こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅「Coffee Break Essay」のコーナーで発表していました。2020年、定年退職を迎えて終了しております。
2014年から「Coffee Break 別邸」と題し、過去の作品に加筆しながらここに発表しています。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 先日、小学校の授業参観へいった。今回から授業参観の期間が一週間になった。好きなときにきて、興味のある学年の授業を見てくださいという。ずいぶんと学校も開けたものだなあと感心した。

 娘はこの(二〇〇〇年)四月、五年生になった。練馬区の公立小学校に通っている。練馬区は、昨年、区内のすべての小中学校にパソコンを完備した。少子化が進んでいるからできたことである。

 運良くパソコンを使った授業を見ることができた。娘の話からある程度の授業イメージはできていたのだが、実際に見て驚いた。まず教室に入って度肝を抜かれた。会社にも数少ない最新の液晶デスク・トップ型パソコンが、教室の壁に沿って並んでいた。生徒は、その教室に続く別室で靴を脱ぎ、絨毯(じゅうたん)が敷かれた教室に入る。そこには黒板がない。そのかわり、先生のパソコンに接続された映写機とスクリーンがあり、生徒達は先生に背を向けた形で壁際のパソコンに向かう。パソコンは、一人に一台。なにせ一クラス二十四、五人しかいない。

 多くの小学校は、ベビーブームの到来に合わせ、昭和四十年代に造られた。そのあまった教室を活用し、パソコン室ができたわけだ。ちなみに教室の有効活用として、ランチルームなるものがある。給食を摂る部屋なのだが、和食用と洋食用の二部屋があり、給食のメニューに合わせて、使い分けているとのことだった。

 子供達は、椅子に座るや否や、我先にとパソコンの電源を入れる。基本ソフトはもちろんウィンドウズの最新バージョンである。ディスプレイ上のアイコンを次々にクリックしていく。「マイコンピュータ」、「五年生」、「算数とか国語などの教科」、「自分の名前」の順である。生徒ひとりひとりがパソコン上に、自分の領域を持っている。先生も同じ手順でファイルを開いていくのだが、その様子がスクリーンに映し出される。わからなくなった子は、それを見る。最終的に子供が表示した画面は、ワード二〇〇〇。現在、私が苦労しながら、何とか仕事で使っているものである。三十歳も年下の小学生がそれをやっているのだ。しかも、各自の机の横には、ローマ字一覧表が置いてある。全員ローマ字入力なのである。

 私が見たのは国語の授業で、子供達は嬉しそうに詩を作りだした。ただ文字を打つだけではなく、画像も挿入していく。単なる詩をつくる授業では、こうも嬉々としたものにはならないだろう。国語の授業で、楽しく作文や詩をつくるなど経験したことがない。苦痛の時間以外の何ものでもなかった。

 だが私は、釈然としないものを覚えていた。国語の授業である。しかも詩をつくる。作詩作業とは、鉛筆を舐(な)め舐め考え、心像にきらめいた言葉をつづっていくものではないのか。〝したためる〟ものだろう。キーボードから拾い出したローマ字を、日本語に変換していったところで、琴線に触れるような詩ができるのだろうか。

 英語やフランス語と違って日本語は、単なる記号の組み合わせではない。日本語には古来より言葉に魂が宿っている。言霊信仰があるではないか。神主の祝詞がいい例だ。我々は、無意識にそういう世界に生きている。日本人にとって肉筆というのは、特別な意味がある。そこに書き手の心を視るからだ。もし神主がパソコンで打った祝詞をあげたなら、ありがた味がないどころか、怒り出す人さえ出てくるだろう。日本語とはそういうものである。

 たまたま今回の国語の授業は、パソコンでやったにすぎない。自分のイメージする小学校の授業と、あまりにもかけ離れてしまっていることに、戸惑ってしまった。

 技術革新は、想像を超える速度で、急速に浸透しつつある。技術というものは、大人が習得し子供である次世代へ伝える、というのが常識であった。人類誕生以来の基本的な伝承形態である。ここ数年のパソコンの急激な普及が、その常識を覆(くつがえ)している。世代に関係なく、すべての人が一斉にパソコンを使い始めた。お絵かきを楽しむ子供、勉強をする学生、買い物をする人、TVを見る人、音楽を聴く人、商売をする人、用途は様々である。しかもやり出せばおもしろい。

 私も文章を書くのは、紙よりもディスプレイ上で入力した方が、格段に楽である。何よりも校正が簡単だ。もっとも私の場合、字が汚く自分で書いた文字すら読めないことがしばしばある。

 娘は幼いころ、平仮名が読めるようになった段階で、ワープロのキーボードで文章を作って遊んでいた。今の子は書くよりも先に、文章を打つことが出きるようになる。平仮名すら書けないが、読めるからキーを押す。すると文章ができる。こんなおもしろいことはない。パソコンは今や、子供の格好の遊び道具なのである。

「あと数年もすればインターネットが入り、先生とのやりとりがメールで行えるようになります。授業の幅が飛躍的に広がるでしょう。恥ずかしながら私は、パソコンを使えませんが」

 という校長の話があった。

 そういえば先日、娘がかつて通っていた幼稚園の同窓会の送り迎えをやった。同窓会は、小学校を卒業するまで、毎年一回行われる。子供の少ないこの時代、いかに兄弟達を自分の幼稚園に取り込むか、涙ぐましいばかりの幼稚園の努力である。帰り際に娘の元担任が、子供たちとメールアドレスの交換をしていた。

「これからメールでお話しできるね」

 と嬉しそうであった。

 私が昭和五十八年(一九八三)に会社に入ったとき、事務所で算盤のできない者は私ひとりであった。これは大変だとまわりが騒いだ。家に帰ってから毎晩、算盤の独習をした。当時、〝算盤ができない〟は、そのまま〝仕事ができない〟を意味していた。翌年、会社に二台のワープロが入った。わが社のOA機器の第一号である。もちろんファクシミリやコピー機はあった。五十名ほどの社員に二台のワープロである。今では笑い話だが、当時、ワープロは高価なもので、大英断の末の導入だった。

 私を含めた数名の若手がワープロの講習会を受けにいき、あっという間に事務所にワープロが普及した。あらゆる文書がワープロに置き換えられ、仕事の効率が格段に向上した。そのうち、稟議書や現金出納帳をワープロ打ちしようとして、待ったがかかった。これらの書類は、精神を集中し、気合いを入れて書くものだといわれ、ワープロ打ちを認められなかった。

 三年前にパソコンが導入された。インターネット、電子メールと使い勝手は広がるばかりだ。今ではパソコンがなければ、まったく仕事にならない。ひとりに一台が常識である。かつて算盤ができずに大騒ぎをした上司が、今度はパソコンを前に青ざめている。すっかり立場が逆転した。

 インターネットの普及は、仕事の仕方を激変させつつある。文書の回覧はメールで行われ、稟議の決済も決裁者が出張していても出先から行うようになり、会社の意志決定が格段に早まった。業務報告も営業レポートもすべてメールでの回覧になるだろうし、もちろんオーダーもメールで行われる。今日会社を休むという連絡もメールになるだろうし、酒への誘いにもメールが活躍しそうだ。パソコンはもはや道具ではなく、企業にとって不可欠な戦略兵器となりつつある。これが二十一世紀ということなのか、と思い知らされた。

 五年生の娘は、平成元年(一九八九)生まれである。平成元年の早生まれが、六年生の四分の一を占めている。つまり、昭和生まれの小学生が来年には完全にいなくなる。彼ら平成軍団は、あと七年ほどで社会に出始める。二十一世紀という時代の容貌を垣間見る思いがした。

