我が故郷、福岡県大牟田市♡

“豚骨ラーメン発祥の地”久留米ほどとまでは言わないが、地元の強いラーメン愛とそれに基づくラーメン文化が深く深く根付く町、と私は思っている。帰郷の際には必ずラーメンを食べ、「あぁ、帰って来た〜」との思いを強くする。

 そうしてる内、「せめて大牟田で供されているラーメンくらい全部、食べたいよなぁ」と思うようになった。

 ただ一言、「大牟田ラーメン」と言っても内実は様々。いわゆる「ラーメン専門店」で出しているものから、中華料理店でメニューの一つとしてラーメンを出しているところ。はたまた大衆食堂で、「ラーメンもありますよ」というところもある。

 難しいのは後者2つだ。中華料理店で中華麺を出していても、例えば担々麺はあるが「ラーメン」と名付けているメニューはない、なぁんてお店もある。また食堂で、チャンポンは出しているけど同じく、ラーメンはありません、なんてところもある。

 お店に入ってみたらラーメンがなかったから、「それじゃ、さよなら」というわけにもなかなかいかない。入ったからには何か食べずには帰れない。こういう表現はナンだと思うけども心理的には1回分、訪問が無駄になってしまったような気分になるわけだ。

 そこで事前調査は徹底した。まずは電話帳などでラーメンを出していそうな店をピックアップし、更にネットでメニューを検索して、「こことここはラーメンを確実に出している」という店をリストアップした。

 それが以下の表である。

 

 

 もしかして漏れてしまってる店があったらゴメンなさい(汗)

 店名の後ろについているマークは、「●」が既に食べて写真も撮った、という意味。「○」は単に未訪問。「△」は、食べたんだけど写真は撮ってない、という意味である。スマホを使うようになり、食べたラーメンの写真を撮るようになったのは比較的、最近の習慣だから以前に行ったお店には、「未撮影」というところも結構あるわけだ。

 ちなみに「ー」は全国チェーン店で、「別にわざわざ大牟田で食べなくてもいいよね」という意味です。

 もうかなり食べ進んだ段階での表だから、ご覧の通り残る「○」は3つだけ。最終的にはこの全てを「●」にするのが目標だが、まずは未訪問をなくしてしまい、その段階で「大牟田ラーメン制覇」を宣言しようと思った。

 

 それが成ったため今回のレポート、というわけです。

 実はこの表の中にも、既に閉店してしまった、というお店も散在する。それらも含めてレポートの中では言及して行きたいと思います。

 

 さぁ、てなわけで手始めは、「大牟田ラーメン発祥」にまつわるお店の紹介から。

 

「大牟田ラーメン」を話題にするなら、まずはここから始めるのがスジだよね、という老舗がある。

 

 

「元祖大牟田ラーメン」を名乗る「東洋軒」。大牟田駅の東口を出ると目の前に看板がドーンと見える。初めて訪れた人は必ず目を惹かれることでしょう。

 

 じっくり豚骨を炊き上げた濃厚スープが売りで、中太麺にこれがよく絡む絡む♡

 

 

「豚骨ラーメン好き」には堪らない。海苔が入っている辺りを見ても、いわゆる「久留米系」に分類できるラーメンですな。

 私は帰ったら必ず、まずここのラーメンを食べます。

 

 もう1軒、「大牟田ラーメン好き」の好みを二分しているのが、こちらーー

 

 

「福龍軒」

 東洋軒から歩いて直ぐのところに店を構え、こちらも常に行列が絶えない人気店だ。

 

 福龍軒のラーメンは、これ

 

 

 東洋軒と違い、豚骨スープは軽め。でもあっさりの中に、豚骨の旨味、甘味がぎゅっと詰め込まれてる。実はダシとして、鶏ガラも入っているのだ、とか。

 このように両店では味の傾向が全く違うため、「大牟田ラーメン好き」の中でも「東洋軒派」、「福龍軒派」とが両立しているのだ。

 でも「どっちが美味しい!?」なんて不毛な論争に、私は加担する気はない。

 せっかく傾向の違う2つのラーメンがあるんだもの。それぞれを味わってそれぞれのよさを楽しめばいいじゃない。少なくとも私はそう思ってるし、だから帰郷の際には東洋軒と共に、こちらにも必ず顔を出す。そして2つの味を堪能できる我が故郷が、心から贅沢だと感じるのだ♡

 

