前にもお知らせしたことがありますが、私はいま「日本サッカーが熱く幸福だった17年間」というタイトルで、日本サッカーの1986年から2002年までを克明に記録する原稿を書いています。
作業は、2002年まで進んできて、2002年日韓ワールドカップの決勝が終わったところまで来ました。
もう日本代表は2002年6月18日(火)に、決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れ、日本全国の空気も、決勝の6月30日(日)まで、大会の残りに付き合っているという雰囲気でした。

 

2002年日韓ワールドカップの日本代表は、1998年フランス大会に惨敗したあと、なぜか、日本中で知る人がほとんどいないフランス人のフィリップ・トルシエという人を監督にしました。
最終的にこの人は、4年間を全うした人です。

 

おそらくサッカーファンの方でしたら、2002年日韓ワールドカップで日本代表がグループリーグを突破して、決勝トーナメントに進んだことはご存じかと思います。
その後の日本代表は、すでに24年間、6回連続でワールドカップに出場していますが、グループリーグを突破できなかった大会が2回、初出場のフランス大会と合わせて3回ありますから、グループリーグ突破というのは、そうたやすいことではないということも、おわかりだと思います。

 

フランス大会、日韓大会の様子を書いていて痛切に感じたことは「ワールドカップという舞台で戦い、勝ち抜くためには、どれだけ経験を積んでいるかが重要な要素である」ということです。
その意味では、1度フランス大会に出ただけの日本が、しかも1勝どころか勝ち点1すらあげられなかった日本が、2回目の出場でグループリーグ突破という目標を達成するのは、並大抵のことではなかったんだ、ということも書いていてわかってきました。
共催した韓国が、日韓大会で6度目の出場なのに、過去5回、1勝もできないで迎えたわけですし、容易なことではないことがわかります。

 

ただ、この2002年日韓大会は、主催国であり、過去、主催国がグループリーグを突破できなかったことは一度もないというのも事実でした。もっとも、それまでの主催国で、あまり出場経験がない国というのも少なく、1994年大会のアメリカが、日本とやや条件が似ているかな、という程度で、あとの開催国は経験豊富な国ばかりでした。

 

経験という点で日本とやや似ているアメリカも1994年大会では、きっちりとグループリーグ突破を果たしていますから、日本も当然目標は達成できるはずという目に見えないプレッシャーがかかっていたことは確かです。
そういう目標を達成できる人物、というのが、その頃の日本代表監督の選考基準でした。

 

フィリップ・トルシエという人に決まった経緯(いきさつ)は、話せば長くなりますので割愛しますが、この人がまた、大変変わった人で、その後の日本代表は、選手たちも、サッカー協会も、取材するマスコミも、みな目を白黒させるようなことばかり、しでかす人だったのです。

 

ですから、トルシエ監督体制がスタートしてから2年ものあいだ、特に協会やマスコミの中では「大丈夫なの、この人、ホントに任せていいの?」という心配というか、批判がずっと続きました。
もし、この人が、周りが目を白黒させるような、変わったことをしない普通の人であれば、それほど心配や批判を浴びないで済んだのかも知れません。
なぜなら、1998年9月に就任して、すぐ翌年の1999年4月に、ワールドユース選手権でU-20日本代表を決勝まで進出させるという、これを快挙と言わずして、何と言いましょうや、という素晴らしい結果を出したのですから。

 

「この人に、ホントに2002年大会を任せていいの?」という心配というか、批判は、2000年5月にピークに達しました。この頃、契約が2000年6月までだったことから「いまのうちに変えたほうがいいんじゃないの」と考える人たちの声がマスコミを通じて増幅していったのです。
ところが、この契約にはオプションがあって、2000年9月に行われるシドニー五輪サッカー、そして2000年10月に行われるレバノンアジアカップ、それぞれの出場権を、アジア予選で獲得すれば、9月、10月の本大会の指揮を任せますという契約になっていましたので、トルシエ監督は「私は両方とも獲得しましたから、当然、指揮をとります。」と考えていたのです。

 

そこに降って湧いたのが、2000年4月28日、朝日新聞1面トップに掲載された「トルシエ解任、後任はベンゲル」の記事でした。これで大騒ぎになったのです。スポーツ紙が推測記事で大見出しを打つのとは訳が違い、天下の大新聞が1面トップで報じたとなれば、これは間違いない記事と思うのが普通ですから。

 

この頃の経緯(いきさつ)を話しすると、また話が長くなりますので割愛します。結局、トルシエ監督が続投します。
そのあとの日本代表の成績は素晴らしいものです。シドニー五輪こそ期待が大きかったため、ベスト8で物足りない感じでしたが、それでも32年ぶり、昔、メキシコ五輪で釜本選手たちが銅メダルを獲得した時以来のことですから十分素晴らしい成績です。
そして10月のレバノンアジアカップでは、敵地の難しい状況の中で優勝です。さらに2001年6月のコンフェデレーションズカップでは決勝進出を果たします。どれもこれも立派な成績です。

 

このあたりまで来ると、トルシエ監督が2002年の指揮を執ることには、誰も異論は挟まなくなりましたが、次は「ホントにグループリーグ突破できるの?」という話に変わってきました。
それは確かにあります。1998年フランス大会を見てきた私たちは「やっぱり本大会のホンキの試合は、他の試合とは全然違うものかも知れない」ということを知りましたから、自国開催の有利さとか、いろいろメリットはあっても「そう簡単ではないよな」という気持ちで本大会を迎えたことは確かです。

 

そして本大会を迎えます。はじめの勝ち点1、はじめの1勝をどういう形でとれるのか、なかなかイメージが湧かない中で迎えたのです。
ですから初戦、ベルギー戦で先制点を奪われた時は「やっぱり、そう簡単ではないよな」と身を固くしたわけですが、幸福だったのは、すぐそのあと、鈴木隆行選手が小野伸二からのボールに合わせて、ギリギリのところで、ホントにつま先でボールを捉えて同点にしてくれたことです。
あんな感動的な瞬間は、そうそうあるものではありません。「イケルぞっ、イケル、イケル」という気持ちに誰もがなった瞬間でしたから。そして今度は稲本選手のゴールで日本がリードする展開になりました。「そうなんだ、ニッポンって勝てるかも知れないぐらい強いんだ」と気持ちが更に前向きになりました。結局、この試合、引き分けには終わりましたが、日本列島が「十分イケル !、ニッポンは」という空気になったと思います。
そして、第2戦、このグループで1番手ごわいといわれていたロシアを1-0で破り、グループリーグ突破が見えてきて、最後にチュニジアに2-0で完勝してからは、日本列島は「オーッ、これは、ニッポン、かなり行けるんじゃないか」という空気になりました。
なぜなら、グループリーグ1位突破の日本は、決勝トーナメント1回戦の相手をブラジルではなくトルコにすることが出来たからです。