 情報技術(IT)革命というものが、知らぬ間に背後に忍び寄っている。ITは、人々のライフスタイルさえ一変させる威力で、我々が常識だと信じてきたものを覆(くつがえ)そうとしている。

 

  降る雪や 明治は遠くなりにけり

 

 とは中村草田男(くさたお)が昭和の初め、遠く過ぎ去った明治への懐古を詠んだものである。この分では、我々の昭和は恐ろしいスピードで遠ざかってしまうだろう。句作などしているゆとりすらないかもしれない。

 

  2000年6月 初出  近藤 健(こんけんどう)

  加筆履歴 2006年3月、2015年5月、2019年7月、2021年5月

 

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 私はひどい機械オンチである。昨年、テレビを買い替えるまで、自宅のビデオの録画もできなかった。結局、テレビが壊れて買い替えたのだが、マンションの集合アンテナがダメになったと大家に連絡し、電気屋が点検にくるという騒ぎを起こした。新しいテレビは、録画機能が内蔵されており、ボタンを押すだけで録画が可能になった。妻と別れ、北海道で一人暮らしになって十年、録画とは無縁の生活を送っていた。だが、不便を感じたことはなかった。

 娘が中学生のころ、通っていた学習塾からケータイにアンケートがあった。返事が返せない。やむなく無視を決め込んだ。二週間ほどの間に三度も同じメールがきた。そのうち若い女性事務員から電話がかかってきて、なぜ、アンケートに答えてくれないのかと言う。

「ゴメンなさい、私、メールできないんです」

 との私の答えに、電話口の女性がフリーズし、放免となった。女性は「メールができない」という答えを、まったく想定していなかった。そのうろたえ方が気の毒だった。

 困ったのは、東日本大震災のときだった。私はすでに北海道にいた。東京の娘への安否確認をしなければならない。電話がつながらないので、会社の女の子に頼んでメールを打ってもらった。そんなことがあっても、私はケータイをトランシーバーに毛が生えたようなものとしか考えていなかった。

 四年半前、幼なじみのさとみから、えみ子を紹介された。その少し前、

「あんた、まだラインもやってないのかい」

 と言うなり、私のスマホをひったくったさとみは、あれよあれよという間に、ラインを開通させてしまった。えみ子とつき合うようになって、えみ子はラインでメールをよこし、私の方はフェイスブックのメッセンジャー機能を使って返事をしていた。パソコンからキーボードを使って打っていたのだ。ラインとメッセンジャーでのやり取りである。テニスのラケットと卓球のラケットをそれぞれが持ち、互いに違う球を打ち返しているようなものだった。そんなチグハグなことをしばらくしていたが、たまらず私の方がテニスのラケットに持ち替え、同じ土俵に上がった。今では、パソコンとスマホの二刀流でラインをしている。私たちは互いに電話がダメ、音波による会話が苦手だった。最初のころは慣れないツールに、何度かハートマークの付いたメールを娘に送った。そんな誤爆のたびに、

「キモイんだけど」

 というメールが返ってきた。

 えみ子も機械には強くはないが、私ほどの底抜けではない。なにより彼女には、二人の娘がサポーターとしてついている。私も今では、スマホでラインもするし、フェイスブック、インスタグラム、ツイッターにブログ、そしてティックトックと、SNSを縦横に駆使している。

 私は、二〇一三年五月にマイカーを持った。札幌への転勤を機に雪解けを見計らって購入した。私は、クルマの運転もダメだった。ゆえにクルマへの興味は皆無だった。北海道では、クルマなしでの生活は考えられない。しぶしぶの購入だった。

「どうせ、半年くらいで大破させちゃうんだから、刑事コロンボみたいなクルマ、どこかにないかな」

 と車種の選定を同僚に丸投げした。えみ子と知り合ったのは、二〇一六年九月である。

「ナビも他人任せで選んだから、テレビも映らないよ。ちょっと失敗だったな」

 そんな会話をしながら、二人で休日のドライブを楽しんでいた。ある日、えみ子がCDを持ってきた。帰り際、そのCDが入れた穴から出てこなくなった。どうしても取り出せず「また来週聴くわ」と言って彼女は帰ってしまった。

 数日後、なんとかCDを取り出したいと思った私は、あらゆるボタンを片っ端から押しまくった。すると、ナビの画面にいきなりテレビの映像が映った。それは、私が人生で何度も経験したことのない、強い驚きだった。二〇一七年春のことだった。私はクルマを購入してから四年もの間、ラジオだけで過ごしていたのである。

 現在、二人で遠出をするときは、えみ子のスマホとカーナビをブルートゥースでつなぎ、音楽を聴いている。もちろん、私には操作できない。

 とにかく新しいツールが次々に出てくる。二〇一六年、私はマイナンバー制度のスタートと同時にマイナンバーカードを作成した。これまでマイナンバーカードは、住民票や印鑑証明の取得だけにしか使っていなかった。要は、ほとんど使っていなかった。

 今年はコロナ禍とも相まって、マイナポータルに登録して確定申告の完全電子化に挑戦した。何度もくじけそうになりながら、そのたびに自分を奮い立たせた。なんとか申告・納税にまで漕ぎつけた。

 厚生労働省が行っているコロナ陽性者との接触アプリも、間髪入れずに入手していた。「だいじょうぶだ」「今日もセーフ」最初のころは毎日のようにこのサイトを眺めていた。だが、最近になって、プログラムの不具合で四ヵ月もアプリが作動していなかったことを知った。

 クレジットカードで身に覚えのない商品代金を引き落とされたり、アンチウィルスソフトをネットで購入したつもりが、それが詐欺だったということもあった。これまでに二度、まんまとダマされた。だが、幸運なことに、クレジット会社から返金を受けることができた。

 私は一九六〇年生まれである。私の年代では、SNSとは無縁な者が大勢いる。そういう世代なのである。これから、加速度的に様々なツールが登場してくるだろう。なんとか時流にしがみついて、乗っかっていたい。力尽きて、それを諦めたとき、私は本当の年寄りになる。

 

  令和三年五月 初出

 

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 私が随筆春秋でエッセイの添削指導に携わるようになったのは、二〇一四年五月からである。データを遡ってみると、坂野さんの作品に初めて接したのは、その年の七月のことであった。それから六年、添削数は二十本にのぼる。今回、過去の添削コメントをザッと眺めてみた。すると、次のような記述があった。

「本作品は、坂野様の人生のほんの一端を綴ったものですが、私としては生い立ちから現在に至るものも、ぜひ読んでみたいという思いに駆られました。こういう五、六枚の完結した作品を思いついたところから書く、そういう積み重ねが坂野様の人生の絵巻につながるのではないでしょうか。丁寧に順序立てて書くのは、あまり好ましいことではありません。構えてしまって、うまく書けないものです。思いついたところから書いてみる。それをあとで並び替え、パッチワークのように繋げていくのです。どうぞ、挑戦してみてください」

 三年前の春、私はこのような提案をしていた。今回、坂野さんはそれにみごとに応えてくれた。私は貞子さん(このように呼ばせていただくご無礼をお許しください)のことを作品を通してしか知らない。今回いただいたプロフィールを眺めていると、貞子さんの輪郭がおもむろに浮かび上がってきた。

 貞子さんは昭和十年(一九三五)三月に長野県下伊那郡平谷村(ひらやむら)に生まれている。平谷村は信州の南端に位置し、信州と三河を結ぶ三州街道の宿場町として栄えた土地である。標高九〇〇メートルに位置し、人口は四〇〇人ほど。平谷村は、現在、長野県下で最も人口の少ない村だと、村のホームページに記されている。

 中学を卒業した貞子さんは、名古屋にある小さな医院に住み込みで勤め始める。そこで働きながら助産婦学校を出て、助産師の資格を得る。その後、別の病院に勤務しながら夜学の高校を出、さらに短大まで卒業し、中学の教員免許を取得するのだ。貞子さん、二十七歳の春のことである。

