こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅 Coffee Break Essay のコーナーで、順次発表させてもらっています。そんなエッセイが200作を超えました。そこで、時系列に並んでいる作品の中からランダムにチョイスし、改めてここに転載することにしました。題して「Coffee Break 別邸」。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思います。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、加筆している作品もありますが、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 娘が一歳の誕生日を迎えた日の朝のこと。会社帰りに駅前のケーキ屋に立ち寄って、ケーキを取ってきて欲しいと妻に頼まれた。代金は支払い済みだという。

 帰り道。ケーキ屋に立ち寄って名前を告げると、店員が店の奥に入った切り、なかなか出てこない。どうしたのかと覗いてみると、なにやら三人でヒソヒソやっている。

 やがて、責任者らしき男が恐る恐る出てきて、オーダーを受けていないという。そんなはずはない、ちゃんとお金も払ってあるんだしと強気に出たが、埒(らち)が明かない。妻に電話し、直接店員と話してもらった。頼んだ日と金額、オーダーを受けた店員の特徴などを確認しているようだった。

「初めての誕生日なんですから、一歳の……」

 妻の甲高い声が受話器から漏れてきた。

 電話を切った後、店員から丁寧に謝罪され、すぐに用意しますのでお待ちください、といわれた。サービスだということで、ひと回り大きなケーキを持ち帰った。

 初めての誕生日なので、写真を撮ったり、ビデオを回したり、大忙しである。遠方の親たちに送らねばならない。やっと一段落し、やれやれとくつろいでいたところに、電話が鳴った。ケーキ屋からだった。

「今日のお約束のケーキ、どうなさいますか」

 という。

「え? 先ほどいただいてきましたが……」

 お互いに話がかみ合わず、トンチンカンである。受話器を手で押さえ、かたわらの妻に確認したら、「あなた、どこのケーキ屋にいったの?」という。

「駅のまん前のケーキ屋だ」というと、妻がのけぞった。胸の中で「あッ!」と叫び、

「明日、取りに伺います」

 そそくさと電話を切った。

 実は、駅の近くにもう一軒、ケーキ屋があったのだ。妻はそちらに頼んできていた。

「駅前のケーキ屋っていえば、駅のまん前だと思うじゃん」

「だって、いつもいっているお店、知っているでしょ」

 妻と押し問答しても意味がない。問題は、駅前の店への対応である。あれだけ強く言って丁寧に謝罪され、しかも大きなケーキを作ってくれた。今さら間違いだった、ゴメンなさいとは言えない。考えた末、黙っていればすべてが丸く収まる、という結論に達した。

 翌日、ケーキを持ち帰り開けてみたら、豪勢なものだった。見た目も断然いい。だが、駅前のケーキ屋のことを思うと、気まずさと申し訳なさが込み上げてくる。

 その夜もケーキを食べることになったのだが、さすがに眺めているだけで、なかなか手が出ない。二夜続けてのケーキは見るのもウンザリである。しかも昨日のケーキは大きかった。娘だけが無邪気に喜んでいた。

 以来、駅前のケーキ屋には近寄れなくなってしまった。

 

  令和二年五月 初出

   この作品は、「誕生日のケーキ」(平成十五年七月)を大幅に加筆改題したものである。

 

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『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

http://karansha.com/merake.html

 会社の独身寮にミツルがいた。釜石出身の純朴な男だった。ミツルは出不精で、休日はいつも寮でゴロゴロしていた。東京にきて数年になるのに、渋谷、新宿、池袋など、どこへもいったことがなかった。ある日、

「オラ、ヤッダよ、そんなどごさいぐの」

 渋るミツルを無理やり原宿へ連れ出した。原宿や表参道にはおしゃれな店がたくさんある。街ゆく人も華やいでいる。

 初夏の日差しが眩しい日だった。歩き疲れた私たちは、喫茶店に入った。そこは、オープンカフェで客の大半が欧米人だった。コーヒーを飲みながら本を読む人、サングラスが似合うタンクトップのカップルなど、映画のワンシーンを観るような光景だった。

 私は、そこでしばらく涼みながら休憩したいと思ったのだ。あちらこちらから英語が飛び交い、日本とは思えない雰囲気に、

「この店、アッツイなァー」

 と言いながら、ミツルは何度も額の汗を拭っていた。オープンカフェだから仕方がないが、汗は緊張からくるものだった。

 アイスコーヒーがテーブルに置かれたとたん、ミツルはグラスを鷲づかみにして一息に飲み干してしまった。あっけにとられている私に向って、

「うめぇなぁー、近藤クン。グェー」

 と大きなゲップを出した。ミツルにしてみれば、居酒屋でビールを一気にグイッと飲み干すのと同じ感覚だった。

(バカャロー、何をしやがる)という思いをグッと飲み込み、私は立ち去りかけた店員を呼び止めた。店員の驚いた顔が見事だった。

 ミツルにはもうひとつ、伝説話がある。給料日直後の休日、ミツルを含めた若手三人が近所のファミリーレストランへと出かけていった。ステーキを食べにいったのだ。三十五、六年も前のことで、ファミレスがまだ珍しい時代であった。ほかの二人は青森出身で、東京生活の浅い者同士だった。

 レストランでステーキを注文すると、焼き方を訊かれる。「ウェルダン」とか「ミディアム・レア」などという人もいるが、たいていは「ミディアム」である。

 若い女性のウエイトレスに標準語でオーダーをしたまでは順調だった。焼き方を訊かれ、三人に緊張が走った。そんな筋書きを、誰も想定していなかったのだ。青森のひとりが、ひと呼吸おいて「ミディアム」だと気づいたが、時すでに遅し。沈黙に耐え切れなくなったミツルが、勢いよく立ち上がり、

「テッパンで焼いでください!」

 と言ってしまった。気負いもあって、その声は必要以上に大きかった。ウエイトレスが噴き出したのを合図に、周りの客からドッと笑いが巻き起こった。三人は周囲の視線を意識しながら、ひたすら肉を口に押し込み、逃げるようにして帰ってきた。