 

そして、期待MAXで迎えたトルコ戦、なぜか、これまでのスタメンをいじったトルシエ監督の采配に首をかしげつつ、雨の宮城スタジアムの試合で私たちが見たのは、先制された試合をひっくり返せず敗れてしまった日本代表でした。

 

それこそ期待MAXで迎えたトルコ戦でしたから、あんな感じで負けるのを、どうしても受け入れられない自分たちがいました。「トルシエ監督はなんであんなことをしてしまったの」ということです。

 

結局、トルシエ監督の4年間とは何だったのかを確認する作業は、トルコ戦でなんであんなことをしたの、という疑問を解く作業でもありました。
そしてナゾは見事に解けました。それを、ここまで読んでくださったあなただけにお知らせします。

 

それは、実は、トルシエ監督という人は、日本代表監督という仕事を「自分の描いているチームを作る実験の場として引き受け、そのかわり、グループリーグ突破というノルマは何がなんでも果たします。それが自分の実験の成功の証しだからです」と考えてやっていた人だからです。
「自分の描いているチーム」というのが、例のフラット3とかオートマティズムとかの呼び名で代表されるトルシエ監督独特のチーム作りのことです。
「グループリーグ突破というノルマは何がなんでも果たします」という言葉の先には次のような考えが隠されていたのです。
「グループリーグ突破というノルマを達成したら、私の仕事は終わりなので、普通の指揮官なら考える、ノックアウトステージをどうやって勝ち抜くかといったことに、私は関知しません。そこはもう選手に任せます。ただ最後のスタメンだけは、自分の好きなように決めて送り出します。このスタメンで勝てればいいな、と思っている程度です。」という考えです。

トルコ戦の試合前にトルシエ監督が選手たちに話したのは「トルコ戦にどうやったら勝てるか」という話ではなく「君たちはグループリーグ突破という目標を立派に達成した。これから先はボーナスのようなものだ。この試合は2006年に向けての第一歩だ」という話です。
トルシエ監督の頭の中は「このチームが成果を出せるのは彼らが成熟期を迎える2006年だ、その時に向けて十分なチームを作れた。私の実験は成功した」という思いで満たされていたのです。

 

そうわかってしまうと「困ったもんですね、そういう人が監督だったんですか?」と思ってしまいます。普通、ノックアウトステージに臨む監督なら「決勝トーナメント1回戦の相手がトルコになった。こんなチャンスは滅多にない、このあと日本でワールドカップをやれる日がいつ来るかわからない、そう考えて、この試合は何が何でモノにしよう。我々の手で歴史を作ろう。」みたいなことを話して、選手のモチベーションをMAXまで高めるはずですから。
余談になりますが、トルシエという人は、試合前のモチベーションの高め方が抜群にうまい人だったそうですから、普通であれば、ここでも、その希代のモチベーターとしての才能が発揮されるはずですが、違うんです。この人は、もうトルコ戦は自分の「役割外」だと決めてかかっていたのです。

 

日本代表監督を退任して、トルシエという人は、その後、何年にもわたって「なんでトルコ戦であんな采配をしてしまったのですか?」と聞かれ続けたそうです。そりゃそうです。
そうやって何度も聞かれていくうちに、自分が「もうトルコ戦は自分の「役割外」だと決めてかかっていた」ことは、指揮官として失格だったと思うようになったそうです。やっと最近です、そう思うようになったのは。
つまり、自分という人間は「自分の描いているチーム作りをする実験場」の教官としては適任だけれど、ノックアウトステージで、乾坤一擲の勝負をする指揮官には適していない人間だということを、最近になって痛切に感じるようになったのです。
それまでは長い間「自分がトルコ戦でとった采配が間違いだった」とは思っていなかったのです。なぜなら「自分の仕事は既に終わっていて、あのトルコ戦は自分の「役割外」」という意識を持ち続けていたからなのです。

 

でも、最後にトルシエ監督の名誉のために書き加えておきます。それは、ワールドカップ出場2回目にして、決してサッカー強国とはいえない日本をグループリーグ突破というノルマを達成するチームに仕上げたトルシエ監督のチーム作りは正しかったということです。
「クループリーグ突破というノルマを達成するという約束で、自分の描いたチーム作りをさせてもらいます」と話して取り組んだ4年間、ワールドユース準優勝組、シドニー五輪ベスト8組という選手の才能に恵まれたことは事実ですが、その才能をキチンと見極めて、的確に発掘して4年間のプログラムとロードマップを緻密に組み立てて、そのプログラムを寸分違わず選手たちに叩き込む、この情熱と意思を持った監督だからこそ達成できたノルマです。「トルシエ実験場」の教官として、確かな仕事をした人であったことは確かです。

 

もう一つ、トルシエ監督の言葉で印象に残る言葉があります。それを4年間のなかで2回、似たようなことを言っています。
最初は1999年のワールドユース決勝の時です。この時は「日本のような国が決勝の相手スペインに勝ってしまったら、大会の価値を貶めてしまう」という言い方でした。
2回目は2002年5月、スペイン遠征の時です。この時は「今大会で、日本のような国がベスト8に進んだら、それは例えて言えば、日本の大学生のチームがJリーグのチームを差し置いて、天皇杯サッカーで優勝してしまうようなものだ。(天皇杯サッカーとはその程度のものか、と思われてしまう)」という言い方です。
この2つの発言を聞くと、私たちは「いま目の前にある大きなチャレンジで、どうやったら成功できるかを考えるのが指揮官の役目だろう? なんてことを言うんだろう」と思ってしまうのですが、それは、私たちが、トルシエ監督を「闘いに挑む指揮官」と見てしまうから見誤ってしまうのです。
彼は「闘いに挑む指揮官」として言っているのではなく「トルシエ実験室」の教官、あるいは「研究者(学者)」として言ってるんだとわかれば、腑に落ちます。この人は最初から最後まで「研究者(学者)」であり教官でしかなかったのです。学者の思考ですから「こうあるべき」、「あるべき姿はこう」という風に考えるのです。
日本のような経験の浅い国が、なまじ大きな大会を勝ってしまうと、大会の価値を貶めてしまう。無理に勝とうと考えると、そこに何らかの余計な力が働いたり、疑問を持たれるようなことになりかねない、徐々に経験を積んで自然と勝てる日が来るのを待つべきである、まさに学者が考えです。

 

ただ、2002年大会全体の結末を見ると、トルシエという人は、ある種の預言者みたいな人だったのではないかと思うところがあります。
なぜなら、2002年大会、グループステージ突破という経験のない国が勝ち上がっていった中に、審判の判定に問題が多すぎると批判を浴びた実例があり、大会の価値を貶めることになったと言われています。これとトルシエ監督の話を繋ぎ合わせると、この人がアフリカ時代に「白い呪術師」と呼ばれていたのは、実はこういう人だからなのか、と妙に納得してしまうところがあります。
日本は、いわば「学者」か「預言者」か「呪術師」、そんな感じの人と4年間付き合っていたのかも知れません。

