日蓮(1222~1282)は鎌倉幕府中期の名僧で
日蓮宗(法華宗)を開いた人物です。
伊東市川奈の蓮慶寺の日蓮
貧しい漁民の子と伝えられているようですが、そうでは
なかったみたいです。
12歳(1233年)の時に格式高い清澄寺(せいちょうじ)
に入り修行し、16歳で出家します。
32歳(1253年)の時に清澄寺に戻り、「南無妙法蓮華経」
の題目を唱えて日蓮宗を開宗しました。
1256年暴風雨により大勢の人が死にました。
翌1257年大地震で鎌倉は大損害を受けました。
人々は自然の害に悩み、苦しみ、世の中が不安な状態に
なったのです。
(過去もいろいろあったのだ)
日蓮は「立正安国論」を書いて鎌倉幕府と執権北条時頼に
天災地変が起こるのは法華経を信じないからだと説教を
しました。
その為、日蓮が住んでいた鎌倉松葉ヶ谷の草庵が焼き打ち
されます。
そして、その後伊豆伊東に流されます。
1261年5月12日のことです。
伊東のまないた岩におろしたと伝説が残されています。
これはどうなんでしょう~。
そこへ伊東の川奈の漁師 上原弥三郎が通りかかって
助けられ、弥三郎夫婦により30日余り養われたと言われて
います。
日蓮と船守弥三郎というお話は こちら
その後、伊東の地頭 伊東八郎左衛門尉朝高が招いたのか
日蓮は伊東に移り住むようになりました。
朝高は熱病に罹ります。
日蓮は熱心に祈り、病気を治します。
流罪中の日蓮を朝高の邸に住ませることはできなかったので、
邸の鬼門除けとして建てられた毘沙門堂を日蓮に使ってくれる
ように頼みます。
この堂跡に寺が建てられ、惣堂、惣堂山と呼ばれました。
今の仏現寺です。
海光山 仏現寺の海光山というのは、海が光り、仏が現れたという
意味だそうです。
ここを通る人が小石を投げ蓄積されてできた塚と言われています。
1263年2月22日鎌倉幕府の赦免状(しゃめんじょう)が出て、
42歳の時に日蓮は鎌倉に帰ったそうです。
伊東にいた期間は3年ぐらいでしょうか。
伊東の仏現寺の近くの大行、妙法、妙昭、法船、仏光の五ヶ寺が
輪番で惣堂(仏現寺)を守っています。
江戸時代までは八ヶ寺だったそうです。
伊東と日蓮上人との関わりが少し判って来ました。