神奈川県藤沢市(旧藤沢遊廓)④ | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

親が邪険で売られましたか吉原に 十七八の小間使い十九の春より店に出て 女将や姐さんの言うことにゃ枕外せよ身もやれよ
たまにはからすもたけとやり  そうすりゃお客も熱くなる
朝来て昼来て晩に来る 親の財産を使い込み 一文頂戴と角に立つ
そのときゃ知っても知らぬ顔 主はえ~ お客でよわしゃ勤め






上記は湘南、藤沢界隈のお祭りで愛唱されている甚句の一つ(他に何種類も存在)。晩酌の肴に景気良く一句をば。






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下記は藤沢の遊廓を調べるにあたって大変重宝した資料「藤沢郷土誌」。昭和八年に発刊されたものを昭和五十五年に復刊。著者の加藤徳右衛門氏は、藤沢の引地と言う地域の大地主、後に町議にもなった人物。明治十九年に鵠沼海水浴場が開かれるにあたり、旧大鋸町にあった旅籠を鵠沼海岸へ移築するのに尽力した一人。その屋号は「鵠沼館」、往年の柳田国男や武者小路実篤が贔屓にしていたようです。





加藤氏は当時の藤沢の表も裏も熟知していたのでしょう、藤沢遊廓の記述も「藤澤と花柳界」と題して、沿革から当時のエピソードに至るまで綿密に述べています。






中でも「藤澤花柳界の秘話」の頁は面白く読み進められました。これに因ると、帝都に於ける最高学府たる貴公子のみの学園(学習院のことでしょうか?)の一部生徒が、片瀬海岸にて水泳の特訓指導を受けた帰りに藤沢の遊廓へ登楼していた、とあります。彼らは貴公子だけあり、花柳病(性病の意)を極度に恐れ、何処の誰からそんな情報を吹き込まれたのか、踵に灸をすえると花柳病予防になると言う迷信を盲信していたそうですね。新潟の「おもしろ誌」然り、こうした下世話な話が書き連ねてあるところに、時を越えたリアリティが宿るのです。





藤沢に於ける芸妓娼妓人数の統計も記載されております。大正十五年から昭和六年までの統計ですから、辰巳新地へ移転されてからのものですね。




下記は旧辰巳新地の一画。明治三十五年に県令によって、旧大久保町、旧大鋸町にあった飯盛旅籠や女郎屋がこの地に移転。数年前まで往年の面影残るカフェー建築が残っていたのですが、現存せず。貸し倉庫やマンションが建っております。




加藤氏の著書にある藤沢遊廓名鑑。辰巳町と言う地名は現存しませんが、番地はそのまま現在まで引き継がれております。
※一部画像修正





少し離れた場所から旧辰巳新地を望む。マンションに囲まれた一画が嘗ての遊廓。この界隈の事情を耳学問程度に聞きかじった上で考えると、現在は信じられないことに開発ラッシュの模様です。




電柱には「辰巳」と記されておりました。これも遺構に他なりません。




旧廓内にはお稲荷様が鎮座されております。




お稲荷様の傍らにも「辰巳」と記された公民館がありました。 






加藤氏の著書で特筆すべきは、藤沢の遊廓移転前、即ち辰巳新地前の藤沢色町事情に触れている点ですね。「我町花柳界の沿革は記録なき為的確に記載する能はざるも、古老の語草その他を総合するに」と前置きをしておりますが、その記述は実に詳細です。加藤氏に因れば、現在の遊行寺付近の旧大鋸町が民衆的な女郎屋があり、純然たる妓楼式の体を取っていたのに対し、旧東海道を隔てた旧大久保町は有産階級向けだったとあります。





下記写真は、加藤氏の言葉を拝借すれば「有産階級向けの享楽場たる観の」旧大久保町界隈。現在、その面影はまるで残っておりません。明治三十五年に辰巳新地へ移転するに際して、格式ある「有産階級向け」の大久保式を踏襲せずに「民衆的な」大鋸方式の体裁を新たに導入した模様です。現代風に言えば、ビジネスモデルの再構築化・・・・・なのでしょうか(笑ひ)








湘南、藤沢の祭りの模様。ドッコイドッコイと言う掛け声はこの地方特有。トラメガを持った人物が歌うのが祭りの甚句。ニューミュージックやヤングカルチャーの影響下で洗練されたイメージのある神奈川湘南でありますが、動画のように男っぽい豪快な気風の残る風土が特徴。神奈川弁(横浜弁)として巷で知られる語尾の「○○じゃん」や「○○べ」は元は神奈川の漁師言葉。







続く