過去の黄金律は、「自分の欲することを相手にほどこせ」や、「自分の欲せざるを事を相手にするな」ということで足りていました。単一的な価値基準があった時代です。現代は、多様性の時代ですから、これをしてしまうと非難されます。現代の黄金律は、「相手の欲することをほどこせ。」、「相手の欲せざることを相手にするな」ということに代わっています。自分と相手が違うことを真正面から承認しなければならない時代になりました。

 

食べ物や家具の好みの問題だけでなく、行動原理の変化が最も大切で、かつ、気が付きにくいことかもしれません。

いくら自分が道徳的に正しいことを言っても、相手が論理的に間違っていることを指摘しても、相手の行動の不合理性を説明しても、相手を追い詰めてしまったら非難されるのは言った方だけです。

 

いわゆる連れ去りと言われるように、子どもがいる夫婦で、妻が夫に知らせずに、ある日ある時突然と子どもを連れて家から出て行き、別居が開始され、婚姻費用分担調停と離婚調停を起こされて離婚に至るということが多数あります。もちろんいろいろなケースがあり、主たる原因には妻側のメンタリティーの問題があることが実際には多いようです。客観的に見れば夫の行為はそれほど深刻なものではなく、DVと呼ぶことのできるものはなく、最近はモラハラという言葉の方が主流になっている感もあるのですが、その違法性というか、加害性があまり具体的には語られていません。それでも、別居の事実と、やり直しを考えないという強い気持ちがあれば、子の連れ去りを不問に付して、離婚が認められて、母親が子どもの単独親権を取得することは事実として存在します。

 

現代の父親たちは、DVをしないことは当たり前だとしても、モラハラをしない、相手を困惑させないということをしなければ、子どもを奪われて一人ぼっちにされることが裁判所を通じて行われているわけです。そのような目に合うほどひどいことをしているとは思えないケースがほとんどです。

 

ただ、割と多くの事案で、夫の側が妻のメンタリティーに適切に対応できていないケースがあることも事実です。

 

妻の主張で展開されている価値基準は、まさに現代の黄金律なのです。だから、相手のしてほしいことをすること、相手のしてほしくないことをしないことということが、最優先の価値基準なのだと理解することが第一歩だと考えるとわかりやすいかもしれません。

 

その相手の気分感情が何にもまして優先するということは、なかなか理解しにくいことだろうなと思います。相手の気分感情に劣後するものが、正義、道徳、合理性、論理性、常識、場合によっては法律だからです。

 

これは世の中全ての人とのかかわりの中で気分感情を最優先させろという話ではなく、家庭の中では相手の気分感情を最優先で考えるということなのです。気分感情を考えた上で、それに配慮しながら指摘をすることを否定するものでもありません。どんなに正しくても相手の気分感情に配慮をしなくてはならないということなのだと思います。

 

法律家がこんなことを言っても良いのかというお叱りを受けるかもしれませんが、あながち法律学的にも正しいことかもしれません。

 

日本の刑法でも論語の思想がある程度反映されていて、親族のために偽証をしたり犯人をかくまったりした場合に刑の減免措置が規定されています。論語の思想とは、「法律や国家があるのは、家族が安心して暮らすためだ。法律や国家を守るために、家族を国に差し出したり非難するのは本末転倒だ。」というものだと、私は解釈しています。だから、子は親のために隠し、親は子のために隠すわけです。

 

もう一つ、法律学と言えば、「法がある」と言えるためには、法の適用を受ける人たちの法律に対する承認があるときだとする法哲学者のH.LA.ハートは言っています。法律、道徳に限らず、ルール一般そうでしょうね。法規範、道徳規範、あるいは合理性や論理性に価値基準を置くのは、国家や社会という人為的な枠組みの人間関係全般の話です。家族というもっと素朴な人間関係の規範、ルールは、法律や道徳とイコールということでなくても不思議ではありません。人間関係の多様性と規範の複雑な構造があるわけです。

 

「家庭の中では、家族の感情を最優先に考える。そのためには、合理性、論理性、道徳、時によっては法律も劣後する価値基準となる。」という考え方は、法律的には、あながち間違ってはいない、少なくとも暴論ではないということになりそうです。

 

法律的に間違っているかどうかを考えると同時に、その方法論が、目的にとって有益か否かという観点から考える、運動論という考え方があります。

 

正義、論理、合理性、道徳、法律を振りかざしてしまうと、人は常々怒りっぽくなってしまい、相手を必要以上に警戒させて、指摘を受け入れにくくなるという弊害が生まれがちになります。

 

怒りを決して見せずに、相手の感情に配慮して、一緒に考えることによって、相手の思考をフル稼働させることができるようになり、相手にこちらの言っていることを理解してもらえると同時に、それを相手の行動原理に組み込んでもらえるようになりやすくなります。

