昨日、無事大阪から帰って来ました。 

 

さすがに疲れて、昨日は10時就寝、今朝は5時半起床。

 今朝の果物は、 留守を預かっていただいたキャットシッターさんにいただいた梨と、 

昨日近所の八百屋さんで買っておいたキウイ。 

 

 

 

さて、安藤秀樹の話。初めて会ったのは、たぶん1989年、浜松。 

 

浜松の、駅ビルのオープンニングイベントの中でお互いに弾き語りでライブをやって、

その時に、 「はじめまして、ヨロシク」 みたいに、固い感じで出会ったんだよね。 

 

それからお互いに埼玉のFM NACK 5で番組を持っていて、 

その流れで何度か一緒にライブをやったりして仲良くなってね。 

浦和の焼肉屋「三楽園」で、よく飲んだなぁ。 

あと、安藤さんの地元・北千住で朝まで飲んだこともあったしね。 

 

彼は学年でいうと僕よりも四つ上だから結構先輩なんだけど、 別に先輩ヅラするでもないし、

友達という感じでずっと今日まで来てる。 

 

僕が27歳の時、 声の使いすぎで声帯ポリープになって声が出なくなった時、 

NACK 5のイベントで代わりに僕の歌「渡るべき多くの河」を歌ってもらった事、 

1996年、埼玉熊谷ヴォーグでのイベントで、安藤秀樹バンドにギターで参加させてもらったこと。

大阪にも一緒に行ったことがあるし、思い出はたくさんある。 

 

あ、そうそう、 僕の本「うつ病」が僕のアイデンティティだった~薬物依存というドロ沼からの生還 」の、

重要なシーンにもなっている吉祥寺のマンションにも一度安藤さん来てるんだよね。 

 

 

2006年か2007年に、僕のアレンジで安藤さんのデモを一度レコーディングしてるんだ。

いい曲だったな、きっとまだ未発表だと思う。 ぜひ、もう一度録音したいと思うよ。

 

 僕が色々としんどかった2004、2005年くらいにも、 何度も相談に乗ってもらったりしてね。 

本にも出てくる、三鷹のマンションのあたりだね。 

 

もっと古い話をすると、僕は1986年に、安藤さんのファーストアルバム

「Zoo Picnic」をアナログLPでソニーの人からもらって聴いている。 

 

 

というのも、僕のデビューは1989年だけど、 

1986年ごろはCBSソニーのSDオーディションというのに引っかかって、 

1年くらいソニーと関わっていたんだよね。 

 

曲を書いてはソニーに持っていき、 プロデューサーに聴いてもらい、アドバイスを受けていたんだ。 

そのプロデューサーは、なんと須藤晃。 当時、浜田省吾を手がけていた彼は、

尾崎豊を発掘し、 名実ともに大プロデューサーだった。 

 

 

まさに、当時僕が目指した「あの路線をプロデュースしている人」だったわけだ。

 

 僕は本当は「その路線」でCBSソニーからデビューしたかったんだけど、 

ライバルが多く、ソニーからはなかなかデビュー出来ず、 

いろんな人に会う中でコロムビアレコードの話が浮上して、

 1989年、日本コロムビアから「開戦前夜」でデビューしたんだ。 

 

こんなストーリーがある。本当の話だよ。

 

僕は、最初に送ったデモテープで、 すぐに須藤さんから

(正確には、CBSソニーが行なっていたSDオーディションから) 連絡をもらい、

その後1年くらい須藤晃とのやりとりを続けた。

 

 最初のデモテープは結構良かったんだけど、 そのあとなかな良い曲が出来なくてね。

自分でも、それは自覚があったんだけど。 

 

ある時「これは、良いぞ!」 という曲が出来て、当時住んでいた荻窪のアパートで録音して、 

須藤さんに電話して、CBSソニーの六本木スタジオでレコーディング中の須藤さんを訪ねた。

 

 曲を聴いたあと、須藤晃は僕にこんなことを言ったんだ。 

もちろん、完全にそのままじゃないけど、 だいたいこんな感じの内容ね。ホントだよ(笑)

 

「……これは、あんまり良くないね。 最初のテープは良かったんだけど、 

その後の作品は、なんか違うよ。 俺はさぁ、自分で言うのもなんだけど、

 この業界では結構力を持っちゃってるわけ。

 その俺がさ、「良くない」って言うものは、 どこに持ってってもダメだよ」

 