「(社寺などの)案内書を読んでいると、もっと知りたいことが数珠つなぎになって出てくる」

 貞子さんの探求心の旺盛さは、作品の随所に顔を見せる。紙数に限りがあるので、ここでご紹介できないのが残念である。また、貞子さんの魅力は、このまじめさの底流に、そこはかとないユーモアがあることだ。

「私は後期高齢者であるが、できたら年を重ねても、小ぎれいにし、かわいいおばあさんになれたらなあと願っている。(略)人は顔形は替えられないが、髪型は変えられる。私は幸い髪の量が多いので、髪をセットしてもらい顔をカバーできないかと考えている」

 大まじめに語れば語るほど、ユーモラスさが行間から溢れてくる。

「ひざを痛めて整形外科へいく。リハビリに通い初めて三ヵ月が経過した。だが、ひざの痛みは一向によくならない。かたわらの女性にどのくらい通っているのかと聞いたら、七年だと返ってきた。週に何度通っているのか尋ねると、毎日だと。話していると、みなさんは『もう死なないと治らない』と明るく笑いながら話してくれる」

 貞子さんにはお目にかかったことはないのだが、そのご様子が目に浮かぶ。

 本書には六十本のエッセイが収録されている。圧倒的な質量をもって迫ってくるのは、二〇一一年八月にご主人が脳溢血で倒れて入院後、老人保健施設に入所されてからの記述である。ご主人の施設での生活がいくつかの作品に垣間見られる。

「暑い寒いといっているうちに、今年一月で一年が過ぎたが、彼は立ち上がることも車イスに乗ることもできなかった。残念だった、悔しいけれど私は諦めてはいない」

「少しでも元の体に戻してやりたい。懸命に働いて家族を守ってくれた夫に、もう一度、歩く喜びを与えてやりたい」

 貞子さんの祈りにも似た思いが伝わってくる。貞子さんはその一念で施設に足を運び、献身的な看病を行う。その姿に、他人ながら熱い思いが込み上げてくる。

 貞子さんはご主人を元に戻すための第三次、十年にわたる独自の計画を立てていた。施設のリハビリの時間が足りないと嘆き、独自のリハビリを施すのだ。肩のマッサージから始め、両手のマヒを防ぐために両手を上下左右に伸ばしたり曲げたり。手と同様に脚も行う。

「最後には夫の両手を引っ張り、車いすの背もたれから離してやるのだ。その際、『お父さん、綱引きやろうネ』と言うと夫はとても喜ぶ」

 その後、ご主人はどうなったのだろうか。貞子さんは何も語ってはいない。そんな疑問に答えてくれたのは、事務局を通して貞子さんとの連絡の取次ぎをしてくれていた長女の節子さんだった。

「父は二〇一一年八月に倒れ、入院を経て施設に入所し、二〇一六年十二月に亡くなりました。五年間、母は毎日のように通って看病していました」

 初めてわかったことである。実は、貞子さん自身も現在、老人保健施設に入所されている。ご主人が亡くなった翌年の夏ごろから体調を崩され、入退院を繰り返し、その間に骨折もされたりして、昨年十二月から施設にいる。施設から送られてきた作品を何作か添削させていただいた。だが、ご主人が亡くなられたことは、一切語られていなかった。

 ご主人を亡くされた貞子さんの喪失感は、察するに余りある。亡くなられてすでに四年になるが、ご主人のことを書くには、相応の時間が必要なのだろう。

 貞子さんは作品の中で、次のように語られている。

「……丈夫で長生きして、エッセーをたくさん書き、生きた証を残したい。心からそう願っている。だから休んでなんかいられない、とついつい思ってしまうのだ」

 貞子さんは本書により、一つの大きな金字塔を打ち立てられた。お子様方、お孫さんたち、そして未来につながるそのまたお子さんが、折に触れ本書を手に取られることがあるだろう。貞子さんの尽きない探求心と創作意欲により、これからも本書の追記作品が生み出されることを願ってやまない。

 

  随筆春秋代表 近 藤 健

  令和二年九月一日

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 私は、中学を卒業する十五歳までふるさと様似(さまに)で過ごした。様似は、えりも岬にほど近い、北海道の太平洋に面した町である。そんな町で海とともに暮らしてきた。

 柔らかな日差しが踊る春の海、吹く風はまだ冷たいが海面には光が溢れている。生まれたばかりのような初々しい煌(きら)めきが踊る。私がかよっていた中学校は、遠くに海を見下ろす小高い山の中腹にあった。窓から差し込む柔らかな日差しが、学生服の肩を温める。

「春の海 ひねもす のたり のたりかな」

「波は寄せ 波は返し 波は古びた石垣をなめ……」

 海を眺めがら、そんなフレーズを耳にした国語の授業を思い出す。

 海は、穏やかな日ばかりではなかった。

 鉛色の雲が垂れ込める冬の海、横殴りの雪が頬を叩く。波は凄まじい唸り声を上げながら防波堤を打ち砕く。低気圧の接近に、海が怒り狂う。逆鱗に触れたようなその怒気は、怒濤となって押し寄せてくる。海面が真っ白に沸騰する。

「ねえ、おかあさん、海の水、家まで来ない?」

 地響きのような怒りの重低音に怯え、布団の中で震えた幼い日々があった。

 爆弾低気圧は、ときとして思いもかけぬ贈り物をもたらした。嵐が去った浜に、割れたホッキ貝が大量に打ち寄せる。どこからともなく大勢の町民が集まってきて、波打ち際でそれを拾う。あっという間にバケツがいっぱいになる。このホッキを塩、胡椒とバターで焼く。自分が獲ったものは、格別な味がした。ナマコが大量に打ち寄せたこともあった。その時もバケツから溢れた。季節によって、または時化の状況によって、思いもかけぬ恩恵がもたらされた。

 様似周辺は、北海道の中でも海産物の豊富な地域である。だが、そんなことに疎い私は、いつの時期にどんなものが水揚げされるのか、ほとんど理解せずに過ごしていた。日高昆布はふるさとの代表的な産物だが、その昆布を食べているガンゼ(バフンウニ)やノナ(ムラサキウニ)も豊富に獲れる。磯の縁(へり)に腕を入れると、それだけでバフンウニがいくらでも獲れた。それらを持ち帰るのは、当時から厳しく禁止されるようになっていた。だが、その場で食べる分には、寛大であった。イモの葉につくテントウ虫を農家が嫌うように、昆布漁師にとってウニは、昆布の天敵であった。

 マツブ(真螺)といわれるエゾボラは、様似を代表する特産品の一つだ。大きいものでは二十センチほどになり、重量も一キロを超す。ホラ貝ほどではないが、かなりの大型のツブ貝である。むかしは、「つぼ焼き」というとこのマツブのつぼ焼きのことだった。だから、湘南海岸の江の島でサザエのつぼ焼きを目にしたときは、その小ささと値段の高さにのけ反った。マツブも今では高級食材となっている。

 私の父は様似の漁協(漁業協同組合)に勤務していた。それゆえ、海産物の恩恵には大いに預かった。

「このおやんずなら、ほんと世話焼げるもなァ」

 と言って、漁師のオジサンが木箱に入ったエビやツブなどをドサッと玄関に置いていく。時には、大人の背丈ほどもあるミズダコもあった。海産物をやるから、仕事帰りに立ち寄ってくれと声をかけられても、父はもらわずに帰ってきてしまうのだ。漁協に勤めている者の特権のように何でももらってくる、そういうことが父にはできなかった。漁師にしてみれば、手間のかかる面倒な職員だったようだ。

