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おやじのたわごと

タイトル通りの『たわごと』です。

※歴史に興味のない方には苦痛です。

 

 

 

 

源頼朝が開いた鎌倉幕府も、14代執権・北条高時の頃になると幕府に対する不満が鬱積していた。

一方天皇家では、後嵯峨天皇がわずか4歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して上皇となったのだが、後嵯峨上皇は直ぐに天皇に譲位を迫り、自分が可愛がっている第三皇子の恒仁親王(亀山天皇)を擁立した。

が、後深草天皇を取り巻く公卿たちは大いに憤慨し、次の皇太子は必ず自分たちの系統から出すべきだと幕府に訴え出た。

これらのことは、世を乱れさせる原因になると考えた幕府は、時の執権・北条時宗は、10年をめどに後深草の『持明院統』と、亀山の『大覚寺統』と両統の間での迭立を提案。

時宗は、この二つの系統をつくることによって、天皇家の分裂と政治的影響力を削ぐことを考えた。

 

ところが、大覚寺統・後宇多天皇皇子である尊治親王(後醍醐天皇)が登場。

第96代の後醍醐天皇は、幕府の方針に反発し譲位を拒んだ。

この機会に、人心の離れてしまった幕府を倒し、天皇親政の世の中をつくろうと決心したのだ。

後醍醐天皇は倒幕を試みるものの二度も計画が漏れ、進退窮まった天皇は三種の神器と共に京都南部の笠置山へと逃れて挙兵。

 

この時、歴史の舞台に忽然と姿を現わしたのが楠木正成であった。

正成登場以降、この時代の全ての流れが変わってゆくことになる。

 

 

 

 

楠木正成は、官名を左衛門尉(さえもんのじょう)、受領名を河内守、摂津守といった。

確かな資料では、元弘2年・正慶(しょうきょう)元年(1332年)6月付の『天龍寺文書』に伝わる「臨川寺領等目録」に『悪党楠木兵衛尉が和泉若松荘に押し入り、不法占拠した』とあり、この『楠木兵衛尉』は正成を指しているとされる。

このことから、正成は河内を拠点とした『悪党』と呼ばれる豪族であったと考えられている。

そもそも正成は忍びの家系だとも言われており、当時は変装した本人自ら近畿地方を歩き回って、北朝方の動向を探ったという話もつたえられている上に、忍術書として名高い『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』などには、正成が48人の忍者を抱えていたことや極意を一巻にまとめて嫡子・正行(まさつら)に授けたことなどが記されている。

また、忍術三大秘伝書の一つである『正忍記』は、楠木流忍術の奥義を記したもので、ここから分かれていったものに名取流、河陽流(かよう)、河内流、南木流(なぎ)などがある。

 

が、楠木正成の関しては、『太平記』や『梅松論』に負うところが大きい。

 

 

 

 

『太平記』とは、応安から永和(1368年~1375年)の頃に書かれた軍記物語(40巻)で、作者は小島法師説が最も有力。

北条高時失政・建武の中興を始め、南北朝時代五十余年間の騒乱の様を和漢混淆文によって描いているが、どちらかといえば南朝側の視点で書かれている。

 

『梅松論』とは、貞和5年(1349年)の頃に成立した史書(2巻)で、足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の戦記を主とし、北条執権の初めから尊氏の繁栄に及ぶ。

足利尊氏(北朝)側から描いたもので、著者未詳。

 

ここで重要なのは、北朝・南朝双方から正成が立派な武将だったと賞賛されていることである。

これは歴史上稀なことで、普通ならば自分たちが如何に立派で、敵はどれだけ酷い奴らだったかを主張する。

 

『日本書紀』の時代からそうなのだ。

 

 

 

 

戦闘は笠置山で始まった。

後醍醐天皇側は、護良親王を中心に幕府軍を防いでいた。

が、元弘元年(1331年)9月、笠置山は陥落し、後醍醐天皇は捕らえられてしまう。

一方そのころ正成は、河内国・下赤坂城にわずか兵五百で立て籠もっていた。

『太平記』による。

と、赤坂へ押し寄せた幕府軍は20万騎あるいは30万騎とあるが、実際は4,5万騎であろうといわれている。

で、小さく貧相な下赤坂城を目にした幕府軍は完全に舐め切っていた。

が、幕府軍が城に押し寄せるや否や、城内の櫓や狭間(さま)から無数の矢が飛来し、瞬く間に千人を超える屍の山が築かれた。

で、一幕府軍の背後の山陰から、正成の弟・正季(まさすえ)と和田正遠らが率いる別動隊三百余が、菊水の旗を掲げて突入。

その攻撃に狼狽える敵の大軍に対して、城兵二百余も討って出て一斉に矢を射かけた。

ゲリラ戦に翻弄された幕府軍は退却。

 