 僕は、業界でナンバーワンの、大物プロデューサーに完全否定されたわけ。

声をかけてもらったときは天にも昇る気分だったけど、今度は真逆。

まさに、 「二階に登らされて、梯子を外された」 状態。 

 

「はぁ、そうですか……」 とだけ僕は言うと、スタジオを出て六本木の駅に向かった。 

 

出来過ぎた話だけどさ、スタジオを出たら雨が降ってたんだ。 

「もう、終わりだ」 と思った僕は、頭を肩よりも低くして、

うなだれて、傘もささずに駅まで歩いた。

 

雨だったけど、走る気もせず、濡れたまま歩いた。 この「傘もささずに」 って言うのがポイントだね(笑)

 

歌の歌詞では、失恋した時とか、 失意の中で雨の街を歩くときは、

「傘もささずに」 歩くのが定番となっているのだ。

 

図らずも僕はこの時、作詞的な世界を地で行ってしまっていたのだが、

もちろんその時はそんな風に客観的に自分を見る余裕などなかった。 

 

あの時の絶望感は、今でもアリアリと覚えている。 

 

そして、 「クソ、須藤晃め。いつか見返してやる」 なんて思うほどの気持ちは全然起きなくて、

ただただ、 

「俺はもうダメだ。才能がなかったんだ……」

 

 としばらく落ち込んでいたよ。 

 

この時期、なかなか曲作りがうまくいかなくて、中途半端な曲ばかり書いていたのは、

自分でも十分わかっていたし。

 

……でも、どうしたら良いかわからず、悩んでいたんだね。須藤さんには怒りを覚えつつも、

 

「その通りだよな」

 

と思ってもいたんだ。

 

僕はこの時、

「プロの表現者を目指すなら、そんなことではダメだ。

もっと自分を追い込め。ギリギリのところで、叫ぶような表現をしろ」

 
と須藤さんに教わった気がする。
 
僕は深く落ち込みながら、プロの世界の厳しさを身をもって知ったのだった。
 
……今思えば、これが良かったんだな。
 

表現者としての自己基準を引き上げてもらったんだから。

 
それから1週間後には、次の曲を書いていたよ。

 

 

 

 

時は流れて、2000年頃。 僕はウクレレアーティストとして所属していた、 ジェマティカ・レコーズは浜田省吾さんの 

(というわけじゃないんだけど、業界的にはそう言ったほうが伝わりやすいのだ。

浜田省吾チームの事務所ロード&スカイが運営していた)レコード会社だった。

 

 そのロード&スカイのパーティーがあり、 そこで須藤晃と再会したのだ。 

 

タキシード姿の須藤晃は僕に近づいてくると、 

 

「岩男くん!良かったねぇ、ウクレレで成功して。ホントに、良かった」

 

 そこにあったのは、東大出のエリート・プロデューサーの顔ではなく、

息子を心配する田舎の父親のような顔だった。

 須藤さんは、顔をくしゃくしゃにして、 成功したのかどうかはわからなかったけど、

ウクレレプレイヤーとしての僕の現在を喜んでくれたのだ。

 

僕はこの時、ホントにうれしかった。

 

……と、最終的には「イイ話」で終わるのだ(笑)。 

 

やっぱり、若い時に「悔しい想い」はするべきだね。 

 

 

話を戻すと、 安藤秀樹とはもう30年の付き合いなのである。 

「はじまりの予感」で夜のヒットスタジオに出たすぐ後にも会ったし、 いろんな事を思い出す。 

 

そんな安藤さんから数年前に、 

「またガンガン歌っていきたいから、ギター弾いてくれ」 と連絡をもらった時は無条件にうれしかったよ。 

 

ライブのリハーサルはだいたい安藤さんの地元の足立区だから、 茅ヶ崎からだと往復200キロ近くあって(笑)、

安藤さんは「いつも遠いところ悪いね」 と言ってくれるんだけど、遠いなんて思ったことはないね。 

いつも遠足に出かける子供のように、ワクワクしながら出かけるよ。 

 

今回の大阪でもステージからほとんど全曲歌っているお客さんを見て胸が熱くなったね。 

お互い、いろんな時を過ごして、今こうして一緒にステージで演奏している。歌っている。

 

これは奇跡なんだ。 これからの安藤秀樹、そして山口岩男に期待してね。