 日曜日の朝などは、遅くまで寝ている我が家の玄関先に、毛ガニやバフンウニ、キンキなど、様々な海産物が届けられていた。

「あれ……、誰だべ」

 木箱に刻印された屋号から、「ヤマヨさんだわ」とか「カネシメだ」と判断していた。また、海産物の種類からも、誰が来たのかおおよその見当がついたようだ。秋になると何本ものタラやシャケ、ミズダコの足が家の軒下にぶら下げられた。遠方の兄弟や姉たち送って近所にも配り、それでも余ったものを吊(つ)るすのだ。それらは木の棒のようにカラカラになるまで干し、おやつ代わりに毟(むし)って食べた。魚介類は買ったことがない、そんなことを母が言っていた。

 海で暮らすということは、いいことばかりではない。海には容赦のない残酷な一面もある。小学一年か二年のときの夏休み中のこと。

「シンちゃん、バスに乗り遅れて(泣き)ベソかいてたから、オートバイに乗せてプールまで送ってやった」

 帰って来るなり、父がそんなことを言った。慎一は、私の同級生である。前の年、漁に出た慎一の父親が海難事故に遭った。船が転覆したのか、海に投げ出されたのか、今となっては定かではない。海難事故が起こると、漁師たちは漁をやめて懸命に捜索をする。だが、慎一の父親は見つからなかった。慎一は長男で、就学前の弟もいた。母親のお腹には、三人目の子も。私の父親は、そんな慎一をいつも気にかけていた。

 海水浴での事故もたびたびあった。

「ほれ、あの人…… また、来てるよ」

 町の人たちのそんな囁(ささや)きを耳にしたことがある。

 何年か前の夏、海で溺れた学生がいた。夏になると、海辺にたたずむ都会風の年配女性の姿を見るようになった。大学生の母親である。東京から来ているとの噂だった。夕暮れの海辺を歩く母親の背中を、町の人々は遠巻きにそっと見守っていた。

 穏やかな海は、豊かな恩恵をもたらしてくれる。だが、時として非情な一面を覗(のぞ)かせる。だから、人々は畏敬(いけい)の念をもって感謝する。海を憎むことはあっても、いつまでも恨み続けることはない。

 

  令和三年三月 初出

 

 付記

【様似で獲れるもの】

スケソウダラ、サケ、マス、ハタハタ、サバ、サンマ、キンキ、メヌケ、ホッケ、サメ、カレイ(真ガレイ、宗八、ババガレイ、オヒョウ、マツカワ、サメガレイ、オイランガレイ、黒ガレイ)、ヒラメ、カジカ、チカ、シシャモ、イワシ、ソイ、キンメダイ、ハッカク、カスベ、エイ、スルメイカ、ミズダコ、ヤナギダコ、ナマコ、ホヤ、エビ、毛ガニ、ウニ(バフウンウニ、ムラサキウニ)、ツブ(灯台ツブ、毛ツブ)、アサリ、白貝、ホッキ貝、ヒル貝(ムール貝)、フノリ、マツモ……

 

【様似で獲れないもの(若干の水揚げはあるが本格的ではないものを含む)】

ニシン、ブリ、マグロ、アンコウ、タイ、アジ、タラバガニ、花咲ガニ、ホタテ、アワビ、サザエ、カキ……

 

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 私は作文がまったくダメだった。「ダメ」というのは、死ぬほど嫌いだったという意味である。それはもう苦手中の苦手で、まるで書けなかった。だから、小学生の夏・冬休みの最終日は、涙なしに過ごした記憶がない。宿題の読書感想文が書けず、どれほど母を煩わせたことか。

「せめて、マンガでもいいから読んでくれるといいんだけどね……」

 そんな母の嘆息が耳に残っている。

「私は高校生まで本も読んでこなかったし、そのせいで作文はからっきし苦手でした」

 そんなことを言っても、自分の声がむなしく反響するだけで、誰も取り合ってはくれない。「よくもまあヌケヌケと……」「……謙遜にもほどがある」と言う顔を向けられる。それだけ拙作を評価してくれている、という意味ではありがたい。だが、理解されない寂しさが胸底に静かに沈殿している。滑稽な話である。

 私がエッセイの同人、随筆春秋に入ったのは、二〇〇三年の春である。随筆春秋賞をいただいて、誘われるままに入会した。賞をもらった手前、断れなかったのだ。「まあ、一、ニ年も入っていれば、義理も立つだろう」そんな思いで入会した。

 それから十六年、二〇一九年の冬に随筆春秋は法人化し、私は表向き「代表」というポジションに据えられている。本意ではない。だが、そうすることで運営が円滑に回るというので、やむなく受けた。

 随筆春秋は、会員、スタッフ合わせて百人の所帯である。本部は東京にあるが、会員は日本各地に散らばっている。海外在住者もいる。今の時代、どこにいようが関係ないのである。現に私は北海道だ。そんな会員の大方は、若いころに文学青年であったり、文学少女と言われるほど、作文が得意な子供だった過去を持っている。そもそも作文のダメな男がいるような場所ではないのだ。だから、終始腰が落ち着かず、常にソワソワしている。

 私は、高校、予備校、大学と寮生活を送ってきた。大学はアパートだが、寮とほぼ同じであった。そんな中に文学かぶれの友達もいた。文学を熱く語っている場面に、幾度となく出くわしてきた。私にはまったくのチンプンカンプンの世界で、ただ蚊帳の外から傍観しているだけだった。いまだに文学談義などできない。

 私が本を読みだしたのは、高校一年からである。六十点台で低迷する現代国語の点数を引き上げるのが目的だった。高校三年で受けた全道模擬試験の現代国語の問題に、斎藤茂吉の『赤口(しゃっこう)』の短歌が出ていた。私はその歌にいたく感動して、問題を解くのを止め、以降の試験をボイコットして試験会場を出てしまった。あまりにも心が震え、バカらしくて試験などどうでもよくなったのだ。私は他人よりも感情量が多いのかもしれない。後日、担任から試験結果を訊かれ、受けていない旨を伝えると、

「冗談は顔だけにしてくれよ」

 と言われた。

 私の読書は、就職してからも続いた。二十八年に及ぶ東京でのサラリーマン生活の中で、往復二時間の通勤電車は格好の読書の場だった。どんなに混んでいても、数センチの隙間を見つけて本を読んでは心震わせ、時に涙していた。

 そもそも私が作文を書き出したのには、已(や)むに已まれぬ事情があった。三十八歳のとき妻が精神を患い、妄想からくる暴力でこちらがダメになりかけた。それを救ってくれたのが作文だった。残業も出張も転勤もできなくなった私は、子会社へと出向になった。そこでノートパソコンを貸与され、処理しきれなかった仕事を自宅でやっていた。やがて仕事に慣れるとパソコンは不要になったが、それを利用して作文を書きだした。もちろん妻の前では仕事を装っていた。

 一つの文章を何日も何日も書いては書き直す、そんな生活を送っていた。思いの丈を納得がいくまでとことん書き直した。それが私の精神を救った。一作品を作るのに三ヵ月も四ヵ月も費やす。もうこの辺でいいだろう、という妥協をしなかった。そんなことをやりだして二年が経過したころ、私の書いているものは、世間に通用するものなのだろうか、そんな疑念が頭を擡(もた)げだした。それで応募したのが、第八回随筆春秋賞だった。四十歳を機にエッセイを書き始めて三年目のことだった。