「つがれだぁ。ダーメだぁ、トーキョは」

 三人が口をそろえた。

 

  令和二年四月

 

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 令和二年一月、私は六十歳になった。むかしから思っていたのだが、六十歳は年寄りである。その年寄りに自分がなった。覚悟はしていたが、にわかに突き付けられた現実に、改めて愕然とする。

 近年の社会通念に照らすと、六十歳は「かなりの年寄り」ではない。だが、中年からは完全に脱皮している。私の場合、若作りしようと毛繕(けづくろ)いしたくても、肝心の毛がないので話にならない。何をどう取り繕っても馬脚が露呈する。腹が膨らみ尻が垂れ、陰毛の白髪も目立ってきた。顔にはシミが増え、頭はこれみよがしにハゲ上っている。

 自分が歳を取ったなと感じさせられるのが、同じ年齢の人に出会ったときだ。たとえばスナックのママ。連れていかれて初めて入った店で、ずいぶんケバケバしい婆さんだなと思っていたら、そのママが同年齢だったりする。「ええっ!」と思わず声を出してしまうが、敵の驚きようも尋常ではない。粉が舞うほどの毛羽だった婆さんと毛のない爺さんの一騎打ちだ。「目クソ、鼻クソを笑う」で、周囲には滑稽な画と映る。

 私は北海道の小さな漁村、様似町(さまにちょう)で生まれ育っている。大半の者は幼稚園から高校までの一貫教育を受けて育つ。あいにく私は、高校からふるさとを離れてしまった。その後、京都と東京で過ごし、二〇一一年に三十二年ぶりに北海道に戻ってきている。そんなこともあり、ときおり幼なじみに会う機会がある。四十数年ぶりに再会した同級生のだれもが、私に懐疑の目を向ける。

「オレだよ、オレ! わからない?」

「えーっと……誰だっけ?」

 そう言いながら、別の者に助けを求める。バトンを渡された者も首をひねりながら、当時の微弱な残像を私の中に探し求めようとする。だが、どんなキーワードを放り込んでも、私に結びつく糸口がみつけられないのだ。やむなくタネ明かしをすると、

「えッ? ケンかい? ねえ、ちょっとどうしたの、あんた……」

 まるでケガ人でも見るような目で、私の顔と頭に交互に視線を向ける。やがて笑いの渦に巻き込まれ、肩を抱きながら久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)す。こんなストーリー展開を何度か繰り返してきた。そんな日は完全に飲み過ぎて、翌日は二日酔いでダウンというわかりやすい流れだ。

 

 人生の若い期間はほんのわずかである。あとの大半は老いの中で生きている。そんなことに気づいたのは、四十代も後半に差しかかったころである。「若い」という年齢は、せいぜい二十代くらいまでだろう。幼年期、少年期は別として、二十代も後半になると、折につけ若さの衰えを意識し始める。青年期といわれるのが、十五歳から三十歳である。人生で瑞々しいのは、せいぜいこの辺までだ。以降は、壮年期(三十一~四十四歳)、中年期(四十五~六十四歳)、そして高年期(六十五歳~)と、ひたすら人生の階段を上っていく。

 若いころは、歳を取った自分の姿をまったくイメージできなかった。自分が年寄りになったとき、なにをどう考えているのだろう。そんな疑問を常に持っていた。

 自分が六十歳になって、それが氷解した。私が頭の中で考えていることは、十代や二十代のころとさほど変わらないということだ。街できれいな女性とすれ違うと、思わず振り返っている。開いた胸元から覗く乳房のふくらみや短いスカートから延びる太腿を目にすると、ドキッとする。六十歳にもなると、そんな感覚もかなり鈍るのだろうと思っていた。だが、そうでもなさそうだ。

 私は五十歳で前妻と別れている。その後、五十七歳で新たな伴侶を得た。お互いに独立した子供がいる。三歳年下の彼女とは同居こそしていないが、夫婦然としてそれなりに楽しくやっている。

 若い夫婦と私たちの違いは、私たちにはもう子供ができないということだ。すでに彼女の方で生産が終了している。私の水鉄砲も水圧の低下により、撃ち込んだ弾も目標地点にまでは到達できそうにない。つまり私たちは繁殖期を終えた番(つがい)であり、年寄りなのだ。今さら子供を授かっても困るのだが。

 これから私たちはどんどん歳を取っていく。そして死を迎える。それはそれほど遠くない未来に、必ず訪れる。万が一長生きしたとしても、お互いに何がなんだか分からなくなってしまっては、元も子もない。だから私たちは、今を楽しく生きなければならない。時間は限られている。それには「愛」だけではダメで、それなりの努力が必要になる。

 私には彼女に贅沢を楽しませてやる、そんな潤沢な資力を持ち合わせていない。彼女には、慎ましい暮らしを強いることになる。それが心苦しく、情けない。せめて彼女には、悲しく辛い思いだけはさせまいと思っている。そして、私たちの子供たち兄弟姉妹たちも、災禍なくそれなりに暮らしていって欲しいと願っている。

 先日、六十歳の厄払いを受けながら、そんなことを考えていた。

 

  令和二年三月 初出

 

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 (五)

 令和元年八月二十八日の針生検の結果は、二週間後の九月十日に結果がわかるという。そもそもPSAの数値が上がり出し、前立腺がんを疑われてから一年半になる。その間、グレイな日々を送ってきたことになる。

 針生検後の自分の股座(またぐら)がどのような状況になっているのか気になった。そこで自宅に戻ってすぐに局部を見ようとした。だが、どうしてもぶら下がりものが邪魔で、確認できない。やむなく局部の真下にスマホを置いて、写真を撮ってその画像を確認してみた。局部にはゴマ粒が散りばめられていた。針を刺した後が、瘡蓋(かさぶた)になっているのだ。スマホの画像はすぐに消去した。間違ってインスタやフェイスブックに上がってしまってはマズイ。

