岡野八代著(2024)『ケアの倫理―フェミニズムの政治思想』(岩波新書)を読んで | Beyond―愚直に、ひたむきに生きるー

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独立研究者として子ども・若者参画について論文を執筆しています。ちなみに発達障がい当事者でもありますo(≧∀≦)o。よろしくお願いします。

 今日は、最近、読んだ専門書のなかで考えたことを書いてみる。その書籍は、岡野八代著(2024)『ケアの倫理―フェミニズムの政治思想』(岩波新書)である。この本の著者である岡野さんは、現在、日本の政治学界をリードする女性研究者であり、フェミニストでもある。本書は、主に欧米のフェミニズムについて思想と(社会)運動を丹念に記述・分析するものでであるが、その中で登場したケアの倫理とは何かについて紹介されている。とはいえ、この本の記述は非常に難解であり、私自身、おそらく半分くらいしか理解できていないように感じる。新書というより、政治思想の論文を読んでいるような気分になった。

 

 ただ、本書を読んで2点、考えたことがある。以下、記述する。

 第一は、育児を例に取ってみればわかりやすいですが、ケアする、あるいはケアされるのは誰なのかという問題がある。本書では、育児をケア労働と位置づけ、育児における女性の負担をジェンダーの観点から問題視している。ここまでの議論はわかりやすく、男性の育児参加の必要性を匂わせるものではあるが、しかし、子どもをケアの対象であり、守られるだけの存在として位置づけている点は、議論の余地があるように思われる。もちろん、本書のなかでは、子どもはケアされるだけの存在ではないということも述べられてはいるが、では、ケアする側(おとな)とされる側(こども)の相互理解や対話、権利の尊重などについての記述は不十分なように感じた。子どもの声を誰がどのように聴いていくのかという視点がなければ、いじめや虐待といった子どもの生命や安全に関わる問題は解決できないし、子どものウェルビーイングの実現・向上もあり得ないからである。また、昨今のこども家庭庁設置やこども基本法の制定といった動きは、これまでフェミニズムが十分に明らかにしてこなかった「子どもの権利」に着目したものとして(不十分な点はあるものの)有効性をもつ。

 かつて、日本教育学会の研究会で「戦後教育学は子どもの声を聴いていなかった」と小玉重夫が述べていたことがあるが、私からすれば、「フェミニズムは、子どもの声を必ずしも十分に聴いていない」と考える。もちろん、だからと言ってフェミニズムを否定するわけではないが、子どもをケアされる側と一方的に位置づけるだけでなく、ケアされることでおとなをケアする存在として位置づけ、かれ・彼女らのエンパワーメントを図っていくことが大切ではないかと思われる。

 第二は、とはいえ、フェミニズムの政治思想やケアの倫理からまた、学ぶことは多いということが挙げられる。それは、子どもの自律/自立をめぐる問題である。つまり、子どもの発達や成長の過程において忍耐を強いることで、たくましく、困難に立ち向かい、自分のことは自分でする自立した存在へと導くことを目的とする教育(学)在り方にケアの倫理は警鐘を鳴らしている。この点、例えば、私の専門である子どもの参加やそこでの意思決定に関する議論でも、参加したり意見を述べたりするのには、なんらかの能力や資質が必要なのかが焦点になる。ここで、注目されるのが、シティズンシップ教育であるが、シティズンシップを資質・能力と捉えると、そこに適応し、堂々と意見や質問を述べることのできる子どもと緊張や不安に駆られ、自分の意見や質問をうまく表現できなかったり、沈黙したりする子どもが出てくることが予想される。いわば、良い参加と望ましくない参加という二つの子どもがそこで生じ、子ども全体の民意が十分に反映されない可能性が出てくる。そして、そのことは、結果として望ましくない参加を強いられた(レッテルを貼られた)子どもたちを結果的に排除することになる。

 こうした議論は、主にフェミニストのなかで特に、女性の社会参加の在り方をめぐる議論のなかで展開されたものであるが、子ども参加にも言えることではないかと私は考える。つまり、現状の子ども参加が子どもたちの声を十分に拾えていないのではないかということである。子どもの視点に立つとは、子どもの立場になって物事を考えることであり、それは、よりよい意思決定に導くためのものであり、その決定のために意思決定支援(宮本みち子)という考え方が浮上する。現状では、参加それ自体が目的化しているところがあるが、単に模擬選挙を実施し、主権者教育を行うことだけで子ども参加は完結するものではない。重要なのは、参加やそこでの熟議をより良い意思決定に結びつけていくようにしていくことであり、そのためには、子どもを集めて議論をするだけでなく、子どもの居場所におとなが出向き、意見を聞き取ることも考えられるで。そうしたなかで拾える意見は必ずしも多くはないかもしれないが、子どものありのままの本音を引き出せる可能性もある。例えば、児童館や児童センターなどで子どもが寝そべったり、漫画を読んだりしているところへおとなが同じように寝そべったり、遊んだりして聞き取りをすることも考えられる。いわば、子どものありのままの姿を受け入れ、多様性を尊重しながら、意見を聴かれる環境を整えていくこと。フェミニズムの思想からは、教育学が想定していなかった子ども参加の在り方が提起されていると言える。いわば、どういった目的で子どもの意見を集めるかによって、参加のありようは変わっていくというのが本書を読んでの本書を読んでの私の結論である。子どもの自律/自立という観点から言えば、その呪縛から教育学が解き放たれることは容易ではないと考えるが、だからこそ、「子ども支援学」(喜多明人)の視点が生きてくるのではないか。そのように考える。