 当時の代表は、斎藤信也先生だった。斎藤先生から受けた添削は、四十本を超えた。この添削指導がなければ、今の私は存在しない。彼の指導により、私はコペルニクス的転回を遂げた。そういう意味では、大恩の師である。同じころ、同人の石田多絵子氏からも添削を受け、さらに作家の佐藤愛子先生、脚本家の布勢博一先生からも文章指導を受けてきた。佐藤愛子先生からは今でも折に触れ、作品の講評をもらっている。一介のサラリーマンが、プロの作家から長期間にわたり文章指導を受けるなど、極めて稀有なことである。

 そんな流れの中で、現在は私がエッセイの添削指導に携わるかたわら、会員の自費出版本の監修までさせてもらっている。私は一九九五年から一年半にわたり、通信教育で校正の勉強をしていたことがあった。これが今になって大いに役立っている。

 何よりも苦手としていた作文の世界にどっぷりと浸かって二十年が過ぎた。妻は十二年半の闘病生活ののち、私が五十歳の時に家を出て行った。同類の病を患う入院仲間の男性のもとに走ったのだ。人生とはどこで何が待ち受けているか、まったく読めたものではない。塗炭の苦しみの中に腹をくくって居座る。必死に何かに熱中していたら知らぬ間に道は拓けていた、そんなことを身をもって体験してきた。「だから人生は面白い」と言うのだろうが、面白いなどと思える余裕は、いまだ持てずにいる。

 私は作文がダメだった、そんな一端が今でも窺えるのは、一作品を書きあげるスピードに現れている。作品に費やす時間は、人の三倍から五倍、実際にはもっと多いかもしれない。書いては直し、削ってはつけ足し、また削る、そんな作業をアホのように延々と繰り返している。十年前に書いたものを、これまでに何度、手直ししてきたことか。おそらく私は、死ぬまでそんなことを続けるのだろう。

 数年前、某学習塾が主催する全国模試の試験問題に拙作が採用されたことがある。難関中学受験の問題になっていた。その中に「……作者の気持ちの変化を○○字以内で記せ」という問いがあった。とてもじゃないが時間内に解けるものではなかった。私の国語力は、いまだそんなものである。

 正直言って作文は苦手だ。だが、書くことは救いである。人生に彩(いろどり)を添えてくれている。

 

  令和三年二月

 

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 ウイスキーのボトルを眺めている。「まだ、半分ある」と思うか、「もう、半分しかない」と考えるか。

「大変、もう半分も飲んでしまった。どうしよう……」これが、私だ。

 総じてものごとを楽観的に捉えられない。どんなときでも「どうしよう……」が枕詞のようにつきまとう。なにごとも悪い方向にしか思考回路が作動しないのだ。

「誕生日、おめでとう」

 と言われ、表向きは嬉しそうな素振りをみせる。だが、一方で「人生の残り時間が刻々と削られている。死へのカウントダウンだ。どうしよう……」と考えている。三十代の後半から、オレはもうすぐ死ぬんじゃないかと、常にビクついてきた。高校時代、帰省の列車の中で国鉄の幹部職員と相席になったことがあった。その人は、若いころ高名な漢学者の門下生となり、住み込み生活の中で姓名判断を学んだという。このままではあなたは四十代で命を落としかねない。名前に「一」を加え画数を増やせ、と言われた。以来数十年、私は「健一」と称していた。私が二十三歳の時、父が五十一歳で病死した。この二つの出来事が、ただでさえ情けない男をよけいにビビらせた。

 できれば、この性格を何とかしたい。だが、性格というものは実に堅牢な殻で鎧(よろ)われており、何が何でもビクともしない。自分で自分の性質に疲れ果てる。

 そんな私の対極にいるのが、相方のエミである。私とはまるで正反対で、違う物質でできているのではないかと思うほどだ。

 エミはクヨクヨしない。ウジウジもしない。もちろん、人並みに心配事は抱えている。平均以上かもしれない。だが、潔くバッサリと斬るのだ。負の回路を一定のところで遮断する。それ以上考えてもどうしようもないことは、いつまで悩んでいても埒(らち)が明かない。だから考えない。スカッとするほど単純明快だ。男らしい。だが本人、心配事と認識していない向きもある。悪く言えば「能天気」だ。かといって、深慮に欠けているわけではない。この点に関しては、私より数段優れている。

 煮え切らない不完全燃焼男と能天気な女がコンビを結成して四年がすぎた。石橋を叩いて渡る男が、力あまって石橋をたたき壊し、呆然(ぼうぜん)と行く手を眺めている。その男の背後で、天真爛漫な笑い声がする。そんな極端な二人だが、なんとなく互いに補完し合い、ゆるく噛(か)み合っている。いがみ合うこともないし、ケンカにもならない。

「しかたのねえヤロウだな」

 口には出さないが、互いにそう思っている。言葉とは裏腹にひそかに尊重しあっている部分もある。馬が合うのは、その辺の均衡が絶妙に保たれているからなのだろう。この歳になると、お互い大きなハンディを背負っている。二人とも二十年を超す夫婦生活を経験している。私は離別で彼女は死別だ。お互い娘を持つ。

 私たちは六十歳を挟んでプラス・マイナス一の年齢である。それゆえ若いころの恋愛とは違い、妥協の範囲がハンパではない。ハゲていようが、シワだらけだろうが、腹が飛び出ていたって、そういったものすべては、ストライクゾーンの範疇(はんちゅう)なのだ。眼も霞んでいるのだから、少しぼやけているくらいがちょうどいい。凄まじい寛容さだ。お金があればそれに越したことはないが、大切なのはやさしさだ。互いに思いやり、いたわりあう気持ちを持続できる関係であれば、それでいい。他人の幸せを羨まない。自分たちの幸せの形を見つけ出せばいいのだ。金がないことをごまかそうと、片っ端から拾い集めた理論をこれでもかと塗り固めていく。

 二〇二〇年一月、私は六十歳に到達し、定年退職を迎えた。引き続き嘱託で再雇用されている。そのまま辞めてしまう手もあった。だが、例のごとく将来への不安を払拭できず、ズルズルと留まっている。何歳で死ぬのかはっきりとわかれば、そこから逆算して計画を立てられるのだが……。相変わらず、アホな思考回路が作動している。再び石橋を叩き壊そうとしているのだ。冒険のできない、つまらない男である。

 さて、これからどうするかだ。いくら煮え切らない男とはいえ、いつまでも今の状況を続けているわけにもいかない。近い将来、どこかの時点でエミと生活を共にする。そのためには、クリアしなければならない課題がいくつかある。若いころのように、「好きだ、結婚しよう!」という安直な方程式は成立しない。

 とりあえず、年末ジャンボ宝くじは購入した。五億も十億も必要ない。だから「ミニ」の方にした。当たりくじも多い。連番十枚、バラ十枚と、緩急をつけた。大晦日、それがハズレてもショックを吸収できるよう、初夢宝くじも購入している。その辺はぬかりない。

「ケツの穴の小せぇヤロウだなぁ」

 そんな声が降ってくる。なんだかな……、やっぱり情けない男だよ、お前は。

 

 え? 宝くじ? もちろん両方ともカスリもしなかった。

 

  令和三年一月十五日 初出

 

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 選ばれる側、挑戦する立場から、選ぶ側に回ったのはいつのころだったろう。気がついたら選ぶ方にまわされていた、というのが正直なところである。

 所属している同人誌のエッセイ賞の選考に本格的に携わっている。以前にも下読みと言われる予備選考にかかわっていたことはあった。

 エッセイ賞などの文学賞の場合、多少の違いはあるが、だいたい似たような選考過程をたどる。全国各地から集まってきた原稿を何人かで手分けして読んで、評点の高い順から採(と)っていく。第三次または第四次選考が最終選考となり、最優秀賞、優秀賞、佳作が決まる。場合によっては、特別賞や奨励賞などを出すこともある。

