昨夜11月13日、NHK-BSで「イニエスタが愛した神戸」と題するドキュメンタリー番組が放送されました。
2018年に日本中はもとより世界中のサッカーファンを驚かせたバルセロナから神戸への移籍から丸5年間、途中、コロナ禍や自身のケガの影響など難しい状況の中でも、華麗なプレーでサッカーファンを魅了してきたイニエスタ選手。

今年7月1日の試合を最後に、神戸を去りました。
2022年シーズンの後半、そして今シーズン、出場機会が激減していたイニエスタ選手ですから、出場機会を求めての退団であることは明白でしたが、バルセロナを退団したときと同様、移籍先を決めないままの退団でした。

そこにはイニエスタ選手ならではの葛藤、苦悩があってのことだと、このドキュメンタリーは描いていました。
NHK大阪局の制作ですので、イニエスタ選手に寄り添い神戸に寄り添った作り方ではありますが、これまでの外国人選手とはずいぶんタイプの違う選手であること、それでいて、日本サッカー界がこれまで迎えた外国人選手の中でも、おそらくナンバーワンの実績とテクニックを持った選手であることを、伝えていたように思います。

当・夢追い人は、このドキュメンタリー番組のあらましも追いながら、私なりに、イニエスタ選手と神戸、イニエスタ選手と日本サッカー、スター選手とそのクラブサポーター、さらにはスター選手とホームタウン市民との幸福な関係について、感じたことを書き留めたいと思います。

【ここから先は、11月29日と11月30日に、部分的に加筆したり修正したりして、仕上げました】

イニエスタという選手は、有り余るサッカーの才能と、誰にも勝るサッカー選手としての栄光を手にしていながら、心の病にさえなりかねない繊細で、内向き志向の心優しいタイプのサッカー選手、という、およそスーパーなサッカー選手には似つかわしくないタイプの選手ではないのかと感じました。

それを確信させたのは、当・夢追い人の最も得意な「サッカーに関する映像の収録データ」にある、2014年8月24日に収録したWOWOWの番組「トップアスリートの肖像 アンドレス・イニエスタ、スペイン代表の頭脳と呼ばれる男」です。

この番組はスペインのカタルーニャテレビ局が2013年に制作した1時間番組で、地元局のインタビュアーがバケーション中のイニエスタの自宅をたずね、1晩泊めてもらいながらその妻子を含めたプライベートに密着したドキュメンタリー番組で、日本ではおそらくお目にかかれない作り方の番組でした。

さまざまなことを話題にしたインタビューの中から、イニエスタ選手の性格や人柄がよく出ている部分をご紹介しましょう。
子供という家族が増えて生活がどう変わったかを問われて、
「僕は頑固な人間なので、以前は家でも試合のことを思い出してビデオを何度も見直したり、ミスの原因を考えたりして長時間眠らないでいた。」奥さんが話を継いで「一晩中寝なかったこともあるのよ」
「でも、次の試合で200%の力を出して結果をだせばいいと、考えるようになった」

きみのオリジナルワインのラベルには「情熱は内に秘められている」と書かれているけど、それって君自身のことだよね? と問われて、
「そうだね、ワインが少し、人生が少し、スポーツ(サッカー)が少し、何でも少しづつ」
インタビュアーが、物静かに見えても内側を見たら・・・、と追い打ちをかけると、奥さんが「そうなの、何でも自分で仕切りたがるの、あれも、これも、何でも思い通りにしたがるの」と。

場所を公園に変えてインタビューは続きました。
インタビュアーが「アンドレス・イニエスタはサッカー選手には見えないサッカー選手です」というナレーションを挟んで「チームでタトゥーをしていない数少ない1人でしょう。彼の振る舞いが、あまりにも普通なので、かえって目に留まってしまいます」「常にありのままの自分を見せ、控え目で感受性の強い人です」

インタビュアーは、それを奥さんにぶつけてみました。「イニエスタは一般的なサッカー選手のイメージからかけ離れていると思いませんか?」「ええ、私もそう思います。私も普通の人間なので、似たもの同士、双子みたいだと思います。」

インタビュアーから「これまでのサッカー人生で泣くほどの辛いことはあったの?」と問われてイニエスタ選手は「2010年の4月にケガをした時は、これからどうなってしまうのかを考えて、ピッチを出るあたりから控室まで涙が止まらなかった」と話していました。

実は、前年の2009年7月、同じカタルーニャ地方のライバルチーム・エスパニョールのキャプテンをしていたダニエル・ハルケ選手が遠征先のイタリアで急性心筋梗塞のため26歳の若さで亡くなった出来事がありました。ダニエル・ハルケ選手とイニエスタ選手はU-16代表からU-20代表、そして五輪代表とずっとスペイン代表チームを共にしてきた親友でした。

この親友の死はイニエスタ選手に大きな精神的ダメージを与え、心の病で専門家の助けを借りなければならないほど追い込まれてしまったといいます。そして後に奥さんになるアンナさんや両親の支えで何とか持ちこたえていた時に追い打ちをかけたのが2010年4月のケガだったのです。

2010年4月と言えば南アW杯でスペインが悲願の初優勝を決める決勝戦で劇的な決勝ゴールを決めた、わずか3ケ月前の出来事です。いわば「絶望の淵から歓喜の生還」といった経験だったでしょう。イニエスタ選手が「幸いサッカーというスポーツは、時には何もないところからすべてが変わるからね」と言ったのは、その劇的な経験があったからでしょう。「あのゴールを決めた日から、いいほうに人生が変わった。幸運にも、その前の時期は過去のものになった。僕をより逞しく、さらに良くしてくれた」と振り返っています。

あの2010年南アW杯決勝で、もはや延長に入ろうかという時間帯、劇的なゴールを決めたイニエスタがチームメイトと歓喜を共にした後、一人ピッチの外に向かって走り出し、とった行動が、ユニフォームの下の肌着に書いてあった「ダニ・ハルケ、いつも僕たちと一緒だ」のメッセージを、天国のダニエル・ハルケ選手に捧げることでした。

そして、それはチームメイトの誰にも明かさずにとっておいた行動でした。イニエスタ選手は「君の死から始まった僕の精神的なダメージは4月のケガで絶望のどん底まで沈んだ。その僕がケガから回復して、こうして試合に出られた。もし運よくゴールを決めることができれば、そのゴールは、不運にもこの世を去った、天国の親友ダニ・ハルケに捧げたい」と心に秘めていたのでした。

ワールドカップ史上初めてのスペイン優勝に導いた歴史的ゴールを決めた「華々しい」選手、周囲は本人の気持ちとは無関係に、そのようにイニエスタ選手を描きました。むろんイニエスタ選手自身も誇らしくはあったものの、決して「華々しい」スター選手でありたいとは思っておらず、優勝への貢献と同様に親友ダニ・ハルケへの思いも大切にする選手だったのです。

まるで、そのまま映画にしてしまいたい出来事です。

そういうメンタリティの選手であるが故に、バルセロナという世界に冠たるクラブ愛を誇る街で、小さな時から育った選手にとって、クラブを愛し、そして、その街を愛するサポーターの前で「相手チームの一員として戦う選択肢はない」と考えるところもイニエスタ選手の真骨頂であり、それが日本を選ぶことにつながっていくメンタリティだったのだと思います。

おそらくイニエスタ選手は日本もタトゥーをしている人が少ない、自分と同じメンタリティの国かも知れないと考えたと思います。

バルセロナを去ることを発表したイニエスタ選手の情報を聞いて、神戸のクラブオーナーである楽天・三木谷会長は、すでにバルセロナとスポンサー契約を結んでいることから、間髪を入れずバルセロナに飛んで、イニエスタの自宅を訪問して直談判をしましたが、そのスピード感と行動力に、三木谷氏のビジネスマンとしての凄さを感じます。

