今日(2/13)は新聞休刊日,と言う事で
2月になって再開した gacco(日本版 MOOC)からです.
現在受講中の 『死を想え』 は
まさに人間の気持ちの持ちようで 『死』 に対する考え方
捉え方,そしてその存在の意味が変わってくることを教えてくれます.
『死』は自然科学,社会科学,人文科学の3分野から研究されており
今回は宗教民族学として社会科学と人文科学の間的視点から
考察が進んでいます.理系の自分からすると『死』は自然科学でしか無く
理念的,概念的な面はあまり意識したことが無かった訳ですが,
講義を聴くと,まさに宗教学と民俗学の混成と言え,
ヒトの心によるところがその考え方に
非常に大きなウェートを占めることが理解できました.
死ぬとはどういう事か,
過去における定義は明確で
・ 心拍停止
・ 呼吸停止
・ 瞳孔拡大
上記3要素で定義,確認されていましたが,
脳死が考えられるようになるとその定義が明確でなくなって,
人の死は実は人の定義によって決まる事を再認識できました.
→ 人が死ぬと言うこと,その定義は簡単ではない!
歴史や宗教によって人間が仮に定義しているだけとも言える!
札幌医科大学の臓器移植による事実が切っ掛けでできた
1997年に成立した臓器移植法も,上記視点による
死に対する考え方の変化からの成り立ちと言えます.
2週目に差し掛かっているこの講義,
今週は 『祖先と子孫』 について議論していますが,
死には 『意味ある死者』 と 『一般的死者』 に大別されます.
我々一般人は 『意味ある死者』 への礼儀として
時間や場所を持っていること,それが親であり祖父母であり
顔も知らないご先祖に対してであり,
実はその子孫しか自分のご先祖を祀らないと,
→ 他人のご先祖は祀りませんよね?
そして,子孫を残すことは,先祖を祀ることに繋がるという
論理的な指摘には少々驚きを持ちました.
→ 言われるとなるほどですが,そこまで考えたことが無かった!
家系を絶やさない目的の一つが
先祖を無縁さんにしないことに繋がるという
一つの考え方です.死んだ後のことまで人は考えていた?
それは今のことでも必死な人達にはなかなかそこまで
考えが及ばないように思えた次第です.
あと2週,講義は続きますが,
これまで持っていなかった観点から
斬新な感覚で聴講したいと考えています.