新潟遊廓について⑥ | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

新潟市の郷土資料「新潟の下町」を元に新潟遊廓に迫るシリーズ第六回です。さて本題に入る前に・・・・




●明治四年 寺町五ノ町の大火の機に、揚屋・遊女渡世のものを一括して、秣島・榛島へ移さんとしたが実現せず。
●明治二十一年の大火で 古町通四・東堀通四、五・西堀前通五の妓楼が類焼した機に、古町五と西堀前五の居住を禁止した。
●明治二十三年の火災で南毘沙門島に延焼したのでここの免許地域を排除した。
●明治二十六年 西堀前通八・九の焼失により、ここの免許をやめた。
●明治二十一年の大火で妓楼が全焼したことの機に、本町十四番町を免許地域とし、その後 発展して 寄附町・西受地町(別名ときわ町)と四ツ屋一丁目(俗名新遊廓)、東堀十三、横七番町二丁目の六ヶ所に広くなり、昭和五年末の貸座敷数六十四、娼妓数三七〇人であった。




・・・・・上記は前述した遊廓の統合と移転問題に揺れていた当時の新潟遊廓年表です。消防の発達していない時代の火の不始末と言われればそれまでなのですが、妙にピンポイントで火事が多い気がしませんか?


更に追うと、明治三十一年五月七日にも新潟遊廓統合後の本町通十四番町にて火災。三〇四戸を焼失、十四番町の貸座敷が全焼しているのですよ。ただただ年表を追うだけでは火災が起きた事実に対してそれを受け入れざるを得ませんが、現代でも何がしかの移転問題は長年に亘って確執や揉め事が起きますでしょ。遊廓の移転問題と言えば尚更・・・・。

更に詳しくこの時代の行政、遊廓業者、土地関係等々の関係と裏付けを取らねば具体的なお話は出来ませんが、「遊廓の火事」に、一縷のきな臭さと「政治(セイジ)」の匂いを感じ取ってしまうのは当方の勘繰り過ぎでしょうか?






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「新潟の下町」より。ここでは「新潟の遊廓」とタイトルが付けられています。匿名の楼主にインタビューをした物のようですね。




      「新潟の遊廓 楼主○○○○」


 下町の遊廓は全国的に有名なものである。本町十四番町だけでなく ときわ町(十四番町と寄附町の裏の道)と四ツ屋町の新遊廓の地域であった。
 店の数は十四番町に三〇軒と無娼妓貸座敷が三〇軒位 ときわ町に三〇軒位 新遊郭に一〇軒位と無娼妓貸座敷が三〇軒かあり のちに東堀十三番町に一〇軒位あったようだ。無娼妓貸座敷には一般貸座敷へ行きにくい人が行って娼妓をよんだもので待合のようなものである。
 娼妓は五〇〇人位おっただろうか。二〇人位おる店もあり五人位の店もあり 大体十二、三人くらいだと思う。第一次大戦の頃、大正のはじめから大正八年頃が全盛であった。
 娼妓は殆んどが貧困農家の婦女子で、大正二年夏の木津切れの時には娼妓が多かった。山形あたりでは 嫁に行く前に奉公に出るならわしだといって来る者もあり、昭和のはじめ頃で大体二~三〇〇〇円位の前借で年ぎめ約束で来た。はやる子は玉代で返済も順調であったが、客のとれない子は大変であった。
 玉代は返済金になるが、客の飲食散在の金額によって毎月の小遣を支給してやった。しかし家庭の事情で追借する者もあり、衣装代化粧代のほかに好きな男ができて使う金が足りなくて前借する者もあったが 数年後には返済を終えて帰っていった。
 朝起きてから掃除や私用をすませ、午後になると昼寝、銭湯、着付け、稲荷様などのお詣りなどしてさまざまであったが、廓外へは出れないことになっていた。
 店は 七時頃から開いて 午前二時頃に店をとじた。昔から港町に遊女街はつきもので、船乗稼業の人たちが、海上生活の味気なさを刹那の快楽を求めてきたもので、船乗り、労務者だけでなく、旅行者やいろいろな人が登楼して賑わった。船乗りはときわ町の店へ行ったようである。
 昭和三十一年に公娼廃止令がでて営業が終わったが、私娼がその後しばらくあったようだ。
 店は 間口の割合に奥行が長くて小部屋が多い建物なので転業向きでないので 半数がバーや料理店、半数が下宿や旅館をしている。
 昔は 電灯で街が昼のように明るく 赤朱の柱も美しく賑やかな所であった。