 

今回の書き込みのタイトルを「あなたはフィリップ・トルシエという日本代表監督のことを覚えていますか?」と付けました。
もしトルシエという人をある程度覚えていらっしゃる方でも、今回の話の中には、かなり初耳の話があったのではないかと思います。
私も、書き始める前までは、トルシエ監督時代の4年間が、どうにもわからない4年間だったのですが、やっと腑に落ちたというか、なるほどそうだったのか、そうであればナットクというところに辿り着きました。
原稿の一番最後にあたる2002年までを書き終えたところで、最後のナゾが解けたというのは何ともうれしい話です。

司会のカズ・レーザーさんが、遠慮なしに突っ込んでくれたこともあったのか、時々大笑いしながら、そうだったのかという話を楽しみました。
出演者は、澤穂希さん、丸山桂里奈さん、日比野真理さん。

 

東日本大震災直後のワールドカップ。
2011.3.11東日本大震災のあとの大会ということで、選手たちも複雑な思いを抱いて参加した大会のようでしたが、自分たちが頑張る姿を見せることで、少しでも被災された方々を元気づけ、勇気づけたいと、気持ちを奮い立たせたのだと思います。
試合前、普通ならモチベーションアップのビデオを見るようですが、ワールドカップの時は大震災で被災した方々のご苦労をまとめてたビデオを毎回見たそうです。涙なしには見れないこともあり「この人たちを励ますためにも頑張ろうという気持ちになった。」と語っていました。
東京電力マリーゼ所属の選手は、東京電力福島原子力発電所が職場で、丸山桂里奈さんも苦労が多かったはず、それを感じさせないのは丸山さんの明るいキャラクターだろうかと考えたりしました。

2011年女子ワールドカップ、見事優勝
ワールドカップで優勝できた理由を聞かれて、澤さんは「佐々木監督が守りを整備したのが大きかったと思います」と話しました。丸山さんも「澤さんがボランチに入ったのもそうだし」と繋ぎました。
そして「2008年の北京五輪でベスト4まで進んだので自信はつけていたけれど、その上に進むのはなかなかイメージできなかった。佐々木監督は「北京の時に目標をベスト4に設定したら達成できた。次は優勝を目標に設定する、と言い出した。」「言い始めてからずっと目標は優勝だと言い続けてきた。私たちもだんだんその気になって優勝が目標なんだと思うようになった。」
 
チームでの澤さん、丸山さんの立ち位置(佐々木監督がVTRインタビューで答えた話)
「澤は、オン・ザ・ピッチの支柱、桂里奈はオフ・ザ・ピッチの支柱、桂里奈はいつもチームを盛り上げる、試合の時も「私を忘れないでね」というように、なぜか、いつも私の右側か左側のどちらかにいる。」
その話を受けて丸山さん「佐々木監督はいつも「いいか、宝くじは買わなきゃ絶対に当たらないんだ、シュートも同じだ、打たなきゃ絶対に入らない」と言ってくれた。それを大事にしてきた。それから宝くじは絶対買うようになりました。」
そこで、カズ・レーザーさんが突っ込み。
「監督の話の上の句だけ覚えてどうすんの、下の句だろ、大事なのは・・」
 
大会グループリーグの話
丸山さんが「せっかくドイツに来たんだから、何か名所を見ておきたかった。ケルン大聖堂がパワースポットだと聞いて、塔に登ることにした。階段が300段ぐらいと思っていたら500段以上あって足がパンパンになってしまった。明日の試合に出されたら、足がつって動けなくなってしまうと思ってビクビクしていたら、その試合で澤さんがハットトリックを決めてくれて、出ないで済んでホッとした。助かった」
私の感想「女子代表には当時、こういう牧歌的なところがあったのか、男子だったら追放モノだと思うけど・・」
 
準々決勝ドイツ戦
「グループリーグで2位になってしまい、一番当たりたくないドイツと当たってしまった。ドイツはワールドカップ2連覇中、しかも開催国、絶対優勝というムードだから。」
そのドイツ戦、試合は延長に、スーパーサブの丸山も途中からピッチに、そして延長後半3分、丸山が角度のないところからシュート、これが見事に決まり決勝点、難敵ドイツを下してベスト4へ。
丸山さん「澤さんからのボールが素晴らしかった。私はいつものようにボールを見ないで走り出したらボールが来た。その弾み方が素晴らしかった。普通、弾むと前にボールが行って追いつかなくなることが多いが、澤さんのパスは、ボールに逆回転がかかっていて、ちょうど追いつけるところに弾んでくれた。もう、ゴールまでのイメージができて、蹴ったらそのとおりゴールインした。ゾーンに入った感じだった。」
澤さんが「そうだよね、桂里奈はいつもボール見ないで走り出すから、たまに頭のうしろにボール当たることあるもんね。(爆笑) でもあの動き出しがあったから決められたんだよね。」「ドイツに勝ったあたりから、急におエライさんたち日本から来る人が増えたよね。」
私の感想「丸山桂里奈選手のゴールは、男子でいえばジョホールバルの岡野雅行選手のゴールと同じ、この1発で彼女は、日本女子サッカー史に名を刻んだ。」
 
アメリカとの決勝戦
カズ・レーザー「あの同点ゴールは凄かったですねぇ」
澤さん「あの時、私もゾーンに入ってたと思う、ボールを受けに走り出したあたりからのことがスローモーションみたいな感じで、あまり覚えてなくて、気づいたらゴールインしてた。」
丸山さん「私はGKの目の前にポジションとってたので、プレミア席でゴールを見た感じ、あの時もボールがスローモーションのように吸い込まれていった。私もゾーンに入ってた。」(爆笑) 
 
優勝したら(1)
澤さん「帰りの飛行機が急に10人だけいい席に座れることになった。なぜか10人だけ、それで年功序列で年上から順に決めたけど10人目のボーダーラインに同じ年が4人ぐらいいて、生年月日まで確認して決めた。」
丸山さん「私なんか「なんで桂里奈がいい席に座れるの、代わってよ」と言われた。年は上から4番目ぐらいなのに、そんなはずないと見られていたみたいで。」
私の感想「選手たちにそんな思いをさせて、協会は恥ずかしくないの? と思ってしまった。もしかしたら、いい席というのはファーストクラスで、それが10席しかなく、残りはビジネスクラスなら許せるけど、協会批判はもう少し詳しく調べてからにする」
 
