悲劇の英雄 為朝 (源為朝のお話) | 伊豆高原 遊リゾートのちーさん

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源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、

平安時代末期の武将源為義八男。

母は摂津国江口の女。

弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称す。

保元の乱では父為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するが敗れ、

伊豆大島へ流される。

しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配

したので、追討を受け自害した。

切腹による自殺の、史上最初の例といわれる。

一方、琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、

『椿説弓張月』などでは、このとき追討を逃れて現在の沖縄県に渡り、

その子が琉球王家の始祖舜天になったといわれる、

伝説的な人物でもある。



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ウィキペディアより


悲劇の英雄 為朝

                       山本 悟


弓の名人鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)は、

悲劇の英雄であったため、宇佐美をはじめ、各地で

たくさんの伝承が残されています。


為朝は源氏の大将源為義の八男坊。

幼い頃から腕白で、兄さんたちのいうことはまるで聞かず、

反対にやりこめてしまいました。


五歳の時から弓を習い、めきめき上達しました。

十三歳の春を迎えると、身の丈七尺の大男。

弓を引くのに大切な左手のひじが、右手のひじより四寸も

長くなっていました。


兄さんたちに強弓を向けては震えあがらせる為朝。

見かねた父為義は、京の都から何百里も離れた西の果て、

九州へ流す決心をしました。


九州へ渡った為朝は、自ら鎮西八郎(ちんぜいはちろう)と

唱え、弓の力によって、わずか三年で、全九州を支配する

ようになりました。


久寿二(1155)年。

十七歳になった時、京の都に呼び戻された為朝は、

保元の乱に巻き込まれてしまいます。


自軍の負け戦で捕えられた為朝は、牢につながれます。

ところが天下一の強弓を引く勇士を、殺すのは惜しいと、

伊豆の大島へ流されることになりました。


再び弓を引くことができないようにと、肩とひじの関節を

はずされてしまった為朝。


その頃大島は伊豆の国守 加野介茂光(かののすけ

もちみつ)の領地でした。

代官として島内をおさめていたのは三郎大夫忠重(さぶろう

たいふただしげ)でした。


忠重の手に引き渡された為朝は、日がたつにつれ、肩やひじ

の痛みも取れ、弓を引く力も昔とほとんど変わらなく

なりました。


やがて代官の娘と結婚。代官が隠居すると、為朝は島民に

自分のことを、大島の王様と呼ばせるようになりました。


為朝の心おごったふるまいは、京の都にも知れることに

なりました。

そこで為朝追討の命が下りました。


伊東市宇佐美に伝わるお話に続きます・・・・


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