※歴史に興味のない方には苦痛です。
後醍醐天皇が、余りにも貴族寄りの政治だった上に、武士への恩賞の約束も反故にしたりしたため、武士たちの不満が爆発。
もともと後醍醐天皇は、平安貴族そのままに武士を毛嫌いしていた。
で、全国の武士たちに担がれる形で、やがて足利尊氏は後醍醐天皇から離れることになる。
同時に、天皇側に残った楠木正成や新田義貞たちとも袂を分かつことになる。
但し、これには弟の足利直義が深く関与していて、当初尊氏は 『天皇に叛旗を翻すことはできない』と言って、寺に引きこもってしまった。
が、直義たちの苦戦を見るに見かねて、ついに立ち上がったという。
既にこの頃には、人心が後醍醐天皇から離れ始めている。
『太平記』巻二十七『雲景未来記の事』による。
と、政権を握れば良い政治を行うであろうと思ったけれども、自分(後醍醐天皇)の身が裕福になると、こうであって欲しいと思った事項は一つも行わなかった、と書かれている。
歴史家の佐藤和彦言。
後醍醐天皇が不撓不屈の精神を持った行動的な人物であったことは確かだが、民衆生活を安定させる方策もなく、現実の歴史条件を無視して、専制支配確立のための諸政策を強行した。
だから、武士や民衆たちから見放されてしまったのだ、と。
事実、後醍醐天皇は『一所懸命』に自分たちの土地を守っていた武士から、あっさりとその権利を取り上げており、大内裏新築のために、農民たちに重税を課した。
正成さえも例外ではなく、河内・摂津・和泉・紀伊の4国を与え、将軍の位を許すという勅約があったにもかかわらず、もともとの領地である河内と摂津を与えられただけで、将軍にも任命されなかった。
建武2年(1335年)10月、鎌倉幕府復興を目指した武士たちによる中先代の乱を治めた尊氏は、そのまま東国に留まり、後醍醐天皇の召還を拒絶。
この行為に怒った後醍醐天皇は、尊氏討伐の命令を発する。
これは直義たち、周囲の武士たちの意向を受けてのことで、当初尊氏は寺に引きこもり謹慎状態だった。
が、直義らの苦戦を目の当たりにし、直義が落命すれば自分が生きていたところで無益だ、と言って出陣し、すぐさま新田義貞軍を打ち破った。
尊氏はそのまま全軍を率いて、京へと向かった。
が、新田・楠木、奥州から参戦した北畠顕家の連合軍に敗れ、翌年2月、九州へと落ち延びた。
正成はこの戦いの最中に、新田義貞と正成二人して戦死したという偽の情報を流布させ、僧侶たちを動員し、戦場で二人の遺体を探させた上に二人の首を晒すということまでした。
この出来事に油断した尊氏たちを奇襲し、大いに戦果を挙げている。
結果、尊氏を敗走させたということで、後醍醐天皇たちが勝利の美酒に酔いしれている時、正成は次のような献策を行った。
『この際、新田義貞と袂を分かって、尊氏と和睦すべきだと考えます。その使者には、私が参りましょう』と。
正成は、九州へ落ちた尊氏は直ぐに態勢を立て直し、数万の大軍と共に再び攻め上って来ることを、またそうなった時には、後醍醐天皇側が劣勢に立たされることを予測していたことになる。
で、実際にそうなった。
しかも尊氏は、光厳上皇の院宣を得た上で攻め上って来た。
後醍醐天皇たちは善後策を練る。
正成は一つの策を献じた。
尊氏側は新たな大軍であり、天皇側は何度も戦いを繰り返して疲れ切った少数兵のみ。
この状況でまともに戦っては勝ち目がない。
で、後醍醐天皇に一旦比叡山に遷っていただき、尊氏たちを京へ引き入れる。
で、新田・楠木軍で京を取り囲み、兵糧を断つ。
足利軍が弱ったところを一気に攻め込むという作戦。
ほとんどの公卿たちは正成の策に賛同。
が、坊門宰相清忠が異議をとなえる。
正成のいうところは一応の道理ではある。
が、征伐の命を受けて出た者たちが一度も敵と戦わぬのに、帝が京を捨てて他に遷られるというのはいかがなものか。
