ハラスメント国家だった日本
今日(5/25)の日経新聞,暮らしのコラム『プロムナード』からです.
批評家の東浩紀氏が
『ハラスメントと社会の変化』と題し,執筆されています.
日本は長いあいだハラスメント国家だった.
その負債が完全に解消されるには,
まだまだ長い時間がかかるだろう.
コラムの筆者も述べられていますが,我々の世代は体罰当たり前,
小生も小学生の頃は毎日と言えるくらい先生に殴られていました.
特に小学校の5年~6年にかけて,転校した先の担任の先生3名が
暴力教師と言われていました.
→ 5年は運よく暴力教師のクラスではなかったのですが,
6年生は暴力教師に遭遇,かなりやられた記憶があります.
学校に出てこられない同級生も出てしまい,
転校させられるほどでした.
でも先生の責任は問われることはありませんでした.
今でいう,泣き寝入り状態でしょうか?
殴ることを仕事にしていた印象で,何かと言えば『びんた』でした.
顔が腫れ上がるくらい殴られたこともありました.
→ 痛かったなぁ~
これに対して文句を言う親なんていませんでした.
親にもいちいち言わないけれど,
親が学校の教育方針に口出すなんてありえない....
→ 今の社会であれば,ありえないレベルかもしれません.
昨今の問題は,ハラスメント(セクハラ,パワハラ含む)と言う言葉が
世に出て来た1990年代後半からの時代の変化に対して,
社会の考え方が変わったことについていけていない人たちが,
過去の常識を引っ張っていることだと思います.
悪しき過去を容認できるのは,40代後半が限界のように思います.
『昔はあたりまえのことだったのに』
個人の意識を変えていくことは現実的に難しく,
表面的には変わったふりはできますが,
自身が接する局面ごとには,正直な自分が出てしまうものです.
社会の変化はマクロ,個人の変化はミクロであり,
その変化にはギャップがあると理解しています.
ギャップを埋められないゾーンが存在するように思います.
特に,日大の問題では,60代の監督と20歳の選手では
そもそもの考え方も違うし,生きてきた時代の常識も異なります.
そこをどう考えるかでしょうか?
狛江市長のセクハラ辞任も類似していると思います.
働き方改革のベースも,その点から考えると,
なんとなく繋がるように感じています.
若い人達に併せて,我々中年世代の考え方を
柔軟に変えていく局面も必要だと言うことでしょうか?
これが変化に追従すると言うことだと思います.