 しばらく局部の鈍痛は続いたが、血尿は三日ほどで元の色に戻った。厄介だったのは精液である。こちらは当初、赤ワインをドロドロにしたようなどす黒いものであった。それが次第にこげ茶色から茶色に変わって、正常に戻ったのは一ヵ月半後であった。事前にネットで調べていたが、二ヵ月ほどかかる人もいるとのことだった。人間の復元力と前立腺のダメージの大きさを思い知らされた。

 私は五十九歳(当時)である。いい歳をして、という恥ずかしい思いもある。だが、これが偽らざる自然の摂理である。わが曾祖父も五十九歳で十四人目の子を産んでいる。もっとも曾祖父の妻は後妻で、二十歳下だった。

 がんが転移しているとかそんなことより、針生検によってできなくなったらどうしよう、それが最大の関心事だった。新たな子供は不要だが、スキンシップは大切である。

 ボクはプロの作家には程遠いが、表現者としてこれからも生きていきたい。だから、今回の災いも「これでまた書ける!」と膝を叩いている自分がどこかにいる。従容(しょうよう)として現実を受け入れる、そんな生き様、みっともない人生を描いていきたいのだ。

 なんだかすっかり悲劇のヒーロー気取りだが、この余裕は「どうせ初期のがんだろう」というところからきていた。私の会社はがん保険を扱っている。入社早々に三口加入させられた。つまり、がんだと診断されただけで一口当たり百万円の保険金が下りる。合計三百万円だ。棚から牡丹餅である。針生検の高度先進医療費(十数万円)だって、十年前に更改した生命保険の守備範囲である。そんなどす黒い思いが、私を楽観的にさせていた。むしろ、がんであった方が得をしていいとさえ思っていた。

 だから、九月十日の診察待ちの廊下の長椅子では、せっせとエッセイの添削を行っていた。悲壮感はまるでなかった。私は早朝から病院にいっていたので、泌尿器科外来の整理番号はトップバッターであった。

 医師二人による診察が始まった。だが、十五分が経過しても私の方の医師からの呼び出しがかからない。隣の医師の患者は次々に診察室に入っていく。なにやらややこしいことが起こっているのではないか、そんな不安が沸き起こってきた。手術担当の医師と私の外来担当の医師は別だった。私の主治医はがんに特化したこの病院の医院長であった。そんな思いを巡らせていた矢先、やっと私の整理番号が診察室入口のディスプレイに表示された。

 診察室に入って開口一番、

「実は、細胞検査の結果なんですがね……」

 と切り出された。医師が心なしか前のめりの姿勢で話しかけてきた。その様子に私は、「ん? がんじゃないの?」との察しがついた。今回の細胞検査の結果、悪性腫瘍は見当たらなかったという。「今回の」とつけるあたりが、この医師らしい。

 かくして、私はあっけなく「白」となって釈放されたのである。私にかかわる周りの人たちには、がんに間違いないと思うが、かなり「早期」だから心配はいらない、そんな主旨のことを吹聴して回っていた。抗がん剤治療もないだろうし、あったとしてもすでにこんなハゲ頭だから、何ら問題はない。そんなことを言って笑わせていた。その振り上げた拳の下ろしどころを失った。

 エミや妹にもその旨をすぐにラインで知らせる。安堵の溜息が伝わってきた。私は三百万円が飛んでいく、そんな思いを感じていた。

 しばらく後になってから知ったのだが、がん保険が定義するがんとは、「悪性新生物」のことであり、私が想定していたごく初期のがんは、「上皮内新生物」であって、がんには該当しない。つまり、保険金が下りないということを知らされた。保険会社の手口もなかなか巧妙である。この段になって初めて、がんではなくてよかったと心から安堵したのであった。

 次のPSA検査は、半年後の三月だという。数値が高いうちは、しばらくこういうことが続くのだろう。これで再びPSAの数値が上がっていたら……とりあえずこの作品、ここらで完結しておこうと思う。 (とりあえず 了)

 

※ 前立腺とは

 前立腺は男性特有の生殖器の一つである。前立腺の働きについては、まだわかっていないことが多くある。わかっている部分では、前立腺液といわれる精液の一部を作り、精子に栄養を与えたり、精子を保護してその運動機能を助ける役割を果たしている。

 また、前立腺は直腸と恥骨の間にあり、膀胱の出口で尿道を取り囲んでいる。このため、前立腺が肥大すると尿道が圧迫され、排尿に関わるさまざまな症状が出現する。射精管も前立腺の中を通っている。

 

  令和二年二月

 

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 (四)

 手術室に向かったのは、午後四時だった。浣腸を手にした看護師は、とうとう現れなかった。大丈夫なのかという危惧と、小さな安堵感を覚える。ハンパない空腹感は、自分は今、修行をしているんだ、と思い込ませることでやり過ごした。

 手術衣に着替え、看護師に先導されながら点滴スタンドを押して、手術室へと歩いて向かった。手術室の扉が開き、別の青いナース服を着た看護師に引き渡された。バージンロードを歩いてきて、父親から新郎に引き渡されるような、そんな構図が脳裏をよぎる。

 手術室は、テレビドラマのセットさながらの様相を呈していた。手術台の横には大きなパソコンのディスプレイが二台あった。これだな、と思った。

 さほど広くはない手術室の中を、二人の男性医師と四人の女性看護師が慌しく動き回っている。私の緊張を和らげようと看護師が入れ替わり立ち代り話しかけてくる。心電図、血圧計、パルスオキシメーター(血中酸素濃度を測る指に挟むモニター)が手際よく取り付けられていく。怖いことはないはずなのだが、六人の医療スタッフが放つ張り詰めた雰囲気に、いやが応にも緊張が増幅される。

 下半身の局所麻酔をかけるために、まず脊椎に痛み止めの注射を打たれる。「少し痛いですよ」と言われたが、少しどころか声を上げるほどの痛みが走った。痛み止めが痛いとはシャレにならない。続けて打たれた麻酔も、大きな鈍痛を感じた。ほどなく、肛門から足にかけて、カーッと熱くなってくる。麻酔が効き始めたのだ。

