伊豆の国市には多数の歴史上の有名人がかかわっています。

 

源頼朝、北條政子、北條義時、など、、

 

これらの人物とともに、

 

江川坦庵

 

という名前もよく見かけるのではないでしょうか。

「江川英龍」や「江川太郎左衛門英龍」も同一人物です。

 

江川坦庵というと、他の有名人に比べて知名度がかなり下がってしまうと思います。

では、彼は一体何をした人で、どこがすごいのでしょうか?

 

(彼の本名は「英龍(ひでたつ)」ですが、地元では号に尊称をつけて「坦庵(たんなん)公」「坦庵さん」と呼ばれることが多いので、ここでは坦庵で通します。)

 

 

 

 

1.江川坦庵って誰?

 

江川坦庵(1801~1855)は江戸時代後期に韮山代官として活躍した人物です。

 

結論から言うと、彼のすごいところは

「まだ鎖国をしていた時代に、海外の情勢をいち早く察知し、国防のために尽くした」

ところです。

 

主な実績は

 

・韮山反射炉の築造

・品川台場(現在のお台場)の築造

・軍用として日本で初めてパンを焼いた・パン祖

・洋型帆船「ヘダ号」の建設

・日本初、行政として天然痘の種痘の実施

・農兵制度の提案と実行

・西洋式砲術の研究と実施

・測量技術の研究と実施

・近代軍隊の導入

・江川塾での教育

・韮山笠の考案

・「きをつけ」「まえならえ」などの号令の考案

 

などです。多い!

しかも、これらを代官になってから55歳で亡くなるまでの約20年間、旗本・代官の仕事もしながら成し遂げたのです。

 

※彼の死後に完成したものもあります

 

 

 

 

2.坦庵のすごいところ

 

先述した一つ一つが凄いことなのですが、このブログでは紹介しきれません…

 

気になる方はこちらの本をぜひ読んでください!

江川文庫 主務橋本敬之『幕末の知られざる偉人 江川英龍』(amazonのサイトに移動します)

江川文庫は、江川家に収集された中世以来の膨大な資料を所蔵する機関です。

江川文庫HP:http://egawabunko.or.jp/

 

 

