見付空襲

太平洋戦争の末期、1945年(昭和20年)519日の昼近く磐田に空襲警報が発令された。見付国民学校の児童たちは、直ちに運動場に出て町内ごとに退避をはじめた。河原町・幸町の児童は、磐田工業高校(旧北幼稚園)前の坂道を通り、自宅に帰るはずであった。しかし、工業高校正面前に差し掛かった時、米B29爆撃機の音が聞こえ、すぐさま道路南の竹藪の溝に退避した。

B29爆撃機は、磐田駅周辺の工場をはじめ市街地の広範囲を爆撃し、死者98名・家屋の全焼全壊が198戸に達した。

見付地区だけでも約20発の爆弾を投下し、うち1発が溝に身を潜めていた児童28人と引率の田中早苗訓導(先生)らを直撃し、吹き飛ばされるなどして死亡した。時は午前1140分であった。

どこからともなく知らせを聞いた親たちは、爆撃で飛ばされた土を素手で掘り返し必死で我が子どもを探した。あたりには肉片が飛び散り、中には木の枝や竹に張り付いているものもあったという。

皆で陸軍病院(現旧見付学校)に遺体を運び安置した。その後、親たちが損傷した遺体や遺品を持ち帰ったが、片足が1本残った。我が子の遺体が見つからない親が、その片足を自分の子として持ち帰ったという。

当時、私(まだ生まれていない)の家は、農家であったことから大八車があり、血まみれの遺体を大八車に乗せ陸軍病院まで運んだ。

その後、戦時中のため応急に、見付交流センター東の中川沿いに埋葬したが、水はけがよくないため、遺体を掘り返し、改めて火葬し寺の墓に納骨したという。

 

 現地には、慰霊碑と子ども厄除け地蔵が建立され、遺族会・磐田北小学校・PTAなどが、毎年519日に慰霊祭を行っている。

 また、北小学校内には、見付の有志が、「子どもたちの生命と平和の尊さを後世に語り継いでいけるように」との強い願いを込めて建立された「平和の碑」がある。

北小学校では、519日に合わせた1週間を平和の日とした平和学習を行い、30日には平和の碑の前で平和を誓う。