 エビのように背中を丸めていた体勢から仰向けにされ、両足を固定された。分娩台さながらである。もちろん下半身はむき出しである。鳩尾(みぞおち)のあたりに仕切りの布が張られ、下半身側が隠された。視界の範囲に誰もいなくなったので、六人は私の股座(またぐら)を覗き込んでいるのだ。感覚がないので、何をされているのか見当もつかない。陰毛は剃られていないようだった。

 麻酔が効いているかどうか、脛(すね)や太腿(ふともも)に氷を当てて確かめる。そのとき、左右の足で感覚が違うのに気がついた。麻酔がちゃんと効いていないのではないか、とうい杞憂(きゆう)がよぎった。だが、さすがにその辺はちゃんとするだろうと思い、何も言わなかった。それが恐怖心を煽(あお)ることになる。

 私の股間を前に、医師たちが結構長い時間、なにやら相談している。恐らくチ〇ポと睾丸は粘着テープで腹に固定され、露(あら)わになったチ○ポのつけ根から肛門にかけて印をつけているようであった。クルミ大の前立腺に、二十本もの針を刺すのだ。大変な作業だと思う。腕に巻かれた血圧計が数分おきに膨らみだす。自動的に血圧が計測されているのだ。

 やがて準備が整ったようで、

「これから針を撃っていきますが、かなり大きな音なので驚かないでくださいね」

 医師が不吉なことをいった。ちゃんと麻酔が効いているのか、不安が増大する。ブシュッという大きな音と共に、股座に衝撃が加わる。その音は、空気圧で弾丸が撃ち込まれるエアガンさながらの発射音であった。痛みがなくホッとする。だが、こんなことを二十回もやったら、前立腺が砕けるのではないかと不安に思った。どのような状況で作業をしているのか、モニターでもいいから見せてほしかった。

 針生検は、一時間ほどで終わった。手術台からストレッチャーそして病室のベッドへ、私のベッド移動は、看護師四人がかりである。なにせ下半身が他人と化しており、まったくコントロールが不能なのだ。もし、切腹を命ぜられるようなことがあったら、まずは局部麻酔をお願いしようと思った。下半身が引きちぎられても気がつかないだろう。

 ベッドから頭を擡(もた)げてみると、ベッドの横に小便袋がぶら下がっていた。私のあそこと管で繋がっているのだ。その袋を見てギョッとした。小便の色がアセロラジュースなのだ。血尿である。針のダメージなのだろう。

 病室担当の看護師がやってきて血圧を測る。

「やっぱり高いわねー」

 と言う。上が一六五だと。二度とも同じような数値だった。手術中は一八〇あったというのだ。再びギョッとした。私は平素一一〇から一二〇なのだ。退院して数日後に血圧を測ってみたら一一〇台に戻っていてホッとした。手術室での不安の増大が、最高血圧を跳ね上げていたのだ。

 私は取り置きしてもらっていた遅い夕食を摂った。十三時間ぶりの食事である。軽く二キロは痩せただろうと思ったが、翌日自宅で測ってみたら、わずかに二〇〇グラム減っただけだった。ダイエットとは、かくも難しいものなのかと思い知らされた。(つづく)

 

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(令和元年6月1日更新分からのつづき)

 

 (三)

 前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSAの数値は、「4」を超えたらがんが疑われる。二〇一八年十一月時点でのPSA値は「4.500」であった。半年後の二〇一九年五月の検査結果は「5.080」と、わずかに上昇していた。この数値を目にした医師は、次の検査を半年後とはせずに、三ヵ月後の八月とした。しかも前回のMRI検査からちょうど一年になるので、MRIも行うという。

 これまでの検査では、がんの疑いがスッキリと晴れた、とまでは言えなかった。二〇一八年七月に「9」に跳ね上がった数値が四ヵ月後には「4.500」に下がった。だが、その後の数値の推移をみると、じわじわと薄雲が広がり出し、今ではすっかり曇天の様相を呈していた。

 迎えた八月。採血の後、呼ばれて入った診察室で真っ先に見せられたのが、PSAの数値が記された検査結果だった。「6.090」とあった。

「この一年間、ずっと右肩上がりなんです」

 そう言った医師が、MRIの画像をディスプレイに表示させた。

「ここ、この部分ですが……(腫瘍を)疑わせるものがあるんです」

 そう言いながら、その部分の画像を大きく映し出した。

「どうです? 生検をやってみますか?」

 このままもう少し様子を見るか、細胞検査をして確定診断を出すかという選択である。考える余地はない。一刻も早く白黒をはっきりさせるべきだと思った。最短の検査可能日である一週間後の八月二十八日に、検査入院の予約を入れた。

 細胞検査とは、「針生検(はりせいけん)」といって、下半身に局部麻酔をかけて前立腺に二十ヵ所ほどの針を刺し、細胞を取り出す検査である。麻酔をかけるので、一泊の入院検査となる。さらに私の場合、怪しいものがある部位が針を命中させるのに難しい場所だという。確実に針を刺して細胞を取り出すためには、通常のエコー画像に今回撮ったMRI画像を重ね合わせることで、より正確な病変の生検が可能になるという。この手法は高度先進医療に該当し、保険が利かない。せっかく検査したのにちゃんと命中しなかったからダメでした、では話にならない。もちろんやることに同意した。

「先生、これはかなり疑わしいと理解していいんですよね」

 恐る恐る探りを入れると、医師は小さく頷きながら、

「生検結果をみなければなんとも言えませんが、現段階ではそう考えてもらっていいかと思います」

 PSA値が警戒水位を超えて上昇し続け、MRIの画像でも怪しいものが見える。つまり生検による確定診断を待つまでもなく、これは選挙でいうところの出口調査の「当確」ではないのか? おそらくそういうことなのだろう。自分が仮釈放中の身であったことを改めて思い知らされる。ふとエミの顔が浮かぶ。

「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」と言うが、もう少しいいことが続くかなと思っていた。エミと出会ってまだ三年である。残念だと思った。エミに心配をかけることが何より心苦しく、申し訳ない気持ちが胸に溢れた。

 

