「生きている死者からの手紙 38」
おふどうさまカードは絶大なパワー「生きている死者からの手紙 38」(1914年の出版、ノンフィクション) エルザ・バーカーによる記録 金澤竹哲・訳健康長寿&安楽死を、正心調息法&らくらく毛管運動で実現しましょ。https://www.youtube.com/watch?v=TkUHQtQVZFc&list=PLbPRSTyFexIqLs9eYPCF84D4nS62I20vURaku Raku Workout (らくらく毛管運動)らくらく毛管運動は、脳梗塞で両手が痺れたとき手紙24 禁じられた知識(前半) (乃木希典将軍の殉死を目撃) このところ、私は多忙だった。私が先日、どこへ行ったか想像できないだろうね――日本の天皇の大喪儀を見に行ったのだ。そんなに短い間にパリから日本に行き、また戻ってくるなんて、君にはできないだろうね? だが、私にはできた。(訳者注、明治天皇の崩御は1912年7月30日。大喪儀が執り行われたのは同年9月13日) 出かける1時間前には、日本の天皇が崩御したことすら知らなかった。師が私を探して、一緒に行こうと誘ってくれたのだ。彼は、日本で起こる何かを見るべきだと言った。 彼の予言は正しかった。私は、魂が、偉大な霊が自殺によって旅立つのを見た。悲しく、恐ろしいことだった。 だが、私が書いているうちに師が横に来た。そしてこの問題については、これ以上書かないようにと助言した。(訳者注、乃木希典という偉大な人物が自刃したのは同日の夜8時でした) ここでは恐ろしいことを、美しいことと同様に眺める。私が自殺について言えることは、もしも彼が、自らの手で死んだ者を何が待ち受けているかを知っていれば、どんな不幸な状態であろうとも思いとどまるだろうということだ。申し訳ないが、これ以上話すことはできない。君が関心を持つからだ。理論を何度繰り返したとしても、目撃証言には及ばない。 師が現れて助言してくれたので、書く意欲がなくなった。後でもう一度挑戦したい。【資料:最晩年(自決当日)の乃木夫妻】(ウィキペディアから) 自刃前の乃木 乃木は大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。当時11歳の裕仁親王は乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「院長(学習院)閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという。(乃木は自刃の時まで学習院長であったため、自決後は院長が一時空席となっている。) 自刃 乃木将軍邸 大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の午後8時頃、乃木は妻・静子とともに自刃して亡くなった。享年64(満62歳)没。警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。 乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。 将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世などを作成し、心静かに自刃を断行した。 夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。(以下略)