連休の一コマ―その2 | Beyond―愚直に、ひたむきに生きるー

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独立研究者として子ども・若者参画について論文を執筆しています。ちなみに発達障がい当事者でもありますo(≧∀≦)o。よろしくお願いします。

 2024年2月24日(土)に認定NPO法人カタリバの主催する「ルールメイキングの『実践と『研究』をつなぐ研究交流会」に参加しました。参加してみて私自身は、とても勉強になると同時に自分のコメント力のなさに、うーん、反省せずにはいられませんでした。というのも、発表を聴いて質問や意見をいろいろ皆さんにぶつけてみたのですが、反応が今ひとつ。やはり、ASDの特性がここでも出てしまったなと感じずにはいられませんでした。というわけで、関係者の皆さん、ごめんなさい。

 私は、現在、校則のない学校を調査研究していますが、そうした視点から見て、やはり、なぜ、校則が必要なのか、あるいは必要ないのか、校則を自由化すれば、すべてハッピーになるのか、逆に校則を制定すれば、生徒指導上の問題は少しでも解決するのか、あるいは、その(生徒)指導は、校則にすれば良いのか(=なぜ、校則なのか)、考えずにいられませんでした。私は、以前にも校則に関し、以下のような意見をこのブログに載せたことがあります。

「繰り返すが、子どもにとって必要な明文化されたルールは実は何もないのではないかというのが筆者に見立てである。この点、例えば、多くの人が勘違いしがちなのは、「自由」であることをルール(規制)の内容とすることである。しかし、本質的に「自由」であることはルール(規制)化できないはずであり、また、子ども対子どものルール(例えば、授業時間を守る、級友の人権を守る)は、本来明文化すべきものだろうか。もしそうしたら現在の校則問題と同じ過ちを起こしていることになる。規制のルールは明文化し守ることを心理的に強制するものではなく、内面的に意識化されるものでいいのではないか。すなわちこのような意識化こそが市民性教育であるというのが、現時点での筆者の仮説である。」

 

 つまり、自由それ自体は、本来、何でもありと言うことを意味するため、仮に校則が不要という結論になっても、「服装は自由である」「頭髪は自由である」ということをルール化する必要があるのかということです。また、対学校、対教師に対する校則は必要かもしれませんが、対子ども、つまり生徒同士の関係を規定するルールは本当に必要なのでしょうか。こうした視点は、現在の校則に関する議論に欠落しており、その意味で改めて校則や、あるいはルールそのものの役割をどう考えるか、理論的な課題であると実証的にも明らかにする必要があるでしょう。

 その意味では、校則に対する教師と生徒の法意識を量的研究によって明らかにするだけでなく、質的研究によって丁寧に明らかにすることが必要であると考えます。私自身、この点を踏まえて、今後、研究をしていこうと思います。