翌日も幕府軍は総攻めをかけた。

が、城の塀に取り付いた千人ほどが、塀もろとも落下。

そもそもこの城の塀は二重になっており、敵が取り付いた頃を見計らって吊っていた縄を切り落とす仕掛けが施されていた。

塀と共に落下した敵兵には、その上から大木や大石などが落とされ、瞬時に七百余が命を落としたといわれている。

慎重に楯をかざして城壁を登って来る敵兵に対しては、長い柄の柄杓で熱湯を浴びせたりして撃退。

意表を突いた攻撃に懲りた幕府軍は、遠巻きにして兵糧攻めに作戦を変更。

暫くすると下赤坂城内から火の手が上がり、覚悟の自害とみた幕府軍は一斉に城内へ突入。

そこには黒焦げになっている無数の死体があり、誰もが『敵ながら天晴れ』と、正成たちの健闘を称えながら関東へと引き上げて行った。

 

実のところ正成は、城内の兵糧が尽き始めると、城内に大きな穴を掘らせると、そこに戦死者の遺体を入れて火をつけさせた。

で、密かに金剛山中に逃れていたのだ。

 

この頃から、正成の名は敵にも知られるこようになっていったのである。

 

 

 

 

元弘2年(1332年)、吉野山に立て籠もっていた護良親王は、11月全国の武士たちに令旨を発して挙兵する。

すると、自害していたと思われていた正成が呼応し、再びその姿を現わした。

正成軍は一気に下赤坂城を奪い返し、和泉・摂津に出陣して幕府軍を破り、翌年1月には摂津・天王寺の戦いで、幕府の出先機関である六波羅探題を撃破。

その後、正成は南河内にある千早城に千人で立て籠もる。

この千早城は、下赤坂城と違って堅牢に造られた山城だったものの、周囲4kmにも満たない城だった。

正成が立て籠ったことを知った幕府軍は、二百万ともいわれる軍勢を送り込む。

が、この数字も極めて怪しい。

当時の人口や食料事情(兵糧)に兵站を考えれば、やはり四、五万が妥当だと思われる。

一気に押し寄せる幕府軍に対して正成たちは、またも矢を射かけ、大石を落として応戦。

そこでも瞬く間に死体の山が築かれた。

幕府軍は城の周囲を囲み、水源を断つ作戦に切り替えた。

が、千早城内には山伏たちが利用していた水源が確保されていて、兵糧も充分に備蓄されていた。

それどころか、正成は密かに場外とも連絡を取っていたのだ。

正成はこの戦いで藁人形を大量に造らせ、甲冑をまとわせ弓矢と楯を手に持たせて、夜のうちに城の外に並べさせた。

その後ろに兵を潜ませると、夜明けとともにどっと鬨の声を上げさせた。

慌てて攻め寄せる幕府軍。

正成軍は徐々に城内へと引き上げ、追って来た幕府軍が麓に殺到した頃合いを見て、大量の大石を投げ落とした。

そこでも千人近くの幕府兵が命を落としたという。

 

 

 

 

ここで重要なのは、千早城を囲んでいたのは幕府の正規軍であり、幕府というのは軍事政権であるということ。

軍事力が政権を支えているのであり、その中核である精鋭の政府軍が、地方の一ゲリラ部隊を、しかも圧倒的な兵力差がありながら、完全に殲滅するどころか、逆に劣勢に立たされていたことである。

これでは鎌倉幕府の権威は地に落ちたも同然であり、その噂が広がるよう仕向けたのが正成の作戦の妙である。

 

正成が幕府軍相手に奮闘している間に、播磨では赤松則村(円心)が、肥後では菊池武時が、丹波で足利高氏(尊氏)が、上野(こうずけ)で新田義貞が挙兵し、各地で倒幕の火の手が上がったのである。

 

そして元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏が京都の六波羅探題を攻め落とし、5月21日には新田義貞が鎌倉に突入。

翌22日、第14代執権・北条高時一族が自害し、源頼朝以来140年に渡って続いた鎌倉幕府は滅亡した。

 

 

 

  つづく

 

 

 

が、やはり書いておく。

 

 

 

 

今宵は、七夕ではない。

 

今年の七夕は8月4日である。

 

 

知ってか知らずか、今宵、短冊に願い事を書き連ね、笹の葉に括り付けて「ささのはさぁらさら~♪」などと唄う輩はアンポンタンである。

 

願い事など届くはずもなかろう。

織姫に彦星。

二人して寝とるが、まぁ~だ。

 

もう一度言う。

 

アンポンタンである。

 

 

 

