昨日、NHKのインパール作戦を特集したドキュメンタリーを見て、教訓にしなければいけないなと改めて感じましたので、ブログに書かせていただきます。

 

 インパール作戦とは戦局が悪化する中、当時日本が占領したビルマ(現ミャンマー)からインド方面へと進出しようとする作戦で、先の大戦での最悪の作戦として悪名高いものでありました。

 

 インド侵攻自体は戦争緒戦の陸軍の快進撃の頃に一度は計画されましたが、頓挫したという経緯がありました。しかしながら、大戦末期の1944年になり、旧帝国陸軍は各所での戦局の悪化をインド方面への侵攻という成果で一気に打破したいという思惑から再度作戦が実施されたものでした。

 

 インパールで一花咲かせたいという軍上層部の意向を、現地軍司令官の牟田口将軍が汲み取り作戦化したもので、「極めて曖昧な意思決定」で作戦が実施されたものです。

 戦後、連合国からの聴取でインパール作戦の責任者について問われた際は、大本営(旧日本軍の最高統帥機関)側は「現地軍の責任の範囲」であるとし、牟田口将軍は「上からの命令でやった」と互いに責任のなすり合いをしています。

 

 インパール作戦は実施前から兵站面での問題は指摘されていましたが、武器兵糧は現地で調達するなどのずさん極まる計画で、現実的な指摘をして反対するものは「臆病者呼ばわり」で更迭するなど最悪の対処をしました。

 

 当地は世界で最も降水量が多いと言われる地域で、雨季が始まっての作戦は困難が予想されましたが、雨季の始まる前の3週間でカタをつけるという甘い見込みで作戦を開始しました。

 しかしながら、実際は作戦開始の3月から7月の作戦中止まで4カ月もかかってしまいました。

 そして、作戦中止してからの退却戦こそがインパールの地獄の始まりだったのです。インパール作戦の死傷者のうち6割は作戦終了後に発生し、そのうちの半数はマラリア赤痢などの病気と飢餓によるものだったのです。

 退却戦では、イギリス軍の追撃を受けながら、病気と飢えに苦しめられ、日本兵はそこかしこで行き倒れ、降り続ける雨が1週間で白骨とするため、白骨街道と呼ばれたとの事です。

 兵士は生き残るために、同じ兵士の死肉を食うという修羅場だったようです。

 今回NHKが初めて許可を得て現地を取材していました。

 しかしながら、ミャンマーの政治情勢の問題もあり、遺骨の収集も行われていません。

 

 孫子の兵法に「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という言葉があります。その逆に、「敵を知らず己を知らざれば戦う毎に危うし」という言葉もあります。インパール作戦は間違いなく後者であったでしょう。

 

 相手のイギリス軍は大戦当初とは違い、装備も充実し、飛行機による物資の補充も頻繁にされ、堅固な防御陣地を作っていました。さらに、日本軍が長躯遠征して疲弊したところで反撃に出るという作戦を当初から立てていました。

 それに対して、日本軍は「大和魂があれば大丈夫」と相手の戦力を考えず、

必要とされる戦力よりも少ない兵力で臨み、兵站は早期に相手陣地を占領すれば良いので考えないという有様でした。

 

 当然、こんな作戦は上手くいくはずがなく、早々に破綻し、現地師団からも作戦の中止を司令官の牟田口将軍に申し入れました。

 しかしながら、牟田口はそれを認めず、逆に司令部に対する命令違反であると、現地師団長を全員更迭するという非常事態となってしまいました。

 

 戦局が悪化する中、6月に牟田口は上官である河辺ビルマ方面軍司令官と面会し、二人ともその時点で作戦中止は不可避であると考えながらも、言い出した方が責任を取らされるのではないかと恐れ、結局は言い出しませんでした

 牟田口は「最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかった」と後に述懐しています。

 一方で河辺は「牟田口はなお言いたそうにしていたが、それを聞き出そうとはせず、互いに頑張ろうとわかれた」と述懐しています。

 こうして戦いは更に長引き、得る物の無い無意味な作戦に兵隊の命が消耗していったのでした。

 作戦中止後、牟田口は将兵に先駆けて戦線を離脱し、河辺から叱責を受けています。

 

 インパール作戦がこうなった原因は、もちろん、牟田口の無茶な作戦指導にも大きな責任がある訳ですが、上層部はそれを指導する責任もあったと思います。結局は、上記のように責任のなすり合いをして、誰も責任を取る体制に無かったという点が非常に大きかったと思います。

 

 これは組織を考える上で非常に大きな教訓であります。

 人間関係や組織の融和を第一にして、誰も責任を取らなければ、間違えてしまっても修正がきかなくなる。

 結果、末端の者が一番の被害を受ける。

 

 こうした歴史を教訓に、過ちを繰り返してはいけないと感じた次第です。