前にもお知らせしたことがありますが、私はいま「日本サッカーが熱く幸福だった17年間」というタイトルで、日本サッカーの1986年から2002年までを克明に記録する原稿を書いています。
作業は、2002年まで進んできて、2002年日韓ワールドカップの決勝が終わったところまで来ました。
もう日本代表は2002年6月18日(火)に、決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れ、日本全国の空気も、決勝の6月30日(日)まで、大会の残りに付き合っているという雰囲気でした。
2002年日韓ワールドカップの日本代表は、1998年フランス大会に惨敗したあと、なぜか、日本中で知る人がほとんどいないフランス人のフィリップ・トルシエという人を監督にしました。
最終的にこの人は、4年間を全うした人です。
おそらくサッカーファンの方でしたら、2002年日韓ワールドカップで日本代表がグループリーグを突破して、決勝トーナメントに進んだことはご存じかと思います。
その後の日本代表は、すでに24年間、6回連続でワールドカップに出場していますが、グループリーグを突破できなかった大会が2回、初出場のフランス大会と合わせて3回ありますから、グループリーグ突破というのは、そうたやすいことではないということも、おわかりだと思います。
フランス大会、日韓大会の様子を書いていて痛切に感じたことは「ワールドカップという舞台で戦い、勝ち抜くためには、どれだけ経験を積んでいるかが重要な要素である」ということです。
その意味では、1度フランス大会に出ただけの日本が、しかも1勝どころか勝ち点1すらあげられなかった日本が、2回目の出場でグループリーグ突破という目標を達成するのは、並大抵のことではなかったんだ、ということも書いていてわかってきました。
共催した韓国が、日韓大会で6度目の出場なのに、過去5回、1勝もできないで迎えたわけですし、容易なことではないことがわかります。
ただ、この2002年日韓大会は、主催国であり、過去、主催国がグループリーグを突破できなかったことは一度もないというのも事実でした。もっとも、それまでの主催国で、あまり出場経験がない国というのも少なく、1994年大会のアメリカが、日本とやや条件が似ているかな、という程度で、あとの開催国は経験豊富な国ばかりでした。
経験という点で日本とやや似ているアメリカも1994年大会では、きっちりとグループリーグ突破を果たしていますから、日本も当然目標は達成できるはずという目に見えないプレッシャーがかかっていたことは確かです。
そういう目標を達成できる人物、というのが、その頃の日本代表監督の選考基準でした。
フィリップ・トルシエという人に決まった経緯(いきさつ)は、話せば長くなりますので割愛しますが、この人がまた、大変変わった人で、その後の日本代表は、選手たちも、サッカー協会も、取材するマスコミも、みな目を白黒させるようなことばかり、しでかす人だったのです。
ですから、トルシエ監督体制がスタートしてから2年ものあいだ、特に協会やマスコミの中では「大丈夫なの、この人、ホントに任せていいの?」という心配というか、批判がずっと続きました。
もし、この人が、周りが目を白黒させるような、変わったことをしない普通の人であれば、それほど心配や批判を浴びないで済んだのかも知れません。
なぜなら、1998年9月に就任して、すぐ翌年の1999年4月に、ワールドユース選手権でU-20日本代表を決勝まで進出させるという、これを快挙と言わずして、何と言いましょうや、という素晴らしい結果を出したのですから。
「この人に、ホントに2002年大会を任せていいの?」という心配というか、批判は、2000年5月にピークに達しました。この頃、契約が2000年6月までだったことから「いまのうちに変えたほうがいいんじゃないの」と考える人たちの声がマスコミを通じて増幅していったのです。
ところが、この契約にはオプションがあって、2000年9月に行われるシドニー五輪サッカー、そして2000年10月に行われるレバノンアジアカップ、それぞれの出場権を、アジア予選で獲得すれば、9月、10月の本大会の指揮を任せますという契約になっていましたので、トルシエ監督は「私は両方とも獲得しましたから、当然、指揮をとります。」と考えていたのです。
そこに降って湧いたのが、2000年4月28日、朝日新聞1面トップに掲載された「トルシエ解任、後任はベンゲル」の記事でした。これで大騒ぎになったのです。スポーツ紙が推測記事で大見出しを打つのとは訳が違い、天下の大新聞が1面トップで報じたとなれば、これは間違いない記事と思うのが普通ですから。
この頃の経緯(いきさつ)を話しすると、また話が長くなりますので割愛します。結局、トルシエ監督が続投します。
そのあとの日本代表の成績は素晴らしいものです。シドニー五輪こそ期待が大きかったため、ベスト8で物足りない感じでしたが、それでも32年ぶり、昔、メキシコ五輪で釜本選手たちが銅メダルを獲得した時以来のことですから十分素晴らしい成績です。