しかも、ただ直談判をすればいいとは思っておらず、三木谷会長の最も得意なプレゼンという形でイニエスタ選手の心が確実に動くプロジェクトを仕立てて談判をしたと思います。もちろん、そこには三木谷会長の故郷である神戸が大震災を受けた地であり、震災が起きた、その日がクラブの本格的な始動の日であったというドラマ性に満ちた話を加えたでしょう。プレゼンの「つかみ」の話としては、もってこいの材料だったに違いないですから。

当然のように、クラブをJリーグチャンピオンチームに、そしてアジア王者のチームにして欲しいというのが、誘い文句ですが、それはどのクラブでも同じことであり、それを、さまざまな準備の上で進めていく「クラブのプロジェクト」としてプレゼンすることが勝敗の分かれ目になります。三木谷会長は、そういうプレゼンターとしては超一級の腕前です。

イニエスタ選手獲得にあたっては、アメリカ大陸、中東、そして東アジアのクラブが対抗馬として考えられたと思いますが、仮に他のクラブが金満にモノを言わせたとしても、三木谷会長のプレゼン力であれば勝負ありだったと思います。なぜならイニエスタ選手にとっては、金の多寡が重要なのではなく「なぜ自分が必要なのか」という理由のほうが重要だからです。

その意味で三木谷会長はイニエスタ選手が説得相手であったことは、大変幸運だったと思います。

そうして加入した神戸で、描いたシナリオ通り2020年1月1日、しかも完成したばかりの新国立競技場の最初のスポーツ公式戦、いわば「こけら落とし」の試合、王者・鹿島を相手にした天皇杯決勝を制して、悲願のクラブ初タイトルをもたらしたことでイニエスタ選手の神戸での成功物語は順調に軌道に乗り始めました。

そんな矢先、コロナ禍による中断、自身も十分な準備が出来ないまま参戦したACL2021の試合で、右足太ももを負傷、選手生命を危ぶまれるほどの重傷を負ってしまいました。まさに好事魔多し、です。

長く辛いリハビリの期間を通じて神戸の街の人たちとのふれあいが生じ、神戸の人々の温かさを身に沁みて、心優しいイニエスタ選手は耐え抜きました。そして家族とともに神戸にいることの幸せをかみしめたことでしょう。

しかし、クラブの成績が思わしくなくイニエスタ選手がピッチに復帰してもクラブを押し上げる力にはなりませんでした。次第にベンチを温める時間が多くなりJ2降格さえちらついてきた中、イニエスタ選手は「自分に何ができるのか」「自分は何をしなければならないのか」を必死に模索しました。

そして意を決して、ある試合の前にロッカールームに全員に集まってもらいゲキを飛ばしたのです。
いつもは穏やかなイニエスタ選手の強い言葉にチーム全員が目覚めました。その試合から5連勝、降格の危機を脱しました。

翌2022年、今度はチーム方針として、イニエスタ選手に頼らないチーム作りを始めたことから、イニエスタ選手の出番はますます減ってしまいました。この街でサッカーを続けたいけれど、それがままならない。まだ引退しようという気持ちにはなれない。どうすればいいか思い悩む日々が続きました。コロナ禍で長らくスペインに戻れないでいたイニエスタ選手。

Jリーグの中断期間を利用して、ひさびさに両親のもとに帰ったイニエスタ選手。ご両親はイニエスタ選手の出身地であるスペイン南部の農村・フエンテアルビージャ地方にあるイニエスタ選手の自宅から割と近いところに住んでおられる。もちろんバルセロナにも自身の居宅はあるが、フエンテアルビージャの自宅で生活することも多いようです。

先に紹介したスペイン・カタルーニャテレビ局のインタビューで「君はもうカタルーニャ人かな」と問われてイニエスタ選手は「僕はフエンテアルビージャ人であり、カタルーニャ人でもあり、スペイン人だ」と答えています。決して自分の故郷は失いたくない、とも答えています。

そんな、心の拠り所とも言える故郷に久しぶりに戻り、いま日本で自分が抱えている葛藤に、つい眠れない夜、両親の部屋をノックして、ここで寝てもいいかと言ったそうです。

若い頃は頑固なまでに突き詰めて考えてしまう性分で、つい朝まで寝ないでしまうことがあった自分も、百戦錬磨の試合経験を重ねていくうち、次第に気分転換が上手になっていたのですが、いま抱えている葛藤にうまく答えが出せないでいるうちに、久々に眠れない夜になり、両親の部屋をノックしたのです。

数々の栄光を手にしたイニエスタ選手でも、やはり自分が岐路に立たされてしまうと、葛藤に思い悩み、それを両親や妻と子供たちとの時間の中で癒し、心のバランスを保ち続けたのです。

なんという出来事でしょう。幸福な形でサッカー人生を締めくくりたいと希望に満ちてやってきた日本で、拠りによって「去るか留まるか」葛藤に苦しむことになろうとは。こんな歌詞の歌がありました。「何が悪いのか今もわからない、誰のせいなのか、今もわからない・・・涙で・・」

2023年、今シーズンこそはという思いで臨んだが、チーム作りは着々と進み、皮肉にもイニエスタ選手抜きで首位に立つほどになりました。まだまだ選手としてやれる、神戸で選手を続けたい、しかし現実はイニエスタ選手抜きのチームが強くなっている。イニエスタ選手に決断の時が迫ってきました。

そしてついに、イニエスタ選手は決断します。神戸を去ることを。
当・夢追い人は、三木谷会長が慰留したという話は寡聞にして知りません。イニエスタ選手の入団を成功させた時のような熱は、もはや三木谷会長にはなくなっていたようです。ビジネス的には、もう不要ということなのでしょう。

イニエスタ選手が「ホームタウン神戸になくてはならない選手」なのではなく、もしリーグ制覇、アジア制覇に役立ち、それが楽天グループのビジネスに還元されるうちは必要だが、それがなくなれば不要になる。それが三木谷会長のビジネスにおける鉄則のようです。

イニエスタ選手は、大好きな「神戸」なのに「神戸」を去らなければならない、「ホームタウン神戸」は自分を必要としていない。皮肉です。まるで映画のストーリーのようです。

退団表明から7月1日のラストマッチまでの日々、神戸に家族と暮らすイニエスタ選手は、あらためて自分を大切にしてくれたサポーターそして「ホームタウン神戸」の人たちの思いを感じながら過ごしました。一人の偉大な選手が異国の街に来て、そのクラブと街を愛し、またサポーターも市民も、その選手に心から敬意を持つ関係、ここまでの深いつながりは、おそらく初めてのことではないでしょうか。

よく鹿島に愛されたジーコが引き合いに出されますが、決定的に異なるのは、ジーコは鹿島に住んだわけではなかったということです。ジーコにとって「鹿島」は、あくまで仕事場であったという点です。

ただ、イニエスタ選手自身も「鹿島におけるジーコさんのようになりたかったが、自分はなれなかった」と述懐しています。つまり、決してジーコを手離さなかった鹿島のクラブ首脳陣と、イニエスタ選手をあっさり手離してしまう神戸の首脳陣との違いが、不幸な別れを生んでしまったのです。

それらも含めて、イニエスタ選手と神戸の関係性というのは、イニエスタ選手という選手が極めて日本人的な穏やかさ、心優しさを持った人であることから生まれた関係性なのかも知れませんが、そんな情緒的なことを思いやる神戸の首脳陣ではないという、ねじれた関係でもあったということです。

冒頭にも触れたように、神戸退団もバルセロナ退団の時と同じように行き先を決めないでのことだった。番組では7月に退団しているにもかかわらず、その後、イニエスタ選手がどうしているかについては触れませんでした。
ネットで調べてみると、中東UAEの中堅クラブ、エミレーツで、UAEリーグを戦っているという。ここも、そう簡単には神戸と相まみえる可能性が低いのかも知れません。

