熊本県の北西部に位置する玉名郡和水町(なごみまち)。
菊池川や緑の山々など、豊かな自然に囲まれた人口1万人程の
小さな町で、平成18年に「三加和町」と「菊水町」が合併し
″和 ″ と ″水 ″の文字をとり、「和水町」となる。
2019年NHK大河ドラマ 『 い だ て ん ~東京オリムピック噺~』
主人公の一人
金栗四三(かなくりしそう)1891~1983 が生まれた町である。
日本人初の五輪選手で「日本マラソンの父」と呼ばれる人物だ。
1月、大河ドラマ放送開始に合わせ、出身地である和水町に
生家記念館と、ゆかりの品々を展示した
金栗四三ミュージアムが開館され、先日足を運んでみた。
三加和温泉ふるさと交流館近くに新設されたミュージアムには
四三が着用したユニホームなど多くの遺品のほか、パネルやCG映像を
使い、当時の時代背景とともに、その功績を伝えている。
亀吉夫婦も一緒に走ってパチリ!
「体力 氣力 努力」
オリンピック史上最も遅く、類を見ない大記録 ~マラソン55年越しのゴール~
金栗は世界陸上競技史に類をマラソンの大記録の持ち主です。
1911年国内大会(25マイル)で、当時の世界記録を27分も上回るタイムを出すも
オリンピック初参加となった翌年のストックホルム大会では
レースの途中、暑さのため意識を失い、完走できませんでした。
月日は流れ、金栗が76歳となる1967年(昭和42年)。
ストックホルム大会開催55周年を記念する式典が開催されました。
当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会は
金栗が棄権の意思が運営側に届いていなかったため
「競技中に失踪し行方不明」となっていることに気づき
金栗をゴールさせようと、記念式典に招待しました。
金栗はそのことに感激し、喜んで参加しました。
記念式典では、大観衆の競技場を金栗が走り、テープを切ったとき
「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54年と8か月6日5時間32分20秒3
これをもって第五回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされました。
これに金栗は「長い道のりでした。
この間に嫁をめとり、子ども6人と孫が10人できました」と答え
会場は大きな感動の拍手と歓声に包まれたそうです。
館内紹介文より
ゴールの瞬間
なんとも ″粋な計らい ″である。
ミュージアムから車で10分ほど走った和水町中林(旧春富村中林)に
金栗四三が生まれ育った生家が記念館として残されている。
出迎えてくれているのは
田んぼの奥に見える人も
これぜ~んぶ ″案山子 ″だ。
人が少ない田舎も賑やかになっていい!
こちらが築200年以上たった今でも現存している生家!
当時、金栗家は代々地域の庄屋をつとめる家系で
造り酒屋を営んでいた。
明治24年(1891)8人兄弟の7番目に生まれた四三は
父信彦が43歳の時に生まれたため、四三と命名されたそうだ。
「いだてん」のロケは、この生家でも行われた。
館内には家族が「学校部屋」と呼んだ四三専用の勉強部屋や
幼少期のエピソードをパネルと映像で紹介している。
広い土間と上を見上げれば黒光りしている大きな梁が・・・
立派な家であったのが分かる。
住居の隣にある小屋
大河ドラマ「いだてん」の紹介パネルも・・・
往復三里を韋駄天登校
四三は明治34年からの4年間、隣り町(現南関町)の
玉名北高等小学校に毎日走って通学した。
このかけあし走行により「スッスッ、ハッハッ」の呼吸法も習得し
のちにマラソンの基礎は
この小学校時代に往復3里の通学を行ったことであると語っている。
往復12キロの通学路は「金栗四三ロード」と呼ばれ
起伏に富むマラソンコースとして近年親しまれているそうである。
金栗家のシンボルツリー「シナモンの木」
長兄を中心とする家族の温かい教育のもと、勉強・スポーツに励み
東京高師(現筑波大学)で生涯の師となる嘉納治五郎に出会い
日本で最初のオリンピック選手になる。
しかし、オリンピックに3度出場するも良い結果を残せなかった四三は
その悔しさをバネに日本スポーツ会を発展させるため
マラソンシューズの開発や箱根駅伝の創設
女子体育の振興などさまざまな試みを行うことに。
生涯走り続けた距離は25万キロ。
その生涯は「体力 氣力 努力」の言葉と
晩年の穏やかな表情に表れている。
四三のマラソン人生の基礎を築いたスタート地点
それが、この生家だったのである。
本日は以上です。