このブログのテーマの 一つ、「熊本さるく」 。
「さるく」 とは、九州の方言で 「ぶらぶら歩いてまわる」 という意味です。
これまで熊本市内を中心に、どちらかというと亀吉の出身地である
県北の話題が多かったように思います。(*^▽^*)
熊本県の観光資源が多くある阿蘇や天草方面もまだですが
これからなるべく機会をつくって出かけて行きたいと思っています。
が、あまり期待しないでお待ちくださいまし。(;´▽`A``
今回は、「灯台下暗し」 にならないよう、結婚以来26年間住んでいる
県の中央に位置し、五つの町が合併してできた宇城(うき)市。
その宇城市5町の一つ、不知火(しらぬい)町の松合(まつあい)地区
“土蔵白壁群” をさるく!です。
松合は、松橋(まつばせ)町から天草方面への国道266号線沿い。
国道から右手に分かれ旧道に入ると、土蔵白壁群があります。
★松合の街並み案内図
江戸時代から明治時代にかけ熊本藩内第一の漁港として
また酒や醤油、味噌などの醸造業が盛んな交易港としても栄えました。
松合という地名の由来は、船が往来する津だったことから
゛潮待ち″゛舟待ち″をする人たちの ゛待ちあい″が語源といわれています。
地元では、通称 ゛まっちゃ″と呼ばれ、毎月1回開催される「まっちゃ朝市」には
この地で採れた新鮮な海の幸・山の幸を求めてたくさんの人たちが訪れます。
そんな松合も、当時、一方で山に囲まれた狭い土地に民家が密集しているため
大火にもみまわれてきました。
特に文政9年(1826)~天保2年(1831)には、4度の大火で
のべ871戸の家屋が焼失しています。
そのなかで土蔵白壁造りの家だけが焼失を免れたことにより
土蔵造り白壁建築が行われるようになりました。
火災のたびに大きな被害を受けた松合の代々の惣庄屋は被災住民の救済や防火対策のため
街並みの整備を行いました。新地を造成して被災者を移住させ
その跡地を整地して火除け道(ひよけみち)をつくり
道に面して火災に強い土蔵造りの家を建て
辻々には井戸を掘って火事に備えるなど防火の町づくりをはかったのです。
★大歲宮
数少ない土蔵造りの職人の手によって昔ながらの工法で建設されたビジターセンター は
旅人の案内所として松合の歴史や建設工法などが展示されています。
松合を訪れたらまずここに立ち寄り話を聞くといいです。 ※月曜休館
明治時代建造の建物をそのまま生かし
民具やこの地の繁栄を偲ばせる商家の什器などが展示してあります。
※月曜休館
★財布屋跡から仲西船溜まりを眺める。
その先には不知火海。
広々とした大広間、急勾配の階段、野趣溢れる日本庭園。
かつて名家だった造り酒屋で味わう、浜のおふくろの味!
「えびだご汁」 ※土・日のみ営業
肥後の殿様が松合の魚は「たいそう旨い」と召し上がったそうな・・・。
回船問屋『船津屋』 は、松合が交易港として栄えたころの大商家。
細川藩へ魚を届けるなど、献上を許された名家です。
これら土蔵白壁群の道筋の路地の向こうに
不知火海がかすみ天草の島々が浮かびます。
松合の町並みはこんな歴史を秘めた落ち着いた町並みです。
しかし、こんな松合地区にも・・・
<近年、この松合地区を襲った台風・高潮災害>
平成11年(1999)9月24日未明、大型で強い台風18号は上陸
瞬間最大風速66.2m/sという強い勢力を保ったまま天草諸島を北上した。
そのため不知火海湾奥で高潮と高波が発生、怒涛はこの松合地区を直撃しました。
堤防を越えた海水は奔流となって屋敷新地内になだれこみ
集落は全滅、死者11名(他所1名)という惨事となりました。
案内板の下壁にある青い板↓↓↓
風浪治まり潮の引いた後、地区内は一面の泥水に覆われ
流失した家屋や家財が散乱して、足の踏み場もない有様であった。
次々と運び出されてくる遺体に、暗然、声もなく自失していたことを思い出します。
亡くなった人を救い得なかったことへの痛恨の思いは、今も心に深く残っています。
自然の猛威に力尽きて、命を落としていった人々の無念さをおもうとき
私たちは慰めの言葉を知りません。
この悲しみを心に留めて、二度と悲劇を繰り返さないことを誓い
ここに鎮魂の思いを込めて、後世への誌とします。(碑文より)
この土蔵白壁群の町並みを歩きながら、いつしか東日本大震災で被害を受けた町も
きっといつの日か復興を成し遂げ、また平穏な日々をとりもどされることを祈りつつ
ここ松合をあとにしました。
本日は以上です。
熊本で遊ぶ。熊本でお仕事。どちらもお泊りなら
→ http://www.kamenoi.com/kashima/ (o^-')b
小さいから楽しいホテルの経営