法律相談を担当していると、例えば夫からは、

「私の妻はごめんと言いません。」

「私の妻は困ると話をわざとはぐらかします。」

「私の妻に話し合いを求めたのですが断られました。」

ということが典型でしょうか。妻側からも同じよう事が言われます。

そういう時私は、「それはあなたの奥さんだけではありませんよ。」ということが多いです。

 

どうして、そうなのか、答えは案外簡単な話でした。

1 謝罪しない理由

  答え、謝罪したくないから。です。

  これは強い理由です。相手が、失敗して迷惑をかけたのだから、あるいは早とちりしてこちらを非難したのだから「謝らなくてはならないはずだ。」と確信して疑わないと思うのです。道徳でも正義でもなんでよいのですが「べき論」とでも言う考えが謝るべきだという論理構成です。

  しかし、相手は「べき論」に乗ってこず、謝りたくないので謝らない。というのですから、その主張を崩す方法がありません。

  謝罪を要求する方は、べき論が正しいと信じて疑いません。しかし、道徳や正義は他人間の共存をするためのツールだとすれば、家族間できちっと謝罪をするべきだということが本当に正しいのか疑問もないわけではありません。むしろ、家族間は、お互いが安心して暮らすことを一番に考えるべき人間関係だとした場合は、謝罪よりも許容が先に示されるべきではないかとも考えられるからです。

  結局謝罪しない理由は、「謝罪したくない。そんなことしないでも許してほしい。」という意志表示なのでしょう。

  べき論と配偶者の感情とどちらを大切にするかを、実は突き付けられているのかもしれません。

 

2 論点をすり替える理由

  答え。その論点で話したくないから。です。

  同じ原理なのですが、これは少し説明が必要でしょう。正義とか道徳とかを持ち出さなくても、私たちは、議論のルールというものを意識していて、理性的に順番に従って建設的議論を行うべきだという「べき論」を叩きこまれています。論理的には、相手の問いに対して答えるべきだということになるのでしょう。

  しかし、相手は論点に添った反論をしないで、別のこと(自分に優位になること)を言い出します。例えば、過去に起きたことをほじくり返すようなことを言って攻撃を継続してくる人が多いようです。べき論に立っている人からすれば、強引な反則技だと受け止めるわけです。

  その時の時間的に限定して考えると、相手は論理的な思考をすることをやめている場合があるようです。もう少し平たく言うと、言葉で考えることをやめるということですね。では何を考えて発言をするかというと、感覚やイメージです。直感と言っても良いでしょう。その直感が、今ここでこの論点で議論してはだめだと行動決定してしまうのです。それに乗ってしまうことは危険だという無意識の判断をしているようです。だから、その論点で反論をしたくなくて、しないということでした。

  それで黙ってしまえばまだ良いかもしれませんが、無意識の直感は、ここで黙ってはだめだ、相手への攻撃を続けなければならないと行動決定をしてしまうようです。

  この辺の行動決定の仕組みは、ノートにメモをしていますので、もし興味をお持ちになったのならば時間のある時でも除いてください。人間の行動決定が無意識に行われているとすれば、どのように行動決定がなされるのか |対人関係学https://note.com/doihou709/n/n1ca1e5652b88

 

3 話し合いを拒否する理由

  これは2とほぼ同じです。但し、話し合いを求める人の様子を見ていると、話し合いを拒否したくなる気持ちもなんとなくわかります。話し合いを求める方は、お互いに思っていることを出し合って、より良い解決方法を見つけようという意味合いで話し合いを求めているはずです。

  しかし、受け取る側は、とにかく強引に説得して自分の思い通りにしようとしていると思うようです。思うのか、直感でそう判断するのかわかりませんが、全体としてこれは拒否するべきだという直感が働くわけです。

  その危険の判断の根拠は、これまでの二人のやり取りの記憶や、何かの話し合いの記憶を照合して危険だという結論を出すようです。

  別居した奥さんに本来の意味で話し合いを求める場合は、「話し合いをしよう。」と呼びかけないで、「気持ちを聞きたい。こちらの意見は言わないから教えてほしいんだ。」と呼びかけた方がまだうまくいく確率は高いと思われます。

誤解だらけの親権制度 親権制度について知るべき正しい知識

 

参照 広井多鶴子先生

<親権>の成立 - 明治民法の中の親・子ども・国家―

 