優勝したら(2)
日比野さん「日本からの電話が急に増えだして・・。全然知らない人なのに、私の電話番号どうやって回っていったの? と思ってしまった。当時は日本から海外にかける料金は、国内通話料金でいいけど、海外で受けたほうは、話した分国際料金をとられる仕組みになっていて、どうでもいいことに答えながら「料金どんどん上がっていく・・」と思っていた。」
 
優勝したら(3)
丸山さんうれしそうに。「急にモテ出して、いろんな男の人から連絡があって、凄かったです。」
 
その後の女子サッカー
翌年2012年ロサンゼルス五輪銀メダル、2015年女子ワールドカップ準優勝まではよかったけど2016年リオ五輪の出場権を逃してしまい、急速に女子サッカー人気がしぼんだようです。
私の感想「男子も同じだと思うが、スポーツ人気は水物で、一つ大きな大会への出場権を逃すと急に下火になる怖さがある。一定の人気を保つには長い年月の積み重ねしかないか・・。」
 
女子サッカー選手のおかれた環境
澤さん「WEリーグがスタートする前は、クラブチームの選手たちはパートやアルバイトをしながらプレーしていたので代表活動に入るとパートやアルバイトの収入がゼロになった。よく「代表貧乏だね」と言い合ったりした。
日比野さん「日本代表の試合日当は、昔は3000円という時代だった。それが5000円になり、いまは10,000円になった。昔は、澤さんのお母さんが掛け合ってくれてアップしたという時代だった。
私の感想「選手の家族が動かないと変わらないなんて、それじゃ、まるで町クラブチームの予算みたい」
 
今後、日本女子代表・澤監督の可能性は?
丸山さん「澤さんはいつも「私は絶対に監督に向いていない」と言ってるので、監督でなくてもいいから、マスコットキャラクターみたいにベンチにいつもいて欲しい。」
 
引退後の澤さん、驚きのポリシー
澤さん「もうやり切ったので、一蹴りたりともボールは蹴りたくないという気持ち、普及活動として、子供たちとたわむれるようなことはしているが、大人たちとの試合や指導は一切していない。」

 
そんなことあったのという話や、澤さんのいまなど、次々とお宝話を、時々大笑いしながら、そして、考えさせられることも交えて、あっという間の小一時間でした。

タイトルの全文は「田村修一さん追悼、Number web誌の「トルシエが“最も愛した記者”が死の直前まで続けた取材を公開」を読みました。」です。

 

Number web誌が、さる7月29日にがんのため、享年68歳で逝去された田村修一さんの最後の取材となったフィリップ・トルシエ氏への電話インタビューを掲載しました。
2026/08/07 11:02に掲載された記事には「故人のご遺志により、その最後の取材となったW杯日本対ブラジル戦後のインタビューを公開します」というリード文がついていました。
W杯日本対ブラジル戦は、6月30日(火)午前2:00からの試合でしたから、電話インタビューは、その日のうちか7月1日あたりだったのでしょうか・・・。
亡くなられる約1ケ月前のインタビューでしたし、訃報を聞いたフィリップ・トルシエ氏の驚きは大きかったことと思いますし、さぞ無念だったことと思います。

 

インタビューを受けたトルシエ氏は、本題に入る前にまず「君の体調はどうなのだ。大丈夫か?」と語りかけています。田村さんの病状を心配するトルシエ氏の気持ちがストレートに伝わってきました。
私が理解しているトルシエ氏と田村さんの関係は「日本での4年間を支えた唯一のサッカージャーナリスト」です。(トルシエ監督の在任期間は3年9ケ月ですが、田村氏とトルシエ氏が出会ってから2002年ワールドカップ終了までちょうど丸4年だと理解していますので「4年間」としておきます)

私がいま書き進めている「日本サッカーが世界を追いかけ熱く幸福だった17年間」の最後の4年間は、まさに「トルシエジャパン」の時代です。
フィリップ・トルシエ監督にとって、日本のサッカージャーナリスト界との関係は四面楚歌の4年間だったと思いますが、その中で唯一の理解者が田村修一さんだったはずです。
トルシエ監督にとって田村修一さんは、日本人ジャーナリストの中で唯一、自分のサッカー観を日本語に言語化して正確に日本のサッカーファン、サッカー関係者に伝えてくれる「スポークスマン」だったと思います。
今回の二人の会話を読ませていただいて、まさしく、そのとおりだったと確認できました。

 

トルシエ監督は、当時の日本サッカー界としては、なかなか共感する人が少ない特異な指導法で各カテゴリーの代表選手たちと接していましたから、外側から見ている人たちにとっては、最初から最後まで理解できないままの人というイメージを持たれた監督です。
日本サッカーを指導した3年9ケ月の間に、いくつもの日本サッカーの金字塔を打ち立てた監督であるにも関わらずです。

 

私は、いま書き進めている原稿の中で、これだけの業績を残した監督が、なぜ、これだけ理解されないまま日本での指導を終えることになったのか、そのことを、何かを誇張しすぎることなく、何かに偏ることなくフラットな気持ちで書き残したいと思っています。
亡くなられた田村修一さんの、フィリップ・トルシエ氏に対する接し方が、まさに「何かを誇張しすぎることなく、何かに偏ることなくフラットな気持ち」だったと思うからです。
そうして仕上げた原稿を田村修一さんに捧げたいと思います。
あらためてご冥福をお祈りいたします。

 

タイトルが字数制限の関係で途中で切れましたがフルタイトルは「大げさな言い方ですが、おてんとさまが見てるよとか、天罰が下るよ、日本人に与えてくれた先人の智恵を大切にしたいものです。」です。

 

長いタイトルになりましたが、昨夜のJリーグシーズン変更元年の開幕戦を見ていて、そんなことばかり思いが湧き上がってきました。
私たちは、小さい時に、大なり小なり「おてんとさまが見てるから悪いことしちゃダメだよ」とか「悪いことすると天罰が下るからね」という言われ方をした経験があると思いますし、日本人の精神性の根底に「誰が見ていなくても悪いことはしない」すなわち、善悪の判断をキチンとできる人間になるんだという生き方を持っているように思います。

それと、昨夜のJリーグシーズン変更元年の開幕戦がどう関係あるの? という話になりますが、それこそが大げさな話で申しわけないですけど・・です。
前にもご紹介しましたが、私はいま「日本サッカーが熱く幸福だった17年間」という電子書籍予定の原稿を書いています。
これは、まさに1993年のJリーグスタートを挟んだ時期の17年間、日本サッカーは「冬の時代」から抜け出そうと、多くの人たちの熱き情熱をエネルギーにして、サッカー後進国から、発展途上国、次にサッカー新興国のレベルまで成長と発展の坂道をひたすら駆け登った時期のことを、何としても克明に、それこそ、その熱き人々の息づかいまで伝わるように、書き残したいという思いで始めた作業です。

 