このほかネットには、イニエスタ選手の持つスポーツ・エンタメ会社と、つい最近、J3クラブのYS横浜と資本提携を結んだというニュースが載っていました。
日本とスペインとの懸け橋になりたいと願っていたイニエスタ選手が、神戸で叶わなかった思いを、よりによって、同じ港町のライバル都市・横浜で叶えようとしているのかも知れません。

今にして思えば、三木谷会長のプレゼンというのは、神戸という地域に根差したプロジェクトにイニエスタ選手が必要だったのではなく、三木谷会長の描いているビジネスプランの一つの駒としてイニエスタ選手が使えるというだけのことだったのです。イニエスタ選手は、自分が「『神戸』に必要とされている」と感じたでしょうから、三木谷会長は罪深いと思います。

イニエスタ選手には、ぜひ何らかの形で日本との関わりを持ち続け、ぜひ日本とスペインとの懸け橋になっていただきたいと
思います。

今回、イニエスタ選手の書き込みをしてみて、つくづく、この選手は映画かドラマにしたくなる人だと感じました。スペイン南部の農村からFCバルセロナの育成組織、ラ・マシアの一員に選ばれてから始まったサクセス・ストーリーだけの物語ではない、両親・妻子などとの愛情物語、ダニエル・ハルケ選手との友情物語、FCバルセロナ、スペイン代表を栄光に導く神ゴール、そして異国の地・神戸での希望と絶望の交錯、さまざまなファクターに満ちたストーリーを歩んだ選手でした。

スペインの映画人やドラマ人が手掛けなくても、日本人が手掛けるべきだと思いますし、当・夢追い人も脚本をモノにしたいものです。
今朝のYahooニュースに「強行軍を見て見ぬ振り。久保建英に「キツい」と言わせ、驚くように報じてみせたメディアの罪」と題する杉山茂樹氏の論考が掲載されました。
今回の10月シリーズ2試合に招集された久保建英選手の直前の欧州でのスケジュールを紹介して「キツいに決まっている」とした上で、そうした海外組の苦境についての森保監督の問題意識の低さを「筆者はやるせなさというか、情けなさを覚えずにはいられない。」と嘆いていました。

そして返す刀で「なにより選手に言わせるなと言いたい。」「メディアは自らそこに踏み込まず、なんというか見て見ぬ振りをしてきた。日本代表のホーム戦に出場する大変さ、キツさについて選手に代わって代弁することを避けてきた。」「事態を察し、選手が口にする前に問題点を浮き彫りにする。これがメディア本来の姿勢であるにもかかわらず、だ。」と、メディアの怠慢に一喝を食らわせています。

そして「日本代表が日本のサッカー産業の中心になってきた時代から、そろそろ日本もクラブがサッカー産業の中心になっていかなければならない」と提言しています。つまり、これまでは日本のサッカー選手のブランド価値が「どれだけ日本代表として活躍してきたか」というところにあったが、いま欧州では「欧州チャンピオンズリーグにどけだけ出たか」のほうが選手としてのブランド価値になっているように、日本の選手も「どれだけ欧州チャンピオンズリーグに出場できたか」に軸足を移すべき時代になったのではないか、というわけです。

したがって「サッカー産業もそれに伴い日本代表中心主義から欧州へ重心をじわりと傾けていかなければならない時期に来ている。バランスの問題になるが、8対2ぐらいだった概念を6対4ぐらいに改める必要性を感じる。欧州組の招集も毎回ベストメンバーではなく、欧州カップの戦に出場選手している選手は、ローテーションしながら2回に1回とか、休める環境を設ける規定作りが必要になる。」と締めくくっています。

そのとおりです。森保監督は「W杯で優勝をめざす」という目標に向かって突き進み、何が何でも代表優先から頭を切り替えられないように見えます。その結果として、今回の中村敬斗選手のように代表での負傷のためクラブでのレギュラーを失うリスクが増し、結果的に日本代表の総合力「Σ: シグマ」増大につながらない悪循環を断ち切らなければならないと思います。

当「夢追い人」は、日本代表戦を国内で開催する場合の興行面のトライアングルが、選手を縛っていると考えています。つまり、スポンサーとして莫大な資金を出す企業(冠企業とテレビスポンサー企業)、視聴率等おいしいコンテンツであるテレビメディア、そして、興行主として潤うJFA(日本サッカー協会)です。
このトライアングルを形成するキーマンたちは、まだまだ「日本代表として誇り、名誉、責任」といった観念論で、疲れている選手に対して「奮い立て」と考えていると思います。

このトライアングルは、お互いに、いわば「そんたく」し合って、なかなかお互いにとって都合の悪いことには目をつぶることが多いように思います。メディアがいくら報道の自由と言っても結局は広告主としての企業に依存していることは確かです。選手たちを置き去りにしてカルテルを結んでいると言われても仕方ない関係性にあるのです。

日本国内で代表戦があるたびに、過酷な移動を強いられる負担を、キチンと問題視すべきは、JFA(日本サッカー協会)であることが本筋であり、協会がメディアを巻き込んで杉山氏が提案したような方向に持っていくべきだと考えています。そもそもJFAが拠って立つ基盤は「選手というかけがえのない資産の存在」です。その協会が「国内開催の代表戦のために選手に犠牲を強いている」と後ろ指をさされているのは本末転倒です。
協会には猛省を促したいと思いますし、ぜひ改善して欲しいと思います。

ベストメンバーを組めない試合で、どう残りの選手たちを伸ばし、全体の底上げを図るかも、代表強化の大切なポイントなはずです。
1年の中で、本当に大切な試合、大切な大会を極力絞り込んで、そこではベストメンバーを少し長い期間拘束してチームの練度を上げていくにしても、それ以外の期間は選手のコンディション維持、移動による疲労回避に充ててあげるといったメリハリをつけることのほうが絶対いいはずです。
森保監督には、そうすることが、最終的には本番のW杯での長丁場を乗り切るコンディション維持にもつながり、目標としている「新しい景色を見る」という結果にも繋がるのだという信念を持って欲しいと思います。

杉山氏はもう一つ、代表選手に対する金銭面の待遇改善にも言及しています。「2024年まで計8年の就任期間中に推定10数億円を手にする森保監督と比較すれば、選手が手にする報酬は雀の涙だ。社長とアルバイトの関係と言っても言い過ぎではない。日本のサッカー産業が代表チーム中心に成り立っているとすれば、事実上、名誉のためだけに参加している選手たちの待遇は、直ちに改められるべきである。でなければ辻褄は合わない。」と、森保監督を引き合いに出して主張しています。

この書き込みでは、杉山氏の論考の多くを引用させていただきましたが、同感してのことですのでご容赦いだたければと思います。
一つ前の書き込みで「カナダ戦で久保建英選手の出番はありませんでした」「久保選手は怖い顔をしていました」と書きましたが、久保選手の直近のスケジュールを考えればカナダ戦は回避して当たり前でした。

ところで、いまチュニジアとの試合を見ながら書き込んでいますが、伊東純也選手が今回も右サイドでスタメン、後半、放送席では選手交代の対象として「伊東純也選手がイエローをもらっていますから、伊東純也選手ですかね」と予想しましたが、結果は別の選手がアウトでした。思わず解説の松井大輔さんが「伊東純也選手ではなかったんですねぇ」とコメントしました。

そして5分後、伊東純也選手がゴールを決めるのですから、森保監督はますます自信を深めていることでしょう。とにかく使いたい選手はとことん使う監督です。その分、疲労の蓄積だとか、それによるケガのリスク増加などといったことは、とことん考えていないかも知れません。
昨日10月13日(金)、インターナショナルマッチデーで日本代表は新潟にカナダを迎えました。このあとのチュニジア戦と合わせ10月シリーズのテストマッチです。
私の関心は、9月のラ・リーガ月間MVPに選出された久保建英選手の起用法にありました。

