僕の父親は昭和13年3月15日生まれ、もうすぐ81歳になる。

55才の時に連れ合い(僕の母親ね)を亡くし、63才の時に次男(僕の弟)を亡くした。

連れ合いを亡くしてから、しばらくは弟家族と暮らしていたが、

退職金で自分だけの小さな家を建てて、以来20年以上ずっと一人暮らし。

 

9年ほど前に、アゴに癌が出来、手術した。

以来、ほとんど咀嚼出来なくなってしまい、食事は山芋や納豆、

ご飯や野菜などをミキサーですりおろして飲み込むように食べている。

流動食。1日2回、来る日も来る日も同じものを、である。

 

口がうまく閉じないので、時々ヨダレが垂れる。最初の頃は言葉もはっきりと喋れず、

電話だと何を言っているか聞き取れないことも多かったが、

最近では手術前とほとんど変わらないレベルまでに戻った。

 

固形物を食べることが出来ないので、外食は出来ない。

法事などの食事の場にも、出ない。食べなくてもいいから、出ればいい、

顔を出す事が大事なんだから……と言っても、

 

「食事に手をつけないのは申し訳ない」と言って、決して出席しようとしない。

戦中戦後の、食べ物がない時代を経験し、出されたものを残す事は出来ない世代なのだ。

時々ヨダレが垂れてしまうのが恥ずかしい、ということもある。

 

僕が育った家は、割と駅に近い住宅地だったが、親父が建てた家は町の外れ。

農村地帯の中にある。近くに商店はない。一番近いスーパーまで、1キロ弱である。

もう少し近くにコンビニがあったのだが、昨年閉店してしまった。

 

どうせ、長くはない老後の一人暮らしのためだから…と、

建設費をセーブして建てた安普請のために冬は寒く、

家の風呂ではなかなか温まらないために、父は一日置きに軽自動車で10分ほどの

公衆温泉場に出かけていく。車に乗せてくれる人がいない独居老人だから、

温泉以外にも、役所だ病院だ、趣味の囲碁だと、車は必需品である。

 

僕はここ数年、山形での仕事が多いので、毎月のように実家に数日滞在している。

一昨年だったか、父がこんなことを言った。

 

「こないだコンビニに行った時だ。駐車場からバックで広い道に出ようと思ったら、

店の中から店員が不安そうにじっとこっちを見てる。…そうか、年寄りだから、大丈夫か?

って思ったんだべな。アクセルとブレーキば、踏み間違えるっていうニュースよぐ聞くがらな…。

自分ではそう思ってないけど、人から見たら俺もずいぶんと年寄りに見えるんだな…」

 

父は、悲しそうだった。内側の自分はあまり変わっていないのに、他人から見る

自分は、「あのジイさん、運転大丈夫かな?」と思わせるほどの年寄りなのだ、と思わされる。

それは辛いだろうな、と僕も思った。
 
 
それからしばらくして実家に帰った時、ガレージに見慣れないものを見つけた。
それは、「三輪の電動自転車」だった。20万近い、高級車だ。
 
「20万のうち、10万はバッテリー代なんだってよ(苦笑)」
と父は苦笑いした。
 
それから、父は自転車で行けるところは自転車で行くようになった。
 
ある時は、
 
「今月は車に2回しか乗ってない」
 
と自慢げに言うほどに、自転車生活を楽しんでいるようだった。
電動の三輪とはいえ、車よりはずっと体力を使う。バランス感覚も付くだろうし、
良いことだなぁと思ってはいた。
 
しかし、問題は冬である。最近の山形は除雪は完璧に行き届いているのだが、
逆に路肩は寄せられた雪で自転車は走りにくくなる。車道が狭くなるために、事故の危険も増す。
吹雪の夜に、いくら電動とはいえ、81歳の老人が自転車で20分もかけて温泉に行くのは現実的ではない。
行けたとしても、帰りにせっかく温まった体が冷え切ってしまう。
 
田舎は、ゴミ捨て場までも車で行かなければならないような車社会である。都会ではそうではないが、
山形のような場所では、一人暮らしで車に乗れないとなると、まさに死活問題である。
行く末を考えずに、モータリゼーションに突き進んで行ったツケが回ってきたのだ。
これは、これからますます独居老人が増えるであろう、日本が抱える大問題である。
 
 
「明るいうちはいいんだけどよ、近頃は暗くなると運転するのがおっかなくてよ…」
 
ある時父が呟いた。
 
「俺も、あと何年運転出来るか…」
 
父が運転出来なくなったらどうするんだろう。買い物は、病院は……大好きな囲碁の会場にも行けなくなる。
 
電動とはいえ、自転車は自転車だ。雨には濡れるし、大きな荷物も運べないし、そんなに遠くまでは行けない。
 
ウクレレがギターの完全な代用にはならないようにね(苦笑)。
 
僕は、「親父が免許を返した後」の生活を案じては、たびたび気が重くなるのだった。
 
 
 