 

~~~ほんの一部ですが、ざっくり紹介します~~~

 

江川坦庵は1801年、江川英毅・久子夫妻の次男として誕生します。

 

兄が夭逝し、30代前半で家督を継いで代官になった坦庵は、まず財政を立て直すために徹底的な倹約をはじめます。

それ以降も領民思いの政策を行い、領民からは「世直し江川大明神」と称されるまでになったといいます。

 

また諸外国の動きを察知した坦庵は、様々な海防政策を何度も幕府に建議します。

 

そんな中でも江戸湾の海防のための測量を行うかたわら、西洋式砲術の勉強を熱心に行いました。

その間にも、坦庵のもとに災難が降りかかります。坦庵と志を同じくする蘭学の学者が、幕府の反対派によって次々と処罰されてしまうのです(蛮社の獄)。

 

それ以降も坦庵を信頼し重用した幕府の要人が失脚させられ、計画が頓挫するなど、一筋縄ではいきませんでした。

 

しかし、政界から半ば強制的に退けられた間も、坦庵は無駄にしませんでした。

当時最新の西洋砲術・高島流砲術を教える「韮山塾」を開き、明治初期に砲術の分野で活躍した人物を輩出しました。

 

1853年には江戸湾に大砲を備えた台場の築造を開始します。外国船の侵入を阻むためのものでした。(現在のレインボーブリッジ周辺にある人工島がそれです。「お台場」の由来。)

 

この頃から、大砲を製造するための反射炉の建設を目指し動きはじめます。

 

また、1854年の安政の大地震の際、伊豆の下田に停泊中だったロシア船ディアナ号(艦長・プチャーチン)が津波に飲み込まれて破損、修理のため曳航中に座礁してしまいました。

幕府は坦庵に、長距離の航海に耐えられる日本初の洋式帆船を、100日という短期間で作るよう命じます。

 

この時すでに坦庵は品川台場の築造、反射炉の築造、西洋砲術の研究、農兵制度の構築に加え、代官・旗本の仕事も抱えており、多忙を極めていました。

 

翌年の1855年1月、坦庵は55歳(満53歳)で急死します。一説には過労死と言われています。

 

品川台場、日本初の洋式帆船ヘダ号、韮山反射炉の完成を見ることはなく、生涯を終えましたが、これらは彼の三男・英敏がその意思を継ぎ、完成させました。

 

坦庵が始動した以上の事業は、後の本格的な近代化において指針となりました。

 

時の老中・阿部正弘をはじめとした人々は、その死を大変悔やんだといいます。

 

 

 

【坦庵こぼれ話】

・眼光鋭い坦庵

→坦庵が盟友・斎藤弥九郎と共に甲州微行を行った際のこと。泊まった宿の女中が弥九郎に「お連れ様の眼光がとても鋭いようですが、どのようなお方なのですか」と問いました。答えに窮した弥九郎は「あの方は剣術を大変好んでいるので、あのように目つきが鋭いのです」と苦し紛れに答えたといいます。坦庵はこの笑い話を気に入り、よく話したそうです。

 

 

 

 

3.坦庵はどんな人だったのか

 

坦庵は文化面でも優れた人物でした。

 

目が回るような多忙な日々の中でも、たくさんの書画や絵画、工芸品を残しています。

 

植物や昆虫をまるで写真のように正確に模写し、人物画や風景画も描いていました。特に桜の絵が得意だったそうです。
 

ちなみに、一般的に良く知られているあの肖像画は、坦庵自身が描いたものです。

※坦庵が描いた絵は多数現存しており、時々江川邸などで展示されます。

 

剣術は岡田十松の「撃剣館」で学び、神道無念流免許皆伝の腕前でした。

 

まさに文武両道です。

 

また、非常に家族思いな性格だったと伝わっています。

 

 

【坦庵こぼれ話】

・倹約家・江川坦庵!

→坦庵はかなりの倹約家でした。食事は一汁一菜、つぎはぎの着物を着ていたそうです。こんなエピソードが残っています。坦庵の娘が習字を初めて習ったとき、家来が立派な硯箱を献上しました。それを見た坦庵は「これは実用性のない、無益なものだ」と言って遠ざけ、菓子の空き箱を出し「これで十分である」と言って、それに梅の絵を描き、彼女に与えたといいます。この梅の絵の箱は現在も残っており、見ることができます。

 

 

 

4.坦庵の足跡をめぐる

 

伊豆の国市内にはいくつかの遺跡が残っています。

 

①江川邸

韮山代官・江川家の屋敷。重要文化財。「小屋組造り」という特殊な屋根裏構造は必見。大河ドラマの撮影に使われることも。

入館料:おとな500円 こども300円(団体:おとな400円こども200円)

開館時間:9時~16時15分(水曜は14時15分まで)

定休日:第三水曜日、年末年始

公式HP:http://www.egawatei.com/

 

 

②韮山反射炉

入場料:おとな500円こども50円

開館時間:9時~17時(4月~9月)、9時~16時30分(10月~3月)

定休日:第三水曜日

公式HP:https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/hansyaro/index.html

 

 

③本立寺

江川家の菩提寺。江川坦庵の墓がある。

鐘楼の鐘は鎌倉の東慶寺から譲り受けたもの。

 

 

 

 

5.まとめ

 

幕末にいち早く海防の必要性を感じ、幕府の役人でありながら革新的な技術を次々と取り入れた先見性は、勝海舟や福沢諭吉などの偉人に称賛されました。

 

幕末の隠れた万能人・江川坦庵の足跡をたどってみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

参考文献

仲田正之監修『江川坦庵』韮山町地域振興課パンフレット 1997年

江川文庫主務橋本敬之著『幕末の知られざる偉人 江川英龍』角川SSC新書 2014年