そして10月のレバノンアジアカップでは、敵地の難しい状況の中で優勝です。さらに2001年6月のコンフェデレーションズカップでは決勝進出を果たします。どれもこれも立派な成績です。
このあたりまで来ると、トルシエ監督が2002年の指揮を執ることには、誰も異論は挟まなくなりましたが、次は「ホントにグループリーグ突破できるの?」という話に変わってきました。
それは確かにあります。1998年フランス大会を見てきた私たちは「やっぱり本大会のホンキの試合は、他の試合とは全然違うものかも知れない」ということを知りましたから、自国開催の有利さとか、いろいろメリットはあっても「そう簡単ではないよな」という気持ちで本大会を迎えたことは確かです。
そして本大会を迎えます。はじめの勝ち点1、はじめの1勝をどういう形でとれるのか、なかなかイメージが湧かない中で迎えたのです。
ですから初戦、ベルギー戦で先制点を奪われた時は「やっぱり、そう簡単ではないよな」と身を固くしたわけですが、幸福だったのは、すぐそのあと、鈴木隆行選手が小野伸二からのボールに合わせて、ギリギリのところで、ホントにつま先でボールを捉えて同点にしてくれたことです。
あんな感動的な瞬間は、そうそうあるものではありません。「イケルぞっ、イケル、イケル」という気持ちに誰もがなった瞬間でしたから。そして今度は稲本選手のゴールで日本がリードする展開になりました。「そうなんだ、ニッポンって勝てるかも知れないぐらい強いんだ」と気持ちが更に前向きになりました。結局、この試合、引き分けには終わりましたが、日本列島が「十分イケル !、ニッポンは」という空気になったと思います。
そして、第2戦、このグループで1番手ごわいといわれていたロシアを1-0で破り、グループリーグ突破が見えてきて、最後にチュニジアに2-0で完勝してからは、日本列島は「オーッ、これは、ニッポン、かなり行けるんじゃないか」という空気になりました。
なぜなら、グループリーグ1位突破の日本は、決勝トーナメント1回戦の相手をブラジルではなくトルコにすることが出来たからです。
そして、期待MAXで迎えたトルコ戦、なぜか、これまでのスタメンをいじったトルシエ監督の采配に首をかしげつつ、雨の宮城スタジアムの試合で私たちが見たのは、先制された試合をひっくり返せず敗れてしまった日本代表でした。
それこそ期待MAXで迎えたトルコ戦でしたから、あんな感じで負けるのを、どうしても受け入れられない自分たちがいました。「トルシエ監督はなんであんなことをしてしまったの」ということです。
結局、トルシエ監督の4年間とは何だったのかを確認する作業は、トルコ戦でなんであんなことをしたの、という疑問を解く作業でもありました。
そしてナゾは見事に解けました。それを、ここまで読んでくださったあなただけにお知らせします。
それは、実は、トルシエ監督という人は、日本代表監督という仕事を「自分の描いているチームを作る実験の場として引き受け、そのかわり、グループリーグ突破というノルマは何がなんでも果たします。それが自分の実験の成功の証しだからです」と考えてやっていた人だからです。
「自分の描いているチーム」というのが、例のフラット3とかオートマティズムとかの呼び名で代表されるトルシエ監督独特のチーム作りのことです。
「グループリーグ突破というノルマは何がなんでも果たします」という言葉の先には次のような考えが隠されていたのです。
「グループリーグ突破というノルマを達成したら、私の仕事は終わりなので、普通の指揮官なら考える、ノックアウトステージをどうやって勝ち抜くかといったことに、私は関知しません。そこはもう選手に任せます。ただ最後のスタメンだけは、自分の好きなように決めて送り出します。このスタメンで勝てればいいな、と思っている程度です。」という考えです。
トルコ戦の試合前にトルシエ監督が選手たちに話したのは「トルコ戦にどうやったら勝てるか」という話ではなく「君たちはグループリーグ突破という目標を立派に達成した。これから先はボーナスのようなものだ。この試合は2006年に向けての第一歩だ」という話です。
トルシエ監督の頭の中は「このチームが成果を出せるのは彼らが成熟期を迎える2006年だ、その時に向けて十分なチームを作れた。私の実験は成功した」という思いで満たされていたのです。
そうわかってしまうと「困ったもんですね、そういう人が監督だったんですか?」と思ってしまいます。普通、ノックアウトステージに臨む監督なら「決勝トーナメント1回戦の相手がトルコになった。こんなチャンスは滅多にない、このあと日本でワールドカップをやれる日がいつ来るかわからない、そう考えて、この試合は何が何でモノにしよう。我々の手で歴史を作ろう。」みたいなことを話して、選手のモチベーションをMAXまで高めるはずですから。
