「 (mindfulness)とは意図をもって、今の瞬間に、評価や判断を手放して、注意を払うことから、わき上がる気づきの状態(アウェアネス) 」
「 今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに捕らわれのない状態で、ただ観ること 」
というような、説明がされています。
また、
「渇望と嫌悪に反応しない」セミナー等があるらしいです。
行ったことはありませんが。
でも少し考えてみると、
「評価や判断を手放しなさい」とか、「渇望と嫌悪に反応しない」とかは、もうすでにそれ自体が自己矛盾しています。
手放したいとか、
反応しないという、
強い反応ですね。
ということは、
マインドフルネスの主体は
思い(思考・考える)以外の
もう一つの私。
思いがマインドフルネスになることはできない
好き嫌いする思いがマインド
フルネスになることはできない。
ということは、
私は二つあることになる
好き嫌いする私
マインドフルネスな私
これで一つの私。
( 思い・好き嫌いする私・眼 )
生存
🟩←(1/人類)のI(私)
/|\←肉体
/ \←肉体
と同時に、
( 思いの外の私・ 深淵 )
👑(存在・1なるもの)
🟩←(1/人類)のI(私)
/|\←インナーボディ
/ \←インナーボディ
池田晶子先生が言ってるように、
「 目の前に深淵など存在していない
眼であるというそのことが、深淵であるというそのことなのだ 」
私たちは思いではない認識する何かがあり、それが深淵だと池田晶子先生は言っている。
思い(好き嫌い)の私には絶対にマインドフルネスは無理です。
マインドフルネスにはなれないです。
これは、この世界の📺の中の人が瞑想するマインドフルネス(無我)です。
この世界の中でちょっと☁という雑念の外にでる、無我(0)のことですね。自分が一つしかない世界観の人の話です。
ところが、
思いの外の私・深淵には、
📺の外の私はマインドフルネスになれます。
マインドフルネスする人が違いますね。マインドフルネスは、
この世界📺の外の私がするものです。
📺の中をこの世界と考えたら、その中に住む私は、いつも混乱と動乱の世界に住み、過去に怒り、未来に不安と心配があります。
人の初期値(デフォルト)は好き嫌いです。
マインドフルネスはできません。
好き嫌いする私が、
もし出来るとすれば、心を消すこと、反応しないことを、世界観が一つしかないこの世界📺の中での自分が無我になる。ゼロになることですね。心を消すことです。
自分を殺すことです。
反応しない強い反応。
だから反応しない練習などできるわけがない。
無理です、好き嫌いする私が、好き嫌いをなくそうとがんばる強い好き嫌いです。
ところが、📺の外の私なら、この世界の外だから好き嫌いの外の自分、この世界📺の中の私にない愛や慈悲があるから、今の瞬間に、評価や判断を手放しすことができます。
マインドフルネスとは📺の外の私がすることです。
思いが消えた時、
📺の外の私が現れることです。
瞑想とはもう一人の私・深淵がすることで、マインドフルネス。
そのためには世界観が変わる必要があります。
思いと、肉体は切り離されています。思いは常におしゃべりが止まりません。
思いが自分と思い込んでいた、この世界📺の外の自分が、瞑想により肉体の中に入ります。
その時にエックハルト・トールさんの言う内なる身体が体中を満たします。
( 「ニュアース」 p61,62 ,267)
ビリビリビリビリや尾てい骨から昇ってくる何かすごい感覚。
般若心経でいう
色即是空空即是色、
📺の中の私と📺の外の私
まったく次元の違う異なる2つの私が同時に今この瞬間私というところにおいて、
私として存在しているという世界観です。
問題は📺の中の私を、この世界📺の中の人々の中の一人と思い込んだことです。まずは世界観が変わらなければマインドフルネスの意味がわかりません。
📺の中の私だけれども同時に📺の外の私。この在り方、世界観の転換がまず必要だと思います。
自分の構造
世界の構造
📺の私だけ、自分がひとつしかない世界観であれば生老病死して恐怖し死んでいくだけの存在です。
キリスト教の神や仏教の空など、
宗教で言っているのは、この世界📺の外の私のことを言ってるのだと思います。
マインドフルネスは形のある私と形のない私の架け橋です。
形のない私には死はありません。
エゴ(思い)と肉体が死ぬだけで、私が死ぬことは絶対にない、1(すべて)なるものに死はない。
エックハルト・トールさんのゆう形のあるもの、形のないものと同じです。
( エックハルト・トール
「ニュー・アース」
「パワーオブナウ」
池田晶子先生の本多数
「リマーク」
永井均先生の本数冊
般若心経写経練習帳主婦の友社
A・スマサナーラ「般若心経は間
違い」
自分自身の瞑想の体感より )
少しお休みします
いつも
ありがとうございます
□の枠の中で輪廻転生する私(形のある)生老病死する
□の枠の外がほんとうの私(形のない私)生死がない
図どの時点の現在においても、主体は形のない私
二人の私で1なるもの