 作業は単純である。いい作品とそうでない作品を選別していく。水揚げした鮭を瞬時に雄と雌に選り分けていく。または、ひよこの尻をみながら雌雄を選別していくのと作業的に大差はない。十数名で分担して千本ほどの作品にとりかかる。その中からまず百本程度を選び出す。

「悪い作品を採ることはあっても、秀作をとりこぼすことはない」

 どこかでそんな文章を読んだことがあるが、実際に携わってみると納得がいく。いろいろな人が様々な思いで書いてきたものである。万が一にも見落とすことは許されない。いい作品を採りこぼさないためには、複数人での選定が求められる。

 この百本からさらにもう一段絞り込んで二十本にする。二十本を選出する作業も、さほど難しいことではない。各自がいいなと思って選別した作品を数えてみると、だいたい二十作前後になっている。不思議なことだが、この数は大きくぶれることはない。応募作品が五百本だったころも、千本になってからも、一定の完成度の作品として選び出されるのは二十本なのである。

 問題は、選定した作品が十六本だったり二十五本になった場合、限りなく二十本に近づける作業を行う。この二十本が「入選作」になるからだ。この選別が難しいのだ。正直なところ、十六位と二十五位に大差はない。それでも読み比べて優劣をつけていく。応募者側の真剣さを思うと、こちらも生半可な気持ちでは臨めない。誰もが納得のできる優劣差を見つけ出していく。

 人にもよるが、私の場合は、作品を読みながら五段階評価で点数をつけている。五段階といっても、1はない。2もすでに篩(ふるい)にかけられているから、これもない。5は文句なしに次のステップへ上げる。問題は3と4である。3下、3、3上、4下、4、4上と細分化する。最終選考では、5も細分化する。選定の基準は、自分の感覚である。オノレの感性が問われる。

 選考に当たって難しいのは、この二十本前後の作品の選定と、そこから五本選び出した時のそれぞれのボーダーライン周辺の作品の選定である。実は、二十本の選定を行っている過程で、上位五本が先に決まってしまうことが往々にしてある。先頭集団は、すでに独走態勢に入っているのだ。この五本が最終選考に残る作品となる。ただ、ここでも六位の作品、七位の作品は納得のいく形を見つけて切り落とす。五位と六位が拮抗している場合は、六位までは採るが、七位は落とす。

 ここまで絞られてくると、作品の純度もそれ相応に増してくる。この作品を選外にしていいのか。自分の判断は間違っていないか。そんな葛藤が始まる。飛びぬけて秀逸な作品があれば、選考は簡単に終わってしまう。優劣のつけがたい作品が残った場合、これが厄介なのだ。

 客観的に見て、自分が選んだものは本当に優れた作品なのか。そもそもすぐれた作品とは何なのだ。自分に関心のあるものを無意識のうちに優先して選んではいないか。落とした作品の中に、いい作品を取りこぼしてはいないか。強迫観念に駆られ、いったん落とした作品群を慌てて掘り返す。

 AとBでは明らかにBが優れている。その優れた部分は、自ら光を放つまでに磨き込まれているか。自分の好み、自分の価値観に近いものを選んではいないか。作者の職業や社会的地位、学歴、業績、年齢、性別などが評価の邪魔をしてはいないか。海外からの応募作品を特別扱いしていないか。そんな自問自答を延々と繰り返す。Aを読んだときにはまだよかったが、Dの段階ではすでに疲労困憊であった、では公正で客観的な判断ができない。均一な体調で一気に読むことが求められる。

 予備選考の段階で、選考委員が推薦する作品にはコメントがついてくる。自分が選んだものは、各委員の推したものと合致しているか。誰も推していない作品を自分一人が推す、そんな状況になっていないか。恐れる場面である。自分が間違っているのではないか、といった負のスパイラルに陥る。そうなることを極端に怖がっている自分がどこかにいる。だから、採った作品の理由づけより、選外にした作品の合理的な言いわけ探しに躍起になる。明確な論旨で、誰もが納得する形にしておかなければならない。だが一方で、なにもそれほどに迎合する必要はないじゃないか。もっと自信を持て。自分を信じろ。そんな檄(げき)が飛んでくる。試されているのは、オノレの力量である。

 いい作品というのは、原稿自体がいい雰囲気を醸し出している。読む前から書き手の気迫が感じられる。凛とした気概のようなものだ。そんなレッテルを貼って一概に決めつけてはいけない。だが、そんな作品は、応募規定の書き方ひとつとっても、他の原稿とは一線を画している。作者の祈りにも似た強い思いが漲(みなぎ)っている。

 読み手の琴線にそっと触れる、そんな作品に出くわしたとき、救われる思いに包まれる。いくら体裁をとり繕っても、実体験に基づかない作り物は、リアリティーを持って人生の葛藤を衝いてこない。闇を突き抜ける光を描いた作品、そんなものに出会ってみたい。

 

  令和二年十一月 初出

 

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 この作品集の柱は、冒頭の十一章からなる教員時代のお話である。若さ漲る初々しい娘が、教員採用面接に臨むところから始まる。命じられた赴任先は、北海道・江差町から四十キロほど離れた小さな漁村である。作中、どこの村なのかは明かされていないが、自然豊かでのどかな村である。そこで暮らす純朴な人々との交流が、余すところなく語られている。

 作者である瀧沢鈴さんが赴任したのは、昭和十九年(一九四四)三月である。七十六年前のことになる。

「こうして我が家から、職業婦人第一号なるものが誕生したのであった」

 この「職業婦人」という言葉が、その時代の気分というか、これから始まる新生活への大きな期待を現わしている。だが、ここまで書いてきて、ちょっと待てよ、と首を傾げた。瀧沢さんは一体、おいくつになられるのだ? 事務局に確認してみると、今年の秋で九十四歳だという。思わずのけ反った。文章が若々しくて、とてもそんな年齢には思えなかったのだ。数年前に一度、東京でお会いしているのだが、それほど年齢を感じさせる方ではなかったので、改めて目を丸くした。

 

 太平洋戦争の終結は、昭和二十年八月である。つまり、瀧沢さんが新人教員として赴任したのは戦争真っただ中、しかも戦況が刻々と悪化していく状況下でのお話になる。だが、本書では、この国家存亡の危機によくある暗いムードが漂ってこない。物資が欠乏する中でのお話だが、そんなことを感じさせないのだ。それは豊かな自然と、そこで暮らす人々のおおらかさがそうさせているのだろう。だが、なんといっても十八歳という作者の若いエネルギーが、沈滞ムードを払拭しているのだ。

 ただ、そんな中でも、お兄様の帰還の話は圧巻である。

 旭川第七師団に入隊したお兄様が、昭和二十年春に樺太へ向かうとの一筆を残し、音信が途絶えてしまった。終戦を迎え、続々と帰還兵が戻ってくる。

 そのころ、よく当たると評判の八卦のお婆さんの噂を耳にし、瀧沢さんは家族に内緒で密かに婆さんのもとを訪ねる。すると、お兄様の写真をじっと見ていた婆さんが、

「この人はとっくに亡くなっております。あきらめなさい。もうシベリアの氷土の中でしょう」

 と言われ、言葉を失って帰ってくる。だが、家族にはそのことが言えない。早く帰還したお兄様の同僚や部下たちが、引き揚げ船から真っすぐにご自宅を訪ね、お兄様の消息を知らせてくれる。母親は涙を流しながらその話に耳を傾ける。その姿がいたたまれない。しかし、肝心のお兄様は一年経っても二年経っても戻ってこない。その間にも帰還兵が次々と訪ねてくる。すでに亡くなっていると言われたことを、口にすることもできず、瀧沢さんは身を切られるような日々を過ごす。

