前回のブログでは、今まで書いたことのない私の母について詳しく書きました。今日は前回の続きを書いていきます。
母はとてもキレやすく、私が何も悪いことをしていないのにいつも怒っていました。
掃除を一切しない母が大嫌いでした。家の中が汚いから私が片づけをします。すると「勝手に物を動かしやがって!何がどこにあるか分からないじゃない!」と怒鳴られます。
母の中では掃除をして家の中が綺麗になるのはどうでもよく、自分が普段使っている物がどこにあるか分からなくなることが腹立たしかったようです。
いいことをしたはずなのになんで怒られなくちゃいけないんだろう……。幼いころの私はいつもそう思っていました。
私の父は私にとても甘い人で、何か買ってほしいと言えば何でも買ってくれました。何かを習いたいと言えば習わせてくれました。
小学生のときにそろばんを習っていましたが、私が行きたくないと言えばやめさせてくれました。
塾も行きたいと言い出したのは私ですが、通うのが面倒になって行くのをやめても怒られるようなことはありませんでした。
嫌になったら投げ出してもいい
面倒になったら諦めてもいい
お願いすれば何でも聞いてくれる
私はこのような甘い考えで生きてきてしまいました。その結果、
10代後半から違法薬物と向精神薬に逃げるようになり、35歳で逮捕され刑務所へ行くことになりました。
父の甘さはその後の私に決していい影響を与えなかったということです。
なぜ父は私に甘かったのか?
一人娘で特別に可愛かったのはあるでしょうが、母からいつも理不尽に怒られている私を不憫だと思っていたからだろうと今の私は考察しています。
父は私が24歳のときに肺水腫であっけなく亡くなります。61歳でした。
ブログの自己紹介に私がどんな人生を歩んできたかは詳しく書いてあるので、ここでは簡単に書いていきます。
私は18歳から主に水商売とお金持ちやヤクザの愛人生活、風俗で働き生計をたてていました。刺青は全身に入り、整形もしています。これは立派な自傷行為だったと認識しています。
刺青を入れるのは当然痛いのですが、「この痛みに耐えた私ってすごい!生きてる感じがする!」と思いました。整形のダウンタイムでも同じような感覚を味わっていました。
日ごろから向精神薬をODし、向精神薬の量が増えれば増えるほど過食も酷くなっていました。
35歳のときに窃盗で逮捕され、刑務所に服役することになります。
留置場で考えたんです。
なんで私はここにいるの?超クソな人生じゃない?
なんで警察のお世話になるような人間になったんだろう?
………………クソババァのせいだ。
クソ母親が私をまともに育てなかったから、私はギャンブル依存症になった。
覚せい剤や違法薬物、向精神薬に逃げるような弱い人間になったのは、両親がろくな教育をしてこなかったからだ。
こう考えるともう止まりません。留置場を出て家に帰ってから、母に思いっきり暴力を振るいます。
味わえ、味わえ、私が昔アンタにされてきた事をそのまま返してやるよ!
頬を引っ叩き、腕を持って家中を引きずり回し、家から出て行けと暴言を吐きました。
思い知れ、あの時の私がどれだけ痛い思いをしたか、苦しかったか思い知れ!
私が小さいころの母はとても大きく見えましたが、私が暴力を振るったときはとても小さく見えました。
でもどれだけ暴力を振るっても、私の心は晴れません。
刑務所へ行って向精神薬を断薬すると、頭がどんどんクリアになってきます。
母への恨みは消えないけれど、母がいなければ私はここに居なかった。存在しなかった。夫と出会うこともなかった。
だから産んでくれたことには心からの感謝を伝えたい。
父と母の間違った教育で私はおかしな方向へ進んだのは間違いない。
だけどそれに気付いても、両親のせいにして変わろうとしなかったのは結局自分。
だから今私が刑務所に居るのは、父のせいでも母のせいでもない、自分自身が招いた結果なんだ。
これも何度も書いていますが、私は立川拘置所と栃木刑務所で、親の責任と自分の責任を分ける作業を続けてきました。
「出所したら母にこのことをちゃんと言おう。今の私なら冷静に話ができるはずだから。」
出所してからしばらくは私と夫の間で依存症の理解度の差で問題が起きたり、色々なことがありました。
そして出所から半年後、役所から「お母様はガンで余命宣告されています。最後に会いませんか?」という手紙が来ます。
母は役所のお世話になって老人ホームに入所していたのです。
いざ会うとなると緊張と不安、そして今更母とどんな顔をして会えばいいのか…そんなことを考えながら、伝えたいことを紙に書いたり準備をしていた矢先です。
合うと決めていたのは木曜日でしたが、日曜日に役所から電話が掛かってきます。
スマホの画面の「区役所 ○○さん」という表示を見たときに、察しました。
母が亡くなったという知らせでした。
母との対面は2年ぶりでした。
棺に入っている母を見たら、とてもとても小さくなっていました。眠っているようでした。
本当に自分勝手だね、私の話を聞く前に死ぬなんて。
ホームに母の荷物を取りに行きます。職員の方から聞くところによると、少し認知症も始まっていたようです。
役所の担当の方が「娘さんに合いたいんじゃないですか?」と聞くと、「うぅん……まあねぇ…」くらいの返事だったそうですが、顔は笑っていたそうです。
荷物を整理していたら、私が赤ちゃんの時と幼稚園の時の写真が出てきました。
それを見て涙が止まりませんでした。
今の私だから思えることですが、きっと母も母なりに苦しんだのだと思います。
子育ての仕方が分からなかったんだと思います。
父が私を甘やかすから、自分が厳しくしないとと思っていたかもしれません。
母も虐待を受けて育ってきたから、私に同じことをしてしまったのでしょう。
このブログを読んでくださる毒親育ちの皆さん、いつか毒親を許せる日が来るかもしれません。
依存症者のご家族の皆さん、依存症者に良かれと思ってやっていることが、結果として依存症者を苦しめることがあるということを、頭の片隅に置いてもらえると嬉しいです。
もう一度書きますが、幼少期にろくな教育をしてこなかった母、掃除をせず食事も作らなかった母を恨んでいます。この思いはきっと消えることはないでしょう。
ですがもし今母に会えたとしたら、抱きしめて「産んでくれて本当にありがとう」と伝えたいです。