三笘選手と鎌田大地選手、そして堂安選手が不在の中、久保選手は2試合ともスタメンだろうと踏んでいました。しかし、カナダ戦は出番がありませんでした。伊東純也選手を右サイドで使った上、終盤には左サイドに回して試合を終えたのと好対照でした。

トップ下には、フランスリーグ・モナコに移籍して調子を取り戻した南野拓実選手が、なんと8月のリーグ・アン月間MVPに選出されたという実績をひっさげて代表復帰、そのままスタメン起用されたのでした。

森保監督の「序列主義」がここまで岩盤だとは思いませんでした。
もっとも、識者の関心は、個々の選手が使われた使われなかったというところにあるのではなく、三笘、鎌田といった「替えの利かない選手」が不在の時に、代わりの選手がどれだけ穴を埋めるか、もっと言えば、どれだけ彼らに近いレベルで試合ができるかのほうが重要、といったところにありました。

その意味では、代わりに使われた中村敬斗選手や途中出場の旗手玲央選手たちが十分な働きをしたことを試合の成果と見る論調が多いようです。
サッカー専門誌「GOAL」のネット版は、森保ジャパンの現段階の全体的なチーム作りの意図を、次のように分析していました。

「2026年W杯に向けて続投するにあたり、世界の頂点を目標に掲げた森保監督にとって、こういったメンタルやその渇望を満たすための試行錯誤を求めることは、必要不可欠なプロセスなのだろう。カナダ戦後、5試合連続4得点以上という結果を受けて、会見で「コーチ陣が攻撃も守備もアグレッシブにチャレンジすることを選手たちに植え付けてくれて、かつシステムのかみ合わせも選手たちが前向きに力を発揮できるように伝えてくれている」と、チームとしての方針を明かしている。

 不思議なことに、ここ5試合では連続で先発して得点を記録した選手は、三笘と伊東、そして今回の田中と中村のみ。冒頭で触れた通り、その間に13名がスコアシートに名前を載せているが、うち9名がその前の試合でベンチ、または出場がなかった選手だ。招集されたすべての選手が厳しい競争に晒され、結果への渇望を強め、アピールを成功させる。そして、ベンチからそれを見守っていた選手たちもさらなる闘志を燃やす。第2次森保ジャパンでは、かつてない猛アピールのインフレーションが起きている。」

そうした状況にあることを久保建英選手も痛いほどわかっていて、9月のドイツ戦で途中出場から2アシストを記録したあと「当然(ベンチスタートで)悔しいという気持ちはあったし、日本代表がすごく良い試合をしていたので、『ここに俺がいたらもっと良い試合ができた』と思っていました。それは僕以外の誰しも思っていることだと思うので、そういった意味で出た時に結果で示すしかない」とキッパリ話していました。

そうはいっても、ラ・リーガ月間MVPという勲章をひっさげて参加した今回の代表戦、またもベンチスタートだった久保選手、心中は相当穏やかではなかったように思われる表情が中継カメラに捉えられていました。それは前半40分の相手オウンゴールによる2点目のシーンだったと思いますが、カメラがベンチの久保選手を写しました。味方の得点になりましたから、当然久保選手は拍手を送っていましたが、その表情はニコリともせず、いやむしろ怖いほど厳しい表情でした。

その気持ちがチュニジア戦にどう出るか、結果への渇望が吉と出るのか、空回りしてしまうのか。以前でしたら諸刃の剣のようなものでしたが、もはやそうではないレベルに達しているのではないかと思います。

チュニジア戦で、仮にヒーローインタビューに呼ばれる活躍をしたとしても、おそらくニコリともせず、また「意味で出た時に結果で示すしかない」とコメントするに違いありません。
いま久保建英選手は、そういう日本代表の序列争いの中で自分自身と戦っているのだと思います。
朝ドラ「らんまん」が終わって、次のドラマが始まっていますが、本日たまたま見た別のテレビ番組は、朝ドラ「らんまん」の余韻が見させてくれたものでした。
NHKのEテレチャンネルで「偉人の年収How much」という番組があります。夜7時30分からの番組で、普段はまったく見ない番組です。夕食時の時間で、家族と食卓を囲み談笑するかテレビを見るという時間帯です。

今夜は、談笑も一段落で、テレビのチャンネルをいろいろ回していても何も見るものがないという感じでEテレチャンネルを回したら「偉人の年収How much」で「江戸の作家 曲亭馬琴」を取り上げていたので見たといういきさつです。

曲亭馬琴というのは、確か滝沢馬琴のことだよなぁ、滝沢馬琴といえば「南総里見八犬伝」だよなぁ、「南総里見八犬伝」といえば朝ドラ「らんまん」のヒロイン、つまり万太郎の奥さんである寿恵子が夢中になって読んでいた、当時の人気小説だよなぁ、と頭の中でつながり「じぁ、見てみようか」ということになったのです。

当ブログでも、9月11日の書き込みで「寿恵子は「私の愛読書である滝沢馬琴先生の南総里見八犬伝は、全98巻、106冊の大著です。滝沢先生は、それをやり遂げたからこそ、皆が喜んで愛読しているのです。未完ではダメです! 必ずやり遂げてください。」と迫ったのです。」と書きました。

それを思い出したのです。「偉人の年収・・」は、その人が、人生の節目節目でどれぐらいの年収を得ていたかを推定するというバラエティ仕立ての番組ですが、私が驚いたのは滝沢馬琴の晩年の凄まじい創作にかける執念でした。

万太郎の奥さんの寿恵子さんは「南総里見八犬伝は、全98巻、106冊の大著」と言っていましたが、それは28年もの歳月をかけた作品であるばかりでなく、晩年、次第に目が悪くなり、ついには75歳で失明してしまったにもかかわらず、創作をあきらめずに取り組んだ末の作品だったのです。

失明してしまった滝沢馬琴が思いついたのは、早くに病死した息子の妻・お路(みち)に口述筆記してもらうことでした。とはいえ、小説家の紡ぎ出す文章表現を文字に起こす作業は、素人が簡単にできる作業ではないと思います。お路(みち)という人も馬琴本人も、かなり忍耐と寛容な気持ちがないと続かなかったと思いますが、馬琴は完結させたのです。

朝ドラの中では、万太郎の奥さん・寿恵子さんは、滝沢馬琴がそのような困難を乗り越えて完成させたのです、とは言っていませんでしたが「未完ではダメです! 必ずやり遂げてください。」と迫ったのは、滝沢馬琴が乗り越えた困難も、それを助けたお路(みち)という人の存在も知っていたからに違いなさそうです。

滝沢馬琴は、結局82歳まで創作活動を続けた人で、当時とすれば、かなりのご長寿です。現代なら100歳を超えてなお、ということだと思います。しかし、失明をして、歯も甘党だったせいで総入れ歯になるほどのハンディを負いながら、よくも長生きできたものだと感心してしまいます。

「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルとなった牧野富太郎博士が図鑑を完成させたのは78歳になった時だそうです。何事かを成し遂げなければという目標と強い意思を持つことで、人は病魔も遠ざけ、強く長く生きることができるのではないかという希望を、この二人は感じさせてくれます。

当「夢追い人」も、何事かを成し遂げなければという作業の途中経過にあり、まだまだ先が見えて来ない段階です。マラソンの42.195kmのうち、5km地点ぐらいなのかも知れません。

それでも、先人たちの人生に刺激を受けながら日々こつこつと続けて行きます。朝ドラ「らんまん」の余韻で知った滝沢馬琴の生涯からも、大きな刺激を受けました。

10月6日、リーガ・エスパニョーラ(ラ・リーガ)が「9月の月間MVPにレアル・ソシエダの久保建英選手を選出した」と発表しました。何という快挙、何という衝撃でしょう。

