P4Cについて考える | Beyond―愚直に、ひたむきに生きるー

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独立研究者として子ども・若者参画について論文を執筆しています。ちなみに発達障がい当事者でもありますo(≧∀≦)o。よろしくお願いします。

  11月6日付信濃毎日新聞朝刊の社会面に「『哲学対話』高校生も県民も」という見出しで哲学対話について取り上げられている。この取り組みは、対話の参加者が輪になって問いを出し合い、一緒に考えを深めていくという対話のあり方のことであり、 日本における実践は、アメリカで始まった「子どものための哲学」やフランス発の「哲学カフェ」などが原点とされる。
 筆者の専門は、シティズンシップ教育学であるが、その中で最近、よく耳にするのが(哲学)対話やPhilosophy for Childrenである。哲学の活動に子どもたちとともに参加し、探究を劇的に変える革新的なアプローチのことをいう。そこで、こうした子どものための哲学やその方法としての哲学対話が、シティズンシップ教育や子どもの権利学習にどのようなインパクトを与えるかについて考察してみる。ここでは、小玉重夫監修、田中伸・豊田光世編(2023)『対話的教育論の探究 子どもの哲学が描く民主的な社会』東京大学出版会を読んで考えたことを以下に書き留める。
 筆者にとって印象的だったのは、第一部の第1章、第2章に掲載されている論文である。このうち、第1章「哲学は教育のための道具か?」は、土屋陽介によるものである。ここでは、P4Cにおける教育目標について述べている。土屋は、P4Cを何らかの教育目標を達成するための道具として位置づけられていること、すなわち「教育学的道具主義」を批判した上で、「ラディカルに問う」ことを価値づける。そのうえで、「哲学をそのための単なる道具として利用し、現行の社会や教育の在り方それ自体を根源的・批判的に問い返すことができないペタゴジーに成り下がるのであれば、そのような教育が『哲学』の名に冠する資格はない」とする。
 第2章「子どもの哲学と『包摂的転回』」は、豊田光世によるものである。ここでは、包摂という概念の検討を通して、P4Cの目的をより深く問うている。豊田は「民主主義と親和性の高い教育として子どもの哲学を捉えることに異論はないのだが、あえてわたしは本章の議論を通して冒頭の問いに一石を投じてみたい」と議論を始める。ここでは、後述するように、ガート・ビースタの「トランスクルージョン(transclusion)」に焦点を当て、P4Cに潜む排除の論理の危険性を検討し、教育における包摂のあり方について言及する。
 両章においては、P4Cが論理的な思考力・判断力といったスキルや民主主義教育を柱としたシティズンシップの獲得に貢献することを指摘しつつも、それだけにとどまらない可能性があることを示唆している。それは、逆に言えば、P4Cが個人の中にスクルやコンピテンシーを生み出す道具として、単にVUCAな現代社会にへの適応のために準備される者であってはならないことを意味する。
具体的には、それは、以下のガート・ビースタの以下の議論である。
 第一に、それは、ビースタがよく言及するシティズンシップの「社会化(socialization)」(Biesta2013:64;邦訳:85;Biesta2017a:27;邦訳45)や「資格化(qualification)」(Biesta2013:64;邦訳:85;Biesta2017a:27;邦訳45)ではなく、「主体化(subjectificatification)」を目指すものでなくてはならない。ここで、ビースタはロボット掃除機の比喩を用いて次のように述べる。

 ロボット掃除機は、バッテリーが十分に充電されている限り、自らが置かれている環境の中を自動的に動くことができる。最初は掃除をしている部屋に置かれている物にぶつかるが、しばらくするとそれらをよけて動き回り、床掃除というタスクをより効果的に行えるようになる。したがって、ロボット掃除機は、適応システムを表すよいイメージであるだけでなく、環境(の中に置かれた物)との「遭遇」を通して学習することのできる知的なシステムのよいイメージであるのである(Biesta2017b:424)。

