僕は三島の生きた時代を見ていない。
不勉強ながら「三島由紀夫vs東大全共闘」がベストセラーの本になっていたのも、映画「三島由紀夫vs東大全共闘」を見終えて知った。
三島文学の素晴らしさは認めるが、哲学のような語り口で僕は二度ほど「金閣寺」を読了したが未だに三島文学は難解に感じる。
また、三島の生きた時代を知らないから市ヶ谷の防衛庁での自決した三島事件しか三島のイメージはない。
映画「三島由紀夫vs東大全共闘」を見て、僕の三島へのイメージは変わった。
市ヶ谷での自衛隊への決起を促す声は野次等で上手く聞き取れないが、あの姿以外で初めてみる三島の姿は実に聡明であり、またユニークであり。そして、「敵」である全共闘の学生らを挑発したり、見下したりするわけでもなく、相手へのリスペクトを感じるものだった。
「三島=右翼=武闘派」と僕の中で勝手にカテゴライズされたイメージとは似ても似つかない姿がそこにはあった。
今、三島がこの時代を見て、あの若き三島がこの時代を生きたら、時代はどう動いたか気になる。
三島と対峙した全共闘の学生へのイメージもまた変わった。
学生運動というと安田講堂事件のようなイメージがあるが、彼らもイデオロギーの違いはあれど、討論相手である三島に対するリスペクトがあった。
互いに、細かい部分は違えど目指していたゴールは同じだったのではないかとさえ思える。
今の日本の政治やSNSに溢れてる政治的対立が、あの討論の場とあの時代と比べる、いかに陳腐かと感じる。
彼らの政治的情熱と比べると、今の対立はイデオロギーを背景とした思想・信条の対立ではなく、人間が持つ非常に醜い性である好きか、嫌いかという非常に陳腐な政治対立が続き、勇気がなくリスクもおかしたくないので暴力手段は取らないが、それ以外は手段を選ばず相手を誹謗中傷で叩きのめす醜い部分が露呈した対立が当たり前になっている。
自称右翼、自称左翼、ネトウヨ、立憲カルトには彼らの爪の垢でも煎じて呑んでもらいたい。
また、今を生きる日本人にぜひ見てもらいたい映画だ。
三島が自決したのは1970年11月25日。享年45歳。
僕が生まれたのは1976年4月23日。今年44歳。
今年は三島が自決し50年。
三島は死の4カ月前に記した「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と記した。
ただ、根っこの想いとしては三島も僕も同じところがある。
三島の予見した将来の日本と、今の日本は、何がどう同じで、どう違うのだろうか。
三島が求めた憲法改正と、安倍総理の憲法改正は本質は全く異なる異質の憲法改正でしかない。