「寒い冬になった。いつものように一人の兵隊が我が家を訪ねてきた。汚れて破れた軍服。左右の靴は形も色も違っていた。今まできた人たちの中では、一番みすぼらしく見えた。その姿に私は胸がいっぱいになった。随分と苦労なされたことであろう。しかし、それが待ちに待った兄だったとは。私たち家族は抱き合い、涙も拭かずに声を上げて喜んだのであった」

 

 戦争が終わると、赴任先の小さな村にも復員兵の姿が見られるようになる。その中には元教員もいた。結局、瀧沢さんは地元の復員兵に職を譲る形で退職する。戻ってこいという親からの強い要望もあった。失意のうちに辞めることになるのだが、その別れのシーンは涙なしには読むことができない。

 全校生徒に見送られてバスに乗る。どこまでも追いかけてくる子供たち。それに気づいた運転手は、バスをゆっくりと走らせる。自転車で追いかけてきた教頭に制された子供たちは、みな肩を震わせて泣いている。そんな子供たちに瀧沢さんは後部座席で手を振っていた。やがてバスは峠を上り子供たちの姿も見えなくなる。

「はっと我にかえり、前の席に戻る。車内の人にありがとうございました、すみませんでしたと頭を下げる。そして運転手にありがとうございましたとお礼をいったら、運転手は頬に水滴をつけながら、にこにこして何度も頷いた。乗客の四人も皆涙を拭っていた。村の人々の優しさにふれた私は、改めて涙を流したのである」

 とにかく、この地域の人々は、だれもが底抜けに心優しい。厳しい自然の中で、歯を食いしばって暮らさねばならない土地である。互いに助け合わなければ生きてはいけない。そんな中で暮らしていると、心がどんどん純化されていき、汚れのない純朴な人間ができあがる。いや、違う。これが人間本来のあるべき姿で、都会生活に浸っている人々の生き方がいびつになってしまったのだ。

 函館生まれの瀧沢さんがこの村で暮らしたのは、わずかに三年である。そこで築き上げてきた人々との太い絆が、別れの辛さの描写となってラストを飾っている。

 

 瀧沢さんご自身は、本書の「はじめに」で、自身の若き日の教員生活を、夏目漱石の『坊ちゃん』の愉快さに似た体験と記されている。だが、私には、壺井栄の『二十四の瞳』を彷彿とさせるものがあった。

 『二十四の瞳』は、師範学校を出たばかりの若いおなご先生が小さな漁村の教師として赴任してきて、そこで繰り広げられる十二人の子供たちとの物語である。やがて戦争、そして終戦を迎える。時代の波に翻弄されながら描き出される師弟愛。この『二十四の瞳』は、昭和二十七年(一九五二)の刊行で、空前のブームが巻き起こり、のちに不朽の名作と称される。

 瀧沢さんはその前年の昭和二十六年に結婚され、そのころは函館の小学校で再び教壇に立たれていた。当時は、この『二十四の瞳』にご自身を重ねられる部分も多かったのではないだろうか。

 

 瀧沢さんは、平成二十二年(二〇一〇)、八十四歳で執筆を始められた。本書はその十年間の集大成である。本書には、ほかに数編の作品が収録されている。なかでも、「ゆずり葉の花咲く村」は、前作同様、戦中・戦後の地域社会における学校の立ち位置を知る貴重な資料となろう。

 私は昭和三十五年(一九六〇)に北海道の小さな漁村様似で生まれ育っている。小学校の運動会が地域社会にとって最大の年間行事であり、誰もが心待ちにしているものであった。本書は遥か彼方に忘れ去られていたそんな光景を、目の前に思い起こさせてくれるものであった。

 

  随筆春秋代表 近 藤 健

    令和二年五月二十三日

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 今年、二〇二〇年は記録的な暖冬だと言われていた。確かに北海道の降雪量も例年に比べ極端に少なかった。だが、二月に入って季節はきっちりと帳尻合わせをしてきた。今季最強といわれるシベリア寒気団の南下により、一週間足らずで例年の降雪量を上回る積雪となった。

 二月九日、この日最も寒かったのは北海道内陸部の北寄りに位置する江丹別で、氷点下三十六・〇度。ほどない距離にある幌加内は氷点下三十三・五度と、全国四番目の寒さを記録している。しかもこの辺りは、寒いだけではなく内陸部ゆえ、夏場の気温は三十度を優に超す。つまり、年間の寒暖差が七十度近くになる。

 作者の黒木恵美子さんは、この幌加内で生まれ育っている。大正五年(一九一六)、祖父母(父方)の代に、十二家族が開拓移民団として岐阜から入植している。北海道への入植としては、後発隊になる。過酷な土地があてがわれたのは、もうそのような場所しか残っていなかったのかもしれない。

 私も生まれは北海道である。私は一九六〇年生まれなので、黒木さんは五歳上のお姉ちゃんになる。私の古里は太平洋に面した温暖な漁村、(さま)()である。いくら寒くても氷点下十五度を下回ることはなく、積雪量も十数センチ程度である。夏の最高気温も、二十八度を上回ることはない。家に電話がきたのは小学五年のときで、その年、町に初めて信号機がついた。山奥からかよっていた山形友子さんの家に電気がきたのも、五年生のときだった。私は学生時代を京都で、その後就職した東京で二十八年を過ごし、二〇一一年から再び北海道に戻り、現在は札幌に落ち着いている。

 私の父方は秋田、母方は熊本と徳島から北海道へ入植している。いずれも明治中期で、曾祖父母の代である。入植当時のことを調べたことがあるが、やはり並大抵の苦労ではなかったようだ。

 

 季節が厳しければ厳しいほど、それとは裏腹に自然は美しい姿をみせる。

「妖精が魔法の杖で野山にふれると、片端からパァーンと色がはじけて、木々が芽吹いて葉が萌えたち、花が咲いて花びらが舞い散り、北国の春は駆け足でやってくる」

「古里の春はいつも真上からやってきた。まだ村全体も、それをぐるりと取り囲んでいる山々も雪景色で真っ白なとき、何日か続いて空に柔らかな霞がかかるようになって、冬はもう終わったよ、春がもうそこまできているよ、と風が優しく教えてくれるのだ」

 長い冬が明ける喜びが、行間から(ほとばし)る。光輝く季節の到来は、子供たちをじっとさせてはおかない。

「透明に澄んだ雨竜川の水はとてもきれいで、水面がキラキラ輝き、細かく揺れながらサラサラと音を立てて流れている」

「アイヌ語で雨竜川と呼ばれるこの川の名前をつぶやくと、今でも目頭が熱くなる」

 黒木さんが目を細めて、かつて遊んだ幼い日々に思いを馳せる。だが、北国の夏は短い。

「北海道の秋空はひたすら青く広がっている」

「前の晩に冷たい風がビューッと吹いて、冷たさの中に雪のにおいが混じっていると、翌朝には、あたりが真っ白になっている」

 黒木さんの自然描写は、行間から溢れ出す古里への思慕へとつながる。

 古里での生活は、にぎやかなものだった。黒木さんは五人兄姉の末っ子で、加えて祖母、叔父、叔母を含め十人の大家族であった。そのほか自宅には番犬が一匹、ネズミを捕るネコが三匹、農耕馬が一頭、食肉用のブタが八匹、搾乳用のヤギ一匹、綿羊六匹、玉子を産んでくれるニワトリが三十羽、ウサギが六羽にハトが五羽、さらにミミズクまで飼っていた。その賑やかさはどれほどのものだったか。

 生活は自給自足である。自宅に一頭だけ農耕馬のアオがいた。農耕馬がいる家は、村にも数軒しかなかった。アオはおとなしく農作業を一手に引き受け、実によく働いた。家族にとっては、かけがえのない宝物であった。そのアオが突然死んだ。