「親権という言葉には、親が子を思い通りにする権利というニュアンスがある」等という浅はかな人たちがいます。また、家制度を前提として戸主の子どもに対する支配権だというはなはだしい勘違いもあります。

現代社会において、明治民法(1898年)は知識を持つ必要性は確かに乏しいです。しかし、わからないならば言及しなければ良いのですが、思い込みやイメージで発言する人たちが多いので困ったものです。広い先生の論文はインターネットでも読めるので、この先生の論文をもとに何が誤解なのか、正しくはどうなのかを解説していきます。

 

1)親権者は戸主ではなく父

 

先ず、親権者は、戸主ではなく父です。また戸主と父を同一に考える人がいますが、正しくありません。これは戦前の「家」制度を知らない人です。我々古い弁護士は、実務上の必要から戦前の戸籍を取得することがあります。その古い戸籍謄本をみればわかるのですが、戦前の「家」は、夫婦と子どもを単位としたものではありません。もっと広い親族を中心として成立していたものです。姪や甥、あるいは叔父や叔母なんかも普通に一つの戸籍に入っており、その中の代表が戸主です。だから、戸主と一緒に住んでいない人が同じ戸籍に入っているということも良くありました。そういう意味で、「家」制度と家父長制との関連は実際はそれほど密ではありません。

明治民法の成立過程において、子どもの親権者を誰にするかということが議論になっていたようです。結局、対外的な代表は戸主であるが、親権者のように対内的な責任者は必ずしも戸主ではなくて良いという議論になったようです。自然的な情愛に基づいて決めるべきだから親権者は父親と定められました。もちろんここは、男女差別が背景にあった時代の限界として留意する必要があります。もっとも、明治民法の前の旧民法では、子どもの養育義務は父母双方にあると定めていました。明治が始まった直後は、子どもの養育については父を優位にしなくても良いという考えがあったようです。最も旧民法は急進的であるということで明治民法に改正されたわけですが、少なくとも旧民法制定者の意識は男女を区別しなくても良いだろうという意識があったわけです。

 

2)親権の内容は支配権ではないことは学会、社会の常識だった

 

確かに親権が子どもに対する支配権だと主張する学者はいました。穂積八束という先生が一人いたようです。かなり高名な先生ではありますが、1人説だったということです。誰も賛同しないということです。その他すべての学者は支配権であることを否定しています。法律家も日本国民の常識も、親が子どもを支配することが正当であるということは、感覚的にも存在しなかったのです。

親権の内容として中心的にとらえられていたのは、子を「監護養育する義務」です。学説でも、親が子どもに対して監護養育する義務を負っているという解釈が一般的でありました。これが明治民法の親権の本質です。この本質を果たすために、つまり親が子どもを守り育てる必要があるから、必要に応じて子の住所を親が決めることや懲戒権を親が行使することを国が認めたというのが親権制度なのです。こういう解釈が明治の法学です。

私はこの必要性の判断は合理的だと思います。子どもが、国や戸主に勝手に子どもを連れ去られていたならば、親は子どもを守ることができません。だから子どもをどこに住ませるかということは、親の権利にする必要がありました。子どもが自由に法律行為をしてしまうと、思わぬ損をすることが多いので、子どもに代わって法律行為を行う権限も子の監護養育に必要なことです。懲戒も、当時の考え方は現在と同じではありませんが、「ほめ育て」等という言葉の無い時代ですから、子どもが間違った道に足を踏み入れないために必要な親の義務だとされていました。だから、懲戒権と言っても、親が子どもの人格を無視して、子の養育と関係のない八つ当たりなどをする権利ではなかったのです。現在と違って、当時の日本にはそれが当たり前のこととして受け入れられていたことになります。

おそらく、戦後教育の中で、戦前の教育、家族制度を全面的に否定するという作業が行われたため、戦前の教育や社会制度というものが暗黒の歴史のように私たちは受け止めるようになってしまったものと思われます。確かに戦争遂行に対しての誘導はありました。しかし、人間の生活の営みは戦前から戦後にかけて確実に継続しているのです。それにもかかわらず、歴史を二項対立の観点から、ある時点から前を全面的に否定して見るような態度は極めて非科学的で感情的な態度だと思います。戦前が全面否定されることはとても残念なことですが、私はそれより明治政府によって江戸時代以前の日本が全面否定されて、日本人が自分たちの過去を知識として持てないことのほうがより残念です。とにかく間違ったことは言わないでほしいというのが私の願いです。

