静岡県三島市の遊廓赤線其乃貮 | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

昭和初期に発行された「全国遊廓案内」三島中島遊廓の頁には、遊所としての案内が明確に記載されておりますが、対して昭和三十年赤線時代発行「全国女性街ガイド」三島の頁を引用すると「三島女郎衆の里は、駅から二十分の芽町にあったが、往時の名残りをとどめた稲妻楼、尾張楼、万寿楼、新喜楼の四軒は、すでにアパートに転業」・・・・・とあります。


風紀上の理由がもとで東海道筋の飯盛旅籠時代から三島の彼方此方にあった女郎屋が、一カ所に統合されたのが大正十四年のこと。三島の貸座敷業者が協議した結果、風紀上最も影響の少ないと考えられた芽町二丁目(かやまち)を買収して三島遊廓(三島中島遊廓、三島新地)を設立。


三島市誌には、三島女郎衆の起こりから三島遊廓の成り立ちまでが詳らかにされておりますが、それによると、芽町の遊廓は大東亜戦争の最中に既に遊所としての機能は終焉を迎えていたことが記載されております。







三島遊廓設立当時、大正十四年の写真。右から稲妻楼、鳴海楼、万寿楼、井桁楼。稲妻楼の楼主は三島貸座敷業者の最有力者だった。





旧茅町(現清住町)付近の電柱には「新地」と記されたプレートが。






昭和六十三年の「三島田方いまむかし」に掲載された旧三島遊廓付近。



上記と同一個所を撮影す。







昭和三十二年の住宅地図から遊廓のあった箇所を見てみましょう。「全国女性街ガイド」にて触れている通り、この時代は既に遊所としての役目を終え、アパート(企業の社宅)として第二の人生を歩んでいることが分かります。





下記は昭和六十年発行の伊豆地方の観光ガイドブック。なんと三島の妓楼写真が掲載されておりました。非常に分かりづらいのですが、玄関先に「村岡荘」と記された表札が掲げられております。後述致しますが「村岡」とは、新喜楼楼主の姓。





旧遊廓を昭和四十一年度の住宅明細地図で確認。前記した昭和三十二年のものよりも、地図の記載が丁寧でありますね。新喜楼楼主「村岡氏」の姓を採ったアパートを発見。







三島市誌にも大東亜戦争中に終焉を迎えることとなる三島遊廓のくだりに「村岡氏」の名前が綴られておりました。他地域の遊廓に比べ、戦時体制の時局を鑑み、娼妓解放をいち早く行ったのが三島の貸座敷業者だったようでありますが、どうやら新喜楼の「村岡氏」は最後までこの地で妓楼営業を続けていた経営者だった、とのこと。その後のアパートへの転身をも考えると、氏は経営者としての先見や哲学が備わっていた人物だったのでしょうか。





旧三島遊廓跡地には現在も企業の社宅が。




宗教法人の建物も。








扨、続きは次回の講釈で。