 一泊二日の検査入院ゆえ、手ぶらのような身軽な荷物である。一緒にいかなくてもいいのかというエミや妹の申し出を振り払い、Tシャツにジーンズという近所のスタバにいくようなスタイルでフラリとやってきた。すでに覚悟は決まっていた。あとは手順に従って粛々と検査を受けるだけだった。

 病室は四人部屋だった。ほかの三人はいずれも年配者で、みな一様に顔色が悪く生気がない。病室の空気がずっしりと重い。その重苦しさが、病状の深刻さを物語っていた。早々にレンタルのパジャマに着替えたら、それだけでこちらも病人の気分になった。

 着替えたのはいいが、スリッパを忘れてきた。病室でテレビを観るためのテレビカードを購入したが、テレビから音が出ない。イヤホンの購入が必要だという。翌朝には退院なので、テレビは断念した。体重や血圧の測定など、すぐにいくつかの軽微な検査が待っていた。

 バタバタとしているうちに昼になる。午前七時までに食事を終えるようにとの指示があったので、さすがに空腹を覚える。午前中には生検が始まるのかと思っていたが、一向に呼び出しがかかる気配がなかった。

 入院に際し、特に何も制限がないので、病室にノートパソコンを持ち込んでいた。所属しているエッセイの同人誌会員の原稿の添削があったので、作品評を打ち込む。そんなことをしながら、ある種の恐れがつきまとっていた。半身麻酔を打つということは、その前に浣腸をされるに違いない。看護師が浣腸をもって入ってくる、そんな場面を想像して緊張していた。 (つづく)

 

 令和元年十二月 

 

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「ケンさ、オレ、カネないんだけどさ、飲みにいかない?」

 イブの夕方、カシンから会社に電話があった。人懐っこい口調で話しかけてくるカシンの顔が浮かぶ。お金がないけど、飲もうぜと誘ってくるあたりが、カシンらしい。

「おっ、いいよ。どこで会おうか。また、新宿にするか」

 二つ返事でOKを出す。私が二十五歳のときだから、一九八五年の十二月二十四日のことになる。カシンとは札幌での高校の寮からの付き合いである。

「アッタマ痛えな、チクショウ!」

 それがカシンの口癖だった。

「なんだよ、その頭痛えってのは。そんなに痛いなら病院、いけよ」

 そう言うと、決まって大丈夫だと返してよこした。カシンといると時間のたつのも忘れて楽しい酒が飲める、そんな友達の一人だった。

 高校を卒業してからは、カシンは東京で、私は京都で学生生活を送った。二人が再会するようになったのは、就職して二年が過ぎたころだった。お互いサラリーマン生活にも落ち着きが出てきたあたりである。

 高校時代のカシンのイメージといえば、寝起き直後のようなモジャモジャの髪に、指紋だらけの曇ったメガネをかけ、身なりも常にヨレヨレだった。頬のホクロから二、三本の長い毛が生えており、前歯も虫歯に浸潤されて茶色に変色し、数本欠けていた。

 そんなカシンが、すっかり変貌を遂げていた。広告代理店に勤めていたカシンは、身なりもきれいになり、欠けていた前歯もきちんと揃って、まるで別人のような都会の青年になっていた。だが、中身はカシンのままだった。私は今と同じ小さな石油販売会社にいた。

 時はバブル景気の真っただ中の時代である。クリスマスイブともなれば、カップルはこぞってホテルなどのシャレたレストランへ向かい、キャンドルのほの暗い光の中で彼女と向き合ってワインを傾ける。そんなトレンディーなカップルを尻目に、新宿の路地裏のうらぶれた建物の二階でビリヤードに興じ、安い居酒屋で終電間際まで焼酎を飲む。それが我々のスタイルだった。三年くらいそんなイブをカシンと過ごしていた。ビリヤードを教えてくれたのもカシンである。

 

「今日はオレのおごりだよ。カネ、ないんだろ」

「いいよ、割り勘で、出すってば」

 カシンは半ば強引に私の手におカネをねじ込む。じゃあなと別れた後で、ちょっと待てよと思い人混みに紛れ込んでいくカシンの背中を追いかけ、

「オマエ、電車に乗るカネ、あるのかよ」

 と問いただすと、電車賃もないのだ。

「バカヤロー! どうやって帰るんだよ!」

 再びおカネを突き返す。何やってンだよ、カシンの頭を小突きながら、あらぬ方向を見て涙ぐむ。カシンと飲んで、そんなことが何度かあった。カシンの自宅は埼玉県久喜市のさらに先である。夜通し歩いてもたどり着ける距離ではない。そんなヤツだった、あいつは。

 その後、私は結婚してすぐに子供ができたこともあり、カシンともすっかり疎遠になっていた。でも、せっせと年賀状だけは出し続けた。

 二〇〇一年の夏の終わり、しわがれた女性の声で電話があった。長谷川嘉信(よしのぶ)の母ですが……、と言われピンとこなかった。カシン(嘉信)のカカ様(カシンは母親のことをそう呼んでいた)だった。カカ様は、カシンの死を告げ、電話口で泣き崩れた。

 私は呆然とし、自失した。カカ様は私がカシンに出した年賀状を見つけ出し、電話してきたのだ。すでに四十九日も終わっていた。

「嘉信のことだから、年賀状なんか出していなかったんでしょう……ゴメンなさいね」

 そう言いながら、嗚咽している。死因は大動脈瘤破裂。「頭痛えな、チクショウ!」は、その予兆だったのか……

 四十二歳、男の大厄の歳だった。しかもカシンは、新婚だった。いつの間にか結婚していたのだった。

 

 なあ、カシン、オマエとは、よく飲みにいったな。考えてみるとさ、オレたち十五歳の終わりから十八歳まで、それから二十五歳から二十八歳まで、そんな変則的な付き合いだったな。でもさ、なんだか楽しかったよな。