私の原稿の起点は1986年です。そこから1993年のJリーグ創設と、ワールドカップ招致に奔走した日々、次にドーハの悲劇を経験したために招致活動に韓国が割り込んできて、結局は日韓共催に持ち込まれてしまった日々、さらには2002年には何としても、開催国特権の初出場ではなく、自力で出たことがある国にならなければならないという重圧を背負うことになったフランスワールドカップ初出場までの日々、そしてフランスでの惨敗のあと、2002年をトルシエ監督に託すことになってしまった4年間と、開催国としての準備にあたる人々が、FIFAの狡猾な契約等にがんじがらめにされ格闘しながら2002年を迎えた日々。

そうした日々の末に、国をあげて開催した200年ワールドカップを成功裡に終わらせ、日本代表も出場2回目にして決勝トーナメント進出を果たすという開催国の面目を保って終えた2002年まで。

 

実に17年間の、ひたすら右肩上がりで成長を続けた日本サッカー、しかし、その中には、成長に組織や制度が追いつかず、多くの歪み、痛みを伴った真実が隠されていた日本サッカーの日々でもあります。その17年間の叙事詩を書いていて現在2001年まで進みました。
全5巻で仕上げる予定で、2001年は第4巻(1999年~2001年)にあたります。
第5巻は最終2002年で、第3巻を1998年だけにあてたように、第5巻も2002年だけを予定しています。2002年という年が、それだけ濃密な年であることは明らかですので、まだ登山でいう9合目までは来ていないと思います。おそらく現状、7合目あたりと考えています。

 

自分の原稿の話が長くなり、「おてんとさまが見てるから悪いことしちゃダメだよ」とか「悪いことすると天罰が下るからね」という話と、昨夜のJリーグシーズン変更元年の開幕戦の関連が、どこかに飛んでしまってしまいました。申しわけございません。本題に戻ります。
昨夜の開幕戦、フジテレビが横浜FMと鹿島の試合を放送してくれました。テレビの中継アナウンサーもしきりに33年前の5月15日のヴ川崎と横浜Mの試合になぞらえた話をしていました。

 

あの時も私はテレビで試合を見ていました。試合の行方を見ていたというより、満員の国立競技場の、テレビカメラが引いてピッチ半分ぐらいの中に両チームの10人の動きを映し出している画面を、夢うつつで見ていた気分でした。そして試合が終了して我に返り、一つの演舞でも見終わった感覚の約2時間だったことを覚えています。

 

あの日は1試合限定、当時の川淵チェアマンがそれにこだわったとおり、全国の耳目が極限までこの試合に集中しましたから、Jリーグ開幕のインパクトは絶大でした。

そして23年後の昨夜、対戦カードは、この33年間一度も降格を経験していない、たった2つだけの横浜FMと鹿島、必然のカードです。
 

ここで、大げさな話につながります。要は23年前のカードの一つヴェルディ川崎、現在でこそ東京ヴェルディと名を変えてJ1に戻ってきましたが、この開幕カードに選んでもらえない歴史を歩んでしまいました。
しかも、今回は鹿島がヴェルディ川崎の代わりになったのです。この2チームは1993年シーズンの初代年間王者を争ったチームです。結局、ジーコのつば吐き事件という、言い訳の効かない行為もあって鹿島は初代王者を逃しました。ヴェルディ川崎は翌年も年間王者となり、草創期の覇者でした。
しかし、初代年間王者を争ったチャンピオンシップも含めて、当時、何かとヴェルディ有利な判定が多かったのではないかという話がささやかれました。何一つ、立証できるようなものはありませんし、当時はレフェリーの判定がすべて、サッカーはそれによって成り立っているという考え方でしたから、判定にことごとくクレームをつけるジーコのふるまいは、むしろ行き過ぎていると批判されました。

 

しかし、その後の歴史は、ジーコの教えをクラブのアイデンティティに据え、それをどこまでもクラブの魂として受け継いでいくことを徹底した鹿島が、獲得したタイトル数21冠を誇る圧倒的王者として君臨しています。
一方のヴェルディ川崎は当時の親会社社長の何かと物議を醸す発言も相まって、横車を押すクラブというイメージを強く持たれ、次第に凋落、長くJ2暮らしのチームになったわけです。
何も具体的な瑕疵があったわけではないのですが、結局、大げさかも知れませんが「おてんとさまが見てるから悪いことしちゃダメだよ」とか「悪いことすると天罰が下るからね」ということなのではないかと思ってしまうのです。

 

もっとも、横浜FMのほうも結果的には一度もJ2降格を経験せずにここまで来ましたが、ちょうど私がいま原稿を書いている2001年、横浜FMが後期最終節に辛うじてJ1残留を果たすという危ない橋を渡った経験もあります。ちなみにこの時は東京ヴェルディも降格危機でした。最終的には福岡がJ2降格となったのです。

それからもう一つ、チーム名には「F」という小骨が引っ掛かっているクラブです。小骨が引っ掛かっているクラブという表現は、1998年の横浜フリューゲルス合併・消滅事件の時に、横浜マリノスが合併の証しとして「F」を付けたことを、この事件に心ならずも関わることになった当時のJリーグ専務理事・木之本興三氏が後に自著で語った言い方です。
 

私は、横浜マリノスが、いつかはこの「F」を返上してくれるものと信じています。つまり後継クラブである「横浜FC」に「この『F』はフリューゲルスの『F』です。横浜FCさん、お返ししますので、これからは『横浜フリューゲルス』と名乗っていただけませんか?」と言ってくれるのではないかと信じています。

 

なぜなら、結局、この件も、別に横浜FMが咎められることではないかも知れませんが「おてんとさまが見てるから悪いことしちゃダメだよ」とか「悪いことすると天罰が下るからね」という日本人の精神性の根底にあるものに照らすと、いつまでも「『F』という小骨が引っ掛かっているクラブ」と形容されてしまうと思うのです。
2年後の2028年が、あれから30年目です。もし、その節目にでも「F」を返上するよう横浜FCと事前調整してくれるのではないか、もしそれが実現すれば「やはり横浜マリノス」は、第2のJリーグスタートの開幕戦に選ばれただけのことはある、誇り高いクラブだ、よく決断されたと、新たな称賛を浴びると思うのですが。
一つだけ不安があるとすれば、この件がタブーなのかどうか、だけです。

 

 

ちょうど1ケ月前、7月4日の書き込みで「「目標は優勝」の言葉一人歩きによる多くの間違いをキチンと整理しておきます」というタイトルをつけて、スホーツライターの小宮良之氏が「森保ジャパンの「W杯優勝」という無理筋を煽ったのは誰か?」という論考を発表したことについて、見解を述べました。

 