 

大事なことは、「どんなことがあっても、家族は自分を見捨てたり否定評価したりしない。家族の中にいれば安心できる。」という感情が生まれれば、「家族のために自分も頑張ろう。」という気持ちになるわけです。

 

いじめの対策にも関わっていたことがあります。私が見たいじめの終息は、いじめ加害者に対して、その友人が友人として「もうやめようよ。」と言ったことがとても有効だったということです。大人が説諭していじめがなくなるということよりも、キレイにいじめがなくなり、自主的な謝罪までありました。間違いを犯しても、見捨てない人間がいるということはその人を正しい方向に導くということを子どもたちから教えていただきました。

 

つまり、なにか、相手の行動を修正しようとする時は、先ず仲間であることを印象付けること、仲間としてアドバイスすることを実感してもらうことが、指摘を有効なものにするということなのです。

 

こういう配慮をパーフェクトにすることは不可能です。感情が先走るのが人間です。しかし、それを少なくしたり、感情が先走ったら謝罪をすることができれば、相手はどんどん自分に安心するようになるでしょう。

 

何だかわからないけれど不安で仕方がない、自分だけが損をしているようだと感じても、誰かから言われても、夫がその原因だと考えにくくなるのではないでしょうか。

 

以下の記事も参考にされるとわかりやすいかもしれません。

正しいことを言っただけでなのに、みんなから反発を受けて支持されない理由|対人関係学

 

 

プロ野球チームの監督が暴行事件で逮捕されて監督を辞任したという報道が出た時、私はチーム内の話かと思い興味を持たなかったが、知れば知るほど違和感が強くなり、これが日本の国家政策の特徴だと気が付き、特に妻に子を連れ去られてわけのわからないうちに離婚手続きが進んでいる夫やその家族に、これは自分のことなのだということを知ってもらいたくて緊急で記事にする。

 

テレビやSNSの論調は、児童相談所に相談しようと電話した娘に対して自業自得であるという非難が少なくないようだ。いや、冷静に考えてそれはないはずだ。喧嘩で熱くなっている娘が、誰かに相談したくて電話をしただけで、あれよあれよという間に警察が来て、自分の父親を逮捕し、それがマスコミにさらされて、父親が職を失うということを、どうして18歳の人間が想定できるだろうか。法律では成人になっても、18歳は18歳だ。そこまで考えられるはずはない。児童相談所の事件を担当しなければ弁護士でさえそんなことは想定できないはずだ。児童相談所に相談のために気軽に電話をしてと言われたら、「自分の憤り、理不尽な思いを聞いてくれるのだろうな。」と思って相談したくなるはずだ。それが普通だと思う。その相談を持ち掛けることを責めて、その後の家族の全損害の責任を押し付けるのは、これから述べる今回の事件の本当の理不尽や国の政策の不合理から目をそらすための意図的な行為ではないかとさえ感じる。

 

①子の連れ去りからの離婚システムとの共通点

 

突拍子もないことを言い出したと思われるかもしれないが、偶然の話ではなく、この国の政策の姿勢を象徴した事件なので、特に連れ去り被害に遭っている人たちには理解だけはしてほしいことである。

今回、マスコミの御用コメンテーターは、児相と警察の連携について、子どもの命を守るためには、これくらい迅速に事を進めることは間違っていないとコメントをしているようだ。いやそのコメントこそ間違っている。

人間どうしの対立は、どちらかの味方をすることはどちらかと敵対することになる。国家がどちらかを味方することはどちらかの人権を侵害する危険があるということを意味する。それでもマスコミの作り出した世論に乗っかって、命を守るために他方の人権が侵害されることは気にするべきではないと声高に叫んでいる人間もいる。冤罪を厭わない風潮であり、本来なら弁護士会は猛抗議をするべきであるが、寡聞にして聞かない。

いやしくも国の政策であるならば、他方の人権にも配慮して事を進めなければならないはずだ。憲法があるということはそう言うことだ。9条だけは守るべきだけれどそれ以外の憲法は知らないでは、憲法擁護なんて政治的主張にすぎなくなる。

今回の問題は、児相が緊急性をどの程度判断したのかということが問われなければならない。虐待があるならすべて警察通報して警察に処理させるということであれば、児童相談所という児童の福祉に専門的な機関なんて意味がなくなってしまう。また、子どもは嘘をつく。それが将来どうなるかを考えないで、その時のノリや感情で話を作ることは子どもの特徴である。そう言う未熟なものだから保護の対象になるはずなのに、その未熟な子どもの発言があれば、その発言に子ども自身が責任を持たなければならない、自己責任であるということでは児童福祉の目的と逆行することになる。