レアル・マドリー、バルセロナの2強に代表される魅惑のスペインリーグに日本人が魅了されるようになってから約25年、城彰二選手が日本人として初めてリーガのピッチに立ってから22シーズン、その後も多くの日本人選手が挑戦し続けてきたラ・リーガ、イタリアリーグセリエAやブンデスリーガとは異なり、日本人選手がなかなか思うような活躍ができない場、それがラ・リーガでした。

その大きな要因とされたのが、言葉の壁をはじめとした文化の違いからくる「なじむ苦労」だと言われてきました。そうしたハンディキャップを少年の頃からのスペイン生活で払拭してきた久保建英選手が、とうとうラ・リーガを代表する選手に成長した証が、今回の受賞だと思います。

小柄な久保建英選手が、いかにテクニックに優れていても、なかなかラ・リーガを代表する選手という評価を得るのは難しいのではないかと一抹の懸念を抱いていましたが、いまや1対1で負けない力強さと判断のスピードを兼ね備え、単なるテクニシャンの域からチームの大黒柱に成長しました。

凄いことですね。単にラ・リーガでプレーしている選手というレベルから「ラ・リーガを代表する選手」と見られるんです。サッカーを愛する日本人にとって、そして海外でのプレーを目指して日々頑張っている日本人選手にとって、どれだけ夢のようなことで、どれだけ誇らしいことか。

このラ・リーガ月間MVPという表彰がいつから始まったのか知らなかったのですが、調べてみましたら2013-14シーズンから、ちょうど今シーズン10シーズン目になるようです。これまでの歴代受賞者を見ていくと、まさにワールドクラスの選手たちのオンパレードです。

その中で目を引くのは2019-2020シーズン以降、毎シーズン、レアル・ソシエダの選手が必ず一人は受賞していることです。レアル・マドリー、バルセロナ、アトレチコといった優勝を争う強豪チームの選手たちの受賞が多い中で、レアル・ソシエダの選手が入れ替わり受賞しているということは、レアル・ソシエダが安定したチーム力を誇っていることの証明でもあります。

久保建英選手が、まだシーズン序盤とはいえ上位につけるチームの中心選手として、少しでも安定したパフォーマンスを出し続けることを願ってやみませんし、どうかケガに見舞われないよう、神様には特段のお願いしたいと思います。

また一つ、日本サッカーは階段を上った気がいたしますが、そうなると自然と関心は、日本代表・森保監督の、いわゆる「序列の変更」があるかどうかに向かいます。森保監督は、風聞だけで動くことは決してせず、必ず実戦を見てからしか動きませんから、次の代表ゲームが楽しみです。

10月開催のテストマッチ2ゲームに招集されたメンバーで目を引くのは、鎌田大地選手と堂安律選手が外れていることです。二人とも「コンディション不良」というだけで、それ以上の詳細な事情はわかりませんが、そうなると久保建英選手が2試合ともベンチスタートという選択肢はなくなります。

初戦のカナダ戦はもちろんですが2戦目のチュニジア戦も相手の力を考えればスタメンのような感じです。9月シリーズ(ドイツ戦、トルコ戦)で強烈なインパクトを残した直後の2試合だけに、あまり凡庸な結果だと、かえって評価を下げかねない、やりにくい2試合です。

今後の序列変更にもかかわるという点で、久保建英選手にとっては大事な2試合と言えると思います。
頑張れ、久保建英選手!!!!
本日10月3日(火)、偶然、新聞のテレビ番組欄で見つけた「2002年W杯ブラジル代表の真実」というNHK-BSのドキュメンタリー番組を見ました。エンドロールを見たら2022年制作、イギリスとパラグアイの共同制作のような表示でした。(なぜパラグアイと共同制作なのか不思議でしたが・・)

どうやら「前編」「後編」とあって、今日の放送は「後編」45分でした。冒頭、「前編」のあらすじが流れ、1998年W杯決勝でフランスに敗れ、選手たちも国中も「2位なんてビリと同じ」と打ちひしがれた、という内容のようでした。

番組の作り方が上手いというか、こういう番組を見ると、必ず何度も涙がこぼれそうになり「いいものを見た」という気持ちになります。
それはサッカーというスポーツが、地球上最も多くの人たちが関心を持っているスポーツで、その中でも世界最高峰の舞台であるワールドカップで優勝をめざすことの大変さ、それに突き進んでいる選手たちの思いに触れることができたからだと思います。

ブラジルは、2002年までにすでに4度のワールドカップ優勝を果たし、自他ともに認める世界一のサッカー大国ですが、それ故に、ワールドカップに臨むチームは、計り知れない重圧と戦いながら大会に臨んでいることを思い知らされます。

そのような2002年大会の一部始終を撮影した当時のフィルムに、あれから20年を経て当時を振り返った選手たちのインタビューを重ねて制作していますので、当時は、選手たち自身も気づいていなかったことや、真相とも言えるエピソードが織り交ざり、まさに2022年制作のドキュメンタリーが仕上がっていました。

番組は、準々決勝のイングランド戦、準決勝のトルコ戦、そして決勝のドイツ戦をつぶさに振り返る形で作られていて、イングランド戦のところではオーウェン選手、ベッカム選手の現在の表情を映しながら、多くの証言をしていました。

決勝のドイツ戦では、大会MVPに選出されたGKオリバー・カーン選手も当時を細かく振り返ってくれました。

そしてセレソンの選手たちの中では、主将・カフー選手、ロベルト・カルロス選手、ジュニーニョ・パウリスタ選手、ロナウジーニョ選手、そして御大・ロナウド選手たちが多くのことを語ってくれました。

皆んな、当時の絞りに絞った精悍な身体つきに比べ、ただのおっさん風の風貌でしたし、御大・ロナウド選手にいたっては、どうすれば、こんなに見事に丸々となってしまうのかと思うような太鼓腹を見せてくれました。

ロナウド選手は、ブラジルに凱旋した時の国中の歓喜の様子を見て「自分たちは、これほどの喜びを国中の人たちに贈ることができ、自分もそのご褒美として、大きな名声と富を得られて、本当によかった」と述懐し、主将・カフー選手は「優勝トロフィーを掲げた時、何とも言えない、いままで味わったことのない気持ちになった」と話していました。

しかし、そこに至る道のりが決して平坦なものではないというエピソードもありました。ロナウド選手は、フランス大会決勝を前に、とてつもない重圧に押しつぶされ、身体中が痙攣してしまうという症状に襲われました。その結果、試合では精彩を欠いてしまい、フランスに優勝を許してしまいます。

2002年大会も、同じような重圧がじわじわと迫ってきたことに加え、足のケガが治りきっておらず、そのことを世界中のマスコミが気にしていることを感じていました。
そんな中、ロナウド選手は準決勝・トルコ戦の直前、頭髪を前頭部だけ残してカットした姿で現れたのです。日本人であれば「大五郎カット」とすぐ名付けなれたほどの、あの面白い頭です。

ロナウド選手は、そのようにカットした理由を次のように語りました。「フランス大会の痙攣がトラウマになって、このままでは、また同じ経験をしてしまう。そこで考えたのは、マスコミの注意をそらす何かをしたいということだった。頭を面白いカットにすれば関心がそちらに向く、そう考えたんだ。」
作戦は見事当たったと思います。

ロナウド選手は、日本の劇画で描かれた「子連れ狼」の幼な子・大五郎のことを知識として持っていたのでしょうか? 日本人が見れば、あの頭は完全に「大五郎カット」ですので、日本のマスコミは、かなり話題にしたと思います。ブラジルのマスコミの人たちも「あの頭は日本のマンガに描かれた幼な子に似てるそうだぞ」と話題にしたかも知れません。

