1995年、日本を驚愕させた地下鉄サリン事件から25年。
あの事件を犯したオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚を含む七名の死刑囚の刑が執行され、事件の真相は明かされないまま幕を閉じた。
オウムの兇行を語る際に、何故高学歴の若者である彼らがあのような犯行に及んだのか?と議論になる。
社会学的な観点に立てば、彼らの行為は説明がつく。
宗教上も、組織上も、信徒にとって教祖や一部の最高幹部の存在は絶対であった。そのヒエラルキーに絶対に逆らえない構図が彼らを突き動かした。
彼らが裁判を通して反省をしてないのではないか等の意見もあるが、「服従の真理」のもと、彼らは上から出された命令を淡々とこなし罪悪感よりも彼らの信じる教義の中のポアを救済として実行した。また、マインドコントロール下にあった者もいる。
直接、人を殺めた信徒はまだ罪悪感を感じるのかもしれないが、サリンをはじめとする科学兵器を製造した科学者である信徒は罪悪感はほとんどなかったのかもしれない。
ナチスのアドルフ・アイヒマンの兇行を実験したミルグラムの「服従の真理」は人は誰でも条件が揃えば残酷になり得ると証明した。
まさに、彼らはその「服従の真理」下で行動せざるを得ない状況だった。
教祖である麻原や幹部の村井、早川等は責任があり罪を償う必要がある立場だが、絶対的に逆らえない「服従の心理」下のサリン製造責任者やサリンを地下鉄に散布した実行犯には死で償うというやり方は正しかったのかと思う部分はある。
サリン製造者の土屋正美はその使用目的は知らなかったし、実行犯の多数は幹部の村井秀夫に直前で呼びだされ有無を言えない状況下で実行せざるを得ない状態だった。
オウム真理教が誕生してから彼らの奇抜さもあり、彼らは住民やマスコミからバッシングを受け疎外感を感じるとともに麻原はじめ幹部の特異性もあり疎外感が恨みに変わりエスカレートしていき、彼らが恨んだ社会をターゲットとした攻撃を行った。
二度とあのような事は起こしてはいけないが、カタチと規模を変え、いつでも起こりえるものとして考えて、我々は社会で生活していかねばならない。
井上嘉浩元死刑囚は「当時と同じような事件が引き起こされるのは時間の問題だと大変危惧しています。」と手紙に綴ったそうだが、後継団体に限らず社会にはその危険性が潜んでいる。
あの地下鉄サリン事件をエキセントリックな集団が犯した犯罪だとみるのか、社会に内在した問題とみるのかで、第二、第三のオウムが誕生するのか、防げるのか変わるのだと感じる。