 そっちはどうだ。もう、ずいぶんと遠くへいってしまったんだろうな。死んだらどうなるんだ? さっぱり見当もつかないよ。もう、頭は痛くないんだろ。

 オマエの嫁さんに会っておきたかったな。オマエのことだから、母性本能をくすぐったんだろうな。それにしても死ぬの、早すぎだ! いきなり死にやがって……。トイレで踏ん張っているときに血管が破裂したんだってな、カカ様から聞いたよ。格好悪い死に方は、オマエらしくていいけどさ、嫁さんが不憫だな。それはオマエが一番気にしていることか、スマン。

 オマエのこと忘れないから。忘れても、時々思い出すよ。今までがそうだったから、これからもきっとそうだ。たまには連絡してこい。でも、不意打ちはダメだぞ。さすがのオレもビビッちゃうからよ。今度はちゃんとご馳走してやるから、ゴメンな。オマエのこと、忘れないよ。今年もまた、クリスマスがやってくる。会いたいな。

 

  令和元年十一月 初出

 

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 二十八歳を特別な年齢と意識しだしたのは、いつのころからだろう。この年齢を超えると本格的な成熟した大人の領域に入っていく、だからそれまでに自分を確立し、それなりの人間になっていなければならない、そんなふうに思うようになっていた。自分で勝手に設定したそんな人生の到達点が、思わぬプレッシャーとなってオノレにのしかかってきた。天に向かって吐いたツバが、自らに降りかかってくるように。

 二十七歳で川崎にあった会社の独身寮を追い出された私は、アパートで独り暮らしを始めていた。一九八七年当時はバブル景気の真っただ中、自分の給料の許す範囲で住むことの可能なアパートを見つけることは至難の業だった。どんなに探しても「東京都」と名のつく所在の物件はなかった。ワンルームで六万円台の後半から七万円台、人をバカにしたような家賃のアパートしか見当たらない。山手線を何周したことだろう。結局、私が住めそうな場所は千葉や埼玉で、最寄り駅からそれなりの距離があり、会社のある日本橋までは一時間半前後の通勤を要するものばかりだった。そこで私はヤケクソになった。そして居直った。

 半年をかけて私が見つけ出したアパートは、四畳半風呂なし、トイレ共同という古い一軒家を改造したシェアハウスのようなところだった。自室の部屋のドアは襖にカギがついたもので、その気になれば簡単に蹴破ることができた。場所は杉並区和泉、山手線の内側ではないが、堂々たる東京都である。神田川が近くを流れる学生街だった。

 私の部屋は外階段を上がった二階にあった。そこには私のほかに三人の若者がいた。ミュージシャンを志して九州から出てきた二人と、同じく九州から上京してきた脚本家志望の青年だった。ミュージシャンは日曜日のたびに原宿の歩行者天国に繰り出し、路上ライブを行っていた。脚本家は毎朝、始発電車で築地市場に出かけていた。アルバイトで糊口を凌ぎながら、脚本の勉強をしていた。

 そんなアパートで、私は二十八歳の誕生日を迎えた。昼近くに目覚めて、布団の中でじっと天井を見つめていた。私の誕生日は一月十五日で、当時は固定された「成人の日」で祝日だった。

 天井の木目に雨漏りのようなシミの跡がある。そのシミをじっと眺めていた。寒くて布団から出られなかったのだ。そうしているとき、ふと奈良へいってみようか、という唐突な思いが浮かんだ。その年は、この日から三連休だった。なぜか京都ではなく奈良へいきたいと思った。

 布団から出た私は、三十分後にはアパートを飛び出していた。新幹線に飛び乗り、京都から奈良へ向かう電車に乗り換える。奈良を訪れるのは高校の修学旅行以来だった。土地勘はまったくない。学生時代を京都で過ごしていたのだが、奈良を訪ねたことは一度もなかった。昼過ぎに起き出すという怠惰な生活をしていたため、奈良へいくことができなかったのだ。

 JR奈良駅に着いたときには、すでにとっぷりと日が暮れ、土砂降りの雨が降り出していた。駅の観光案内で近くの安い宿を見つけ、なんとかそこへ潜り込んだ。その薄汚れたホテルには、カメラを手にしたオジサンの泊り客が大勢いた。その日は若草山の山焼きだったが、あいにくの雨で中止になっていた。

 そのころの私は、自分の誕生日が成人の日であることに嫌気がさしていた。派手に着飾った振袖姿の女の子たちが街に溢れ返る。猫も杓子も「大人の仲間入り」だといって浮足立っている、そんなザワついた雰囲気が嫌だった。そういうものから逃避したい、そんな思いが私を奈良へと向かわせた。何より、「二十八歳」に耐えられなかった。

 二日間にわたって、奈良市内から明日香村にかけての寺社を精力的に訪ね歩いた。春日大社のほかはすべてお寺で、東大寺、法隆寺、興福寺、唐招提寺、長谷寺、薬師寺、新薬師寺、秋篠寺、中宮寺と今でも思い出すことができる。ひたすら仏像の顔を見て歩いた。最後に飛鳥寺の飛鳥大仏に向き合ったとき、得もいえぬ懐かしさを覚えた。この仏像に初めて対面したのは高校二年の修学旅行、十六歳の冬だった。そういう意味での懐かしさと、それとはまた別の感慨があった。それがどういうものなのか、言葉では表しがたい思いだった。

 明日香村ではレンタサイクルを利用し、明日香路を走りに走った。そして最後に向かった先が、甘樫丘(あまかしのおか)だった。この丘の麓には、かつて蘇我蝦夷(そがのえみし)、入鹿(いるか)親子の邸宅があったとされる。大化の改新(西暦六四五年)以前の話である。ここにはとんでもない時間の堆積があった。

 夕暮れが迫るなか、走るような勢いで甘樫丘に駆け上がった。眼前に広がる風景は、かつての日本の首都、藤原京である。その田園風景の中に往時の面影を探る。とんでもない想像力が試され、空想力と妄想力を総動員するが、国政の中心地であったというかつての映像には結びつかなかった。暮れなずむ大和三山を遠望しながら、しばし時間の堆積の中に身を浸す。当時の私は万葉歌に魅せられていたこともあり、甘樫丘に立って明日香風に吹かれていることに至福の喜びを覚えていた。