 さぁここで、大牟田ラーメンの歴史について解説して行きましょう。

 これは「九州ラーメン研究会」の原達郎さんが関係者の話を聞いて回ってまとめた「オーラル・ヒストリー」。紙に残された記録ではない人の記憶の話だから、細部が曖昧なのはしょうがない。そう思って読んでください。

 

 始まりは戦禍の焼け跡がまだあちこちに残る昭和24年。岡山からやって来た4人(3人の説もあり)の男が、国鉄大牟田駅前に降り立った。彼らはラーメン職人としての腕を持っており、駅前でラーメン屋台を引き始めた。当時は戦後復興のエネルギー源として石炭が大いに重要視されていた時代であり、三池炭鉱を擁する大牟田は未曾有の活気が渦巻いていた。ここでラーメンを売れば当たるだろう、と読んで彼らはやって来たのであろうし事実、あっという間に評判になって屋台は大いに賑わったという。

 

 この時、現地スタッフとして彼らに協力した中の1人が宮川光義氏。岡山の人らが帰ってしまった後、自らの屋台を引いてそれが後の「東洋軒」になった。つまり東洋軒が「元祖大牟田ラーメン」を名乗るのは至極、正統なことであるわけだ。

 

 また、東洋軒を手伝っていて後に独立し、自分の店を構えたのが福龍軒の池田高氏。今も元気に厨房に立ち続けている姿からは、もはや神々しさすら感じられる。

 奥様も今も麺茹で、麺揚げを担当されており、特に暑い夏など、もうもうと沸る鍋の前で汗を掻き掻き仕事をされている姿を見るたび、「いつも美味しいラーメンをありがとうございます」と頭の下がる思いになってしまう。

 

 このように大牟田ラーメン発祥に関わる2軒が今も健在で、暖簾を守り続けてくれていることに、心から感謝せずにはいられない。

 

 ただ当初、岡山の男達を助けていた現地スタッフとして他にも釜田武士、千年原(ちとせばる)登の両氏がいた。彼らも東洋軒と同様、岡山の男が帰った後それぞれ自分の店「来々軒」、「まるせん」を構えた。

 だが残念なことに、「来々軒」は閉店してしまって既にない。

「まるせん」も大牟田警察署前に「総本店」、かつての「松屋」デパート脇に「本店」があったが、どちらも閉めてしまった。寂しい限りである。

 

 なのでせめて、大牟田ラーメン発祥に関わって現存する店と、閉めてしまった店の位置とを地図で示しておきましょう。

 

©️国土地理院地図

東洋軒福龍軒◼︎来々軒◼︎まるせん総本店◼︎まるせん本店まるせん支店

 
 小さくて見辛くって、済みませんね。まぁだいたいこういう位置関係、と分かってもらえれば……。こうして見るとやっぱり、大牟田駅を中心として点在してますね。
 
 ただ、「あれがなくなった」「あそこも閉めた」と嘆いてばかりいてもしょうがない。
 朗報は、「まるせん」の上官支店だけはまだ開けているということ。
 それが、ここですーー
 
 
「総本店」と「本店」が閉めて、「支店」だけやってる、って何だかおかしいですよね(笑)
 ラーメンは、これ
 
 
 濃厚でめちゃ美味い♡
 曖昧な記憶で間違ってたらゴメンナサイですが、以前は「総本店」に近いあっさり味だったのが、最近は「本店」を思わせるこってり味になったように感じる。
 
 とにかくラーメンの歴史に思いを馳せながら味わえるお店がまだこれだけ残ってる。大牟田のラーメン文化の奥深さは、こんなところにも垣間見えると私は思ってますよ。
 
 蛇足、覚悟で歴史エピソードをもう一つ。
 今も大牟田市内でラーメンの製麺を引き受ける「大内田屋製麺」の先代は、岡山から来た男達からラーメンの麺作りを学ぼうと何度もお願いしたが、頑として教えてくれなかった。うどんやチャンポン麺なら既に作っていたが、ラーメンはまだ未知の世界だったのだ。
 だがどうしても教えてもらえない。とうとう彼らが帰る日になったため、大牟田駅まで見送りに行った。固く握手を交わし合った。
 そしたら掌の中に何かの感触がある。列車がホームを離れた後、掌を開くと、麺の作り方を克明に記したメモが細かく畳んで入っていた、という。
 私がこのエピソードを聞かせると、元西日本新聞の知人が、「まるで西部劇みたい~♡」と喜んでいたのをここにつけ加えておきます(笑)
 
 次回は、大牟田の繁華街、呑み屋街のお店について語ります。