いつもは山形まで車で帰るのだが、1月は雪の心配もあり、山形新幹線で帰省した。
実家に滞在している時は、ほとんど毎朝山形市内のスターバックスへ出かけて、2時間ほど書き物をする。
父の「9万キロ越えのHONDAライフ」を借りて、10キロほど離れたスタバへ行ってみたのだが、
暖房を入れると、ファンベルトがギイギイ言って、今にも壊れそうであった。
 
「なんぼないだて、こんでざ、んまぐねぁなぁ…(いくら何でも、これじゃ駄目だよな)」
 
と僕は父の山形弁(正確には、天童弁)を真似ながら、オンボロ車を走らせた。
 
そして数日後、15キロほど北の方の町で、高校時代の仲間が集まった新年会があった。
車で来ていなかった僕はどうしようかな、と思い、友人に迎えに来てもらうか、タクシーで行こうと
考えていた。
 
そんな相談を妻としていたら、話を聞いていた父が、
 
「送って行く」
 
と言う。しかし、夜である。往復30キロ。夜、こんな距離を走るのはずいぶんと久しぶりなはずだ。
やや不安ではあったが、父の現状の運転を知るには良い機会かな?と思い、
 
「んだが。んだら、乗へでってけろ(そうか。だったら、乗せて行ってもらおうかな)」と僕は答えた。
 
 
父の運転する車に乗るのは久しぶりだった。というか、2000年代に入って初めてだったかもしれない(笑)。
僕と妻を乗せたホンダ・ライフは、かなりシンドそうに走った。
人を乗せるには、ちょっとこの車はもう厳しいな、と父も思ったに違いない。
 
しかし、父の運転は、特に問題はなかった。もともと、目は良い方だし、耳もまだよく聞こえている。
国道に合流するとき、遥か彼方から走ってくる車を何台かやり過ごして、やっと合流したのだが、
反応が遅いというよりは、自分が老人であることを意識して、相当慎重に運転している事がわかった。
普段はほとんど農道を走るレベルの運転なので、これなら当分運転は問題ないな、と僕は安心した。
 
 
そんな1月の出来事の後、また山形県内でいくつか仕事を頼まれて、
2月の末から今月の頭まで1週間ほど再び帰省したのだが……。
 
帰宅して、開けっ放しのガレージに、見慣れない車があった。
まだシートのビニールカバーが付いたまま。新車だ。
 

「あれっ、オヤジ、車買ったの!?」

 

「んだ」

 

「えっ、もしかして、新車!?」

 

「…んだ。新車だ」

 
なえだて!(なんてこったい!)
 
もう免許を返納するとか言ってたのに、車買っちゃったの?しかも、新車。
ピカピカのダイハツの軽自動車が、農機具と一緒にガレージにちょこんと鎮座ましましていた。
 
ビンボー症で、安物買いの傾向のある父は、新車を買ったのはただの一度だけである。
30歳くらいから運転していただはずだから、50年以上、ほとんど中古車一筋で来たオヤジが、
80過ぎて新車である!
 
「自動ブレーキとか、安全装置がいろいろついでるんだ」
 
とうれしそうだ。
 
帰るたびに、
 
「俺ももう長くない」
 
とかばっかり言って、ここ数年めっきり弱気になっていたと思ったのに、
ここに来て急にやる気を出したようだ(笑)。
やはり、先日僕たち夫婦を乗せて行ったことも大きかったのだろう。
人間は「頼まれごと」や「やるべきこと」がないとダメなんだな。
そして、それがあると元気になるんだ。
 
それにしても、81歳の誕生日目前に新車とは!?
ホントだったら、息子である僕が買ってあげなきゃいけないのかもしれないけど(苦笑)。
でも、
 
「自分で決めて、自分で車屋に行って、交渉して、手続きをして」
 
という、一連の流れを自分でやるというのが大きいよね。
 
父にとって、このタイミングで新車を買う!というのは、もの凄い大きな一歩を踏み出したと言える。
もう、すっかり「人生諦めた的な発言&態度ばかり」が目についていたから、これには僕もワクワクさせられたよ。
 
そして、数日後に、この新車が活きる出来事が待っているとは、
この時僕は知らなかった……。
 

「毎日、あなたが恐れていることを一つ行いなさい」

エレノア・ルーズベルト(1884年~1962年)の言葉。
米国の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの夫人、国連代表、婦人運動家、文筆家。

次号に続く!乞う、ご期待!
 
若き日の父と母。昭和37年ごろ、日光の「男体山」らしい。