新潟遊廓について⑦ | お散歩日記

お散歩日記

路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

郷土資料「新潟の下町」を用いたシリーズ七回目。







娼妓の生活」と題されています。読者の皆様に於かれても非常に関心のある内容でことでしょう。匿名の娼妓と登楼者に対して聞き込みを纏めた文章。
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      「娼妓の生活 娼妓○○○○ 登楼者○○○○」


 夜遅くまで働くので 朝起きるのは遅く 自分の部屋や家中を掃除して 朝食が十一時頃になります。そして昼食が夕方です。昼のうちは自由時間なので 自分の仕事をしたり 昼寝をしたり カルタをすることもあり、稲荷様へお詣りに行ったり、榛島の漁船へ遊びに行く人もいました。勿論 外出の時は家の人に届けますが 交番へ届けて書類で許可をもらったのは明治大正の頃でしょう。

 組合事務所の二階に裁縫所があって 仕立物を習いに行く人もありましたが だんだんへってなくなりました。裁縫のような根をつめる習い事は好かれませんでしたし 習う気持ちにもなれませんでした。

 娼妓は 山形や秋田の人が多く、家が貧しくて前借でくるのです。小学校が終ると世話人につれられてきて 成人になるまでは店へ出ないで女中仕事をすることになっていましたが、店へ出ると大きな金が入るので、十七・八の年で店へ出る人もありました。

 四時頃から風呂に入り、髪をゆって店へ出て 名前札がかかっている下の座布団にすわってならびます。前を通る人には、見て過ぎるだけの人、気にいる子を探している人、値切る人、さまざまですが、長きせるの雁首で男の着物の袖口をひょいと一からみすると、男は不思議なくらいに動くことができなかった。客が上がると おばさんが宿帖・茶・菓子を持ってきて、時間などをきいて前金をもらいます。泊りで五円、時間で一時間一円五十銭から二円くらいでした。番頭さんは帖づけをしていました。





・・・・・・「長きせるの雁首で男の着物の袖口をひょいと一からみすると」この辺りは非常ににリアリティのある描写ですよね。前回の新潟遊廓楼主へのインタビューにもありましたが、娼妓(遊女)は基本的に廓の外へ外出する自由は認められていませんでした。

 





続く。