9月入隊だから8月の末の頃、仙台駅に集合の命令が
同じ軍事郵便で届いた。
昭和19年の夏も暑い夏だった。
集合の夕刻、仙台駅の指定された場所に行くと憲兵が幾人か居て、
持参の書類と何時の間にか撮られた 前、横の写真と照合して、
色々本人と確認出来る質問に答え、指定の場所の床に座らされた。
弁当は、9食持って来いとの事だ。
私の家は闇米が自由に買える家庭ではないので、
5食分は配給の小麦粉に重曹を入れて焼いた少々焦げたパンだ。
4時の集合に皆3時頃には着いて居り仙台以外からの場所の人達にいたっては
前日か早朝には出掛けて来た様だ。
列車に乗せられたのが、7時過ぎで貨物のホームから乗せられた。
当時は、エアコン等有る筈も無い上に鎧戸を上げる事を命じられた。
暑いの暑いの何しろ1車両140人位の若いエネルギーが
放射されているのだから。
指揮官は若い少尉が1人、下士官が2人付いている。
8時頃夕食をとった。
お握りが少々匂い始めたが苦になる程では無かった。
夜中の常磐線を通り、途中駅で止り停車25分の間にトイレに行く様に
と連絡が有り、皆ホームに降り立ち涼んだ。
この時代、この勧奨状が来て 「自由意志で行かない事は非国民である。」と教えられており、又自分でもそう思っていた時代である。
書類にはもちろん親の承諾書も付いている。
陸軍少年飛行兵学校。海軍予科練習生の試験を受け合格したものは、
学校で発表が有り、一同で送行会を行った。
送る方に出席し 「頑張れよ。」 と大声を出した。
香林坊氏は、この勧奨状について誰にも言わなかった。
級長A君にも話さなかった。
隣の家からは 「先日、憲兵隊の人が色々聞きに来られましたけど、
とても良い坊ちゃまと言っておきましたよ。」 と嫌味に聞こえる口調で言われた。
つまり、この2年で勝ち戦では無くなり、兵隊が不足し、
少年にまで手を延ばして来た事だと、後で思い当る。
軍の学校は9月が正式な入学だが、1年では要員が途切れるので、
T君は、4月に入隊して行った。
昭和17年からは年2回になっていたそうだ。
A君は、毛筆が上手で器用な奴だ。
しかも、月謝が免除されているのに、親から月謝をせしめている。
懐は極めて温かい。 「お~、うどんでも食いに行くか。」 「頼む。」
これで話が決り、彼は半紙にさらさらと筆で早退届を適当な理由を付けて2枚書き、親の名前の下に消しゴムで作った印をそれぞれ押し提出。
何食わぬ顔で午後の授業をづらかった。
閉め掛けているうどん屋に飛び込んだ。
もちろん、何の話も無いが、先生にやられた詫びに違いない。
うどんも外食券が必要だがA君は手に入れている。
5月の或る夕。
封筒の真中に朱で軍事郵便と書かれた封筒を本人確認をされて手渡された。
開いて見ると、ピンクの勧奨状が出てきた。
貴殿は幼年学校の試験に合格しているので、少年飛行兵学校の
学科試験を免除する。
6月某日、仙台師団司令部に、此の紙と同封の書類に書き込み
身体検査を受ける様に。
最後に 「これは、自由で意志の有る者は参集されたい。」 とあった。
3年生になった。不思議な教育方式で入学時3組あったクラスが、
2組に減っている。但し、人数は45人から55人に増えてはいる。
余った人達は、落第するか同じ校舎内に有る商業科へと転向して行った。
不思議なもので特待生のA君とは又同じクラスで、
しかも最後尾の左隅とその前だ。
毎学期成績順に並び換えが有るが、一度も狂った事が無い。
言うまでも無いが、彼が1番で、香林坊氏が10番である。
1番と10番では、1階と10階いやいや13階位の差が有る。
A君は海兵を狙っている。そのA君が数学の試験で、
背中を突っつき見せろと信号を送ってきた。
体をづらして見える様にしてやった。
翌日職員室に呼び出された。 「お前、カンニングしたな。」
「いいえ、してません。」 「嘘を付け、Aと同じ様に式も答えも間違うか。」
「いいえ、やっていません。」 一応これで開放されたが、
どうもこれで、先生には目を付けられた様だ。
8月13日正午少し前に「ドカーン。」と大音響があり、
しばらく後に「ドカン。ドカン。」と繰返し地響きと共に大音響が続く、
香林坊氏は間違い無く魚雷の爆発だと思った。
デマとは恐ろしいもので「艦砲射撃で石巻、矢本飛行場全滅。」
「蔵王噴火。」等々すごい速度で伝わって来るが、
香林坊氏は、固く固く魚雷爆発を信じていた。
