「ビョルドー、リンタロー、ピノー、ご飯できたよー。」

 

 アリタリアが私を呼んだ。彼女の趣味だと言う古代様式の置き時計は、古代時刻法の午後六時あたりを指している。

 もう夕飯の時間か。

 三次元世界はとても興味深い。なにより腹が減る。約二十六時間あたり二から三度の食事を摂らないと、数百時間で死んでしまうと言われた。この空腹感というやつに初めて襲われた時、私は腹痛と吐き気の原因が分からず、もうすぐ死ぬのだと思い泣いた。

 泣く。思えばこれも意外だった。映像を取り込む器官を「瞳」と呼ぶこと、そこから流れる体液を「涙」と呼ぶこと、涙を流す行為を「泣く」と呼ぶこと、これらを生理現象だと知るのと、理屈を理解するのは別の話。感情に起因するこの「泣く」という行為が、何の目的のために発生するのか、さっぱり理解できない。ともすれば体液の無駄遣いなのではなかろうか?まあ良い、今は追求しないでおこう。

 今の私は、三次元よりも高次元の空間で産まれた人類が、三次元の実体を得た状態。その姿は小型の人類種「ピノスケス」の幼体に似る。というか、似すぎだ。自分でも思う。ちなみに私自身は、自分を「成人」だと自覚している。

 「ピノスケスの幼体似」と言うは、なかなか厄介で困る。この人類種は声帯と骨盤形状が未完成のまま産まれるため、幼体は言葉を話せず、「ミャア」とか「ミィ」とか「ゥニャウ」とか、そう言った類の音しか出せないのだと言う。しかも二足歩行が苦手。私はテレパシーでコミュニケーション可能だし、二足歩行もそれなりなのだが、アリタリアからの申し出で彼女の家に居候させてもらうと決まった際、「むやみやたらにテレパシっちゃダメだし、立って歩いちゃダメ」と注意された。私はまだ、この三次元世界に関する十分な知識を持っていないから、彼女に従うのが得策である。

 さて、夕飯の待つダイニングへ向かうとしよう。目を落としていただけの本を閉じ、時計とお揃いの机から軽々と飛び降りる。小さいながらもバランス感覚と運動性能の優れた身体を得たことに感謝したい。ちなみに読書用のライトは、私がこの場から居なくなれば直ちに消える。本の続きが気になる、と言いたいところだが、地球の古代言語は種類が多く、そもそも翻訳すらされていないため、読んでいたつもりの内容は全て私の想像。読んでいた本は途中で、小汚い娘が杖を持った老人に豪華な服を売りつけられていたり、階段の多いミサイルむき出し基地に四足歩行の化物と一緒に球形の装甲車で乗り込んだり、肩や腰に丸いアーマーをつけ膝まづく青年を満面の笑みで足蹴にしている挿絵があったから、詐欺に遭った娘が老人とその組織に復讐をする「バイオレンスアクション系」だと思う。タイトルは確か『C1ND3R3LL4』だったような…?

 

「ゥニャウ!」
 

 アリタリアが扉に付けてくれた、小柄な私専用の出入口を出たところで不意に抱き上げられ、思わず声が出た。

 

「ピノちゃん、いっしょにいこー!」

 

 リンタロに捕まった。リンタロは、アリタリアとビョルドの遺伝子交配で産まれた、新しい人類種の幼体。普段の姿形はリビルド種のビョルドに似ているが、危険を感じると人類種以外の遺伝子を持つアリタリア寄りの外見に変態し、硬化させた白い頭髪を三、四本目の腕のように操る。

 ビョルドは、地球を含む第三外郭域防衛部隊に所属する軍人で、アリタリアの伴侶である。今はリンタロのすぐ後ろを眠そうに歩く。ちなみに、アリタリアとビョルドはどちらも「女性」。三次元世界における性別は、個人を構成するステータスのうち「出身」と同程度の意味しかないらしい。男女、男同士、女同士など、自分同士以外ならそれぞれのペア、家族の形がある。この家族は、戦場に赴くことの多いビョルドをアリタリアが支える。ただし二人の力関係は、ビョルドの方が下に見えることもしばしば。単純な膂力はアリタリアの方が数倍強いらしいので、その辺の兼ね合いなのだろう。

 

「ミャア!」

 

 五指に力を込めるリンタロの持ち方が苦手な私は、身を捩って小さな手からスルリと逃れ、華麗な着地を決める。

 

「だいぶ『慣れて』きたじゃねえか!」
 

 リンタロが私にそうしたように、後ろからリンタロを軽々と片手で持ち上げたビョルドが言う。これはリンタロと私の関係性についての意見ではなく、私の「ピノスケスらしさ」についてだ。

 

「ありがとう。まだリンタロに話しかけちゃダメ?」

 

 私からの返事はテレパシー。リンタロは私が「ミィ」と鳴いたとしか認識していない。

 

「リンタロ、ピノがトイレみたいだから、先に行っててくれるか?」

「わかったー!」

 

 ビョルドの言葉を受け、ダイニングへと駆けるリンタロ。腰まで伸びた白髪が踊る。変態前の白髪はとても柔らかい。その白い後頭部が階下に消えたのを確認してから、ビョルドが声を殺した。

 

「リンタロはまだ子供だ。経験したことをありのまま、学校の友達に話しちまう。

 この前も言ったけどよ、テレパシーを使えるピノスケスがいるなんて噂になっちまったら、大ごとなんだわ。」

 

 なるほど。三次元世界は、数日で状況が好転するほど単純ではないらしい。私の素性がバレたら、アリタリアの同僚、または同じ趣向を持つ人が黙ってないのだろう。

 

「まだなのね。」

「そういうこった。あと数年は我慢してくれ。悪ぃな。」

「数年がどれくらいか分からないけど、バレないように努力するよ。」

 

 連れて来られたからには、とりあえず用は足しておく。おしっこと呼ばれる私の体液に反応して花の香りを放つペレットを、脚で掻きながら応えた。

 

「こうやって見てると、しみじみ思うぜ。どっからどう見てもピノスケスの子供にしか見えねえ。」

「うっさい!

 こっちはそれらしく見えるよう、毎日映像資料を観て努力してんの!」

 

 ペレットを盛大に掻き上げた私を、ビョルドはひょいと持ち上げる。

 ビョルドに抱えられて向かったダイニングでは、リンタロとアリタリアが私達の到着を待たずに食事を取っていた。今日は肉料理らしい。彼らはテーブルの上の料理を食べ、私はテーブルの下で白濁した液体を飲む。この液体はヤクーツという獣の乳らしいが、なかなか美味だ。

 

「ピノちゃん、ごはんおいしい?」

 

 脚の間から覗き込むリンタロに、私は「ンンミャ」と笑顔で応えた。ダイニングの壁にかけられた古代様式の時計は、間もなく午後六時十五分を刺す。

 

 

 

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