阪神淡路大震災から24年目の今日 | 都の西北 / 山梨 / 甲府 / 愛宕山からチトフナ(世田谷)に!

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2004年12月に山梨県に移住,15年を過ごした後に
2020年3月に世田谷に引っ越しました!

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阪神淡路大震災から24年目の今日

今日(1/17)の日経新聞からです

 阪神大震災きょう24年 各地で追悼行事

その当日は大阪の自宅で睡眠中でした.地震があった日は月曜日,
よく記憶しているのが前日(1/16)のラグビー日本選手権,
今は亡き平尾誠二氏率いる神戸製鋼がラグビー日本一に輝き
気分よく次の日の仕事に向かう予定でした.
そんな月曜日の朝,突然大地震がやってきました.

地震が発生したのが早朝の5時46分,
大きな揺れで目が覚め,横に寝ていた息子を思わず抱え込み
揺れが収まり,少ししてからテレビをつけると
神戸の阪神高速道路の高架橋が倒れている映像が流れ
バスが落下寸前で止まっている映像にも驚かされました.
地震が神戸を直撃したことを知った瞬間でした.

当時は地震予知システムなんてなく,
携帯電話も当たり前ではなかったので,
情報収集をどうしたのか,その点の記憶は明らかではありません.

会社に電話して状況を確認しましたが,
なかなかつながらないものの,
昼過ぎにやっと当時の部長さんと話ができ

 『会社に来ることは危ないので自宅待機!』

職場では製造工程に有毒ガスを使うこともあり,
もしガスが漏れていたら大変とのことで,
一時は冷や汗が出ましたが,全ての設備でガス漏れなしでした.
設備自体が地震で大きく傾いていたにもかかわらず,
人身に関わる事故が全くの皆無だったことは奇跡だったかもしれません.
 → 地震発生時は現場で設備の立ち上げ作業中だったにもかかわらず,
   現場の対応も的確で,その非常時における処置のすばらしさは
   今でも称賛すべきことと思っています.

会社に出勤できたのは1週間後,自転車で片道2時間以上かけて出社,
しばらくは自動車通勤ができませんでした.

会社に行けない間,家内の実家が神戸で,家内の父親は高知県に単身赴任中,
臨月前の義理の妹と二人ということで,迎えに行くことになりましたが,
国道は駐車場状態,あえて日本海側まで迂回して
1日近く要してようやく神戸の北区にたどり着いた時には
団地一帯で都市ガスが漏れたようでガス臭く,
急いで大阪までお連れしました.義理の妹は岡山の旦那の実家に避難しました.

当時,自身の父親も存命でしたが,脳卒中で入院中,
これはおふくろが無事を伝えてくれたので任せるとして,
我々親類縁者では死者は無く,胸をなでおろしたことを記憶しています.

あれから24年,関西からは遠く離れた山梨におりますが,
その間にも東日本大震災,2014年には大雪に遭遇,
平成の記憶は確かに災害と向き合う30年間だったかもしれません.

ただ,阪神淡路大震災で家族を亡くされた知り合いは多く,
当時を思い出すと,複雑な記憶が蘇ります.

あれから24年も経ったなんて,正直信じられないというか,
時の経つ早さに圧倒されています.

 義理の妹の息子,甥っ子は震災1か月後に
 無事生まれて,昨年春に就職,24歳になったということです.