 すなわち、ロボット掃除機は、どのようにすれば、部屋をきれいにできるか、どうしたら、短時間のうちに効率的に動くことができるかという疑問には答えてくれる。そのような意味では、子どもたちがVUCAな現代社会における生き抜く力を獲得するものとして位置づけられる現代の教育政策と軌を一にする。しかし、土屋も指摘しているが、このようなロボット掃除機では、「掃除をするとはどういうことなのか」とか、「私はなぜそもそもこの部屋を掃除すべきなのか」「ここを掃除することの意味は何なのか」という問いを発することはできない。この点、P4Cにおいては、「私が学ぶとはどういうことなのか」「なぜ、私は哲学するのか」「そもそも、なぜ、私はここにいるのか」と言うことを繰り返し問われ、問い続けていくことが求められる。それは、今、子どもたちが所与のものとしている社会や学校という存在自体を批判的に問うことにも結びつき、それが結果的に社会や学校の民主主義を深化させるものとなる。そのような教育こそがシティズンシップ教育でも模索される必要があるだろう。
 第二に、P4Cにおいてガーストが重視するのが、「transclusion」としての包摂の考え方である。この点、例えば、昨今、社会的な関心の高いLGBTQに関し、「多様性を包摂する」という意味でinclusiveという概念が参照されることが多い。筆者もASDの当事者であるので、インクルーシブ教育に着目している。しかし、豊田も指摘するように、多様性を包摂するとはどういうことかを理解するだけでは不十分であり、包摂するために何が必要か考えることも大切であるように思われる。異なるものを受けとめるとは、どういうことなのかということである。
 この点、ビースタがジャック・ランシエールを参照しながら、「位置の移動(moving position)」、「地平の移行(shifting the terrain)」という考え方を提示していることがヒントになる。前者は、社会的弱者とされる一部の人が蚊帳の外に置かれ、輪の中に入ることができない人がいるとき、そのような人を自分たちの輪の中に招き入れる動きであり、後者は、立場や役割が顕在化するプロセスに目を向け、人びとのアイデンティティーや関係性を問い直しながら、境界線そのものを変える動きである。このtranscludeという考え方がP4Cの鍵となるとするのが、ビースタの考え方である。
すなわち、子どもの哲学を「論理的に物事を問い深めていく探究の時間」と定義すると、一つの境界線が生じる。それは、論理的に考えられるか/考えられないかと言うことである。
 そして、これはシティズンシップ教育の在り方について民主主義社会では、参加が重要な子どもの権利として尊重されるべきであり、参加する力を培う教育は、市民の育成に大きな役割を果たすという意味でよりよい参加のあり方を模索する動きにもつながる。そこでは、独立した個人(「強い」主体)と他律的な個人(「弱い」主体)やよい市民とそうでない市民を区別する境界線が敷かれることになる。こうした古典的な市民像や市民参加のあり方は、今でこそ、現実にそぐわないとして鳴りを潜めているが、学校現場においては、子ども参加というと、模範的な参加とそうでない参加を区別する議論は根強い。実際、主権者教育というと、判で押したように模擬選挙や模擬選挙の実践をすることであり、校則の見直しというと、制服に対するLGBTQへの対応にとどまり、例えば、制服の必要性自体を問い直すことが少ないことは、その典型であると言える。
子どもの権利条約やこども基本法を持ち出すまでもなく、子どもの参加は、子どもの権利である。多様な子ども参加の実践を追究すること、そのプロセスにおいて単なる「話し合い」から差別や偏見をなくし、相互に人権を尊重できる熟議へ対話の場を形成すること、そこにP4Cの意義があると言えるだろう。

【参考文献】
小玉重夫監修、田中伸・豊田光世編(2023)『対話的教育論の探究 子どもの哲学が描く民主的な社会』東京大学出版会
信濃毎日新聞朝刊社会面(2023年11月6日(月))「『哲学対話』高校生も県民も」
Biesta,Gert J.J.(2013)The Beautiful Risk of Education.Paradigm Publishers.(ガート・ビースタ(2021)『教育の美しい危うさ』[田中智志・小玉重夫監訳]東京大学出版会)
Biesta,Gert J.J.(2017a)The Rediscovery of Teaching.Routledge. (ガート・ビースタ(2018)『教えることの再発見』[上野正道監訳]東京大学出版会)
Biesta,Gert J.J.(2017b)“Touching the Soul? Exploring an Alternative Outlook for Philosophical Work with Children and Young People.”Childhood &Philosophy,13(28):415-452