東京電力福島第一原子力発電所で起こった事故を忘れたのごとく各地で原発再稼働や再稼働の認可を認めるような動きがある。電力会社の主張は安全を担保というよりも、経済的な理由が大きいのだろうが、果たして地震大国と言われる日本で本当に原子力発電を稼働する事が理にかなっているのか。また、別次元の問題で発生する使用済み核燃料の貯蔵や最終処分の問題に答えが見いだせないままに、経済最優先だけで急がれるこの決断は正しいのだろうか。

 

私の考えは、ある程度の国民負担を承知の上で原子力発電に頼らないエネルギー政策を我々は取るべきだと思うし、日本の今の技術でそれなりに賄う事は出来るだろう。

 

だから、脱原発を掲げる人々の考えには理解が出来ます。そして、現職の議員時代は脱原発の集会には出席をしてましたが、ある時を境に私は欠席しました。

 

私は脱原発という政策にイデオロギーや立場は関係ないと思います。そういう事を乗り越えて、右だろうと左だろうと力を合わせて実現しないといけない事だと思いますし、一種のイデオロギー運動にしたからそれは必ず実現できなくなると考えます。

 

そんな中、ある集会に参加していたら脱原発の為の集まりだったはずなのに、ある方がオスプレイ反対の意見を延々と述べられておりました。主催者はそれを誰も止める様子もなく、むしろ「そうだ!」と言わんばかりの対応。また、別の反原発の集会に参加すると「これでもか!」というように自分たちの所属する団体名の入ったのぼり旗をなびかせ自己PRに余念がなく、何を目的とした集まりなのかが分からなくなっている。

 

私が嫌いなのは「脱原発=オスプレイ反対=安保法案反対=共謀罪反対=沖縄の過度な米軍基地負担反対=憲法改正反対」というイデオロギーを背景とする動きです。どちらかというと、それぞれの課題は別なのに全てに反対しないといけないような全体主義的ない感じもありますし、それぞれの集会でも参加している方々はほぼ同じのように見受けられる。

 

それは、逆のイデオロギーも同じ。「原発再稼働賛成=安保法案賛成=沖縄の過度な米軍基地負担容認=移民反対=憲法改正賛成」という。

 

私、個人の考えはそれぞれの政策に関して賛成、反対の凸凹があっても良いのではないかと思うが、いわゆるイデオロギーを背景とする運動体になるとそれぞれの立場でイコールではないといけなくなるのが、この国の政治運動ではなかろうか。だからこそ、問題意識を持っている一般市民も参加するに参加できずにいるのではなかろうか。

 

イデオロギーはある程度乗り越えないといけないが、イデオロギーを全面にだして、そのイデオロギーを半ば強要するような集まりには私は出たくはないので、結果として脱原発を実現したいと思うが、そういった集まりには参加できなくなってます。

 

ある程度の方が脱原発に理解を示しているが、それが国を動かすことにならないのは、運動体の存在がむしろ邪魔になっているとしか私には思えません。