社説とは何でしょうか。辞書を調べると、新聞・雑誌などで,その社の主張として載せる論説とあります。  

 つまり、新聞社の看板をかけた文章の事だと私は理解しています。

 

 もちろん、日本は言論の自由がある国ですので、何を書いても良いわけですが、当然、批判する自由もあるという事で、とある大新聞の社説を紹介させていただきます。(朝日新聞8月18日社説)

 

 『日本の人口は2008年をピークに減少に転じた。2100年にはピーク時の4割になるとの予測もある。働き手も、モノを買う人も、税金を納める人も急速に減る。手をこまねいていては、成長どころか縮小スパイラルに陥ってしまう。「そこに至っては、もはや回復は困難」。「骨太」にも、危機感のにじむ文言が躍る。

 いったい、どうするのか。子どもを産んでもらえるよう、あらゆる政策を動員する。高齢者や女性にも働いてもらう。企業は絶え間なくイノベーションを起こす。過疎化する地域は集約化をすすめる――。

 産め。働け。効率化につとめよ。何だか戦時体制のようだ。


 今だって、グローバル競争で生き残りを図る企業の下、多くの人が低賃金や長時間労働に耐えている。いったい、どこまで頑張れというのだろう。
 そもそも「人口減少=悪」なのか。少し視点を変えて考えてみる必要がありそうだ。

(中略)

 当初は富国強兵のスローガンを掲げて。敗戦後は経済成長という目標に向けて。

 無理を重ねてきた疲労や矛盾が臨界点に達した結果が、人口減少となって現れているのではと、広井教授はみている。

 

 「人口減少は、成長への強迫観念や矛盾の積み重ねから脱し、本当に豊かで幸せを感じられる社会をつくっていくチャンスなのではないでしょうか」

 

 確かに日本人は頑張ってきた。多くの若者が親を残して故郷を離れ、都会にギュウ詰めとなって生産に力を尽くし、狭い郊外の家を買い、遠距離通勤にも残業にも耐え、高い教育費をかけて子を育てた。

 そうして得たものは、何だったろう。しばらく前まで、経済成長は豊かさの実感を伴っていた。だが次第にモノがあふれて売れなくなると、企業は従業員の我慢に頼って生き残りをはかった。  

 給与も雇用も不安定となり、若者を使い捨てるブラック企業さえ横行する。多くの人には豊かさが遠ざかるばかりだ。

 出口のない迷路に入り込んでしまったようだ。それでも政府は成長を叫ぶが、その神話を信じる人自体が減っていないか。


 いま日本で女性1人が生涯に産む子どもの数が最も少ないのは、成長のエンジン・東京である。保育所不足など子育てがしづらい環境に注目が集まるが、それだけが原因だろうか。成長が豊かさにつながると信じて働けど、そうならない人生への無言の「ダメ出し」が重なった結果ではないのか。

(中略)

 難題と向き合い、走り出しているのは過疎地の人たちだ。 

 日本海に浮かぶ離島のまち島根県海士町(あまちょう)は、人口がピーク時の3分の1。産業は衰退し、財政破綻(はたん)寸前にまで追い込まれた。だが今では特産品を使った「さざえカレー」や岩ガキなどが全国ブランドとなり、移住希望者が集まってくる。

 町のキーワードは「ないものはない」。都会のように便利ではなくても、人のつながりを大切に、無駄なものを求めず、シンプルでも満ち足りた暮らしを営むことが真の幸せではないか――。』



 一体、いつの時代の社説なのかと日付を疑ってしまいましたが、どうやら今日の日付だったようです。

 この新聞社を代表して書かれた文章は一見素晴らしい事が書いてあるように見えるかも知れませんが、私は評価しません。

 現実認識が全く私とは相いれませんし、客観的事実もおそらくこの新聞社の主張とは違うように思います。

   

 以下にその理由を示します。

    

 今回の社説の主題は、「人口減少=悪ではない。人口減少しているのは、成長や効率を追い求めてきた無理が重なった結果である。無駄な物を求めず、シンプルでも満ち足りた暮らしを営む事こそが真の幸せである

 というものだと思います。  

 

 まずは、別にシンプルで満ち足りた暮らしを求める事を否定しようとは思いません。しかし、これを国家の目標にしようと言うのは無理があります。

  マクロとミクロを混同した議論になっていると思います。頑張っている過疎の町を見習えというのは、頑張っていない過疎の町に言うべきことで、国民の殆どがそのような暮らしを求めていない(住みたいまちランキング等を参照)以上、国家全体の解決策にはならないでしょう。  