 

3)親権の自由権的な機能

 

では、どうして、家制度がありながら戸主ではなく親が親権を行使すると定めたのでしょうか。これも明治民法制定の際に論争がありました。大方が一致していた理由は、子どもの監護養育は親の自然な情愛にもとづいて行われるべきだということです。戸主は伯父さんだったり、大伯父さんだったりして、一緒に暮らしていない人がいる場合が多いのですが、そういう法律的な形式的立場ではなく、親子の情愛にもとづいて子を監護養育するべきだということが理由で。戸主ではなく父親を親権者としました。

日本の法律はよく指摘されるように儒教の影響を受けています。その根底にある思想は、これもよく誤解されます。誤解というのは、「人間は親に孝行し、さらにその上の天皇、国家に忠実であれということが儒教の本質だ」と、これまたあまりにも通俗的な決めつけをする人たちがいます。わからないなら言及するなと思うのですが、とにかく戦前を否定することが善だということをヒステリックに唱える人は多いものです。しかし、儒教の本質とは、違います。儒教は国の指導者となりたかった孔子があちこちで語った話を孟子がまとめたものとされています。道徳という庶民が守るべきものをつづったものではなく、国家とはどうあるべきか、政治とはどうあるべきか、ということを語ったものです。その中で、孔子は、国家の目的は、家族など自然な情愛で集まり生活している人が幸せに生活するためにある道具であり、家庭の中では国家秩序より家庭の情愛を優先させるべきだということと、国の政治は親子兄弟の情愛を国中に広めていくことだと述べています(論語:子路第13の18等)。

 

 

実際に日本の現行刑法は、この考えに基づいて、親族間の犯罪を必ずしも罰しないという制度がありますし、家族が犯人の場合かくまうことも罰しない場合を認めています。法律を勉強してきたものはよくわかっているはずです。

論語の見解では、国の秩序を守るために家族を国に売るような行為は否定されているのです。だから、国も、勝手に子どもを親から引き離すことができない。子どものことはその親が決めるということが親権だということになります。

明治民法下の学者の議論は、あまりこの自由権的側面(国の子育てに関する干渉を排除するという側面)を強調してはいませんでしたが、常識的なものとして議論の前提にあったようです。

 

4)まとめ

 

明治民法の条文、及び学者の議論の様子を勉強しても、当時、学者も国も、親権が親の子を支配する権限であるとは考えていなかったということがわかりました。むしろ親の子どもに対する自然な情愛に基づいた監護養育義務が親権の本質だととらえられていたようです。監護養育の必要に応じて親権行使をしなければならないということで、親権の及ぶ限界が画されていました。当時の社会の常識もそれを支持していたと思われます。

確かに現代社会は、家族が孤立してしまい、家庭の中のことが外部から不透明な閉じた世界になっています。また、明治時代には考えられなかった日常のストレスの持続というものもあります。日本人の親子についての常識が戦前と比べて歪んだことを示す事件も大きく報道されているところです。親戚や近所の人たちが個人の家庭に入り込むことが極端に無くなったため、行政がそれに代わって介入するということも選択肢としては持たなければならないのかもしれません。

しかし、誤った知識、思い込みの考えだけで、制度や概念が否定されてしまったところに、あるべき新しい制度の構築は難しいのではないでしょうか。構築したとしても歪んだものになると思います。無駄な観点からの制度の提案がなされる危険があります。また、誤った知識、思い込みの考えでは、何をなすべきかの優先順位も見当はずれになるだろうということも危惧しているところであります。

 

 

世の中は「子はかすがい」等と言いますが、離婚事件を多く担当していると、実際の事件では子どもが生まれてから夫婦仲が悪くなっていることが多いです。へばりつかせているかすがいを引っこ抜くくぎ抜きのようにも思えてきます。

 

考えてみれば、そりゃそうだと思います。二人きりであれば、目の前の相手だけを大切にしていればよいのですから、多少のわがままや、失敗があったとしても、今こそ愛情を示さなくてはとかえって張り切ってしまいますから、仲が悪くなり様がないのです。

 

