第48回総選挙から一年が経った。森友学園問題等の不祥事が相次ぐ安倍政権に対する不信感と閉塞感が漂う中、小池百合子・東京都知事が希望の党を結党を宣言し、一時は政権を脅かす位の存在感を示しした。しかし、選挙期間中に勢いは萎み、その後、希望の党は儚くも散り、跡形もなく消え去った。

 

なぜ、希望の党は失敗したのか?

 

安倍自民党の1強状態は依然として続いているが、安倍自民党が強いというよりも他の野党が弱すぎるというのが多くの人の共通した認識ではないか。

 

野党の政党支持率は革新系も保守系も軒並み下落傾向が続く。昨年の衆院選前から同じトレンドだったが、都民ファーストの会の誕生や希望の党の結党によって一時期はそのトレンドに変化した。

 

過去のデータでも明らかになっているが、政党支持率が一度下落トレンドに陥ったら、それは回復する事はない。回復する方法は解党や合併による新党結成しかない。

 

ただ、それで失敗したのが希望の党である。一方、成功例もあるがそれは2003年の民主党と自由党による民由合併だ。

 

2002年、小泉内閣は今のように1強の状態だった。その小泉自民党に対抗し、政権交代を実現する為に当時の鳩山由紀夫・民主党代表は小沢一郎・自由党党首に合併の申し込みを行った。ただ、その際は党内の反対にあい合併構想はとん挫してしまう。

 

合併構想が浮上する前は2002年11月時点で民主党2.9%、自由党1.7%まで両党の支持率は低迷していた。そして、紆余曲折はあるものの交渉が始まると支持率は上昇していくものの(最大値民主党6.5%、自由党1.9%)、交渉が決裂した2003年5月の翌月の調査では民主党5.3% 、自由党1%と再び下落トレンドに入った。

 

しかし、7月23日深夜、民主・自由両党は合併の合意書に署名し、9月26日に民由合併による新しい民主党がスタートした。直後の10月の支持率は9.9%だったが、総選挙の行われた翌11月からは19.9%と大きく伸び、衆議院議席も改正前の137から177へと伸ばした。その後2009年に政権交代を果たした。

 

なぜ、民由合併は成功したのか?

 

民主党・自由党の合併により衆参合わせて200人超の一大勢力になった。また、民主党を存続政党とし、名前も政策も執行部も継続し、自由党は解散するという判断をした。要するに自由党が自らの色を消し、小沢党首を始め一兵卒に徹した事がその後の成功につながった。また、合併前の民主党はリベラル色が強かったが、保守政党である自由党が加わった事により二大保守政党による政権交代が現実味を帯びた事も大きかった。

 

「自由党のままでいるのが政策的にはいちばん純粋だし、わかりやすい。仲間にとっても自由党でいるほうがハッピーだった。しかし、自由党が多数をとって政策を実現するには時間がかかる。ところが、日本に残された時間はそう長くない。僕もそんなに若くもない」と小沢一郎・衆議院議員は後に語っている。

 

ここが、希望の党は大きく違う。

 

小池百合子・希望の党代表に対し、合併を申し込んだ民進党は確かに名前も捨て、政策も執行部も希望の党に従ったが、殆ど国会議員のいない希望の党と議員の数では勝る旧民進党で同床異夢の状態に陥り、結果として旧民進党が選挙後の実権を握り自滅していった。

 

今のような状態をなんとか打開したいと願う人々も多い。旧民進党の支持層は民進党の再結集を望む人もいるだろうが、一度失敗した民進党を再結集したところでインパクトはないし、それで支持率が高まるというのは早合点だ。

 

橋下徹・前大阪市長は政治に緊張感を持たせる為に強い野党の存在が不可欠だと説いている。そして、著書「政権奪取論 強い野党の作り方」では来夏の参議院選では予備選を実施した上で野党側の候補者一本化を促している。それに呼応したように、立憲民主党の枝野代表も参院一人区における予備選実施を言及し、触発された国民民主党の玉木代表も同じように述べた。これを第一段として、実現できるのか、できないのか。それが、今後の政治の分岐点になる。

 

安保法制撤回等、左派色の強い政策や公約一本鎗では参院選の勝利は厳しい。多くの国民が望むのは左派政権の樹立ではなく、政権交代可能な現実的な政党の存在であり自民党に対峙できる政党だろう。

 

成功例として挙げた民由合併も左派色が出てくると失敗の方向へ進んだ。残念ながら、我が国は左派色が強くなる政権は長続きしないし、誰も求めない。ある種の幅はあってもいいが、保守も受け入れた多様性のある政治をやらなければ政権交代は起こらない。