それから、涙がこぼれそうになったエピソードに、主将・カフー選手が「オレはロナウドよりうまいか? ノーだ。ロベルト・カルロスよりうまいか? ノーだ。リバウトよりうまいか? ノーだ。けど、サイドバックの仕事をさせたら誰にも負けないよ。みんな、それぞれのところで役目を果たせばいいんだ。それがチームだ」と話していたところや、第三GKで、出場機会は全くノーチャンスだったロジェリオ・セーニ選手が「自分が試合に出ないからと言ってセレソンの挑戦を邪魔するわけにはいかない。正GKのマルコスのためなら何でもする、という気持ちだったよ」と話したことなど、いろいろありましたが、スコラーリ監督がいかにチームマネジメントができていたかを感じさせるものでもありました。

話してくれた選手の名前は忘れたのですが、面白かったのは、決勝のホイッスル前のところでのエピソードです。両チームのペナント交換のあとオフィシャルのフォトセッションの時、その選手は「本来、フォトセッションはスタメンイレブンだけのセッションですが、その時、自分は、スタメンイレブンだけがメンバーなのではないよ、と考え、つい、ベンチからフォトセッションのところに駆け出したんです。そうしたらベンチのメンバー全員が追いかけてきて、セレソンメンバー26人全員が写ったセッション」になりました。」放送の画面には、その26人が写ったフォトが出ました。いかにもブラジルらしいですね。このあたりの自由奔放さもサッカーで頂点を極めるには必要な要素なのかも知れません。

優勝を目指して史上最高との呼び声もあったチームで大会に乗り込んできたイングランドが、ブラジルに敗れた時、オーウェン選手は「彼らのほうが完全に上だと悟ったよ」とサバサバして語り、ベッカム選手が「ブラジル代表には人のいいヤツが多くて敬意を持っているんだ」と語っているのを聞いて、2002年はブラジルの大会であり、日韓大会と言われる大会でブラジル代表の優勝を見れたことは、本当に幸せなことだと感じました。

この2022年制作のドキュメンタリーは録画保存はしていませんが、こうして書き込みの形で伝えられてよかったと思います。

今日(こんにち)日本代表も「ワールドカップ優勝」の可能性を語ることができる時期が来ました。20年前は「いつかそのうち」という夢でしかありませんでした。
かと言って、2011年女子W杯のように、何もかもうまくいって「優勝しちゃった」というわけには行かないと思いますが、日本サッカーの成長と進化(より能力の高い選手たちが、他の国以上に輩出され、W杯での勝ち方ができる指導者に恵まれるといった成長と進化)が順調であれば、あと2回あるいは3回のうちには「夢のワールドカップトロフィーを日本代表主将が掲げる日」が来るかもしれません。

今回のドキュメンタリーは、そういう気持ちで見たせいもあり、結構、現実味のある番組でした。
やはり、2002年大会から20年の歳月は日本サッカーの「成長と進化」を実感できる歳月でもあるんですね。
昨日、9月29日(金)、朝ドラ「らんまん」は最終回を迎えました。

今週初め、9月25日の書き込みでも、朝ドラ「らんまん」のシーンのことを取り上げました。主人公・槙野万太郎博士の死後、膨大な標本資料を博物館に寄贈するにあたり、整理分類が必要ということで、アルバイトを募集したところ藤平紀子という女性が訪ねてきた時のシーンです。

この時、藤平女史は、その整理分類の難しさに尻込みして一旦は槙野家を辞するのですが、家を出てから「この標本は、関東大震災の時も東京大空襲の時、あの地獄のような中で、博士はもちろんのこと、皆さんが必死に守り抜いてきたっていうことですよね。それは、必ず残して次の時代の人たちに引き継がなければならないという気持ちがあったからですよね。それを考えたら、私が標本を整理分類するということは、次の時代の人々に渡すお手伝いをするっていうことなんだ」と考え直して役目を引き受けるというシーンでした。

このように、最終週のいろいろなシーンは「継承・この先に引き継ぐ」というテーマに収れんされていたようです。脚本を書いた長田育恵氏は、インタビューで、その意図を話していらっしゃったそうです。

当「夢追い人」が、自己紹介欄で述べていること「1993年のJリーグスタートをもって萌芽した日本のサッカー文化を、克明に記録し続け100年先に繋ぎ伝えたいという夢を現実にしたいと思います。」
まさに「継承・この先に引き継ぐ」というミッションです。

これほど濃密に見た朝ドラは珍しいと思うほどの朝ドラ「らんまん」でしたが、最後も当「夢追い人」のミッションにぴったりシンクロするテーマで締めくくってくれました。いろいろな刺激と示唆もいただき、感謝の気持ちで最終回を見ました。
一昨日、1本のニュースが日本中を駆け巡りました。コンサドーレ札幌に所属している小野伸二選手が自らのサイトを通じて今シーズン限りでの引退を表明したというものでした。

「サッカーと出会い39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後に、プロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました。」という、いかにも小野選手らしい言葉です。

ほぼ40年・・・。さもありなんですよね。

「長い間お疲れ様」の言葉に尽きると思います。
小野伸二選手は、日本のサッカーを愛する人たちの中で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手だったと思います。

彼が高校2年生の頃、まだ全国の舞台に登場していなかった当時「小野伸二という選手のプレーを見たことがあるか?」という会話がサッカー通のあいだで交わされたあたりから、表舞台への登場が待ち焦がれ、られていた選手でした。

ですから、当時の彼の試合の舞台であった静岡県の草薙球技場などて、彼のプレーを見たことがある人は、それだけで貴重な体験をした人として、鼻が高かったものです。

そして、彼がプロの舞台として浦和レッズを選択して、いよいよデビューというあたりになると、彼の一挙手一投足が注目を浴びましたが、それは早く彼のファンタスティックなプレーを見たいというサッカーファンの願望の表れでもありました。

そういう意味で、彼ほど、そのプレーが具体的に期待を集めた選手はいなかったように思います。プロ野球選手にしてもサッカー選手にしても、一挙手一投足が注目を浴びるほどの鳴り物入りでデビューした選手は多いのですが、ほとんどは将来性とかタレント的なスター性にスポットが当たっていました。
小野選手の場合は「すぐにでも試合を動かせるだけのプレーを見せてくれるかも知れない」「それがどんなプレーなのか、わくわくする」といった具体性を伴った期待感でした。

当「夢追い人」も、1998年3月、Jリーグ開幕直前のプレマッチ、大宮アルディージャ戦を見に行きました。いわゆるトップ下のポジションで堂々とプレーする小野選手、どこか歌手の森昌子さんのデビュー当時を思わせる可愛らしい顔立ちとのギャップが印象に残りました。

そのあとのJリーグデビュー、その年のフランスW杯デビュー、そして翌年の99年ワールドユース選手権準優勝と、まさに黄金世代のバンディエラ(旗頭)として、順風満帆でしたが、好事魔多し。

1999年7月5日、シドニー五輪アジア地区一次予選のフィリピン戦で、相手ディフェンダーからのタックルが左足を襲い、左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまいました。小野選手自身がのちに「あれですべてが変わってしまった」と語っているように、それまで何の迷いもなく出来ていたプレーができなくなってしまったそうです。
そう、何の迷いもなく出来ていた時の小野選手のプレーは天才そのものだったのですが、本人も「あれっ、出来ないな」ということが増えて、徐々に見ている人も「天才というほどのプレーではないんじゃないの?」と感じることが増えてしまったように思います。

まさに「あのケガ、なかりせば・・・」です。
よく、ケガに見舞われる選手のことを「ガラスの選手」と評しますが、当「夢追い人」は「サッカー選手はガラスの舞台で舞う人たち」と評しています。実は彼らが表現者として舞っている舞台がガラスで出来ていて、いつ割れてしまうかわからない危険な舞台だと思うからです。

冒頭で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手、と書きましたが、そこには「あのケガ、なかりせば、間違いなく日本サッカー史上最高の選手になった選手」という叶わぬ願望も込められているはずです。

