ねがわくは われはちるとも かえりみし 子らをたすくる ちからさつけよ (田中早苗訓導に日記より)

 

昭和20519日。午前中から米軍機B29による空襲警報がだされ見付国民学校(磐田北小学校)では、全校児童を下校させることになりました。

子どもたちは運動場に地区ごとに並んでから、急いで自分たちの家に帰っていきました。見付の河原町、梅屋町、幸町の子どもたちは田中早苗訓導(先生)の引率で、普段の通学路ではなく、少しでも安全にと、学校西の丘を上り帰ろうとしました。午前1140分、途中の竹やぶにさしかかると爆撃があり、急いで道路わきの深い側溝に身を投じました。

そこに爆弾が直撃し、子ども28名と田中早苗先生が亡くなり、子ども6名が負傷しました。

昭和215月、被災現場には「子ども厄除け地蔵尊」が建立され、平成85月に校内に「平和の碑」を建立し、毎年519の命日には、北小学校PTAによる慰霊祭と平和祈願が執り行われ、子どもたち代表や遺族会、近隣の市民、平和を愛する人達が参加しています。

磐田北小学校では、毎年519日を中心に語り部を聞く平和集会と校長先生のお話による平和授業を行っています。

私の住む幸町では13名の子どもたちがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

    

 

磐田の空襲は、静岡県御前崎付近上空がB29の進入コースであったため、昭和191127日から7回の空襲に見舞われ、死者162名、家屋の全焼全壊333戸に及びました。特に、昭和20519日の空襲では、見付に爆弾20発が投下され、磐田駅周辺の工場群と鉄道を目標に磐田市街地の広範囲な爆撃により、死者98名、家屋の全焼全壊は198戸に達しました。

  

 

「ともに平和を思うひとときを」

私の地元幸町では、519日、町民約20人が集まり、当時を知る匂阪さん(当時2年生)と尾崎さん(当時4年生)からお話を聞き、爆撃にあった午前1140分に合わせ黙祷をささげました。

  

 

戦争はいやだ!