秋田犬 ” 忠犬ハチ公 ” 散策 ???  | 甲斐犬と古墳の里 堺もず で暮らす

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が、いっぱい !!!
たいていの情報が、あります。

「4月8日」は、何の日 ???

 

4月のある日、ヤフーの画面を見ていたら

4月8日、「忠犬ハチ公」の日と ???

ええ!!  そんなのが あるのか ???

 

日本犬愛好者として 興味が ???

ハチ公 については、あまり知識はない。

昔 渋谷駅で、亡き主人を待っていた犬

片耳が垂れた大きな 日本犬 ???

渋谷駅に、銅像 がある。 位か ???

何回も東京に行ったが、見に行ったことがない。

 

今回、少し勉強してみることに ・・・ ・・・

インターネットで、「忠犬ハチ公」と検索すると

出るわ、出るわ  膨大な量が、 ・・・ ・・・

最初に  びっくり 仰天 !!!

 

約80年も前のことである ??

たかだか 犬一匹 の事で ??

野良犬 では ないのか  ???

”忠犬”の美談は、作られたものなのか ??

真実が、伝えられているのか ????

別の 意図が あるのか ???

・・・ ・・・  等々

 

私には疑問が ???

今回、日本犬飼育者として(??) 少しだけ

真実が、どうだったのか ・・・ という事について

調べてみることに ・・・ ・・・・

 

”インターネットに掲載されているもの”のみ(?)

を参考にして ・・・  ・・・・

(ハチ公に関する書籍は、持っていないので)

私の、かってな 想像を、プラスして ???

よって、 この記事は、”私が考える真実 ??”

であり、一般のものと、異なる部分が、多々

あると思います。 ???   

 

 

一般的な 事実

 

① 昭和7年10月4日 の 東京朝日新聞に

  「いとしや 老犬物語」として、 掲載される。

  今は世に亡き 主人の帰りを待ちかねて

  7年間 ・・・ ・・・ という内容で、

 

  渋谷駅に、主人(東京大学農学部教授

  上野英三郎 氏)が亡くなったにもかかわらず

  毎日 主人を迎えに来る老犬が、いる。

  それも もう 7年間も 毎日 毎日 ・・・ ・・・ 

 

  この記事で、 一躍  有名 に ・・・ ・・・

  渋谷駅にいる、片耳の垂れた、汚い、大きな

  野良犬風の、邪魔者扱いされていた犬が、

  国民的スターに、

 

② 昭和9年4月21日

  渋谷駅に 「ハチ公銅像」が設置され、除幕式

  が、実施される。

  この時、ハチ公は、生きていて

  除幕式に、ハチ公 も参列している。

  彫刻家 安藤 氏作成の、等身大の、座った姿の、

  ハチ公 である。

 

  その当時のハチ公をモデルに ・・・ ・・・

  よって この像は、片耳が垂れている。

  秋田犬かどうか ??? であった。

 

③ 昭和10年3月8日

  ハチ公 ついに 逝く

  11(?)歳 で

  この当時の犬としては 長生きであった。

 

その当時の人が、知っていた事実は、

これだけの、ことなのである。 ???

 

 

私が調べた 真実 ???

私が、かってに 真実に しています。

 

① ハチ公 の 出生・血統 等

当時(昭和初期)は、

まだ 日本犬保存会等の犬の保存団体がなく

犬籍簿、血統書等がなく、正確な資料がなかった。

個人的な繁殖が、主で、 ある地域、あるグループ等

で個々に、飼われていたものが多く、はっきりした資料

は、ないに等しい ???

内々的には、あの犬は、〇〇村の△△氏の所で生まれた

犬と言うくらいの、記憶が ・・・ ・・・

 

ハチ公の出生” については、

東京大学の”上野教授”が、門下生の某氏(世間瀬 氏??)

に、優秀な秋田犬を送ってもらう様に依頼した葉書(?)が、

あるだけだったので、

ハチ公が有名になった時には、親元は、全くわからなかった。

”我こそが、親元である”と、名乗りを上げる人が後を絶たず

醜い争いが ・・・  ・・・ ??? 