子が生まれると喧嘩になりやすい理由は、

① 両方の実家の接近

それまであまり登場しなかった赤ん坊の双方のジジババが家庭の中に入ってくるようになり家同士の関係が出てきます。新しい人間関係の展開になれていないこともあり、気を張りすぎて、不用意な発言をしてしまうようです。また、二人がそれぞれの家の代理戦争をさせられることもあります。

 

②産後うつと産後うつに対する無理解

長くなるから簡単に言えば、出産後、母親は赤ん坊のニーズに敏感になるよう脳内の生理的変化が起きていますから出産前と同じ行動、考え方ができなくなることは当たり前です。「うつ」という言葉に反して、抑えが利かなくなったり、攻撃的になったりすることもあるのですが、哺乳類である以上仕方が無いようです。問題はそのような通常の状態ではいられない母親に対して、周囲が無理解でそれを責めるところにあるかもしれません。周囲はむしろ、子どもが乳児のうちは、「家が汚くなることは当たり前」、「母親が気がっていることも当たり前」、「夜中に眠れないことも当たり前」と父親にしつこいくらい繰り返し吹き込むことが大切なようです。聖母子像のマリア様みたいな母親像は嘘っぱちです。あれができるから聖母なわけです。普通の哺乳類の母性というのは強く攻撃的で、被害意識に陥りやすいということが真実のようです。

子どもを産んでもらったのだから、多少の我慢は仕方がありません。

 

③ 三面関係に対応できないこと

それまで相手だけを大切にしていたわけですが、そこに赤ん坊が登場してきます。赤ん坊と相手との板挟みになるわけですが、どうしたってあからさまに赤ん坊を優先してしまいます。配慮しているように見せかけることができればよいのですが、一言「赤ん坊がお腹すいているようだから」というようなことさえ面倒くさがってしまい、相手の言葉をさえぎることは仕方がないことです。産後うつは、どうしても赤ん坊のニーズにより敏感に反応してしまいます。

 

④優しい父親の陥りやすい過剰な攻撃性

離婚事件を見ていたり我が身を振り返ってみると、父親も赤ん坊のニーズに敏感になってしまうようです。

 

母親の産後うつの構造が脳科学や生理学の観点から明らかになってきているのですが、父親の脳内画像の研究は聞いたことがありません。もしかしたら、出産した母親と同様の脳内変化が起きる男性もいるのかもしれません。

 

そもそも人間は仲間の中の弱い者を守ろうとする本能があります。この本能があるために、人類は超未熟児で生まれてくる赤ん坊を集団で一人前に成長させることができていたわけです。

 

仲間の弱い者を守るという意識が、赤ん坊を特別視してしまうと、赤ん坊と自分が仲間であり、赤ん坊を生んだ母親は自分の一番大切な赤ん坊を完璧に育てるべき役割の仲間外の人間に思う瞬間が増えてくるようです。少なくとも母親は敏感にそのように感じています。

 

そういう意識の高い男性が、母親に対して、子どもの抱き方から、授乳、おしめの替え方まで、赤ん坊を第一と考えるためダメ出しを出してしまうようです。ただでさえ疲れている母親は、夫のダメ出しで、さらに疲れ、自分が否定されているという意識が高まり、夫を嫌悪するようになっていきます。しかし、母親は、何が自分をイラつかせているか自覚しないことが多く、それを言葉で説明することがなかなか難しいようです。

 

赤ん坊が大きくなっても、習い事は何にするかとか、何を食べさせるかなど、このことに気が付かないと際限なく対立してしまいます。子育てが終わった親はたいてい気が付くのですが、あれほど向きになって意見を言っていたのに、結局どっちでも同じだったのだなあということです。

 

家族円満ということを目的にするならば、育児は母親がメインに行うべきだと思います。実際に体を動かすのは父親も同等にやるとして、感じなことは子どもに対する判断です。母親には本能があると信じて母親にまかせるべきなのでしょう。特にどっちでも良いことは母親の意見に従うべきだと思います。明らかな間違いがある場合は、相手の行動を否定しないで、先ず何かしら賞賛するポイント、感謝するポイントを言葉にしてから、こんな記事見つけたという元資料を提示して判断は母親に委ねるということになるでしょう。

 

子育ては母親をたてるということが家族円満のポイントです。特に子どもの前では母親をたてるべきです。