それでも、その後の小野伸二選手はフェイエノールトでのUEFAカップ制覇や、2002年日韓W杯での決勝T進出などに貢献して、日本のサッカー選手として十分成功した選手です。ですから、「あのケガ、なかりせば・・・」どれだけ凄い選手になったのか、想像が無限に膨らむ選手であることも確かなのです。

小野伸二選手が、多くの人たちから称賛される理由のもう一つの要因は、その人柄にあるといっていいでしょう。常にサッカーを愉しもうとする明るいふるまい、チームを組んだら、誰からともなく「チームの中心」と評価される様子は、裏表のない人柄から来るものでしょう。
コンサドーレ札幌が、とうにピークを過ぎたはずの小野伸二選手との契約を通算9年間も更新し続けたことが、それを物語っています。

彼ら黄金世代が世界を驚かせた1999年ワールドユース選手権以降、小野伸二選手、稲本潤一選手、高原直泰選手が、代わる代わる大会やリーグの主役の座をモノにしながら競い合う様(さま)は、まさに切磋琢磨の見本のような関係性でした。フジテレビは、そうした3人を「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年追い続けました。

2006年ドイツW杯には、この3人がどれだけ凄い選手になって日本代表を牽引してくれるか楽しみで楽しみで仕方がないところがありました。現実は、なかなか思い描いたようには運びませんでしたが、その中心に「小野伸二選手」という存在があればこその楽しみでした。

2006年以降の小野伸二選手の戦歴を見ていきますと、浦和、ボーフム、清水、ウェスタン・シドニー、札幌、琉球、札幌と来て今シーズンに至るわけですが、チーム戦術やケガの影響などによりシーズンを通してコンスタントに試合に出られた年が少ないようです。

それでも、やはり小野伸二選手がピッチに立てば、その日スタジアムに足を運んだサポーターが「今日は小野伸二選手のプレーを見た」「やっぱり、うまくて凄い選手だ」と満足したことと思います。

今シーズンの最終戦は12月3日、札幌ドームでの浦和戦だそうです。いまのところDAZNとNHK札幌ローカルだけの放送予定だそうですが、おそらくNHKか埼玉TVが急遽放映するに違いありません。

小野伸二選手の雄姿を名残惜しく記憶にとどめたいと思います。
「記録より記憶に残る選手」そのものですから。

【11.9追記】
フジテレビが「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手の3人の活躍ぶりを追っていたことを紹介しましたが、2020年3月29日、同名の放送がありました。
サブタイトルには、彼ら3人の現在地を表す意味深なタイトルがついていました。
題して「ワールドカップをめぐる冒険~小野、高原、稲本~黄金世代に居場所はあるのか」

この放送では、小野選手はコンサドーレ札幌からJ2琉球FCに移籍、チームに合流したばかりの状況だがなかなか勝利に結びつかない日々、稲本選手はSC相模原所属、練習試合にはマイカーを運転して移動する日々、高原選手は沖縄で自分が立ち上げた沖縄SVの社長兼監督兼選手、三足の草鞋をこなす日々を紹介していました。

この「ワールドカップをめぐる冒険」は、2002年、日韓W杯イヤーの1月1日、元旦企画としてスタートしてから2007年まで毎年1回、正月番組として放送されてきました。その番組が、突然、13年の時を経て復活したのです。
どうやら、それは、フジテレビが、この企画のために取材を始めたのが1999年で、2019年はそれから20年、折しも彼らが40歳の節目を迎えたことで制作されたようです。

「不惑を迎えた今、彼らはいま、登った山をどう下りるか模索している。冒険はまだ終わっていない」ナレーションを担当したおなじみジョン・カビラ氏が彼らの心境を代弁していました。

「選手は誰もが心に冒険の地図を持っている。どこを旅の終わりとするか、それは自分次第だ」ジョン・カビラ氏は、番組の終わりに近くに、こう語っていました。

制作したフジテレビは、自身のサイトで「他のメディアには話さない本音をフジテレビは聞き出し、日本サッカーの成長の歴史的証人として記録に収めてきた。」と書いています。

まさに彼らは、日本サッカーの成長の歴史の体現者だと思います。
今回の番組でサブタイトルに「黄金世代に居場所はあるのか」とありましたが、40歳を迎えてなお現役を続けていること自体が「立派な居場所を持っている」ことであり、素晴らしいクラブハウスと待遇に恵まれたJ1クラブのようなところだけが居場所ではないことを、この番組がつくづく教えてくれています。

その3人が、今年8月、9月と相次いで選手として現役引退を発表したのです。黄金世代の一人である遠藤保仁選手など、まだ現役生活を続けている選手はいますが、この秋「黄金世代は終焉を迎えた」と言えるでしょう。

当・夢追い人のサッカーを愛する熱量も、1993年のJリーグスタートから熱量をあげていき、考えてみれば彼らが世界の舞台に躍り出た1999年あたりからは、ずっと高原状のピークを保っていたように思います。
それもそのはずです。2000年シドニー五輪ベスト8、2000年アジアカップ制覇、2001年コンフェデ準優勝、2002年W杯決勝トーナメント進出、2004年アジアカップ制覇と栄光を重ねてきたのですから。

しかしながら、2006年W杯で手痛い敗退を喫して、やや熱量が降下しました。それは紛れもない事実です。

ただ、日本サッカーの成長軌道は決して降下することなく、2010年W杯決勝トーナメント進出、2011年アジアカップ制覇、同年、女子W杯制覇、2012年ロンドン五輪、女子銀メダル、男子ベスト4、2014年U-17女子世界選手権制覇、2015年女子W杯準優勝と、留まることのない成果を積み上げています。

もはや、当・夢追い人のサッカーを愛する熱量は、揺るぎないものとなっています。
さる11月4日の書き込みで、2019年12月15日に放送された、テレビ東京の番組「その日、人生が変わった。サッカーがくれた未来」のことを書きましたが、まさに当・夢追い人は、黄金世代の中心である3人を描いた「ワールドカップをめぐる冒険」に出会って「人生が変わった。サッカーがくれた未来」といっていいかも知れません。

彼らは、これから、新たな人生を歩むことでしょう。そして折々、彼らのことはメディアが伝えてくれるはずです。3人ともサッカーに関わる人生を続けることでしょうから、これからも、この書き込みで、彼らのことを話題にしていきたいと思っています。
前回の書き込みが9月11日、2週間前でした。当「夢追い人」が、朝ドラ「らんまん」から、いろいろな刺激を受けていることを書きました。
「らんまん」の主人公が、植物の収集と分類という作業によって、植物という存在の全体像を明らかにして、しかも、その植物が開発などのため消えてしまっても、次の世代の人々に記録として残すことに生涯を賭けた牧野富太郎博士の人生を描いたドラマです。
このドラマを毎日見ていけばいくほど、対象こそ違いますが同じように「収集と分類」そして「記録として残す」ことを生涯の役目として日々を過ごしている当「夢追い人」の手本になっているドラマだと思えてなりません。

今朝の放送で、昭和33年、牧野富太郎博士の死後、残された標本が東京都立大学に収蔵されることが決まり、収蔵前に学術資料としてキチンと整理分類し直す必要があるため、その役割を担う牧野博士の末娘の方が整理分類を手伝ったもらうアルバイトさんを募集したところ、藤平紀子という女性が応募してきます。その人が「ここに標本はどれぐらいあるのですか?」とたずねたところ「そうねぇ、40万点ぐらいかしら」と答えます。

たずねた藤平女史も驚いていましたが、当「夢追い人」も驚きました。当「夢追い人」は目下、映像資料のデータベース化を日々続けており、データベースに入力が必要なファイル数が1万を超えているところまでは確認できました。まだ未確認の映像関係ファイル数がおそらく1万近くとしても、映像関係が約2万ファイル、スポーツ紙関係も相当多いのですが、それでも1万ファイル、サッカー雑誌・書籍等はファイル数にすればおそらく5000ファイル、どう見積もっても4万ファイルに届かないと思います。