出生の家が、明らかになったのは、ハチ公の没後であった。

 

平成11年1月1日

栗田礼蔵 氏より 連絡があり

「私が、 ハチを東京に送った」 と

昭和6年には、秋田犬 は 天然記念物に指定されていて

地元の愛好家が再調査した結果、ようやく ハチ公が

斎藤 家 で 生まれたことが明らかになった。

 
いきさつは、昭和10年3月10日

栗田氏が、農林省の用務の為上京、偶然渋谷駅でのハチ公

霊祭に行き合う。しかし その時は、ハチ公が自分が送った子犬

であるとは、知らなかった。農林省の友人より、秋田県大館の生

まれで、上野教授の愛犬だったことをしらされて、斎藤家と確認し

た結果、自分が送った子犬と確信した。 ???


一連の事実

上野教授が、門下生の 県畜産課の世間瀬千代松 氏

に、優秀な秋田犬の子犬を、送ってくれるように依頼

世間瀬 氏が 栗田礼蔵 氏 に依頼

栗田 氏が 知人の 斎藤義一 氏宅に 生まれた

子犬を もらい受け 東京の上野 氏 に送った。

 

わかった事(時系列)

① 大正12年11月10日

  山形県大館 斎藤家 で生まれる。

 

② 大正12年12月30日

  栗田氏が、東京上野駅あてに

  子犬 を送るとの連絡をする。

  その時、上野教授は、外出中の為、夫人に

  連絡している。 「 ・・・ ・・・ 渋谷駅に到着の

  節は、 ・・・ ・・・ 」 12月30日夜 と

 
③ 大正13年1月14日
  栗田氏が、大館より発送
 
④ 大正13年1月15日

  出入りの植木職人 小林 氏 が 上野駅に

  受け取りに行き、渋谷の上野教授宅に届ける。

  上野家の愛犬となる。 名前を ハチ と

 

④ 大正14年5月21日

  飼い主の 上野教授が 死去

  この間 約1年半 教授と共に暮らしたことになる、

  子犬~若犬の間の たった 1年半 だけなのである。

 

⑤ 昭和10年3月8日

  ハチ公 死去

 

 

ハチ公の血統” に ついて

ハチ公 の生家が、わかるまでは、当然 わからなかった。

ただ 当時の秋田犬をよく知る某氏は、「この犬は、

名犬 一文字号 にそっくりだ おそらく この系統の

犬だ !!!」 と ・・・ ・・・

一時 一文字号の別の仔 の 仔 と 言われていた

こともあった。 ???

 

この当時(昭和初期)

秋田犬(日本犬全て?)も、洋犬等の他の犬との雑化

が進み、純粋と言えるような犬は、ほとんど いない

状態であった。

また 正確な 犬籍簿・血統書もなかった。

こんな中で この犬は 純粋の秋田犬 ですとは、中々

言えなかったのである。ただ ”純粋に 近い”と言うの

は、まだ 存在していたらしい。 ハチの、おじいさんに

当たる一文字号”は、その中の一頭であったらしい。 

?????

 

わかった事

出生家が明らかになり 両親犬が、明らかになった。

 

ハチ公

 1923年(大正12年)11月10日  

 秋田県大館市  斎藤義一 氏宅に生まれる。

 秋田犬(?) 牡(おす) 毛色 薄赤(白かも?)

 父犬  太子内山(オオシナイヤマ) 号 (一文字 号の仔)

 母犬  胡麻(ゴマ)号

 

 同胎犬(兄弟犬) は、4匹

 母犬の、説明は、ない。 ????  

 純粋な秋田犬とは、言えないかも  ??? 

 この時期 ”純粋な秋田犬”と言うのが、はっきりしていない

 ”秋田犬 の 定義” も、  ???????

 

 

ここまでで ハチ公 の生い立ちが、ほぼわかった。

ただし 証明となる”血統書、小さい時の写真等”が

ないので、これらを、信ずるのみである。

(昔の事は、こんなもの であることが、多い。 !!!)

 
注)

”純粋の秋田犬かどうか ??” という事を、私が何度も記述

しているのは、これが ”ハチ公 の 美談” に 大きく関係して

いると私が勝手に思っているからである。 ????

 

東京の 上野教授の元に来てからの事実は、次回

(その2) に ・・・・  ・・・・・

 
 
参考 
新聞に取り上げられた頃の ハチ公(イラスト)

 

晩年の ハチ公

この姿からは とても ”純粋な秋田犬” とは ・・・

私も 以前は 雑種の野良犬??? と思っていた。

   

 
 
 
次回に 続く ・・・・
 
おまけ
5月13日 は ” 愛犬の日 ”
知っていましたか ????

 

すいません。

内容、特に日付等に、誤りがある可能性

が、あるかも ??? 

 

 

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