 まあそれは良いとして、この社説の現状認識が「経済成長不要論」になっていると感じるのは私だけでしょうか。真の幸せを求めるべきだとか、非常に曖昧な言葉で取り繕っていますが、マイナスの経済成長になればどうなるのでしょうか。 

 これは私が昨日書いた記事の通りです。


 

 昨日の繰り返しになりますが、失業率と自殺には非常に強い相関関係があるというのは、データを見れば一目瞭然です。

  失業というのは経済成長が鈍化したり、マイナス成長になったら増えるものです。

 景気が悪くなって失業率が高まれば自殺が増え、景気が良くなって失業率が低下すれば自殺が減る。

 つまり、経済は人の生死に関わるような最重要課題なのです

 
 こんな事は少し考えれば当たり前の事です。
 GDPの経済成長というのは、国内総生産という名が示すとおり、一国の生産部門の付加価値の合計でありますが、GDPには三面等価の原則というものがあるのです。
 
 これは、生産面のGDP=分配面(所得)のGDP=支出面のGDPといずれも等しいという事です。
 最終生産物のパンを作る時、農家が出荷する小麦の値段から種や肥料、機械の燃料を差し引いたのが農家の儲け=付加価値です。
 同様に製粉会社が出荷する小麦粉から原料の小麦、機械の燃料等を引いたのが製粉会社の儲け=付加価値となり、パン屋が作るパンから原料の小麦粉と光熱費等を引いたのがパン屋の儲け=付加価値となります。
 つまり、付加価値の合計は所得(≒儲け)の合計と等しいという事です。

 GDPの経済成長というのは、われわれの給料である、所得面で考えると簡単です。
 
 GDPという経済の全体のパイが縮小すれば、国内の皆の給料が下がります。

 そうなれば、パイの取り合いの中で、勝ち負けが発生し、負けた人が失業し、その一部は自殺という悲劇に至るのです。
 他にも、税収が下がる一方社会保障費が増加して、新聞の嫌いな財政の悪化も深刻になります。

 デフレ経済の下で、経済のパイが縮小し、コストカット競争の中で格差が拡大する。
 世代間の格差で言えば、貯金のある高齢者は生活が楽になり、貯金の無い現役世代は給料が下がって苦しくなる。
 これが最大の問題だと私は常々言ってきました。

 今回の社説では、経済効率を求める事がブラック企業などを生んできたなどともっともらしい事を言っていますが、これは間違いで、原因は明白にデフレです。
 デフレを脱しつつある現状において、有効求人倍率が1を回復し、人材を使い捨てるブラック企業に人手が集まらず、店舗閉鎖を余儀なくされているというニュースを見れば誰でもわかると思うんですが。

 私は今実行すべき政策は、20年間続いたデフレから完全に脱却し、経済成長の進路を確立する事だと考えます。
 そして、今後人口減少する中で、将来的に経済のパイが縮小する事は不可避としても、国民1人当たりの所得が増えるような政策を打つという事です。

 また、以前にも書いていますが、 東京一極集中を是正する事も必要だと思います。 

 「物質的な豊かさより精神的な豊かさを求めるべきだ」などと言って、曖昧な言葉で経済を軽視する事は、結局のところ「持てる者」の論理であって、実際には皆が平等に苦しくなるのではなく、若者世代などの「持たざる者」がより苦しくなるのです。

 こういう現実認識が広がる事は、正直に言って、私のような若い世代にとって迷惑この上ありません
 
 

 そもそもこの新聞は経済記事が壊滅的なレベルでありまして、異次元の金融緩和でハイパーインフレになるとか、国の借金で財政破たんするとか、散々デマみたいな記事で煽ってきましたが、今のところ予測は全て外れています。


 この新聞社の経済に関する認識がどうなっているのか、常々疑問に思っていたところでありますが、経済不要論で書いているのかと思えば、なるほど筋が通るなと初めて納得しました。

 しかしながら、当然、本当に経済不要論の新聞だとしたら、今後一切、経済記事は書いて欲しくありませんが。
 
 

 最早、このご時世で、新聞だけを見て、新聞に書かれている事だけを信じる人はほとんどいないと思いますが、新聞には自分自身の影響力を考えていただきたい。

 そして、経済とはそもそもの語源が「経世済民・・・世を経(おさ)め、民を済(すく)う」だという事を認識していただきたい物です。

 

 そして、私達国民は新聞の経済の考え方をよくチェックしましょう。消費増税の状況などを見れば、新聞の論調はいまだに政策形成に大いに影響を与えていますから。