少なくても私が弁護士として相談を受けたり、訴訟を担当している案件だけでも、かなりの数の親子が、子どもや「自称子どもの味方」の不正確な情報提供で、未来永劫の別れを余儀なくされている。ひとたび隔離されれば高校卒業まで隔離され続ける。児童養護施設と私がタッグを組んで、親子の再生を図ったが、子どもは罪悪感があり、親は怒りがあるため、再生にはなかなか苦労した。児童養護施設の親身な気遣いと合理的判断が大きかったため、私の担当した親子は同居に至った。通常ならば、子どもは親から離れようとするだろう。

 

①今回の児童相談所の行為の特徴は、被害者の言うことを真実だという前提を置いて次の行為に出るというところが第一である。

②次の行為とは、被害者と加害者の隔離である。これを強制力を持って、しかも加害者の弁明を抜きに話を進めることである。DV問題でも、立件できもしない容疑で逮捕して、夫婦の隔離を進めることが多くある。

③最後に、間違いがあってもだれも責任を取らず、当事者、特に子どもが不利益を被って終わりになる。

 

日本のDV政策と共通していることに気が付いたと思う。夫が主たる要因でなくて妻が精神的に不安定で、市井の夫婦ならどこにでもある妻の夫に対する不満をDV相談所にしたところ、あれよあれよという間に妻はシェルターに入れられて隔離され、気が付けば保護命令を申立て、法テラスの弁護士と契約させられ、離婚調停が申し立てられている。私は、これは妻の自業自得とは思わない。制度に問題があると思っている。また、最大の被害者は一方の親と隔離され、一方の親を悪いイメージで塗り固められ、その子どもである自分に自信を持てなくなる子どもである。妻も、そのシステムに乗って離婚したけれど、何も幸せにならないとハタと気が付く。こんなはずではなったとDV相談所に抗議をしたところ、「離婚をしたのはあなた自身の判断です。」と言われたという人権相談を人権擁護委員なら何度も聞いているはずだ。

虚偽児童虐待の問題と、DV隔離政策は根が一つだということに気が付いてほしい。また、被害者の証言で司法が大混乱したのは20世紀末のアメリカの記憶論争(Wikipediaでは「虚偽記憶」)をぜひ参考にしてほしい。司法に関わるものであれば、エリザベス・ロフタスの「抑圧された記憶の神話」等の著作を読むべきだと思っている。(翻訳家の功績だと思うけれど、本自体読み物としても面白い。)

 子の連れ去りの被害者だと感じている当事者は、制度を批判するべきであり、監督の娘を批判することは自分の首を絞めることになるということに気が付いてほしい。

 

②警察とマスコミの人権意識

 

本件で最も不可解なことは、監督が逮捕されて警察署に連行されるときにマスコミのテレビカメラが隊列を組んで待ち構えていたことだ。当然、警察からオールドメディアに連絡があったということだ。しかも、一介の警察官のリークではなく、それ相応の役職の人間のリークである。そうでなければわざわざマスコミの隊列に被疑者をさらすようにカメラの前を通って警察署に入れないだろう。そもそも逮捕が必要な案件なのだろうか。疑問が半ばを過ぎる。

彼は、まさしくさらしものにされた。

そもそも事情聴取を任意で行ってもよい案件のはずだ。仮に逮捕だとしても、マスコミに通報する必要性のない事案であることは明らかだ。本件のようにちょっと話を聞けばわかることなのに、先ずはマスコミにさらして世間にさらすという儀式を優先させたことになる。

そこに父の人権に対する配慮はみじんも感じられない。そればかりではなく、児童に対する配慮も感じられない。自分の父親がマスコミによって、逮捕された姿を全国にさらされた子どもの精神的な問題は全く考慮されていないのだろう。

私の担当した虚偽DV(裁判所で虚偽であることが認定されている)の案件では、父親の娘に対する暴力ということで暴行罪でやはり逮捕勾留された。そのニュースは全国的に報道された。しかも、父親の住所、即ち子どもの住所も番地の前まで報道された。さらに単に父親が娘に注意したという案件にもかかわらず、日常的な性的虐待の有無を調査していると、あたかも性的虐待があったような報道がなされてしまった。食堂でそのテレビ報道を見ていて唖然とした。他の客はその父親は小学生の娘に性犯罪をしたとんでもない極悪反だと罵っていた。そんな事実は一切ない。しかし、その娘は、住所まで特定されたため、今まで通っていた小学校への通学を断念せざるを得なかった。

これが警察とマスコミの人権感覚である。児童福祉を配慮よりも別のなにかを優先させたことは間違いない。児童虐待を制裁するようなポーズをとりながら、その実は、当該児童への配慮なんてなされていないのである。性加害の被害者の人権に配慮して詳細を語らないテレビ局も(それはそれでよいと思うが)、子どもの虐待に関しては子どもの人権には配慮しないということだ。

 