もちろん小宮氏が、当方のnoteをお読みになることは考えられませんが、もしかしたら、あの小宮氏の論考について「それは、あんまりじゃないですか?」と言ったコメントが寄せられたのかどうか、昨日4日付けのYahooニュースに「9年目の森保ジャパンが拵えた(注・こしらえた)勝利と敗北の構造。精神性組織の限界とは?」という論考を寄せました。

 

今回の論考には2つの論点がありました。一つは、森保監督のサッカーが日本という国の組織性を強く投影していて、つまり、組織内融和、調和を重んじ、その人事の根幹は情緒主義、集団主義にあるという点、
もう一つは、ラウンド32のブラジル戦、日本は勝機を逃した、勝機を生かせなかった森保監督の采配がすべてだという点です。

 

最初の論点は、まるでデジャブ(既視感)でした。1998年フランスワールドカップを戦った岡田監督の采配と、その原因について論評された時の内容そのものでした。これは、あとで触れることにして、次の論点、日本は勝機を逃した? については「そうですか、そこまで見ておられましたか」という気持ちで読みました。
私は、ラウンド32を勝ち抜けられなかった要因は、狙っていた2チーム分の戦力が、数人の選手が離脱した時点で、強豪と戦うには手薄となってしまった結果だと、6月30日の書き込みで論評しました。つまり数人の主力が離脱したため、ジョーカーとしてベンチにおいておきたかった選手をスタメンに送り出し、ベンチには彼ら以上に違いを出せる選手が残っていなかったためと見たのです。

 

しかし、小宮氏は「アンチェロッテイ監督が後半修正してきた戦術に、日本も手を打ち返せた。例えば板倉滉選手をアンカーに入れて、中盤を厚くし、ボールを持つ時間を奪い返し、カウンターの機会を創出できた。」あるいは「1-0でリードした後半、鎌田がカウンターでボールを持ち込んでいる。彼のような、ピンポイントのタイミングとスペースを見極め、チャンスを作り出せる選手がいるのに、彼のところに折り返しのクロスは入らず、活かし切れなかった。」と書いています。
正直、「そうですか、そこまで見ておられましたか、つまり、その時ピッチとベンチにいた選手たちで十分勝機は作れたわけですね」という気持ちで読みました。
また、ボールロストで決勝点を献上するキッカケを作った田中碧選手についても「田中碧選手は、その前の味方の混乱を処理するためにボールを取り切った。ボールロストはその先に起きたものだ」と、何も知らずにボールロストのことを言うサッカーファンをたしなめています。

 

確かに私は、森保監督の采配が勝負を分けたのではないかという視点では、あまり見ていませんでした。そこは私のような素人が論評できる領域ではないと考えているからです。その部分がどうしても抜け落ちてしまいますから「狙っていた2チーム分の戦力が、これほどの離脱はないものと想定した戦力なので、その前提が崩れてしまっては敗れても仕方がない」という見方になってしまいます。
小宮氏にこれほど明快に「いや、勝機を逃した要因は森保監督の采配がすべてだ」と論考を示されると「そうですか」という感じです。

 

ただ、小宮氏が、もっと本質的な問題として提起しています。
つまり「2018年ロシアW杯のベルギー戦が『日本が強豪になる黎明だった』が、森保ジャパンは、その戦いの継承に失敗した。その原因は日本の巨大な組織の作用にある。『巨大な組織の作用』とは監督選手だけでなく、コーチングスタッフ、日本サッカー協会、スポンサー、メディア、そしてファン・サポーター、すべてを指す。その巨大な組織が『耐え忍んでいたらチャンスは来る』式の神格化した戦いに引き戻したから、森保ジャパンはプレー様式を革新できず、受動的なサッカーを8年も続けたのだ。」と問題を提起したのです。
これは、かなり深刻な病巣ということになります。小宮氏も、日本の巨大な組織の作用が、精神性を高め、運を引き寄せることに全力を傾けることに向いていて、それは、さきの大戦で日本軍が犯した過ちそのものだと指摘しています。

 

ここで、デジャブの話をしたいと思います。
小宮氏が「森保監督のサッカーが日本という国の組織性を強く投影していて、つまり、組織内融和、調和を重んじ、その人事の根幹は情緒主義、集団主義にある」と指摘した点が、1998年フランスワールドカップを戦った岡田監督の采配と、その原因について論評された時の内容そのもので、まるでデジャブ(既視感)だと書いたわけです。
その時の日本は、たまたまフィリップ・トルシエというフランス人監督に日本代表を託すことになりました。
それは何も、フランスワールドカップでの日本代表の戦い方を徹底的に分析して議論して導いた方針としての招へいでも何でもなく、たまたま承諾を得られた外国人監督というだけの理由で選任した人ですが、その人がまた、大変な「壊し屋」で「日本という国の組織性、情緒主義、集団主義なんて、オレの目指すサッカーにとっては、ただの邪魔者、壁にすぎないから、そんなものはブチ壊す」とばかりに、自分の考えるサッカーにむりやり選手たちをはめ込みました。
ところが、うまい具合に、目の前に現れたユース世代が金の卵だということに気づき、ヘタに日本的な色合いに染まった連中を頼りにするより、彼らを鍛え上げたほうが手っ取り早いとばかりに、自分のサッカーをはめ込んだのです。若い選手たちは、そのサッカーを習得してワールドユース準優勝という金字塔を打ち立て、その後もシドニー五輪、アジアカップと成果をあげ続け、ついにはフランスワールドカップで1勝はおろか、勝ち点1さえもとれなかった国を、次のワールドカップで1敗もせずに決勝トーナメント進出を果たし、ものの見事に開催国のノルマを果たしたのです。

 

それだけの成果をあげたトルシエ監督のことを、その後の日本サッカーは一顧だにしませんでした。とにかく嫌だったのです。いくら成果をあげても嫌なものは嫌という監督だったからです。日本という国の組織性、情緒主義、集団主義という価値観とは相いれない監督は金輪際ゴメンだというスタンスで、その後の監督選びも、外国人監督であっても構わないが、とにかく日本人の価値観に合う人、分かりやすくいえば人柄のいい人という選び方が続いたのです。

 

その結果、2006年、2014年と外国人監督に率いられた日本代表はグループリーグ突破は果たせませんでした。2人とも人柄は満点だったのですが、ワールドカップの戦いを勝ち抜くリアリズムには欠けていたのです。そして、2018年以降「やはり日本人監督でいこう」となったのです。
今回、小宮氏の論考に向き合って、あらためて思うのは、いわゆる「個の力」が上がって、ある程度のところまで勝てるレベルには来たけれど、結局、日本型の組織性、情緒主義、集団主義というものに阻まれているうちは、日本は次のレベルに到達できないということか、と暗澹たる気持ちになったことです。

 