 これ以降、私は二十八歳で年齢を止めた。いつまでも二十八歳でいようと思った。だから年齢を訊かれると、まずは二十八歳と答えていた。そんな思いを失ったのは、五十歳を過ぎた当たりだろうか。気がつくと、フェイドアウトするように、二十八歳が霧の中に消失していた。

 大成した人間にはなれなかった。そして、いつの間にか二十八歳の呪縛から解き放たれていた。そんなことは、もうどうでもよくなっていたのだ。それはつまり、私が年をとったということを意味していた。

 

 令和元年十月 

 

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「東京にいると、芸能人を見る機会って、多いんじゃない?」

 そんなことをよくいわれた。内心、そうでもないんだがなと思いながらも、曖昧に答えていた。確かに、「テレビで見る人」を街中で見かけることはある。「あ、あの人だ」と思うのも一瞬のことで、あっという間に人波に紛れてしまう。だが、そんな遭遇にも例外があった。

 以前に、元アイドル男性のDNA鑑定騒動が世間を賑わせたことがあった。前妻との子の鑑定結果が、父子確率〇パーセントだったという。男性が涙を流しながらインタビューを受けるシーンが、ウンザリするほどテレビに映し出されていた。二〇一七年のことである。たいして興味がないから真剣に観ていたわけではないが、その男性の顔が気になった。どこかで見たような気がしたからだ。

 しばらく後になって、その男性は元光GENJIのメンバーの一人であることがわかった。彼の若いころの顔がネットに出てきて、喉のつかえが取れたのである。私は光GENJIについては何の知識もない。ガヤガヤ歌っているな、くらいにしか思っていなかった。ただ、この男性の日本人離れした顔は、印象に残っていた。私は彼に、一度だけ会ったことがある。新幹線で相席になったのだ。

 

 独身のころ、私は半年に一度くらいの割合で、東京と京都の間をいききしていた。一九八八年のある日、私は京都からの帰りの新幹線に乗っていた。何月だったかは覚えていないが、寒くもなく暑くもない季節だった。

 東海道新幹線ひかり号の京都から東京までの停車駅は、京都、名古屋、新横浜そして終点東京で、約二時間四〇分の所要時間である。その日は、自由席が満席だったので、指定席に座っていた。日曜日の午後八時過ぎの列車だったので、新幹線としては最終に近いものだった。指定席の車両はガラガラで、私は三人掛けの椅子を回転させて六席にし、前の席に足を投げ出してのんびりと本を読んでいた。もうこんな時間なので、名古屋から乗ってくる人はいないだろうと高をくくっていたのだ。

 列車が名古屋に到着したときのことだった。駅のホームが黒だかりの人でざわついていた。何事かと思っていると、私の車両の扉が開いたとたん、若い男女が怒濤のようになだれ込んできた。私の席は扉からわずかに三、四列目だった。一体何が起こっているのか、まったく把握できない。すると、スーツ姿の若い男が、

「一般のお客様がいらっしゃいます。入ってこないでください」

「お客様のご迷惑になります。戻って!」

 両手を広げ、ギャーギャー騒ぐ女の子たちを必死に押し戻そうとしている。キャーという女性の声と怒声が入り乱れ、列車内がアリの巣を蹴散らしたように騒然となっていた。どれがマネージャーで、どれが有名人なのか私にはさっぱりわからない。そうこうしているうちに、列車が動き出してしまった。この女の子たちは、自動的に東京までいってしまう。明日は月曜日、折り返す新幹線などない時間帯である。押し戻された女の子たちがデッキに溢れ返っていた。

 静けさを取り戻した車内には、十人近い若者がいた。マネージャーが若者に座る席を指示している。私が独り占めしていた六人席には、五人の若者が座った。席を回転していたので、元に戻しますといって私は立ち上がった。すると、もしよければこのままでいいという。さらに隣の二人掛けの席も回転させ、私の並びの合計十席が向かい合わせの席となった。部外者は私一である。何とも気まずい。目の前のこいつらは、いったい何者だ? 子供のような少年もいる。

 端正な顔立ちからアイドルグループなのだろうということは想像できたが、見覚えのある顔がいない。そんな中、斜め左の若者が日本人離れした顔であるのに気がついた。もしかしたらこの若者たちは、ローラースケートを履いて滑りながら歌うあのグループではないか、そんなことが頭をかすめた。もちろん、グループ名などわからない。

 東京駅まで一緒かと思っていたら、列車が新横浜に到着するやいなや、彼らは蜘蛛の子を散らすような勢いで、降りてしまった。混乱する新横浜駅のホームを尻目に、新幹線は再び走り出した。私は名古屋から新横浜までの一時間半近く、彼らと気まずい時間を過ごしたのである。本に目を落としてはいたが、その内容はちっとも頭に入ってこなかった。彼らもまた私がいた手前、気軽な話ができなかったはずだ。彼らが何を話していたかは、まったく覚えていない。

 終点の東京駅に着くと、ホームは若い女性でごった返していた。彼女らは、新幹線の窓を覗きながら、ホームを右に左にせわしなく走り回っている。誰かが、

「やられた! シンヨコで降りてる」

 と叫んだ。

「シンヨコだ!」

 あちらこちらから、そういう声が上がった。彼らは東京駅で待ち受けているであろう彼女たちを想定し、一つ手前の新横浜駅で下車し、そこからタクシーで都内まで向かったのだ。

 携帯電話もない時代、彼女らはどうやって情報を共有し、連絡を取り合っていたのだろう。「追っかけ」の執念の凄まじさを見せつけられた思いがした。ある意味、怖かった。

 

 あれから三十年の歳月が流れ、涙する彼の面影に、当時のことを思い出したのである。

 今回、彼らのことをネットで調べてみると、次のように記されていた。

「光GENJIは、一九八七年六月に七人のメンバーでジャニーズ事務所からデビューしたアイドルグループである。八八年には『パラダイス銀河』で日本レコード大賞を受賞。同年のオリコン年間シングル売上の第一位から三位までを独占し、七八年のピンクレディー以来の快挙を達成。『最後のスーパーアイドル』と称された」

