「子どもが不登校になって幸せとは、どうしても思えない」という方が、実は私のクライアントさんにはたくさんいらっしゃいます。この言葉を聞くと腹が立って仕方がない、とすらおっしゃる方も。

 

 

おそらく、私自身が、「子どもが不登校になってよかった」「不登校になってくれて幸せ」とは思っていないから、そう話してくれるのだろうと思います。でも、「不登校になったから不幸だ」とも思っていません。

 

 

じゃあどういう言葉がしっくりくるのか、ずっと探していたんですが、先ほどぱっと閃いたので、今日はそのことについて。

 

 

 

その前に、「不登校になって幸せ」という理由について、掘り下げたいと思います。これについては、「自分を苦しめていた価値観から解放された」「生きづらさを手放せた」などの理由があると思います。価値観を変えたり、生きづらさに気がついたりする過程で、どんどんいらないものを剥がしてきたおかげで、身軽になって生きやすくなった、毎日が楽しくなった、ということでしょう。

だから、子どもの不登校という衝撃的な出来事がなければ、そんなことはできなかったな、という思いも入っていると思います。自分の固定された価値観を一度ぶっこわすには、それくらい衝撃的な出来事が必要だったのでしょう。

 

 

これについては同じです。私の場合、自分のうつ病という経験からも同じことが言えます。でも、うつ病になってよかたとは思えない。とても辛かったし、しんどかった。さらに、寛解した今となっても、うつ病に罹患する前のパフォーマンスには戻らないと実感しています。

うつ病にならなければ、この体の慢性的なだるさはなかったのかなとか、午前中ももっと動けていたかなとか、ふと頭をよぎることがあります。

 

 

うつ病も、不登校も、その出来事を経験として、自分の今後に生かすことができた。でも、それをなくして今の状態になれるならば、その方がよかった。あえて強い言い方をするならば、「必要悪」だったんだな、と思います。

 

 

だから、不登校になったから幸せとは、思えないんだと思います。なければない方がよかったから。

 

 

じゃあ、どういう言葉がしっくりくるのか。私はこうです。

 

 

不登校という状態のままでも、幸せになる方法を見つけて、良かった。

 

 

まさに自分が目指していたものだし、伝えたいもの。あまりにも馴染みすぎていて気がつかなかったけれど。今置かれた状況で幸せを探すことが、どんな時にでも必要なんです。

 

 

メンタルの衛藤先生の講座では、よく出てきます。「シマウマはシマウマのままで。ライオンはライオンのままで幸せに生きる。人間だけが、今持っているもの、持っている状況のままで幸せになろうとしない」と。

 

 

不登校だけではなく、経済のことや病気のこと。自分にはないものを持っている人と比較していたら、とてもしんどい。足りないものを埋めることに必死になるから。

そうではなくて、今あるもので、今ある状況のままで、幸せを探す道は必ずある。その過程で、価値観を変えたり、執着を手放したりという努力は発生するけれど。

 

 

もしかしたら、「不登校になって幸せ」という言葉が嫌いな人は、自分がそれらの価値観や執着を手放すためにしてきた、あるいは今現在している作業を、そんなの無駄だよ、だって幸せなのにって否定されている気持ちになるのかもしれない。

 

 

でもね。言葉は違うけれど、みんなそれぞれにもがいている。表現が違うだけで、あなたが頑張ってきたことは、ゼロにはならない。だって、不登校という状況で、幸せと思える道を、必死で探して、見つけてきたのだから。

 

 

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