牧野博士の40万点がいかに膨大なものか・・・。確かに、かけた年数が牧野博士は60年いや70年ぐらいになるでしょう。それに比べたら当方はたかだか30年近く。牧野博士の、植物の収集分類一筋に賭けたエネルギーのいかに大きなことか、そしてその意思のいかに強いことか。「継続は力なり」と言うは易く行うは難しいものです。でも牧野博士という先人に少しでも学ぶことがあるとすれば「継続は力なり」と、あらためて我が身を励ますことだと感じました。

アルバイトの応募に来た藤平紀子さんは、一旦は「そんな重要なことをとても私には無理です」と断って槙野家を出たものの「この標本は、関東大震災の時も東京大空襲の時、あの地獄のような中で、博士はもちろんのこと、皆さんが必死に守り抜いてきたっていうことですよね。それは、必ず残して次の時代の人たちに引き継がなければならないという気持ちがあったからですよね。それを考えたら、私が標本を整理分類するということは、次の時代の人々に渡すお手伝いをするっていうことなんだ」と考え直し、牧野家に戻って「私も次の時代の人々に渡すお手伝いをさせてください」と申し出る場面がありました。

当「夢追い人」も、そのように言ってくださる方が現れるのを、ひたすら待ち続けて資料の整理分類、データベース化を進めています。これまでは「この資料を次の時代に残せればいいな」とか「残したい」といった願望、しかも緩やかな願望のレベルでしたが、そのような薄弱な思いだけでは、とても「私も次の時代の人々に渡すお手伝いをさせてください」と申し出る方など現れるはずがないわけで、次の時代まで残すことなど出来ないと感じました。

牧野博士のように「どんなに困難でも守り抜いて残す。そして次の時代の人に渡す」という強い意思が宿った資料・記録を残さなければならないと思いました。
当「夢追い人」に残された人生が果たして、あと何年あるか、神のみぞ知る、ですが、やり切った気持ちになるまではエネルギーを燃やし続けようと思います。

「やり切る]という強い意思を持ち続け作業に打ち込み続けなければ、決してその先が開けない。「これほどの記録なら絶対次の時代の人々に渡さなければ・・」と、自分以外の方からの共感を得られなければ、いくら自分の思いが強くても叶わぬ思いでしかない。
牧野博士の業績をドラマにした、今回の朝ドラから、このように多くの示唆をもらい自分のエネルギーに変えています。

最終回まであと4話、また書き込みたくなる刺激・示唆があるかどうか、楽しみです。
当「サッカー文化フォーラム」夢追い人は、自己紹介欄に書いていますように「1993年のJリーグスタートをもって萌芽した日本のサッカー文化を、克明に記録し続け100年先に繋ぎ伝えたいという夢を現実にしたい」という思いで、日々、作業を続けています。

克明に記録したものは、webサイト「ようこそ、サッカーの世界に」にアップして、皆さんに濃密な「日本のサッカー文化」を楽しんでいただくことにしていますが、ここ半年以上は新規のアップがストップしています。

その間、なにもしていなかったかというと、いわば舞台裏のほうで、こつこつと仕込み作業をしている状況が続いています。
NHKの朝の連続ドラマ「らんまん」の主人公、牧野万太郎が毎日ひたすら図鑑用の植物資料を製作しているのを見て、気の遠くなるような作業を続けていることを感じます。

このドラマは、主人公やその妻たちの会話からも、共感する言葉が発せられ、とても刺激を受けています。
ある日の万太郎と妻・寿恵子の会話にこんな場面がありました。

万太郎は、日本中のすべての植物を網羅した図鑑を完成させることを夢見ていますが、果たして、そんなことが実際できるのか不安も抱いていました。それについて寿恵子は「私の愛読書である滝沢馬琴先生の南総里見八犬伝は、全98巻、106冊の大著です。滝沢先生は、それをやり遂げたからこそ、皆が喜んで愛読しているのです。未完ではダメです! 必ずやり遂げてください。」と迫ったのです。

私もハッとしました。人は誰でも何かをやりたいと考えます。けれども途中で辞めてしまったもの、未完に終わったものは評価しようがないことになります。「これをやりたい」と志を立てたなら、どんな困難があっても、どんなに苦しくてもやり遂げて、世に出してこそ、初めて評価の対象になるものです。
寿恵子は続けます。「何年かかっても、どんなに難しくても言い訳してはなりません」
そのとおりです。

史実の牧野富太郎博士が図鑑を完成させたのは78歳になった時だそうです。志を立ててから半世紀以上も時が過ぎた苦難の末の業績です。その間、関東大震災や戦争にも見舞われ、どれほどの困難を伴ったことでしょう。
けれども、志を果たすという「鉄の決意」があって、それはドラマでは妻・寿恵子の後押しがあってのことというわけです。

私などは、初めてからまだ30年、残された時間は牧野博士ほど長くはありませんが、少なくとも、あと10年以上は死ねないと思います。

そして、この会話からはもう一つ、貴重なアイディアをもらっています。滝沢馬琴先生は108冊にも分けて世に出したのですから、あなたも分冊にして、できたら世に出すというやり方をすればいいのです、長い時間がかかっても出し続ければいいというアイディアです。
私もこのアイディアをいただき「日本サッカー文化全集」といった全集をテーマごとにでも何冊かに分けて世に出すことにします。

「らんまん」から受けた刺激について、もう一つご紹介します。ちょうど今朝(9月11日)の放送の中で、万太郎が物思いにふけっているシーンがありました。そして寿恵子にこうつぶやいたのです。「図鑑はもう少しでできるけれど、完成しただけでは、ただの自己満足にしかならない。果たして、この図鑑は皆に愛されるのだろうか? 誰からも愛される図鑑なのだろうか」
これにもハッとさせられました。そのとおりです。自分の手がけたものが自己満足だけのものではなく、誰からも愛されるものにするには何が必要か? という問いかけなのです。

この答えはまだ知りません。明日以降のドラマの中で教えられることでしょう。ですから、この書き込みも未完のまま、一旦終わります。

最後にもう一つ、これは朝ドラから教えられたものではなく、今年8月6日付の産経新聞「古典個展」というコラム欄で、大阪大の加地伸行名誉教授が書いておられた「報告と論文の違い」という文章からのものです。

当「夢追い人」も正直、どういう内容を伴ったものが論文なのか、説明できませんでしたが、加地先生が明快に説明してくださっていました。
すなわち「「朝ドラ・らんまん」の内容をもって学問のイメージを持たれると困るなぁと思いました。牧野博士の仕事は優れた業績で大きな価値のあるものですが、あくまで「植物に関する報告」であって「植物に関する論文」ではないという点を心得ておいて欲しいのです。もちろん優れた報告には大きな価値があって、研究の重要な基礎資料ではあるけれど・・。学者が世に出す「研究論文」とは、さまざまな報告に基づいて、そこから見つけ出すか生み出すかした「新しい見解」を「説」として出す文献でありまして、ただ調べた結果をまとめただけの「報告書」ではありません。」

加地先生は「その点をお間違いないように」と教えてくださったわけで、当方は、目からうろこでした。当「夢追い人」の成果物は「研究論文」ではなく「調査報告書」なのだと、やることが明確になりました。
牧野博士と同じように、後世、サッカー文化について研究したいという研究者が、当「サッカー文化フォーラム」のまとめた報告書を価値ある報告として、新しい見解を見つけ出すか生み出す動機づけにしてもらうことを目指したいと思います。

加地先生は「牧野博士の業績にケチをつけるようなことになっては申し訳ない」という気持ちでいたかも知れませんが、むしろ、このように教えていただいて感謝します。当方は牧野博士を目指します。という者もいるということですね。