次男の不登校生活も、今年で7年目。先週は1時間目だけ登校してみたり、自分なりに学校に行くことを考えたりと、少しずつ変化はしています。
そんな次男ですが、最近になって時々、「なんで学校に行けなくなったのか」を口にするようになりました。
とはいえ、小学生の頃も、時々言っていたんですよ。「静かにしないといけない時に、騒がしいのがいやだ」「子どもには時間を守らせるのに、先生は遅れることがある」「興味がない授業を受けるのが苦痛」「休み時間、外に遊びに行きたくない時でも、外で遊べと言われるのがいや」などなど。どれも些細なことではありますが、次男にとってはいろんなことが積み重なって、心のコップが溢れてしまったんだろうな・・・・と思っていました。
はい、敏感な方はお気づきでしょうか?「思っていた」と、過去形になっていることを
つい先日のこと。次男ってばこんなことを言うんですよ。「僕、なんで学校に行けなくなったんかなあ。前の中学はともかく、小学校は別に嫌じゃなかったし、今思えば楽しかったのに」って。
え・・・・・ええええええええ???!!!!
た、楽しかった、とな?!あれだけ家から出ることに泣き叫んで暴れていたのに、楽しかった、とな??!!!
その瞬間、不登校初期に母から言われたことを思い出しました。「様子を見ていたら、無理やり連れていくことがあまり良くないのも、難しいのもわかる。でも将来、次男が過去を振り返った時に、「なんであの時、無理してでも学校に連れて行ってくれなかったんだ」って、後悔したり、責められたりしたらどうするの?」と。
まさに、今・・・・・似たような状況になっております・・・・。
でもね。改めてあの時を振り返っても、やっぱりあの状況で、学校に行くことは難しかった。状況が同じである以上、どこかのタイミングで無理が来ていたと思います。
喉もと過ぎれば熱さを忘れるって、本当によく言ったもので。考えてみればそんなに大したことじゃなかったかもとか、できたかもしれないって思うことは、決して珍しいことではない。
そもそも、「後悔のない人生を」と思うことが、ちょっと違うと思う。
後悔というのは、他の選択肢を選んだら、より良い方向に行ったのではないかと思うこと。でも、それって一つの道を選んでみて、その先がやっと見えてきたからこそ思うこと。もしかしたら、他の道は「より良い」道だったかもしれないけれど、他の道を選んでいた自分は、その時になると、今の道を選んでないことを後悔しているかもしれない。
そもそも、「ベストの選択」を目指すから、後悔するんだと思う。「ベター」と思える方でじゅうぶん。それも、「とってもいい」じゃなくて、「少しはマシ」くらいで十分。それを、世間の常識や誰かの意見で流されるのではなく、自分でしっかり考えて、自分の責任で決めること。
その時の自分が、そうやって悩んで悩んで考えて、腹に力を入れて決めたことであれば、もう仕方がないと思うから。
ちなみに、次男に対しては、ついつい素直に「そうなん?!あんなに辛そうやったから、楽しかったなんて思わんかったわ!!」と、ついストレートに返してしまいました。笑
それに対して次男は、「うーーーん。あんまり覚えてない。でも、楽しいこともあったと思う」だって。
1年間しか行っていない小学校。行きしぶりの時期も長かったから、「苦しい」思い出ばかりじゃないことに、少し・・・・いや、かなり嬉しく感じました。それもこれも、次男がいろんなことを乗り越えて、おうち生活の中でもいろんな経験を積んで、その時のことを「大したことない」くらいのレベルまで昇華できたからではないかな、と思っています。
もしかしたら、学校に行かなかったことを、後悔する日がくるかもしれない。
責められる日が来るかもしれない。
でも、今振り返っても、あの時、泣いて叫んで全力で家に引きこもる次男を、毎日学校に連れていくことは、どう考えても無理でした。後悔したところで、無理なものは、無理。
はっきり行って「仕方がなかった」ことなので、後悔しても、責められても、「仕方がなかった」とするしかない。私の中では、「受験当日にインフルエンザになった」とか、「修学旅行の前日に怪我して、行けなくなった」と同じようなもんです。
後悔すること。人を責めること。自分を責めること。それらをさらにクリアした先に、また違う世界が広がっているんだろうな、と思います。
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