そういえば、2017年10月30日に、2020年東京五輪監督に森保監督が選任されたというニュースを読んで、私は11月4日のブログに「満を持して森保監督が世界の舞台へ」という書き込みをしたことを思い出しました。
当時は「私の一押し監督」だったのです。あれから8年以上も五輪代表、フメ代表と監督を続けるとは思いもよりませんでした。
来年1月から大岩剛監督にバトンタッチとのことです。
ちなみに、この年2017年の6月7日の書き込みでは、鹿島の監督に突然就任した大岩剛監督のことに触れています。「世界基準で見たほうがいいのか、鹿島の監督交代」とタイトルをつけています。
「前年Jリーグ二冠をとり、暮れの世界クラブW杯で決勝まで勝ち上がり、鹿島の名を世界に知らしめた石井正忠監督を、そう簡単には変えないだろうと思っていたら、チームの強化部門の責任者である鈴木満常務取締役強化部長は、大岩新監督を起用する理由を『石井監督が良いとか悪いとかではなく、チームというものは生き物で常に変化する。そのタイミングにあった監督を起用しなければいけない。変化に対応することが大事だった』と述べた。このいきさつを知って、私は『あぁ、鹿島というクラブは、もはや世界基準でクラブマネジメントをするクラブだと考えたほうがいいのではないか』と感じた。」と書きました。

 

その後、大岩監督は鹿島でACLチャンピオンズリーグタイトルはとったものの、2017~2019年までの3シーズンで川崎Fなどに阻まれてJリーグ制覇はできませんでした。
そんなこともあり、大岩監督が2021年、U-18日本代表監督に就任というニュースを聞いても、森保監督に抱いたほどの期待はありませんでした。しかし、その後U-21代表監督、五輪代表監督とアンダー世代の監督キャリアを積み、実績もあげています。2024年には、自身2度目のアジア最優秀監督賞を受賞しており、指導者としての評価が大変高いことがうかがえます。
人はどんなところに才能を隠し持っているかわかりません。もちろん結果が出るかどうか神のみぞ知るですが、いまは大岩監督へのバトンタッチは最良の選択だと思います。

 

久しぶりに長い書き込みになりました。

 

これまで32年間にわたって続いたJリーグの春~秋シーズンが、今シーズンから変更されます。
その最初のシーズンの開幕は8月7日とのことです。近年の日本の夏は40℃にもなる過酷な気候になり、正直、なんで、8月7日開幕なの? と思いました。
調べてみると、シーズン終了が2027年6月6日とのことで、これもまた「何で、そんなに遅くまでなの?」と思いました。
すると、12月21日から2月12日まで1ケ月と20日もの長いウィンターブレーク期間(中断期間)をとるとのことです。
つまり、日本の過酷な夏と積雪が考えられる冬の条件を睨んだ、設定だということが見えてきました。

 

欧州各国リーグが、だいたい9月初旬開幕、翌年5月下旬閉幕ということで揃っていますが、日本の気候条件は、なかなか、そのようにはいかないということになったのだと思います。
それにしても、8月から9月初めぐらいまでの日本の夏の過酷さを思うと、キックオフ時間が17時程度に繰り下がったぐらいでは、選手の負担は軽くならないだろうと思いますし、かと言って、日本のスタジアム風景は、子供たちや女性の観客が多いことを考えれば、あまり遅いキックオフ時間にもできない事情があり、悩ましいことだらけです。

ちなみに、いま当方が書き進めている「日本サッカーが世界を追って熱く幸福だった17年間」という原稿の中で、2000年シーズンを書いていますが、このシーズンのイタリアリーグ・セリエAの開幕日がなんと10月1日だったことを知りました。通常の開幕時期より1ケ月も遅いスタートです。この年、6月10日から7月2日にかけて欧州選手権(EURO2000)が行われています。9月にはシドニー五輪も開催されたための日程変更だとは思いますが、欧州選手権に出場した主力選手は7~8月と少なくとも2ケ月のオフは確保されたと思います。こうした日程設定を見ると、代表活動とリーグとの調整、特に選手のオフをどう確保するかという調整が、長年の智恵でできているのだろうなと羨ましくなってしまいます。

まずはシーズン設定変更、最初の1シーズンをやってみて、また、いろいろと微調整しながら、日本的な秋~春シーズンの最適解を見つけていくしかないのでしょう。見守っていきたいと思います。

圧倒的スーパースターがいるわけでもなく、フィジカル的に突出しているわけでもないスペインが優勝しましたね。
しかも「堅い守備で」と、まるでひと昔のカテナチオの国のような、あるいはゲルマン魂のような国の失点の少なさで・・・・。

 

7/21(火) 17:45配信の「webスポーツ報知で金川誉記者は「【W杯】「個の依存」を越えたスペイン優勝に見る日本サッカーの未来 …日本らしさと世界基準を融合させる4年間に」と題した記事を書いていましたが、そのとおりで、これまで積み上げてきた日本サッカーの進むべき方向性が間違っておらず、完成形をスペインが見せてくれた、そんな感じです。

 

産経新聞は見出しに「パスサッカー 極致」と打ちましたが、自分たちがボールを保持し続けていれば点はとられない、そんなマンガなどで語られる究極の理想形を現実のものとした、それが今回のスペインでした。

 

その結果を受けて、セルジオ越後氏は「これで日本が永遠に優勝できないことがわかった」と彼らしく言い切りました。これだけのレベルの選手を揃えることは日本には永遠に無理、という意味のようです。

だからと言って日本は目標を捨てる必要は全然ないと思います。いまのレベルでも日本は、選手が離脱なく揃っていれば、十分勝てるサッカーを作り上げてきたと思います。

ただ解決すべき課題が明確に見えてきたことも事実です。
それは2つあります。

一つは、代表レベルでの本チャンの機会の少なさ、むしろ減少傾向にあるところをどう解決していくかという点です。やはり欧州・南米の国との本チャンの試合機会を増やさないと、差が縮まらないばかりか広がる一方です。
日本はただでさえ、地理的に本チャンの試合機会を得るのが難しいのに加えて、UEFAネーションズリーグの創設によって、日本が欧州の国とのフレンドーマッチが組みにくくなりました。
このまま、座していては置いていかれるばかりです。
そこに智恵が必要になります。FIFAはワールドカップを64ケ国にしたほうがいいのではと言っています。これは、営利的な目論見もありますが、なるべく多くの国にワールドカップ本大会出場の機会を与えたいという正論でもあります。
しかし4年に一度のワールドカップそのものを64まで拡大しては、大会の価値も下がりますし、選手への負担をはじめ数々のデメリットがあります。
そこで日本の出番だと思います。
FIFAは、UEFAが「ネーションズリーグ」を始めたことで、ますますUEFAの懐が潤っていることを苦々しく見てるわけですから、それをアジア、アフリカ、南北アメリカなどのチームも交えた、それこそ「ワールドネーションズリーグ」に組み替えて4年のうちの半分は、それに使うといった新たな提案の推進役になる必要があります。考えを同じくする国と連携してFIFAを動かしUEFAを動かすべきです。

