人工暦と人工時間がなぜ造られたか?
前回記事の続きです。
それらを造った者たちの意識にフォーカスし、
彼らの口述を得ました。
( ̄ー ̄;
同時に得た瞑想ビジョンを、
挿画作成しましたので、
合わせてお届けします。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
時間と重力からなる地球を、
我々は掌握することにした。
時間というスクリーンを装備した、
個性的な星のおもしろさを、
我々の配下に収め、その躍動を独占したい。
我々が何者か疑問に思う者もいるだろう。
我々は何回も地球人として転生してきた。
その姿は学者、神官、政治家・・・。
様々だった。
我々のことを「宇宙人」と呼ぶ者がいるかもしれないが、
地球という星に、自らの光を映し出す魂たちは、
そもそも皆、異星から来るのであるから、
特別なことではない。
*
我々が地上に狙いを定めた時、
地球はあるプロジェクトの集大成とゴールを目前にしていた。
だからこの星の運行意図を乗っ取ることは、
指揮棒を横取りし、我々の好き勝手に振るような、
密やかで巨大な悦びがあった。
我々にとっても、
「星を掌握」できるということは、
稀にみるチャンスである。
宇宙からたくさんの守護を受けているこの星も、
そこに存在する者たちの目を閉ざしてしまえば、
我々に隷属(れいぞく)させることができる。
*
地球が太陽を1周回する間、
月は地球を13周回する。
これは物理的な意味だけではなく、
地球と月だけにとどまる意味でもない。
13という宇宙リズムにおいて、
地球は宇宙エネルギーと結ばれ、
多次元存在と化している。
同じく、地上で自らの光を映し出す魂たちも、
このリズムにより、
自らの内にある創造主を認識し、
異次元力(魔法的力)を行使していた。
個々人の魂は一人一人が独自のメロディーとリズムを奏でていたのだ。
*
我々は地球を占拠するため、
このリズムを崩すことにした。
そして12ヶ月の暦を作成し、
それを徐々に拡大させた。
その暦が浸透するにつれ、
人々はもはや星(宇宙)とつながる13ではなく、
肉体部分の自分12+創造主1というリズムになった。
地球人は分離し、
異次元的魔法力は希薄なものとなった。
そして分離した「1」は、
我々が「神」としてそれを祀り(まつり)
あがめるように人々を促した。
この時、個々人の内なる神は影を潜め、
自ら奏でていたメロディーとリズムは極めて不明瞭となった。
我々は指揮棒という暦で12のリズムを振り続けた。
そして、1オクターブというくくりを設け、
その中で12音を示し、それを元に調律された楽器と、
それにそって書かれた楽譜を拡大した。
人々はどこにいても同じように神を讃えて歌えるよう、
訓練された。
そして彼ら独自の魂が奏でる旋律は、
忘れ去られていった。
宇宙とつながるリズム:13を断ち切ることで、
我々はこの地上を占領した。
本来人々の中にある神。
それは触ることができない存在。
だが、我々のもたらした像(偶像)は肉眼で見え、
手で触ることができる。
我々の唱える句を、地上人は自らの言葉で繰り返し、
定められたメロディーとリズムで、誰もが同じ歌を歌った。
そして我々の造った像をあがめると、
結果的に人々は、神を掲げている「我々」に従う。
さらに、精密な機械時計はメトロノームのように
地上人のテンポを一定化した。
足並みを揃えさせ、行動を一律化させ、
思考と意識、命じられた枠内で生きることへと、
精神を服従させた。
集団意識のコントロールはもはや簡単だった。
この星を我が物にするという快感、
盲目の羊を操るという痛快さに、
何世紀もが経過した。
だが、我々もそれに飽き、
この偽りを放棄すべき時が来ているかもしれない。
たとえそうだとしても、
愚かな羊になりきった者たちは、
本来の自分のメロディーを奏でようとするだろうか?
我々がリズムを返すと言っても、
それが重要だとわかる者がいるだろうか?
宇宙リズムの13。
創造主を自らの内に認識でき、
届いてくる宇宙エネルギーを有効利用できるリズム。
個々人が自律的なメロディーを奏でられるリズム。
それを取り戻せる者が、
果たして地上にいるであろうか・・・?
(あざ笑う声、遠ざかる・・・・・・・・)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
以上が彼らの口述でした。
彼らの姿はなく、ダークな意識だけがありました。
( ̄Д ̄;;
これは私の推測ですが・・・。
原住民族への侵略、世界の植民地化、
太陰暦を元にしたユダヤ暦ーユダヤ人の迫害、
自然霊とつながっていた女性を弾圧する魔女狩りも、
すべて宇宙リズムと切り離し、
「我々」の配下に従わせる目的であったのでは?
*
私たちが魂主導の道を選び、
宇宙循環的ライフスタイルを送るために・・・。
宇宙のエネルギーと結ばれた、
異次元力を取り戻すことが必須だと思えます。
☆.。.†:*・゜☆.。†.:*・゜
上記の口述内容は《映像紙芝居》にも仕立てております。
ご存知ない方どうぞ。
ウタマロが迫力の朗読で迫ります。