長岡新遊廓について④ | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

世代交代が繰り返されて、文治町(現山田町)にお住まいの方の中には、我が町が嘗て遊廓だったことを知らない人も多いでしょう。大きなマンションも建っていることですし、他所から移ってきた世帯、そして三十代~四十代の若い世帯が多くなれば、なお更でしょうね。僅かに残る転業旅館が往年の面影を物語っていますが、現在の住宅地図を眺めると、くっきりと残る遊廓の街割り。まだこの街に惹かれて止まないのです。








下記は平成二十五年長岡市住宅明細地図より。完全に住宅街と変貌を遂げています。古の紅燈の巷を匂わすのは、数軒の旅館のみ。旧遊廓の区画を赤線で囲ってみました。黒丸を記した部分は、私の下手糞な字の通り「大門」があったと思われる箇所です。
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改めて大正時代を模した地図と見比べてみましょう。
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「大門」が建っていた箇所より撮影。
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心躍らせた好色一代男が何回も登楼したことでありましょう。
※長岡遊廓美人:今重旅館様より提供
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大門を真っ直ぐ抜けた通りが嘗てのメインストリート。
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上記写真とほぼ同じ箇所。このメインストリートを一等地通りと呼んでいました。
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対して現在旅館が残っている通りを二等地通りと名付けていたようです。
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この「一等地」「二等地」の分類はお察しの通り、「高級店と庶民的なお店」に因って分かれていたようです。
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大正時代の地図を見ると、単純に一等地通り、二等地通りの区分けに留まらず、遊廓内の区画に細かく町名を名付けているのですよ。一等地通り西を「西仲の町」、同じく東を「東仲の町」、新保石五郎邸前を「夕霧町」、二等地通り西を「高見町」、同じく東を「梅川町」と。
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更には小路にも名前が付けられていました。「稲門塾」の通りを「助六小路」、四つ角を隔てた通りは「久松小路」。
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旧大門を左折した小路は「力弥小路」と呼んでいたそうです。
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東京吉原は吉原六ヶ町(江戸町一丁目・江戸町二丁目・角町・揚屋町・京町一丁目・京町二丁目)の区割りに影響されているのが非常に良く分かります。