伊東の歴史の本などを読んでいますが、これを書かれた方達、
私たちの大先輩は素晴らしい文章を書かれていると思います。
偉そうなことは言えませんが、ただ・・・いつも”すごいな”と
思ってしまいます。
伊東の江戸城石切り丁場で思うこと
鈴木 茂氏
絵はがき伊東いまむかしより
伊東は宇佐美、小室、対島に及ぶ広い地域であるため、
江戸城石切場の数も他地域に比べると、突出していて
四十余箇所。
またそれに伴い採石大名も賑やかで二十数藩に及んでいる。
従って消失してしまった石丁場の多さもいなめない事実である。
中でも加賀百万石で知られる前田家の採石丁場は、幕府が
定めたノルマが石高に準じていたため、膨大な量だったので、
これをこなす丁場の数は群を抜くもので伊東の四割方を占め、
消失丁場の殆ども前田家で占めている。
日本が高度成長期を迎え、日本列島改造に火をつけたのが
田中角栄内閣で、そのすさまじい嵐の勢いは、将に止まる
ところを知らず、伊東の周辺も、一ヶ月もすると、
別世界に変貌し、さながら今浦島の心情であったのも
多くの市民の共感点だったろう。
巨大な重機の鉄の爪跡は、各所に生々しく狂乱の証拠を
今に残し、草木の生えるに任せた自然にかえっているのだが、
なぜかホッとさせられるこの頃だ。
今、バブルがはじけ、久しい景気低迷の中にあって、
しみじみ考えるのは四百余年の昔、
石工数万の人工と石船数百の出入りに明け暮れした、いわば
「伊東の夜明け」を告げる大プロジェクトが展開し、殷賑を極めた
当時を想像すると、そこには地元民の変わらぬ普段の
暮らしぶりが、厳然とあったのに間違いあるまい。
大名達には自身の命運をかけた徳川への忠誠の励みという
大課題であったろうが、あったろうが、配下の家臣たちには領主
への忠勤であり、石工たちにとっては単なる出稼ぎ労働者の
感覚であったのかもしれない。
だが、江戸城は世界に類例のない大城郭となって、穀然と
雄姿を今日に留めている。
さてさて、将軍の権力の象徴としての大工事の洗礼をまともに
くらった地元民にとって、単なる迷惑として捉えていたのだろうか。
?今、深刻に考えさせられる現代の心境である。
(絵はがき伊東いまむかしは平成十六年三月三十一日発行
されました。)
七年経ちましたが、未だに・・・いえ、それ以上に景気は低迷し、
相変わらず小さな町は都会に、大きな国に振り回されている
と思ってしまいます。
伊東市旧市役所跡地近くに見つけました。
石を割るために使われたのが、鉄製のクサビで箭(矢)と呼ばれている。
ー今日のお気に入りー
伊東市 湯の花通りの「にし村」さん。
うずら豆の入ったお赤飯が大好きなので今日も買いました。