余談になりますが、トルシエという人は、試合前のモチベーションの高め方が抜群にうまい人だったそうですから、普通であれば、ここでも、その希代のモチベーターとしての才能が発揮されるはずですが、違うんです。この人は、もうトルコ戦は自分の「役割外」だと決めてかかっていたのです。
日本代表監督を退任して、トルシエという人は、その後、何年にもわたって「なんでトルコ戦であんな采配をしてしまったのですか?」と聞かれ続けたそうです。そりゃそうです。
そうやって何度も聞かれていくうちに、自分が「もうトルコ戦は自分の「役割外」だと決めてかかっていた」ことは、指揮官として失格だったと思うようになったそうです。やっと最近です、そう思うようになったのは。
つまり、自分という人間は「自分の描いているチーム作りをする実験場」の教官としては適任だけれど、ノックアウトステージで、乾坤一擲の勝負をする指揮官には適していない人間だということを、最近になって痛切に感じるようになったのです。
それまでは長い間「自分がトルコ戦でとった采配が間違いだった」とは思っていなかったのです。なぜなら「自分の仕事は既に終わっていて、あのトルコ戦は自分の「役割外」」という意識を持ち続けていたからなのです。
でも、最後にトルシエ監督の名誉のために書き加えておきます。それは、ワールドカップ出場2回目にして、決してサッカー強国とはいえない日本をグループリーグ突破というノルマを達成するチームに仕上げたトルシエ監督のチーム作りは正しかったということです。
「クループリーグ突破というノルマを達成するという約束で、自分の描いたチーム作りをさせてもらいます」と話して取り組んだ4年間、ワールドユース準優勝組、シドニー五輪ベスト8組という選手の才能に恵まれたことは事実ですが、その才能をキチンと見極めて、的確に発掘して4年間のプログラムとロードマップを緻密に組み立てて、そのプログラムを寸分違わず選手たちに叩き込む、この情熱と意思を持った監督だからこそ達成できたノルマです。「トルシエ実験場」の教官として、確かな仕事をした人であったことは確かです。
もう一つ、トルシエ監督の言葉で印象に残る言葉があります。それを4年間のなかで2回、似たようなことを言っています。
最初は1999年のワールドユース決勝の時です。この時は「日本のような国が決勝の相手スペインに勝ってしまったら、大会の価値を貶めてしまう」という言い方でした。
2回目は2002年5月、スペイン遠征の時です。この時は「今大会で、日本のような国がベスト8に進んだら、それは例えて言えば、日本の大学生のチームがJリーグのチームを差し置いて、天皇杯サッカーで優勝してしまうようなものだ。(天皇杯サッカーとはその程度のものか、と思われてしまう)」という言い方です。
この2つの発言を聞くと、私たちは「いま目の前にある大きなチャレンジで、どうやったら成功できるかを考えるのが指揮官の役目だろう? なんてことを言うんだろう」と思ってしまうのですが、それは、私たちが、トルシエ監督を「闘いに挑む指揮官」と見てしまうから見誤ってしまうのです。
彼は「闘いに挑む指揮官」として言っているのではなく「トルシエ実験室」の教官、あるいは「研究者(学者)」として言ってるんだとわかれば、腑に落ちます。この人は最初から最後まで「研究者(学者)」であり教官でしかなかったのです。学者の思考ですから「こうあるべき」、「あるべき姿はこう」という風に考えるのです。
日本のような経験の浅い国が、なまじ大きな大会を勝ってしまうと、大会の価値を貶めてしまう。無理に勝とうと考えると、そこに何らかの余計な力が働いたり、疑問を持たれるようなことになりかねない、徐々に経験を積んで自然と勝てる日が来るのを待つべきである、まさに学者が考えです。
ただ、2002年大会全体の結末を見ると、トルシエという人は、ある種の預言者みたいな人だったのではないかと思うところがあります。
なぜなら、2002年大会、グループステージ突破という経験のない国が勝ち上がっていった中に、審判の判定に問題が多すぎると批判を浴びた実例があり、大会の価値を貶めることになったと言われています。これとトルシエ監督の話を繋ぎ合わせると、この人がアフリカ時代に「白い呪術師」と呼ばれていたのは、実はこういう人だからなのか、と妙に納得してしまうところがあります。
日本は、いわば「学者」か「預言者」か「呪術師」、そんな感じの人と4年間付き合っていたのかも知れません。
今回の書き込みのタイトルを「あなたはフィリップ・トルシエという日本代表監督のことを覚えていますか?」と付けました。
もしトルシエという人をある程度覚えていらっしゃる方でも、今回の話の中には、かなり初耳の話があったのではないかと思います。
私も、書き始める前までは、トルシエ監督時代の4年間が、どうにもわからない4年間だったのですが、やっと腑に落ちたというか、なるほどそうだったのか、そうであればナットクというところに辿り着きました。
原稿の一番最後にあたる2002年までを書き終えたところで、最後のナゾが解けたというのは何ともうれしい話です。