~ 今に伝わる石の文化と技術 ~
うちの小さいホテルがある上益城(かみましき)・緑川流域は
日本でも有数の石橋の宝庫である。
今も86の橋梁が現存しているそうだ。
主に江戸時代から明治期に建造された石橋群は
洪水や人と物の往来に負けない強固さを求め
あるいは水不足に悩む村を救うため架けられた。
それらの石橋は
石工(いしく)たちの技術とともに架橋にかかわった人々のドラマも伝え
日本では珍しい石の文化として山里の風景に自然と溶け込んでいる。
今回はその石橋群の中から代表的なものを・・・!
※マップコードは、カーナビの目的地設定に便利です。(機種によって異なる)
優美な中国風スタイル!
★門前川橋(もんぜんがわばし) 【御船町】
御船(みふね)町から、恐竜の骨が見つかった天君ダム方面へ抜ける
県道田代御船線に架かる上反りの美しい石橋。
この橋は、文化5年(1808)に造られ、緑川流域で最も古く
県内でも植木町の( 以前この記事で紹介した→「豊岡橋」 )についで2番目に古い石橋。
往時は、熊本から矢部を通り宮崎県の日向に抜ける日向往還にあり人馬の往来も多かったところ。
またこの橋は、種山石工衆の活躍前に菊池川流域で活躍した
内田村(現山鹿市菊鹿町)石工仁平の弟子たちによるものらしく
輪石をくさび石でつないだ珍しい工法の石造りアーチである。
マップコード29171837
勘五郎の円熟の技と弥熊の個性が生きる!
★下鶴橋(しもつるばし) 【御船町】
国道445号を御船から矢部(山都町)に向かって10分程走ると正面に見えてくるのが
御船川支流の八勢川に架かる下鶴橋。
石工の橋本勘五郎・弥熊親子が手がけた長さ71mの大型石橋。
明治19年(1886)の完成。県内の石橋では新しいほうである。
勘五郎と弥熊は、それぞれの持ち味がふんだんに感じられる石橋で
本体の風格、石組みの美しさは勘五郎の晩年の円熟した技を感じさせ
円柱に削った手すりやトックリ、盃、月(満月・三日月)をくり抜いたデザインは
酒好きの弥熊の好みを反映した若々しい個性が感じられる。
マップコード29145742
橋本勘五郎 は
明治6年から翌7年にかけて太政官(政府)に呼ばれ
帝都東京の万世橋と浅草橋を架けている。熊本に戻り市内坪井川に 明八橋 を
そして西南戦争後に明十橋を架けた。
下鶴橋は、その後に架けた橋である。
東京に行って都会の風に吹かれ、いろいろな新しいものが見えてきたようで
その後の勘五郎の作品には装飾性が見られる。
下鶴橋では、手すりの柱を丸く削り、親柱の上に擬宝珠(ぎぼし)も付けている。
勘五郎は非常にまじめで、酒もたばこも一切たしなまなかったという。
一方、弥熊は非常に大酒飲みであったらしい・・・。
橋の本体は、実に几帳面に、基本に忠実に造られているということだ。
通潤橋のような派手さはないが、石と石の隙間が非常に少なく
これだけの高さの橋を、横に倒れないように鞘石垣で補強してある。
一商人の熱意が実った!石畳が残る日向往還
★八勢目鑑橋(やせめがねばし) 【御船町】
新道(現国道445号)が開通するまで、矢部と御船を結んでいた日向往還筋にあたり
なかでも現在八勢目鑑橋の架かる場所は「八勢の谷渡り」 と呼ばれた難所であった。
そこに私財を投げ打って石橋を架け、住民の安全を守ったのが
御船の豪商 林田能寛(よしひろ)。
全長62m、完成は安政2年(1855)住民の積極的な協力もあり
谷深い難所にわずか4か月で目鑑橋が出来上がったと伝えられている。
石工は卯助と甚平の兄弟。
県指定の重要文化財となっている。
また、八勢目鑑橋と一体化した八勢小橋や八勢水路橋もあり
大中小の三つのアーチが一望できる。
マップコード29239783
★谷深い難所に架かる八勢目鑑橋
八勢川右岸から橋を渡り、矢部方面へ向かうと日向往還の石畳が続き
かつて人々が歩いて移動していたころの雰囲気が残っている。
★八勢目鑑橋から続く日向往還の石畳
同往還は藩政時代の肥後四街道に1つ。
熊本城下から九州山地を越えて日向国(宮崎県)へ至る道だ。
熊本(札の辻)から長六橋を渡り、迎町で薩摩街道と分かれ
田迎町から嘉島町、御船町へ。
ここまでを御船街道と呼んだ。
どっしりとした大小二連のアーチ!
★金内橋(かねうちばし) 【山都町】
国道445号が御船川を渡ったところからすぐ上流に見える。
現在上部は完全にコンクリートで被われているため石橋と気づきにくいが
河原から見ると大小二連の立派な眼鏡橋だ。
右側の大きなアーチは御船川の本流をまたぎ
左側の小さなアーチ下は金内橋のすぐ上手から引いた福良井手が通っている。
この井手がすぐ下流にある水道橋の立野橋の上を通り
一帯を潤している。
建築年:嘉永3年(1850)
宮崎と結ぶ日向往還の要衝!
★聖橋(ひじりばし) 【山都町】
矢部地方に最初に架けられた石橋である。
石工は名工とうたわれた岩永三五郎。惣庄屋 布田保之助の求めに応じて造られた。
矢部と宮崎を結ぶ日向往還の重要なポイントとして大きな役割を果たしてきたが
昭和に入り交通量が増大した為
すぐ横にコンクリート橋が造られ、現役を退いた。
矢部の中心街を抜けて清和へ向かう国道218号の左手にあり
道路を挟んで右手には「矢部四十八滝」の聖滝の眺めを見ることができる。
建築年:天保3年(1832)
次回はいよいよあの石橋が登場!
本日は以上です。
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