 家族の悲嘆は言葉にならない。だが、しばらくすると大人たちはアオを縛って吊し上げ、解体を始める。アオの肉は切り刻まれ、近所にくまなく配られた。「きれいに食べてあげる」それが供養なのだ。自給自足の生活とは、生きていくということは、そういうことなのである。同じ子供でも、都会のマンションの一室でゲームに興じる小学生とは根本が違う。本書を読んでいると、人間本来のあるべき姿を垣間見ることができる。

 五人兄姉の中で高校に進学できたのは、黒木さん一人であった。営林署に就職が決まった長兄は、

「『父さん、俺はこれで公務員になって一生働く。高校にいく夢は叶わなかったが、せめて完二とえみこは高校にやってくれ。俺も頑張って学費を稼いでくるから』父は目を閉じて何も答えなかったが、母はエプロンの裾でそっと目頭を押さえていた」

 明治や大正の話ではない。昭和四十年代半ばのことである。

 本書には幌加内町共和で繰り広げられる様々な出来事が描かれている。往時を彷彿とさせる描写に深い共感を覚えた。そして、本書のグランドフィナーレを飾るのが「腕時計」だ。圧巻の筆致に胸を打たれる。

 

 随筆春秋の代表理事である池田元と黒木さんは以前からの知り合いである。そのことを今回初めって知った。黒木さんが書いたものを目にしていた池田は、黒木さんの古里への思いを知り、エッセイ集の執筆を促した。

 黒木さんはパソコンをおやりにならず、この作品はスマホで書いたものだという。スマホに入力したものを池田に送信し、池田が原稿用紙の書式に直して、黒木さんに確認・修正してもらう。そんな作業が延々と続けられた。二年を要したという。黒木さんの執念には脱帽だが、池田の熱意にも驚嘆の思いを禁じ得ない。池田は常日頃、三、四人分の仕事を一人でこなしている。

「古里を書きたいという思いの結晶が『雨竜川』です。その気があれば、誰でも書けます」

 池田はそう言い切る。

 極寒の地で、想像も及ばないご苦労をされたおじいさん、おばあさん。そこで二人は九人の子をなし、長男であるお父さんのもとに、お母さんがお嫁にきた。末っ子の黒木さんを含め五人の子がここで暮らした。どんな思いでこの地を切り拓いてきたことか。助け合いがなければ生きてはいけない。

 今、この土地にはかつて入植された十二家族に繋がる人たちは、一人もいない。この地の過酷さを物語る現実である。ここで暮らした人たちが確かにいた。祖父母がいて、父母がいて、家族があった。それぞれの人生があったのだ。

 この書を書き上げた執念は、そんな人たちの思いが背中を押したということもあっただろう。書くべき人が現れて書いたのである。この書によって、一族の足跡、生きた証が刻まれた。そして、ここに生きた人々すべての魂を昇華させた。本書を読んでそんな思いを強くした。

 

  随筆春秋代表 近 藤 健

  令和二年二月二十四日

 

 

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『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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 山田聖都さんの『随筆春秋』デビューは二〇〇〇年秋の十四号だという。つまり、今年がちょうど二十年という節目の年になる。きっかけは、奥様の幸子様が東京・国分寺市の朝日カルチャーセンターの斎藤信也エッセイ講座を受講されており、それで斎藤先生が代表を務めていたエッセイの同人誌である随筆春秋に直接入会したのが始まりだという。それまではNHKの通信講座で自分史の書き方を学んだ程度で、文学とは無縁だったというから驚きである。

 今回、エッセイ集の発刊に当たり、随筆春秋事務局から「あとがき」の依頼を受けた。ゲラが届いたのが二〇一九年十一月十日前後のことである。そのゲラに添えられていた事務局からのメッセージに愕然とした。山田さんの奥様が十一月七日に急逝されました、とあったのだ。山田さんのご心中を察し、呆然としてしまった。

 六十年も連れ添った妻が、何の前触れもなく突然逝ってしまう。その現実をどうやって受け止めるのか。受け止められるはずがない。あまりにも大きな哀しみと深い喪失感は、察するに余りある。エッセイ集どころではないだろう。私は机の上に置いた分厚いゲラを前に、動けなくなってしまった。

 

 私は二〇〇三年春の十九号が随筆春秋でのスタートだから、山田さんは二年半ほど先輩になる。年齢は三十年も大先輩だ。山田さんはこの十二月に八十九歳になられた。これにも驚いた。九十歳に手のかかるご年齢である。どのような方なのだろうという思いが、私の中で大きくなっていた。私は山田さんとの面識はほとんどない。数年前、随筆春秋の授賞式会場で、一度だけお目にかかったことがある。そのとき、司会者と山田さんとのやり取りで、お名前を「まさくに」さんとお読みすることを知った。接点は、それだけである。もちろん、山田さんの作品は、何年もの間読ませていただき、よく存じ上げていた。

 プロフィールを拝見すると、山田さんは大学を卒業されてから、法務省法務教官として少年院更生担当の道を一筋に歩まれている。三十五年の在任期間中、北海道から名古屋まで十度にわたる転勤を経験されてきた。

 ひとえに少年院の法務教官といっても、そのご苦労たるや並大抵ではないと想像できる。少年たちが自分の人生を歩み直す、そのサポートがお仕事である。道を踏み誤った少年に寄り添い、時間をかけて本心を聞きながら教育指導や職業指導を行っていく。一筋縄ではいかない仕事である。

 そんな中、三十代の最後の歳にフランス政府から選抜され、フランス国際行政研究所への留学をなさる。この二年間にわたるフランス留学は、山田さんに大きな影響を与えた。そのことは行間から溢れる思いとなって、数多くの作品として結実している。

 

 山田さんの作品はすべからく穏やかである。作品自体が爽やかで、洋風でも中華でもなく、それはまさに和のテイストであり、極上の出汁を口にしたときに覚える、うま味と透明感のある後味である。衒いがあるわけでもなく、肩の力の抜けた自然体の筆致に心地よさがある。上質のエッセイを読ませていただいたという思いが胸に満ちる、そんな作品群である。

 しかも、一作一作の締めくくりが、実に小気味いい。サッと締めくくって、ピタリと決めてくる。体操競技の床運動や鞍馬、跳馬、鉄棒などで、着地をピタリと決めてくる姿に重なる。起承転結の「転」はクライマックスだが、転までに織りなされた葛藤が急転直下解決し、一気に下降して結末へと向かっていく。そのピタリと止まる「動」から「静」への移行は、静かな余韻と情緒的な感動をもたらしてくれる。山田さんの作品を読んでいると、そんな連想が浮かぶ。

 このエッセイ集には、法務教官としてのエピソードは「紅白まんじゅう」一作だけで、それ以外は一切つづられていない。もったいないなと思うのだが、公務員としての守秘義務を生涯遵守しようとする山田さんの固い決意が感じ取れる。それも山田さんらしいところなのだろうなと感じた。エッセイは緩急バラエティーに富んでおり、ご本人の多才さを存分に窺わせて読者を飽きさせないものとなっている。

 

 十二月になって、遺品の中から奥様のエッセイが数編出てきたという。そこで、急遽このエッセイ集に収録することになった。エッセイ集の発刊が前後一ヵ月ズレていたら、収録はかなわなかっただろう。最良の収まりどころをみつけて、よかったと思った。

 山田さんご夫妻は、伊勢湾台風(昭和三十四年)の翌日に名古屋で結婚式を挙げられている。それを題材にした山田さんの「大荒れのあと」と奥様の「結婚記念日」は、図らずもこの作品集に大きなアクセントを添えるものとなった。

 奥様のご冥福を心からお祈り申し上げる次第である。

 随筆春秋代表 近 藤 健

 令和元年十二月十八日

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