青色LED, 特許抗争の終焉がノーベル賞受賞に? | 都の西北 / 山梨 / 甲府 / 愛宕山からチトフナ(世田谷)に!

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2004年12月に山梨県に移住,15年を過ごした後に
2020年3月に世田谷に引っ越しました!

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青色LED,特許抗争の終焉がノーベル賞受賞に?

今日(10/8)の日経新聞を読んで思い出しましたが,
今回ノーベル物理学賞を受賞した青色LEDは
当時(1990年代後半~2000年代前半)はドロドロの特許抗争まっただ中,
市場が大きいだけに,余りにも酷い戦いが続いていました.
中村さんの日亜化学と赤崎・天野陣営がタッグを組む豊田合成との間で
特許侵害の提訴が続き,最終的には和解(2002年)しました.

当時を思い起こすに,
学会では中村陣営と赤崎陣営は言葉を交わさなかったというか,
実に緊張感あふれる,学術的な場とはちょっとニアンスが異なる
雰囲気が漂っていたような気がしていました(小生は傍観していただけ).
各々の発表に対する質問も大変センシティブで
 『その質問にはお答えできません...』 的な発言が
自由討論の場である研究会や学会の発表の場が
企業間の権利争いの優位を主張する場に,どちらの陣営がパイオニアで
権利を取得すにどちらの陣営がふさわしいのか...
そのために発表の場があったとは言いませんが,
学術研究の場としては異様であったように思いました.

 この争いを傍目で見ていた我々他の会社は
 ここには入れない,特許抗争がひと段落してから
 ビジネス参入は考えよう...みたいな

 当時の日亜化学は特許のライセンス提供はしないとのスタンス
 強硬に権利の独占を主張していたと思います.
 これも業界がドロドロになった背景だったかと?

中村さんは技術者の権利としての発明権を主張し
務めていた日亜化学を飛び出し米国へ,米国先で青色LEDの研究を
続けようとしたら,自身が書いた会社の特許で古巣に提訴され
ここでも中村さん vs. 日亜化学での対立から裁判になりました.
200億円の支払い命令を勝ち取った中村さんは
金亡者のように批判されたのが2004年,小生はそう思いませんでしたが
8億円で和解したのが2005年でした.
そう考えると,このどろどろの当時に華やかなノーベル賞受賞は
ふさわしくなかったわけです.

種々考えるに,このようなドロドロの時期を終えて,
特許抗争がひと段落した今だからこそ
ノーベル賞を受賞するにふさわしい時期だったのかもしれません?

 輝かしい業績の裏側はこんなものかもしれませんね?