離婚手続きで、なんだかよく分からない理由で離婚を申し立てるケースの多くで、離婚請求をする方がこのようなことを感じているようだということと、他方がそれをする原因、そして相手方のストレスについて説明してみます。
1 人間の行動原理はやりたいことをするという単純なこと
人間の行動は、行動を開始するにあたって、様々なことを考えて、最もメリットが多くデメリットが少ない行動を考え出して、それを行動する・・・なんてことは実際はありません。思い付きで行動するという方が近いと思います。むしろ、ほとんど何も、考えるべきことを考えないで行動を開始してしまっているということがほとんどでしょう。
実際は、その状況の中で、選択肢が浮かんできて、その一番やりたいことを選択しています。選択は無意識に行われています。
やりたいことと言っても、人間のやりたいことは、「絶対的自己」の要求と言って命や健康を守るなど動物としてやりたいことと、「相対的自己」の要求と言って、社会や自分の関係する人間から孤立しないようにしたいという社会的存在としてやりたいこととなります。だから、一般的に人間の行動の多数は、社会秩序の中に納まって、平穏に暮らすことができるようになっています。これが本来の状態です。
例えば犯罪等の社会病理は、この相対的自己が機能不全になったときに生じる現象だと考えた方が、効果的な予防方法が構築できると思います。
さて、相対的自己と言っても、人間は様々な人間関係の中にいます。大きくは国家、社会、あるいはインターネットでの繋がりがありますし、家族、学校、職場などでの人間関係を形成しています。緩やかな人間関係とすれば、同じ道路を歩いたり、同じ乗り物に乗り合わせたり、あるいは買い物をしたり、病院にかかるなんて言う人間関係もありますね。この人間関係の中で調和的に生活し、孤立したくないということが相対的自己の要求の基本です。
結局人間は要求に基づいた行為をするわけですから、簡単に言えばやりたいことをやっているということになります。
2 身近な行動決定 大掃除を例にして
1)一人暮らしの場合の行動決定過程
ぐっと身近な家庭での行動決定を考えてみましょう。ちょっと頑張る大掃除をするかしないかという行動決定に至る過程を考えてみましょう。
絶対的自己の要求としては、仕事の休みが無かったし、疲れたし、今日は横になっていたいというものがあると思います。しかし、衛生面からは、家具の陰に積もっているほこりを除去したいと思うかもしれません。
相対的自己の要求は、いろいろなものがあります。前回同じ様な大掃除をしたのが2か月前だから、世間的には短期間で大掃除をしなくても体裁は悪くない(やりたいとは思わない)という要素、親がこのくらいの期間でやっていたからやはりやらなければならないのではないかという要素、これまでそんなに頻繁に掃除をしたことが無いのでやらなくても良いのではないか(やりたいとは思わない)等の要素の中から大掃除をやるという選択肢とやらないという選択肢が上がり、特に論理的な考えはなく、どれかを選択して実行するかしないかどちらかになるわけです。
これが一人暮らしなら、自分で選択してやりたいようにやればよいわけです。
2)夫婦の行動決定の結論と要素の不一致
問題は夫婦で生活している場合です。
夫婦で共同して大掃除を行うならば、双方の意見の一致が必要です。先ほど述べた選択を決定づける要素の中に、さらに相手の考え、ないし感情というものも大きな要素になるはずです。
大掃除を実行する、しないの選択を決定づける要素は、夫婦で共通している部分も全くないとは言いませんが、別々に育ってきて、別々の体験をしてきた二人ですし、体調も同じではありません。共通する部分はほとんどないと思います。だから、どちらかと言えば、どちらかがどちらかの決定を受け入れたいという行動要求があることによって事なきを得ているわけです。
ただ、これは、長年共同生活をすると相手の要求を受け入れたいという自分の要求は低減していくものです。前はうまくいったのにと要求を押し付けていた方は戸惑うわけです。
3 相手の感情よりも自分の感情を優先してしまう要素の優劣
さて、大掃除をしたい派としたくない派が夫婦の中で別れてしまいました。
どちらかが相手のやりたいことに合わせれば良いのですが、それはできにくいことです。結局、「相手の感情よりも自分の感情を優先してしまう構造的理由」という形で整理されることになりました。
1)そもそも要求は取り下げにくい
人間は、これまで述べた意味で、やりたいことをやっていればストレスが無かったり、ストレスを小さくしたりして生きることができます。しかし、自分がやりたいことをやらされたり、やりたいことをやらせてもらえなかったりするとストレスが生じます。突き詰めると、「自分で自分の行動を決定できない」という認識を持つと、不安になっていき、交感神経が高まり、心身に影響が出てしまうようです。
だから一度やりたいことが決まってしまうと、それを相手に合わせて変更することはストレスになります。
2)選択の際に相手の感情よりも優位に立っている要素
<しつけないし他人の意見>
自分の行動を決定する際に、他人の言うことをまねするという、同調迎合ともいう要求を持つことが多く見られます。自分の意見が無いときは特にそれが顕著です。人間は秩序があることで安心します。秩序を作るのは通常は他者で、権威がある人間です。個体差はありますが権威がある人間の言うとおりにすることで安心したいという修正を人間は持っています。あの人が言うなら間違いなしということですし、あの人がこの人をほめていたからこの人を好きになったということもよくあることです。