 私が彼らと遭遇したのが八八年だから、まさに彼らの絶頂期だったことになる。彼らの後ろで踊っていたのが、後のSMAPだということを知った。しかも長い年月の中で、私は彼らのことをベイ・シティ・ローラーズだと思っていた。ローラースケートに乗っていたから、ローラーズだ、と。かなりの重症である。

 当時、私は二十八歳だった。彼らは一九六八年から七三年生まれだというから、二十歳から十五歳だったことになる。あれだけの女の子に四六時中追い回されていたら、私なら発狂してしまうだろう。光GENJIじゃなくてよかったと、つくづく思ったのだった。

 

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 今年、同級生の大半が還暦を迎える。私は早生まれなので年を越してからだが、大差はない。みな、それぞれに感慨があるようで、さかんに「還暦」という言葉を耳にする。

 私たちが幼いころ、還暦といえばとんでもない年寄りだった。赤いチャンチャンコに赤い頭巾を被らされ、座布団にこぢんまりと座って孫たちに囲まれ写真に納まっている、そんなお祝いの画像が目に浮かぶ。そのころの六十歳の人たちは、全員が明治生まれだった。

 私が幼いころ、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器といわれ、もちろんパソコンも電卓もない時代である。自宅に電話がある家も稀だった。五十年ちょっとでこれほど景色が変わるものなのかと、隔世の感に驚きを禁じ得ない。

 むかしと比べて今の六十歳は若くみえる。それは間違いない。だが、六十歳はやはり六十歳なのである。老眼が進み、年々忘却力が漲ってくる。男たちは頭が禿げ上がり、女は化粧を落とすと顔認証が危ぶまれるほど別人と化す。個人差はあるが、そう遠くない将来にはみな枯れてしまう。

「ねえ、〇〇クン、亡くなったんだってよ」

「えッ……」

「ガンだったみたい」

 すでに何人もの友達がポロポロと欠け落ちている。死んだヤツらは一体どこへいったんだ? 素朴な疑問が頭をかすめる。北海道の小さな漁師町で育ったがゆえ、たいがいの者たちは幼稚園から高校までを一緒に過ごしている。つまり我々はエスカレーター式の一貫教育を受けてきた。それだけに何十年会っていなくても、深いところで繋がっている。

 そんな私も昨年の秋、前立腺がんの疑いをかけられた。いきなり目の前に人生の期限をチラつかせられ、ギョッとした。ある日突然招待状が届く、そんな「お年頃」になってしまったのだ。カツオの一本釣りよろしく、選ばれた人から順次昇って逝くことになるのだろう。話が八十過ぎの年寄り調になってきたので、話頭を変える。

 私が北海道に戻ってきたのは二〇一一年の三月であるから、もう八年前のことになる。三十二年ぶりの北海道生活の再開である。幼なじみ夫婦が札幌でイタリアンレストランを営んでおり、久しぶりの対面となった。店に入って、

「おっ! あつほ、さとみ、久しぶりだな!」

 と声をかけたのだが、二人ともまじまじと私を見つめて怪訝(けげん)な顔をしている。ややあって、

「あの……失礼ですが、どちら様ですか?」

 申し訳ないという真顔で訊かれた。古いなじみ客とでも思ったようだ。

「オレだよ、オレ! ……」

 二人は穴が開くほど私の顔を見ていたが、とうとう私のことがわからなかった。やむなく名を明かすと、二人とも叫び声をあげて飛びついてきた。昨年、数人の同級生がこのお店に集まった。そのときも、誰一人として私のことがわからなかった。

「えっ? 誰だっけ?」

 互いに顔を見合わせ、首をひねっている。私の変貌ぶりは、並大抵のものではないようだ。単に頭髪が失せただけではなく、星霜を経て彫琢された私の風貌は、まるで別人の趣になってしまったのだ。簡単にいえば、経年劣化である。

 私は四十代の後半あたりから、実年齢より十歳ほど老けて見られるのが常態になっている。元来私は消化器系が弱いので、耐用年数の経過した水道管さながらに、内側の老朽化が表面に出てきているのだろうと勝手に了解している。

 このような私だが、五十六歳の秋に縁あって一人の女性と出会った。幼なじみのさとみから紹介されたのだ。エミは二歳下で、お互い一度はパートナーを持ったことがあり、それぞれに娘もいる。私には孫も。そんな私たちが、一緒に歩み始めて三年になる。歩んできた道程も、趣味も好みもまったく異なる二人だが、妙にウマが合う。なにより一緒にいて心地がいい。これからの人生を共に歩んでいこうと決めている。

 早く結婚しろよ、という声が聞こえる。それを誰よりも切実に受け止めているのは私たちである。若いころのように「好きだ、結婚しよう!」という単純な図式が成立しない。大人の事情というものがある。一緒に暮らすタイミングは、もう少し先のことになるだろう。

 なにせこちらは定年退職が目前である。ゴールのテープが、すでに手のとどくところにある。零細企業に身を寄せる者には、豊かな老後など待ってはいない。仕事を続けながら、質素に慎ましく生きていかねばならない。だが、あまりモタモタしてもいられない。握った指の間からどんどん砂が零れ落ちていく。手持ちの時間が刻々とすり抜けていくのだ。

 自分が年寄りになることは、うすうす気がついていた。だが、こんなに早く五十代が終わるとは思ってもいなかった。三十代になり、もう若くはないと中年を意識しつつ四十代を迎えた。四十代から五十代、そして六十代と倍、倍の体感速度で過ぎ去った。六十歳を超えたら、その加速はもう手に負えないという。

 年齢を重ねるごとに坂道がきつくなっている。上り坂の頂点に達したのはいつだったか。五十歳以降は、すでに下り坂だった。六十歳の坂道を二人で楽しく転げ落ちていければと思っている。

 やっぱり話が年寄り調になってしまった。

 

   令和元年八月

 

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