救援物資でハイエースに満杯にして宮城県の南三陸海岸に持って行きました。
新潟経由でまず福島県(中通り)の老健施設(関係施設)を訪問しました。
そこでも、10日間水がなかったようです。
地盤は沈下していました。
スタッフが県外に移り、人手不足になって、他の職員(先生)がフル活動をしている。
また、原発の不安があります(30キロ以上離れていますが、広がる可能性があります)
レストランも営業時間を短縮していました。
町の中を運転するだけでは、分かりませんが多くの問題を残して、
みなさんが不安な毎日を過ごされておられます。
新潟経由では、関西からの工事関係のトラック(東北行き)をよく見かけました。
仙台着。東北道は開通されていますが、段差がいたる所にあり、運転がしにくい。
ここも、高速からであまり被害は分からなかった。
翌朝、物資の配達準備を始めた。
石巻市のメモリアルホールの駐車場でブルーシートを引き、
持っていった物資(新鮮野菜、果物、ラーメン、パン、米、等等)、
地元の方と連携をとってくれていて、前もって近所の方々に連絡してくれていたので、
車4台分の2台分の物資を配給した。
ここまで来れば、津波の影響がよく分かる。
車は塀の上に乗り上がったままだし、車が車の上に乗り上がったままだし、
水に長い期間浸かっていた後がはっきり分かる。
停電で信号機がつかないせいか、または車の量が多いのか、渋滞が続いていた。
自衛隊やアメリカのUS Army の車をよく見かけた。
しかし、明るい兆しがみえてきたようだ。でも、物(食料を含め)はまだまだ不足している。
地元の人と話し合って、北上町(北上川の下流)凄く被害が出た場所
(同じクリスチャン・キャンプ場で寝泊りしている仲間がすでに行っており、民家の泥掃除を手伝っている)
に行くことにした。
郵便局の駐車場でブルーシートを引いて物資を並べました。
ここは、急に行ったので、物資持ってきたというのを、手分けして一軒、一軒声をかけに行きました。
「こんにちは、新鮮な野菜、フルーツなどを無料で届けています。
是非、郵便局の駐車場にお越しください。」
これを、繰返し、繰返し、回った。
やはり、この辺りの方々は疲れていて、全員が作業服で家周りの作業をしていた。
一人のアメリカ人メンバー(若い女の子、二十歳代)が、
もう少し先に行こうと提案(他のメンバーは反対したようだが)があって、行くことにした。
北上町から少し離れた、海の近くに行くと、また風景が一変した。
みなさんが、テレビで見た光景と同じです。家は流され、残っているのは基礎のコンクリートだけです。
道路のアスファルトもめくられ移動している。畑には車が突き刺さっている。
何軒かは建物の形は残っているが誰も住んでいない。住むことができないようだ。
一軒の家の庭で作業をしている人(その辺りにはこの人しかいない)に話しを聞きにいった。
アメリカ人の子の通訳をした。
この町は吉浜と言う所で約80%が破壊され、
その人が作業している家も、もう住むことはできないが、
自分の趣味である車のプラグを磨いていた。
隣町は月浜という所でここではほとんど全滅したとのことで、そして恐ろしい話しもしてくれた。
その方からこの浜の殆んどの人が非難している近くにある避難所を教えてくれた。
その度胸のあるアメリカ人の子は、僕を通訳として引きこみ、避難所の中に入った。
この子は、そこでも、何か必要な物はないかと尋ねた。
この方々は、すべてを失い(家はもちろんのごとく、または多くの人は家族をも失っている)
避難所に25日以上過ごしている。
続く。