 

もう一つの課題、それはケガによる離脱者の減少、むしろ「ゼロ対策」への国をあげての取り組みです。
今大会、ベスト4はFIFAランキングどおり、そのまま反映されました。それだけ選手層が厚いのも要因だと思いますが、主力選手のケガによる離脱の少なさも大きいと思います。
7月2日にも書き込みましたが「そもそもケガをしない身体づくり」に国をあげて取り組まないと、こればかりは、いつまでたっても、いざ本番の時に肝心の選手が何人かいないということが続きます。日本人はそういう身体をした民族ですから、そこを根本的に変えていかないとダメだと思います。
日本選手がせっかく海外で成長して、日本代表の選手層が年々厚くなっても、今回わかったことは、スタメンクラスの何人かが欠けると、本来ジョーカーでベンチスタートの2チーム目の選手をスタメンに送らざるを得なくなり、ベンチのジョーカーは、いわば3チーム目の選手になってしまったということです。
これからは、その3チーム目にも「誰が途中から出ても遜色ない働きをする」レベルの選手が数多く必要になるということが判りましたが、それ以上に、1チーム目から3チーム目まで、どの選手もケガで離脱することのないような身体づくり(これは単に筋トレレベルの話ではなく予防医学的、予防スポーツ科学的アプローチのことになると思います)に、国をあげて取り組む必要があると思います。

 

もし、この大きな2つの課題が解決に向かうようであれば「日本代表、いずれはワールドカップで優勝を目指せる」と言えると思います。

 

アルゼンチンvsイングランドの準決勝、今回ばかりは判定や因縁のプレーなしで終わった、と思っていたら、ゲーム終了後のピッチでベリンガムがアルゼンチンの選手の首筋あたりを後ろからピシャッと叩くおまけがついたり、アルゼンチンのメンバーがピッチ内でサポーター席からのものらしい手書きの布幕を広げてみせたり、やっぱり起きましたね。

 

イングランド・ベリンガムの行為は不問というわけにはいかないようですし、アルゼンチンの布幕も書いてある内容が内容ですからね、完全に政治的メッセージをピッチに持ち込んだという意味では、FIFAも黙っているわけにはいかないでしょうけれど、少なくとも決勝が終わるまでは、そのままでしょうね。
決勝が終わって、ほとぼりも冷めた頃、何か制裁が科せられる可能性があります。

 

メッシが決勝でどういう終わり方をするのか、世界中の関心はその1点にあると思います。エムバペをああいう終わらせ方にしたスペインの戦術を考えると・・・・、という気もしないでもありませんが。わかりませんね。
ことメッシに関しては、小柳ルミ子さんの放心ぶりがネット記事で伝わってきて、素直に「よかったですね」と言ってあげたい感じでした。

 

スペインがエムバペを完全に囲い込んだ画像を見て、私は「スペインは4年前の日本戦から、自分たちがこれからやっていかなければならない戦術を学んだのではないだろうか」と思いました。あの画像は、まさに「日本はこうしなきゃ勝てないから、なんとしてもハードワークしてみんなで抑えるんだ」とやっている画像と同じでしたよね。
もし、それを謙虚に学んでくれたのだとすれば、スペインって凄いよな、です。

2026年ワールドカップもいよいよ準決勝、今回はFIFAランキング1~4位までがベスト4ということで、今まででしたら「凄いことになりました」とか「歴史的な組み合わせです」とか感激したものですが、これほどFIFAがいろいろ仕組んでいると疑われては、もはや前のように信用できなくなりましたね。

 

寂しいことです。世界最大のスポーツと言われ、世界中の人々が楽しみにしている世界が、これだけ疑われるようになっては。
私などは、歳のせいで、年々、関心の熱量が下がっている感じがしていますので、次第にフェードアウトしていきますが、未来ある人々のために、信頼を取り戻さないと。

ワールドカップ決勝トーナメント1回戦、アメリカvsボスニア・ヘルツェゴビナ戦でアメリカのFWバログン選手が相手チーム選手の足を踏みつけた行為でレッドカードを受け、次戦、自動的に出場停止となったはずが、FIFAにより「出場停止処分は1年間猶予、したがって次戦は出場可能」と覆された問題は、FIFA自身の自殺行為でした。

 

アメリカのトランプ大統領からの見直し要請にFIFAインファンティーノ会長が応じたと見られています。インファンティーノ会長がどう抗弁しようと世界中の誰もが「あぁ、そうなんですか?」などとは信じません。
では、こんなことをする人物がなぜFIFAのトップに君臨しているのかという疑問を解きたくなります。

 

そんな疑問に、ノンフィクション作家でサッカーに関する著作も多い木村元彦氏が集英社オンラインへの寄稿で答えてくれました。
2016年にFIFAの信頼を回復させるために就任したインファンティーノ会長、UEFA会長だったミシェル・プラティニの下で事務局長をしていた弁護士だったそうです。
こういう人が握った権力を悪用すると悲劇的です。どうすれば権力を維持できるか、どうすれば意のままに組織を私物化できるかの智恵に長けている人だからです。

 

FIFAはこのあとどこへ行くのか、それを各国協会や各国リーグはどう動くのか・・。
1990年代からFIFAが肥大化して腐敗が顕在化して、アベランジェが退いたあとのブラッターも腐敗により退陣、そしてまたインファンティーノ、FIFAはどれだけ度し難い組織なのか。
これから、どんなことになっていくのか、しばらくウォッチしていかなければなりません。

 

ちなみに先ほどあげたノンフィクション作家・木村元彦氏の著作に忘れられない1冊があります。
「争うは本意ならねど」2011年に集英社から出版されたこの本は、2007年に起きた川崎フロンターレFW我那覇和樹選手のドーピング冤罪事件をレポートした書物です。
いわれのないドーピングの濡れ衣を着せられ、頼る人もなく絶望の淵にいた我那覇選手に寄り添い、献身的に冤罪を晴らすために奔走した医師たちの活動を涙にむせびながら読ませていただきました。
それにひきかえ、Jリーグ当局やクラブである川崎フロンターレの何と冷淡なことか、特に自分のチームの選手を信じようとしない川崎フロンターレのクラブ経営陣に対しては「この問題を乗り越えない限りクラブに未来はない」とは強烈に批判の意見を書いことを、いまも鮮明に思い出します。

 

その後、我那覇選手も立派に選手生活を全うしたという情報にも接し、川崎フロンターレも「Jリーグの優等生」と評されるほど地域密着の理念を具体化して、我那覇問題を鏡としてクラブ改革に取り組んだことが窺えます。

 

今回、インファンティーノのことを木村氏に教えてもらうことになったのも、我那覇事件をつぶさに追った木村氏ならではのことだと感じました。