最後に、今回の案件で、児童相談所、警察、マスコミのスクラムによって、国民がまざまざと知ることとなった真実があり、以下のように整理できる。

1 児童相談所にうっかり電話をして相談をすると、自分にそのつもりが無くても、父親が警察に逮捕されて、世間にさらされて失職することになること。

2 そうして、広く報道される結果、世間からは児童相談所に相談した自分の行為をよってたかって非難されて、容赦されないで攻撃されること

3 警察が逮捕したからと言っても、事実関係は必ずしも確定したものではなく、被害者とされるものに盛った話に基づく可能性があること

4 有名人になれば、不確かな情報でも逮捕され、世間にさらされて、名誉回復の方法が無いこと

等である。

これで、ますます児童相談所に相談する児童は少なくなり、子どもだけでなく、妻も夫もその親たちもは家庭内の暴力をひた隠しにするようになるだろう。うっかり相談したら、働き手が失職して生活の基盤がなくなり、世間から罵倒されるからである。

 

本当に最後に一言。新聞社や球団は、このような家族分断政策の本質をよく見て、監督の辞職を撤回させるべきだと思う。署名活動も起きているらしい。署名に賛同する理由はまちまちだと思うが、監督復帰をさせなければ、日本はますます家族分断を進め、家族間での疑心暗鬼がはびこり、家庭が安心できる場所でなくなっていく危険があると思う。

 

 

 

これまで、家族や夫婦の不安に向き合うことが大切だ等と言ってきました。こちらも意気込んで述べていたこともあり、あたかも病的な不安に対して熟練のカウンセラーや精神科医のように接するべし等という、できもしないことを提起しているように受け止められていたのではないかと、ハタと気が付いたわけです。病的な不安が起きないように、日常的な不安に向き合い、フォローするということを言うべきだと思ったために記事を作ります。

 

例えば髪を切ったらほめるようなこと

 

特に女性が髪を切ったときに、夫が気が付いても何も言わないことがあります。こういう時に、褒めることが大切だということを言いたかったわけです。それはこういうことです。

 

男性にはわかりにくいのですが、女性が髪を切るということは、切った長さに関わらず、今までなじんだイメージを一新するような思い切ったことをしている意識があるようです。極端に言うと、「髪形を変えた自分は受け入れられるだろうか。」という本能的な不安があるらしいのです。不安が生まれると、不安を解消したいという要求が生まれます。自分が気に入っているかではなく他者に受け入れられるかという問題なので、自己判断が難しいので夫が反応することが不安解消に効果的です。つまり、ここで、似合っている等、変化を肯定するような評価をすることによって、不安を解消することができるわけです。

 

ところが、真面目過ぎる我らが夫たちは、髪型が似合っているかどうかについてはよくわからないので、子どものように率直に「よくわからない。」と言ってしまいます。

ここで妻が求めていることは、髪型の技術的な評価などでは決してありません。夫から髪型のアドバイスを受けてメモして次に美容室に行ったときに活かそうなんて思っている妻はいません。良くわからないということは悪くないということだから「いいんじゃない。」と言葉に出すことが正解です。但し、いつも「いいんじゃない」一辺倒だと、とりあえず肯定すればよいというこちらの本音が透けて見えてしまいます。割とバッサリ切ったのが夏であれば、「さわやかな感じが良い。」とか、「活動的でよい。」とか、「さっぱりしている」等といった相手の髪を切った意図を肯定するようなことを言っておけば間違いありません。実は夫が似合わないと思っても、世の中、プロの美容師が髪を切ってどうしようもない不格好になることはないし、もしそうならば本人が直してもらっています。結果として、夫は「いいんじゃない。」ということを自信をもって言えば良いのです。

それにもかかわらず、真面目で責任感が強すぎる夫は、自分の一言を真に受けて妻が外で恥ずかしいことになるのではないかという、身の程知らずの心配をしてしまうことがあるのです。全く無駄な心配です。

 

真面目過ぎる、責任感が強すぎるということが、家族や自分を不幸にするという流れ図をご理解いただいたと思います。

 

この髪の毛問題について、そう言えば良いとわかっても、口に出すことがなかなか難しい問題が男性にはついて回ります。それは、髪の毛を切ってきたのかどうかを気が付かないということです。微妙な長さを切っただけだと男性は分かりません。そこまでまじまじと妻の髪の毛の長さを観察している男性はいないでしょう。それでも女性からすると数千円から1万円を超えたお金を出しているわけです。妻側が「切ったんだよ。」と言ってくれれば、あとからでも「ああ、いいじゃない。」と言えば良いのですが、切ったと言わない女性もいるわけです。夫としては、妻が「美容室に行く。」という言葉を発したら、「良い感じだね。」という機会を虎視眈々とうかがい準備を始めることで解決するべきなのでしょう。その際、「髪の毛切ったの?」という言葉を念のために入れておくことをお勧めします。