殊に本年は、正月に尊氏が東国から攻め上った時、行幸になられている。
ここでまた行幸になっては、一年に二度も京をはなれることになり、帝の権威に関わる。
尊氏が大軍を引き連れて来るといったところで、帝の威光にかなうものではない。
早く兵庫へ行って戦って来い、と。
『梅松論』による。
と、正成の死の覚悟はここで決したとある。
『太平記』による。
と、正成『この上はさのみ異議を申すに及ばず、さては討死仕(つかまつ)れとの勅定なれ』
普通の人間ならここで後醍醐天皇に見切りをつけて、その元を離れるであろう。
が、そこまでされても天皇側について、命令通り戦い、そして死んでいった。
だから『忠臣』といわれているのであろう。
が、違和感がある。
正成は現実的で、非常に賢く、人間的にも誠実である。
正成一人が死ぬのであれば構わないとしても、一族郎党を抱え、彼らを道連れに易々と死地へ赴くとは思えないのだ。
『太平記』による。
と、正成は一族七百騎だけを集め、湊川へ向かった。
全員が討ち死にするのだから、犠牲者を最小限にしようと考えたのであろう、といわれている。
『梅松論』による。
と、『今度は君の戦必破るべし(中略)然間正成存命無益也。最前に命を落とすべきよし申切たり』
つまり、今回の戦は必ず負ける。自分もいきていても仕方ないと言ったと書かれている。
同時に、人々の心は完全に後醍醐天皇から離れてしまった、と。
それにしても七百人は多過ぎよう…
例え足利軍が数万人であろうとも。
建武3年(1336年)5月25日。
正成は湊川に陣を敷き、陸からの軍を迎え撃ち、義貞は和田岬に陣を構え、水軍に備えた。
正成軍は七百騎余、義貞軍は一万余。
『梅松論』による。
と、正成は湊川の後方の山から里迄旗をなびかせ、楯を並べて控え、播磨街道の須磨口へも備えた。
義貞はその後方、和田岬に一万余を三段にして構えた。
この陣形からすると、軍勢の少ない正成が前線に立ったことになる。
午前10時頃。
足利軍の先鋒・細川定禅の船団が、義貞が待つ和田岬を通り過ぎ、一気に紺部(こんべ/神戸)に向かった。
義貞軍と正成軍とを引き離そうという、あからさまな作戦に義貞軍は見事に引っ掛かり、敵を追って東へ移動し、挙句に細川軍に打ち負かされて敗走した。
これを見た尊氏の全軍は兵庫へ上陸。
正成は完全に孤立した。
『太平記』による。
と、『前後に大敵の満ちた中に、独り立ちになった。もう逃れられぬ。今より、左兵衛殿の陣に斬って入る』と宣言。
七百余騎を前後に立てて尊氏の弟・直義の陣に突入。
この戦場において正成と弟・正季は、七度別れて七度会ったと『太平記』には書かれている。
決死の覚悟の正成軍に、直義軍も追いまくられて須磨後方に退却、見かねた尊氏軍が正成たちの後ろから攻撃。
前後に敵を受けて戦闘6時間、戦うこと16度という。
『梅松論』による。
と、この日の合戦は巳の刻に始まり、申の刻に正成らが自害したとある。
6時間にわたる血戦だったことは間違いなさそうである。
結果、正成たちは七十余騎となり、湊川の民家に入って自害した。
その死に臨んで正成が、弟の正季に向かって、
『人間は、最後の一念によって輪廻転生するということだが、そなたは何を願うか』
正季は笑って、
『七生(しちしょう)まで人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたいと存じます』
それを聞いた正成も笑うと、
『罪業深い考えではあるが、わしもそう思う』
と言って、二人は刺し違えて死んだ。
ちなみに正季最後の言葉が『七生報国』として後世に伝えられ、特攻隊員たちは、この4文字が染め抜かれた鉢巻を締めて零戦に乗り込んで行った。
…が、それ迄の正成の戦に向かう姿勢や考え方、その言動からは、本来の正成とは真逆の死に方だと言わざるを得ない。
この死に方はあり得ない。
…そう思っている。
つづく