新潟県小千谷市(旧小千谷遊廓)其の貮 | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

冷たい雨の中の小千谷遊廓跡をお散歩。


小千谷遊廓は日露戦争終結後の明治四十年代に軍隊(小千谷工兵第十三大隊)の要望に応じて開設された経緯があります。その後、大東亜戦争(太平洋戦争)終結後の赤線時代を待たずして、昭和十八年頃に遊廓としての寿命を終えました。小千谷遊廓の楼主たちは、一大決心の結果、次々と廃業。軍事産業工場の寄宿舎にと売却したことが背景にあるのです。図書館にある一番古い小千谷の住宅明細地図は昭和五十年度版。当然のことながら、小千谷遊廓を匂わす地図は既に無し・・・・・・。








小千谷遊廓があった場所は船岡町。「船岡」の地名は現在も残っています。小千谷遊廓は通称「桐畑」「新道」と呼ばれていたようですね。
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天候が晴れの日の休日なら地元の方の憩いの公園なのでしょうか?この日は土砂降り、人っ子一人いません。
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小千谷遊廓に関する資料をご紹介。お馴染みの「笹川正榮著 新潟県遊廓ご案内帳」には、小千谷遊廓の妓楼屋号が載っていました。この本に因ると、みどり楼、松尾楼、若松楼、松川楼、住乃浦、大門楼、新盛楼・・・・・とあります。
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小千谷の郷土資料も開いてみましょう。小千谷遊廓に関する頁もしっかりと設けられております。毎度のことながら図書館に足を運び、郷土資料から「遊廓」の記述を発見すると小躍りする位に嬉しくなるのです。「吉村宗松編 船岡町九十年の歩み」
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吉村宗松氏に因る小千谷遊廓のくだりを引用してみましょう。



(以下引用)





明治四十二年七月十三日、遊廓は二荒神社祭礼の宵宮の日に華々しく開業した。遊廓の入口には、二本の標柱が建てられて、そこには「桃李不言」「下自成蹊」の八文字が墨痕も鮮やかに記されていて、後日まわりの人々の話題を賑わした。遊廓の周辺には、数本の松が植えられていて、やがてこの松を「見返りの松」と人々は呼ぶようになった。


遊廓の業者は、船岡町から佐藤与市(松川屋)、濁川仁久治(緑屋)の二軒、裏町から山本金右エ門(住の浦)、佐藤吉二郎(若松)の二軒、川岸町から関嘉吉(松尾楼)の一軒で合計五軒が参加を申し込みをして許可を得たのである。



設置場所は、県道魚沼線(現一一七号線)の船岡町上町地区より幅の広い私道を深地の阻近くまで切り開き(現船岡町第一号線)、ここに五軒の遊廓が木の香りも新しく竣工したのである。


娼妓は二十名位で、中には芸妓も居て次第に色町特有の繁華街を呈して行った。遊廓の上(かみ)の桐畑の中に検番院という医務室もあって、娼妓の健康管理も行われていた。また遊廓の入口の隅には、人力車夫の客待ちの立て場もあった。


客足は、近くは勿論のこと遠くは中魚沼郡や小国、東山などからも若者や常連客が通い続けていた。日曜日ともなれば、工兵隊第十三大隊の将校達や隊員が娯楽を求めて通って来ていた。





(引用ここまで)





引用文中小千谷遊廓門柱に書かれていたと言う「桃李不言 下自成蹊」を現代語に訳すと「桃や李は口をきいて人を招くことはしないが、良い花や実があるので人々が争って来て、結果として自然に小道ができる」の意。簡単に言ってしまえば「宣伝などせずとも良いモノには自然と人が寄ってくる」・・・・と言うことでしょうか。華やかなりし遊廓時代、潔くお国のためにと廃業した戦時中、そして現在は閑静な住宅地として生まれ変わった小千谷遊廓。これもまた「桃李不言 下自成蹊」也・・・・。
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次回は新潟県中越地方の遊廓ネタをメインに取り扱っていた明治時代~大正時代の風俗誌「おもしろ誌」から小千谷遊廓に関する記事を掘り起こしてみませう。ハッテン的小千谷遊廓を平成のインターネッツ時代に蘇らせませう。

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