掃除をするかしないかの行動決定で優位にたつ要素としては、親からしつけられていたこと、掃除の権威者と言われている人の発言などでしょうか。子どもの頃にしつけられた場合は、当時の親は子どもの自分にとっては権威のある人です。権威のある人に従うことで安心できるわけです。それに反対する仲間の感情には、権威がありません。パートナーは自分と同程度のはずだという意識があるようです。だから自分達より権威がある人の意見、行動提起には負けてしまうようです。
<自分よりも弱い者を守ろうとする正義感>
弱い者を守りたいという要求は強く選択に影響を与えます。例えば子どもがいて、喘息気味だというのであれば、何が何でも掃除をするという選択になるわけです。(ただ相手だって子どもが心配であり、それでも大丈夫だと判断しているのですから、それは信頼してよいはずです。自分だけが過剰に心配して、相手があたかもまるっきり心配していないように感じているだけかもしれません。正義感というのは本当にやっかいなものです。)
<慣習>
いつもやっていることをやるということも、本人にとっては安心感につながります。これをやめさせられることはとても苦痛です。慣習は結構強い行動決定要素です。
<合理性、論理性>
こちらをするべきだと強調する方は、これをすることが合理的だと主張しがちです。またそれに対する反論が、曖昧なことだと、反対者は不合理で非論理的だから、こうすることが論理的でもあるという主張も見られます。
しかし、私はこれらの要素は本当は存在しない可能性があると思っています。つまりやりたいことをやろうとしているだけで、意見が対立したら、自分の意見を押し通そうとして「後付け」で論理的な装いをしているだけである可能性を疑う必要があるようです。
4 相手の感情で自分の行動決定を決められ続けた場合の心理
当初は相手の感情に寄り添うことこそが自分の要求であったので、こちらの感情で行動しなくても、それほどストレスにはなりません。しかし、それが続いていくと、無自覚に、「自分で自分の行動を決められない」という息苦しいストレスを感じてしまいます。「やりたいことをできず、やりたくないことをさせられている」という意識となり、本能的に不安を感じていくわけです。つまり、漠然とした危機感が蓄積されて生きます。
段々と、相手が、自分で自分の行動を決定するにあたっての妨害者であるという認識が高まっていきます。
この過程に暴力や脅迫は必要な要素ではないようです。もちろん、暴力や脅迫で自分の行動決定を妨害されるのであれば、その妨害過程が明白になるので、妨害者ということが明白になり、ストレートに嫌悪、恐怖の対象となります。
しかし、暴力や脅迫が無くても、理詰めの説得や感情的な反対表明等があり、「手が付けられない」、「なすすべ無し」ということが蓄積されていけば、やはり妨害者という評価が定着していき、さらには、抑圧者、支配者という評価になっていくわけです。
対して自分は、相手から行動を抑圧されている、支配され服従しているという評価に変化していきます。そうなってしまうと、相手の存在自体に反発するようになってしまい、自分の「生きること」の妨害者であるかのような敵対的感情が生まれてしまうわけです。すべての自分の行動決定を反対されてきたという記憶に変貌していくようです。
相手と一緒にいることは、自分を否定されることだという意識になってしまい、別居が始まります。その時の記憶、特に負の感情の記憶(非宣言的記憶)はなかなかぬぐえません。何があったかというエピソード記憶は負の感情の記憶に劣後するので、エピソード記憶はあまり定着していません。何があったからこういう感情になったという説明することができません。訳の分からない離婚原因は、本人すらその行動決定を説明することができないのはこういうわけです。
5 どうすればよいのか
1)絶対的自己としての要求は自分も相手も尊重すべし
要するに体調が悪いという場合は、それを優先するべきです。これを無視して何かを行わせたり、何かをさせないということは大きな負の感情を引き起こしやすくなります。自分でもここは主張するべきですし、相手はそれを持ち出されたら引くしかありません。たとえ、子どもを守るためであっても、そんなことは織り込み済みだけどできないという相手の主張を尊重しましょう。
2)相対的自己の要求の衝突をどう考えるべきか
行動決定をめぐって衝突しているときは、なかなか自分がどの要素を重視してその行動を提起しているか分析することはできません。特に慣習なんて無意識に行っていることなので、それをしなくてはならない理由も曖昧なものです。
とにかく自分が安心したいから自分の要求を通そうとしているということにだけは気が付いてほしいです。そうであれば、こちらの行動提起が受け入れらない場合、本当に何かの危険な事態が生じるかどうかということを、頭を使い言葉で検証することが必須です。ただ、何を考えるかで、「どちらの行動提起を選択すると致命的な損害が生じるかどうか」という問題提起で考えるべきです。そうすると、大抵は、「どっちでも致命的な問題は起きない。」、つまり「どっちでもよかった。」ということになるはずです。
そこに気が付く必要があります。気が付いたら、気が付かないよりも、自己の要求として相手の結論に従うという行動パターンに近づきます。「相手方が言い出したことだけど、二人の行動を決めたのは自分だ。」という意識を少しもてます。ストレスが少し軽減するはずです。
それから、事の重要度に関わらず、自分の要求で二人の行動決定をしてしまった場合は、先ず感謝と謝罪をしておいた方が良いと思います。そしてその次は相手の要求で二人の行動決定をすることを意識するべきです。ここで、「相手が言うなら間違いない」というリップサービスを添えて、相手方の行動提起に従いましょう。恩を着せるという言葉は抵抗があるかもしれませんが、相手が自分で自分たちの行動を決定したという印象を強めることは二人にとって後々役に立つからです。
「どっちでもよい」ことに気が付いて、「相手の言う通りにしたい」という自己の要求に発展すれば、夫婦円満、家内安全になるのでしょう。