 

織姫も彦星もお星様であろう。

その二人を祀る『星祭り』なのだ。

然らば星の法則に合わせるのは自明の理。
 

旧暦は暦自体が月や星の動きに合わせて変化。

 毎年。

旧暦7月7日も時期がズレる。


が、現行歴はただお日様の運行のみが基準。

であるから、毎年現行歴7月7日は天空での星や月の位置関係に変化。


が、旧暦7月7日。

天空での星や月の位置関係は不変。

 毎年。


それに合わせた暦になっているのだから当たり前にそうなる。

 

 

 

 

国立天文台による。

 

二十四節気の『処暑』を含むか、それ以前で処暑に最も近い新月の瞬間を含む日から数えて七日目… と、定義。

 

それが『七夕』。

 

言い換えれば、それ以外は七夕ではないのだ。

 


当日午後9時頃。

真上を見上げればそこに織姫。
ほぼ中天に煌めく。

北北東から南南西へ夜空を縦断する天の川。

織姫から南東に彦星。
天の川を挟んだ位置に。

月は上弦。
そう決まっている。

天の川の西にて船の如くに浮かぶ。

 

 

これが当たり前の『七夕』の夜空である。

 

 



 

言い換えれば…

 

 

この天体配置でなければ、『七夕』ではない。

 

 

 

 

※歴史に興味のない方のは苦痛です。

 

 

 

 

「能」は、14世紀後半に登場する世阿弥が大成した。

世阿弥とその父親・観阿弥以前に、現在のような能は存在しない。

それまでは「散楽(さんがく)」「猿楽(さるがく)」あるいは「さるごう」など、俳優(わざおぎ)たちが面白おかしく踊る、単なる雑芸だった。

それを世阿弥という一人の天才の出現によって、「能」という芸術にまで高めたのだ。

 

その芸術性はもちろん、世界で最も寿命の長い演劇作品を書いたという点で、世阿弥は世界最高の劇作家と言っても過言ではなかろう。

かのシェークスピアが『ロミオとジュリエット』を書いたのは、それより約200年後の16世紀後半であり、『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』など、いわゆる『四大悲劇』は、もっと時代を下る。

 

当時の誰からも「花よ」と称えられた世阿弥である。

が、その家系を辿るとかなり胡散臭い。

昭和37年(1962年)、伊賀市の旧家で観阿弥の出自に関する文書が発見された。

それには「観世系図」が記された、いわゆる『上嶋家(うえしまけ)文書』である。

この系図によれば、上嶋元成(もとしげ)の三男である観阿弥の母は、南朝の忠臣・楠木正成の姉(あるいは妹)だとされている。

さらに上嶋家は、服部家の氏族であるという。

伊賀の服部家といえば、詳しい説明は要らないであろう。

つまり、上嶋家、楠木正成、観阿弥・世阿弥は「忍び」の家系であったことになる。

 

これに対する反論は多い。

が、彼らが忍びであったとしても何ら不思議ではない。

彼らは一芸を磨き、その芸を持って諸国を回り、その土地の豪族や有力者に近づき情報を得えたりしていたはずだからである。

 

 

 

 

能という芸能には、「怨霊慰撫」という側面があり、世阿弥と繋がる楠木正成にも、そんな怨霊譚がある。

湊川の闘いで、正成の首級を上げた大森彦七が、その数年後に何度も正成の怨霊に悩まされたという。

今でこそ知る人は少ない。

が、少なくとも明治の頃までは有名な話で、『画図百鬼夜行』の鳥山石燕が彦七が正成の怨霊に襲われているところを描いた絵馬『大森彦七図』が、東京の雑司ヶ谷の鬼子母神堂に飾られている。

他に歌舞伎や浄瑠璃の演目にも上がり、俳諧や川柳に詠まれるほど、人口に膾炙した話だったのだ。

 

が、戦で負けたら首を取られるというのは武士の常識。

正成にしろ彦七にしろ、当然覚悟の上で戦場に出陣して行ったはずである。

しかも湊川の戦では、もともと正成は死ぬつもりで戦場へ赴いたと言われている。

ならば尚更、首をとられることは承知の上での出陣だったはずなのだ。

それが、首を取った大森彦七に祟るというのは解せない。

正成が怨霊になったとしても祟る相手は彦七ではなく、正成の作戦を取り入れず無策なままに湊川の戦場へ赴くよう命令を下した、後醍醐天皇やその側近・坊門宰相清忠たちこそ相応しい。

 

 

 

 

何故に正成は、彦七に祟らねばならなかったのか?

 

この疑問が出発点となり、疑問は疑問を呼びさまし、一つの仮説が芽生えていった。

 

 

 

  つづく