軍からの発表は無いが塩釜から通学している者から、すぐ伝わった。
あの工場は、完全に壊滅。
ひどい事に逃げる従業員を機関銃で射ったと言う噂迄流れて来た。
それは、当時とすれば本当かも知れない。
香林坊氏はそれ以来「人生は神様の阿弥陀籤」だと思うようになり、
努力1割、運9割とも思う。
つまり、阿弥陀籤に相手も線を入れ、己も線を入れた結果だ。
東北大学の人には、気の毒であり、御冥福をお祈りしたい。
以来、香林坊氏は、悪運が強いと信じる事にした。
中学生にも月一回の勤労奉仕が割当てられた。
塩釜港で石炭の荷揚げ等々があったが、
2年生の夏休み。(北国の夏休みは8月10日からである。
夏休みが短い分冬休みが長い。)
8月13日(金)に多賀城にある海軍工厰に勤労奉仕が決定していた。
東北大学から土曜に電話があり、8月13日を8月10日に
変更を要請され8月10日に決まった。
休みの最初であり、皆ブツブツ言う。
中に「おい、13日の金曜日よりは良かろう。」と言う奴が出てきた。
「おい、お前、耶蘇か。」
決まった事だし8月10日に海軍の工場へ出掛けて行った。
憲兵隊の分駐処が門前に有り持ち物検査をされ、
何かオドオドしながら門内に入った。
8月だと言っても日の射さない工場は半袖では寒い。
出来た魚雷(信管は付いていない)を格納火薬庫に
トロッコで運ぶ役だが1日に3本しか出来上らない。
これでは、戦争に勝つには、程遠い事だった。
筆記試験はどうにか通った。
身体検査は司令部で行われた。
軍医が血圧測定しながら「君は長男か。」
「ハイ、成上り甚六です。」 「血圧が高い不合格」と言い渡された。
母の親戚に医者が多いので大学病院で診てもらったが、
全く異常はない。「軍医が何か尋ねたか。」
「ハイ、長男か。と聞かれました。」
「それだ、なるべく長男は残すんだよ。」
未だ日本も戦力に余裕が有り家長を外した事なのだろう。
2年生になって教練の時間に配属将校(少佐)から
幼年学校への受験の勧誘があった。
願書を貰い師団司令部に提出。
筆記試験は鉤取の幼年学校で行われた。
乗り物で行くと長町から秋保電鉄に乗換えて行かなければならない。
私の家からだと一山越えて行けば行ける。
2里迄は無いだろう。
首吊りの山を経て八木山の中を通り抜け約一時間半で着いた。
もちろん車の通る様な道はない。
サイン、コサインが出るかと思っていたら、6年生で習った鶴亀算、
潮流算等が出た。単位に分数等が入り結構むずかしい。
ラジオで一週間に一回「前線に送る夕べ」の番組がある。
セレナーデのメロディに乗って始る。
色々な演芸ものや民謡もやるが、ここで聞けるクラシックに胸を踊らせた。
曲は敵国はダメで、ドイツ、ソ連が主だ。
この番組で覚えた強烈な印象の曲に、チャイコフスキーの1812年、
ベートーベンの第9交響曲 田園、シベリュースのフィンランデア等がある。
好きな曲である。
国民歌謡に「歩け歩け」が、ソ連から貰ったと紹介されたが、
これはソ連では「葬送行進曲」だそうだ。
なんとも、馬鹿にされた話である。
国をあげての援農大作戦と言うのがあり、中学生は農家に分宿して
田植等を手伝った。2泊3日での田植の手伝いだ。
引率されて出かけて行った。
農家の者は自分の家の田植を届けを出してしなければならない。
2日目の昼食に鰻丼が出た。
3時の休憩に小母さん達に話掛けた。「鰻丼美味かったですね。」
「ホーケー岡鰻がよ。」その時、誰も気が付かなっかったが、
作業を始めてから気が付いた。「オイ、岡鰻って蛇の事ではないか。」
「あ~あ、きっとそうだ。」「オエ~」「もうとっくに消化している。」
「あ~あ」「あ~あ」と、声に力が入らなっかったが、今思い出すと、
結構美味かったし蛋白の補給で元気が出たような気がする。
川向の県立工業学校の隣に刃物の工場がある。
包丁等の刃物のメーカーで、今は有名なメーカーだ。
切味が良いので知られている。
軍需産業として銃の先に付ける釼、将校の使う昭和刀の作製をしていた。
現今、テレビで写す様に大きな錘をロープで吊り上げ、
真赤な鉄を叩いて鍛造していく。
小さいと言っても、かなり大きいハンマーで時々叩いて形を作る。
一方半自動のグラインダーで一挙に形が出来上ると炉の中に入れて、
赤くなったのをドラム缶の中の油に入れて焼を入れ、
次の工程に持って行く。
この工程が面白く、いつも学校帰りに窓から覗いては、
追い払われていた。