、

「六週間はかかります。小指、動かしてないと、固結して動かなくなっちゃうよ」

 と言う。そういうことは、最初に説明すべきだろうと思ったが、年寄り相手の個人病院なら、そうなってしまうのかと黙った。

 出しなに、「湿布薬出してもらえるなら、欲しいな」と妻が言っていたのを思い出し、

「せんせー、私、時々腰の痛みが出ることがあって、市販の湿布薬を使っているんですが……、事前には出してもらえませんよね」

 恐る恐る切り出してみると、診察室のベッドを指差し横になれという。慌てて今は痛くないと言ったが、診察が始まった。すると、

「これは、マズイな。間もなく痛み出す」

 と言うではないか。コルセットを作ろう、どうせ雪かきのときに必要だろうからと言う。冬がきたら考えると固辞した結果、

「じゃあ、小指と一緒に腰もリハビリを受けていきなさい」

 となった。今さら、腰痛は妻の方だとも言えず、やむなくリハビリを受けることにした。

 広いリハビリ室には、ひどく若い理学療法士が二人いた。五、六人の高齢者がベッドに横たわり、膝や腰の治療を受けていた。そこに私も寝かされ、腰の牽引(けんいん)をやってきた。

 小指のリハビリとは、小指にホットパック(温熱ジェル袋)を押し当てて、温めるだけのもの。以来、この病院へは行っていない。

 小指が治ったのは、二か月が過ぎたころだった。後日、田中クンに顛末(てんまつ)を伝えると「あちゃー。快気祝い、やる?」と返ってきた。リベンジは、まだ行っていない。

 

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