故広岡敬一先生の著書によるトルコ風呂に関するレポート本「トルコロジー」であります。以前も当ブログでご紹介しましたっけ。戦後赤線時代→赤線廃止→トルコ風呂へ転業→トルコ時代黎明期・・・・・と時系列にトルコ業界の歴史と内情が記録されている良書。昭和五十四年に発刊された本ですね。
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「トルコロジー」には金津園の記述はそう多くないのですが、この本から読み取る岐阜のトルコ史を少しばかり辿ってみましょう。
昭和五十四年に統計をとった「トルコ風呂営業所の分布状況」に因ると、金津園のある岐阜県は、五十四軒のトルコ業者が営業をしており、その内二軒が何らかの摘発を受けたようであります。下記は同書より岐阜県のみをピックアップ。
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因みに我が国に於けるトルコ風呂の第一号は東京東銀座にオープンした「東京温泉」であります。昭和二十六年のことですね。第二号が一年後の昭和二十七年に営業を開始した福岡の「博多温泉トルコ」であります。何れも支那大陸からの引揚者がマネージメントをしていたようです。
昭和二十八年末の時点で都内に三十軒、全国には七十軒のトルコ風呂が営業を行っていると言う結果があるのです。徐々にトルコ風呂黎明期の兆しが見え始めていた時期ですね。この時代は未だ赤線時代。売春防止法が成立するのは昭和三十一年なのですが、やはり当時の赤線業者はこの法律が出来るのを早くから見越していたようで、トルコ風呂(など)への転業を考えていたようですね。面白いのは全国の赤線業者が何処もそれを想定していた点ですね。推測するに、こうした業界は昔から強靭たる横のネットワーク、情報網が発達していたのではないでしょうか。
同書にある「にっぽんのトルコ地帯 トルコ地帯の構図」を以下に引用してみます。
(以下引用)
旧赤線の跡に発達したトルコ地帯は、その当時の建物をそのまま転用して、表構えだけはいちおう派手やかに見えるが、永年にわたってしみついたその町の歴史の澱のようなもののせいか、表面の華やかさはことさらに、あざとさを感じさせる。
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東京の吉原、名古屋の中村、岐阜の金津園、神戸市の福原などがそうで、旧赤線時代、これら地域の業者は特に結束力が強くて、売春防止法に対しても最後まで抗戦の気がまえを見せていた。そして、その施行後も、ふたたび売春が復活される時期がくることを信じていたようでもある。
従って、トルコ風呂の時代に入っても、その業者たちの主導権は、あくまでも旧赤線業者のトルコ風呂転業組が握り、目立たないように生き残っていくことを目的に、自主規制を強めつづけてきたのだ。
いずれにせよ、目立たせないため、町の様相を一変させるような、外見の大きな変革が行われることがなく、それが歴史の澱をとどめさせていると感じさせるのだろう。特に名古屋、岐阜、神戸などの場合は、トルコ風呂業者の大半が旧赤線業者なので、その印象を強くする。(引用ここまで)
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・・・・・・・・・・・昭和五十四年に同書が世に出て、既に三十五年余り経過しておりますが、故広岡敬一氏の言う「歴史の澱」の残滓はそこかしこに未だに残っているのは明らかであります。その是非を論うのは、また別次元のお話ですので、触らぬ神に祟りなし・・・・・・の心で触れませぬ。
月並みな言い方を敢えてするならば、街に漂う「歴史の澱」に対してどうにも惹き付けられてしまうのであります。その辺りに共感を頂ける読者の方もことのほか多いのではないか、と私は強く思うのです。